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言語学コミュの主観と客観

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コミュ内全体

 似たような言葉を比べるとき、一方は主観的で、一方は客観的……などと言うことがあります。
 この「主観的」「客観的」とはどういうことなのでしょう。

 たとえば、接続助詞の「〜から」と「〜ので」を比べると、「〜から」のほうが主観的という話を聞きます。
 当方には、一部の例を別にするとほとんど同じように使えるようにしか思えません。
http://kotobank.jp/word/%E3%81%AE%E3%81%A7?dic=daijisen&oid=14449800
================引用開始
大辞林 第三版の解説
ので

( 接助 )
〔準体助詞「の」に格助詞「で」が付いてできたもの。一説に,「で」は断定の助動詞「だ」の連用形の「で」からとも。近世末期以降の語。話し言葉でのくだけた言い方では「んで」の形でも用いられる〕
活用語の連体形に接続して,既定の順接条件を表す。すなわち,因果関係で結ばれる二つの事柄が,一般的に言って明らかな事実であるような場合に,その原因・理由・根拠などを表すのに用いる。「家族が多い―,出費もたいへんだ」「遅くなりました―,失礼いたします」。また,「…というので」「あまり…ので」の形で慣用的に用いられることもあり(「君が来いという―,ついて来たのだ」「あまりおかしい―,笑ってしまった」),倒置して「ので」で文を結ぶこともある(「まいったな。どうしてもと言いはる―」)。 〔理由・原因を表す接続助詞「から」との相違について。「ので」は因果関係が客観的事実に基づいているような場合に用いられるのに対し,「から」は,推量・禁止・命令・質問など,話し手の主観に基づくような場合に用いられる。一般に,「ので」は,「から」に比べて,条件としての独立性が弱い場合に用いられる〕
================引用終了

 あるいは「怖い」と「恐ろしい」を比べると、「怖い」のほうが主観的という話を聞きます。
 こちらはまだ納得できる気がしますが、ほとんどの場合は入れかえ可能だと思います。
 辞書の例文にしても、「草原で禍々しい毒蛇にあい、恐ろしかった」「彼の狂気じみた考えを知って、恐ろしくなった」は不自然なのでしょうか。
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/31382/m0u/
================引用開始
おそろし・い【恐ろしい】
[形][文]おそろ・し[シク]《動詞「恐る」の形容詞化》
1 危険を感じて、不安である。こわい。「―・い目にあう」「戦争になるのが―・い」「ほめるだけほめて後が―・い」
2 程度がはなはだしい。
㋐驚くほどすぐれている。はかりしれない。「―・く頭の回転が速い」「人の一念とは―・いものだ」
㋑驚きあきれるほどである。ひどい。「―・く寒い」「こんなことも知らないとは―・い」
[派生]おそろしがる[動ラ五(四)]おそろしげ[形動]おそろしさ[名]

[用法]おそろしい・[用法]こわい――「草原で恐ろしい毒蛇にあい、怖かった」「彼の恐ろしい考えを知って、怖くなった」のように用いる。それぞれの「恐ろしい」「怖い」を入れ換えるのは不自然である。◇「恐ろしい」は、「怖い」に比べて、より客観的に対象の危険性を表す。「怖い」は主観的な恐怖感を示す。「草原で恐ろしい蛇にあって」も「怖い」とは感じない場合もあるわけである。◇「恐ろしい」は、「日曜の行楽地は恐ろしいばかりの人出だ」「習慣とは恐ろしいものだ」のように、程度がはなはだしいとか、驚くほどだ、ということを示す場合もある。この場合、「怖い」とはふつう言わない。「怖いほどの人出」と言えば、自分に危険が及びそうな、という主観的表現となる。
怖い(こわい)  ⇒類語辞書で詳しい使い方を調べる
================引用終了

http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/thsrs/3889/m0u/%E6%80%96%E3%81%84/
================引用開始
恐ろしい(おそろしい)/怖い(こわい)
[共通する意味]
★身に危険を感じ不安である。
[英]
fearful
[使い方]
〔恐ろしい〕(形)▽恐ろしくなって逃げ出した▽恐ろしい目にあう
〔怖い〕(形)▽もうあんな怖いことはこりごりだ▽夜道が怖い
[使い分け]
【1】「怖い」は、「恐ろしい」よりも主観性の強い語である。
【2】「恐ろしい」には、「恐ろしく大きい」のように物事の程度が甚だしいという意味や、「習慣とは恐ろしいもので…」のように、驚くほどであるという意味もある。
[対比表]
     …人 …毒をもつクモ… もの見たさ 私は雷が…
恐ろしい ○  ○        −     △
怖い   ○  −        ○     ○
================引用終了

コメント(49)

>>[9]

 ということは……。
 [0]の辞書の記述は下記のようにとれるということでよろしいでしょうか(正否は別として)。
  前件 〜から 後件(主観〈推量・禁止・命令・質問〉)
  前件 〜ので 後件(客観)

 一方、90年代以降は下記のような見方も提示されているということでよろしいでしょうか(正否は別として)。
  前件(客観) から〜 後件
  前件(主観) ので〜 後件

 いずれにしても具体例がないとイメージが湧きにくいような……。
 どこかに例文ありませんかね。
>前件 〜ので 後件(客観)

これはカラの類型と同じように考えると後件が客観的だという分類になりますよね。

[0]>「ので」は因果関係が客観的事実に基づいているような場合に用いられる

とあるので、辞書の記述とはちょっと違うと思いますよ。
私は、
--[9]---------
辞書の引用範囲で言うと、
ノデは結びつきで客観的に分類され、カラは後件で主観的に分類されています。
--------------
と理解しています。と言っても私の理解でしかないので、正確なところやどんな例文がその分類で説明されるのかに関しては出版社に問い合わせるのが一番確実ですね。
>>[11]

>とあるので、辞書の記述とはちょっと違うと思いますよ。
 ウーン、やはり具体的な例文がないと……。
 いま、例文を模索中です。
 ↑の「資料7」に例文がいくつかありますね。こういうのは不足ですかね。
〈「から」は,推量・禁止・命令・質問など,話し手の主観に基づくような場合に用いられる〉などということはない気がします。
http://www2.dokkyo.ac.jp/~esemi008/kenkyu/miki.html

 過去の日記からひきます。

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

================引用開始
「から」を用いる主な例
(15)おいしいからもうひとつ食べたい。 (話者の意志) 『日本文法大辞典』明治書院
(16)天気が良かったから楽しかったでしょうね。 (話者の推量) 『日本文法大辞典』明治書院
(17)よい子だからおとなしくしなさい (命令) 『広辞苑』岩波書店
(18)危ないからそっちへ行ってはいけないよ。 (禁止) 『日本文法大辞典』明治書院
(19)暑いから窓を開けてくれよ。 (依頼) 『日本文法大辞典』明治書院
(20)遅くなるから帰ります。 (正当性の主張) (尾方:1993)

(略)

「ので」を用いる主な例
・表現を丁寧にするとき
(21)試合終了後は大変混雑いたしますので、お帰りの切符は今のうちにお求めになっておいてください。
『日本文法大辞典』明治書院
・事態の客観的な叙述
(22)強い風が吹いたので、あちこちの看板が倒れたりとばされたりしてしまった。
『日本文法大辞典』明治書院
・自己の正当性を強く主張したくないとき
(23)遅くなるので帰ります。 (尾方:1993)
================引用終了

 やはりほとんどの「から」と「ので」は互換性があるような気がする。
 かえられないのは(17)よい子だからおとなしくしなさい (命令)くらいだろう。
 同じ命令でも「危ない{から/ので}おとなしくしなさい 」なら互換性がある。それ以前に例文がおかしくないか? 「お願いだからおとなしくして」くらいではないか? これは特殊な用法って気がする。
 (20)と(23)ってこんなふうに対比して何が言いたいのだろう。
 どちらかしか使えないのは、きわめてまれなケースでは。

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
「得意」と「じょうず」も「主観」「客観」の違いという説があるとか。
【できる、得意、上手のニュアンスの違い。】
http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=398881&id=59825603

 個人的には、「得意」が特殊、という気がします。
「〜から」と「〜ので」について追記しました。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1932456551&owner_id=5019671
「理由は主観的なもので、原因は客観的なもの」……これはそんな気もします。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/8763525.html
「〜から」と「〜ので」について某所で訊いてみました。
 どうやら当方が考えていたことはさほど的外れではないようです。ただ、ちゃんと説明するのは相当の難物らしい。
 下記のような断定も出ました。これは心強い。

>いまどき国文法での「主観・客観」論議は、具体的例文の提示内容やその度合いの識別があいまいなタームとして、ほとんど使われなくなっています。
 とりあえずの結論?

【「だから」「なので」の違い【7】 「〜から」「〜ので」「〜で」「で」「から」「ので」】
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1934483558&owner_id=5019671
 こんなのもありました。

【「〜にとっては」と「〜には」の違い】
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=67975240&comm_id=19124

「には」は客観的で、「にとっては」は主観的……なんでしょうか。
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/thsrs/15767/m1u/%E3%81%93%E3%82%93%E3%81%AA/

==============引用開始
【1】「こんな」が、対象を身近に感じている表現であるのに対して、「こういう」「このよう」は、「こんな」よりも客観的である。したがって、「こんな人とは思わなかった」と「こういう人とは思わなかった」をくらべると、前者は、「人」に対する話者の感想(いい人だ、腹黒い人だ、など)を意味し、後者は、「人」の状態の説明(自分に親切にしてくれた、自分にいじわるをした、など)を意味する。
==============引用終了

 この記述は信用できるのだろうか。
 何が「したがって、」なのか、当方にはまったくわからない(泣)。
「大きな犬」は主観的。
「大きい犬」は客観的。
 なんでそんなことを思いつく人が何人もいるのだろう。
 ε= (´∞` ) ハァー

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1946507581&owner_id=5019671
 No.5のコメントから。

「〜づらい」は心理的・主観的な要因を伴う。
 これはある程度の説得力を感じる。
 あくまでも爐△訥度瓩世韻鼻

【日本語の正しい方はどちらですか】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9084452.html 

〈「大事」「大切」は、ほぼ同意。「重要」との相違は、特別な役割をもたない点〉……そうなのか? 
http://dictionary.goo.ne.jp/thsrs/15613/meaning/m0u/%E5%A4%A7%E5%88%87/

 ここの辞書はよほど「主観/客観」が好きらしい。
 詳しくは下記をご参照ください。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1950665683&owner_id=5019671
【「〜から」と「〜ので」】
http://www.tomojuku.com/blog/karanode/

 こういう書き方をされると説得力を感じてしまう。でも、例外が多すぎないか?
 「から」と「ので」の説明(1)

 「から」と「ので」の区別については1975年刊の三浦つとむ著『日本語の文法』で明かにされていますが、山本もと子稿≪接続助詞「から」と「ので」の違い−「丁寧さ」による分析≫(2001.3)で、<これまで永野(1952)以来「から」は原因・理由を主観的に説明するものであり、「ので」は因果関係を客観的に描写するものであると分類されてきたが、未だ統一的な見解に至っていない。>と記されている通りの状況です。
 この辺の事情を今井幹夫 著『非常識の日本語―三浦つとむによる日本語解明―』(2015.3.25 社会評論社)で、以下のように述べています。
          ……………  ★  ……………
 三浦は1975年に出した『日本語の文法』で「永野賢がとなえる『から・ので』の違いが主観的・客観的ではないこと」を見事に証明したのですが、あいかわらず世間ではいまだに永野説にしがみついていて、文法書も辞書もなおっていません。日本語教育も同様です。『日本語類義表現の文法』(宮島達夫・仁田義雄編 くろしお出版 1995.10.12)でも次のような記述が見られる。

 しかし、永野以後の研究はつい最近のものでも永野論文から始めている次第で、これは永野論文が40年前に書かれた論文でありながら今なお有効なすぐれた記述であったことと、それを完全に取って代わる(と思われる)論文が書かれていないことを物語っている。(P506)

 この編者は三浦を全く無視していると同時に、「永野論文」の誤りを見抜けなかったことと本人自身が不勉強であることをよく物語っています。先の記述に続けて「よって本稿でのノデとカラの違いについての最終的な結論は述べない」と、結論が出せずに恥の上塗りをしてしまいました。
 『日本語の類義表現辞典』(森田良行著、東京堂出版、以下『類義』)の著者も「『ので』は『の+で』、つまり述べてきた事柄を『の』によって話し手の外にある一つの客観的・事実として受け止め、それに“そうであってほしい”“そこで”の意が添い加わったものである」(P290)と、せっかく「の+で」に分けているのに、結果的には「ので」を客観的表現にしてしまいました。ほとんどの学者は永野の「主観・客観」説の呪縛からのがれられないでいます。
 しかし、形式主義・機能主義に立っている限り、40年はおろか、100年たっても、解けないでしょう。三浦が言うように「だから認識論的に両者のちがいを明らかにしないと、外人どころか日本人に対しても説得的な使い方の説明はできない」のです。(P131〜132)
            ……………  ★  ……………
 これが、現在の日本語学、文法学の現状です。この指摘は当トピックのこれまでの応答からもまた明かかと思います。次回から、三浦説を更に展開したこの今井による解明を当方なりの理解にそってなるべく分かりやすく説明させていただきたいと思います。■
「から」と「ので」の説明(2)……「主観と客観」、「形式主義・機能主義」言語論

 本トピックが、「主観と客観」ですので、まずこれについて説明させていただきます。
 主観とは脳の機能です。客観はこれに対立する概念で主観と客観とは、対立するとともに切り離すことのできない概念です。けれどもこれは、主観の成立によって、はじめて客観とよばれる実体が成立したことを意味するのではありません。現実の世界それ自体は、主観と無関係に実在していますが、主観の成立によりそれとの関係において客観という既定を受けとります。子供を持たない夫婦を親とは呼べませんが、子供を持つことによって初めて親という規定を受けとるのと同じです。親と子の関係は不可分ですが、この不可分の関係は、子供が生まれたときそれと同時に親と呼ばれる人間それ自体が無からあらわれてきたことを意味するのではありません。主観と客観の関係もこれと論理的に同じです。(『三浦つとむ選集3 言語過程説の展開』P340 「七 吉本と中井の内容論」の初めをアレンジ)

 辞書では「主観=その人ひとりのものの見方」「客観=主観から独立して存在する外界の事物。客体。」【大辞泉】と記していますが、先の内容を機能的に捉えた表現といえます。そして、客観的・主観的というのは、これを属性表現にしたものです。このように主観は脳の機能ですから、主観なしに認識はありえず、すべての表現は主観による認識を表現したものでしかありません。従って、言語表現には客観の認識が主観的に表現されており、どこまでが客観的で、どこまでが主観的であるかは良く内容を検討しなければならないもので、単純に客観的・主観的と分けられるものではないことが判ります。そのためには言語表現の過程的構造と結果として文の対応を吟味する必要があります。
 そこで、前回の今井の説明、「形式主義・機能主義に立っている限り、40年はおろか、100年たっても、解けないでしょう。」と言われている、「形式主義・機能主義」とは何であるかを概略説明し、言語とは本質的に何であるかを明らかにする必要があります。

 現在の生成文法、認知文法、日本語記述文法は、ソシュールが『一般言語学講義』で提起したラングこそが言語であり、言語学の対象であるという基本的なパラダイムの中にあります。このラングとは、「犬/inu」のように一定の概念と一定の音声表象が結びついたものの体系であり、言語共同体の構成員たちが共有する社会に共有される言語上の一種の約束事(語彙規範)の体系です。ラングの個人的な運用をパロールと名付け、個別的、偶然的なものとして言語学の対象とは見なしていません。ソシュールは音声第一主義で、文字言語は従属的なものとしています。このような見方からは、文はパロール的なものでしかなく、それを生み出すのは文法そのもというしかありません。実際、日本語記述文法では、「文法とは単語から文が形成されるにあたっての法則・きまりである。言い換えれば、単語を材料にして当該言語(たとえば日本語)の適格な文を組み立てる際の組み立て規則・法則性が文法である。」[『岩波講座 言語の科学〈5〉文法』(1997/11/21:益岡 隆志 ,郡司 隆男, 仁田 義雄, 金水 敏)]とされます。そして、この法則を科学的に究明することが目指されます。生成文法では自然科学的に究明することになります。

 こうなると、文法はどこから、どのように生まれ、文に使用される語は何故そのような語が選択されたかは問われることがなくなってしまいます。アプリオリに文に必要な語がセットとして存在しなければなりません。言語は実体として存在し単に語の機能や、文の構成を議論するだけになってしまいます。そして、言語はコミュニケーションの道具ということになってしまいます。これが、言語実体観、構成主義言語観と呼ばれるソシュール以来の現在の言語学の在り方で、日本語記述文法もこの屈折語文法により日本語を解釈しているに過ぎません。生成文法では人間が生まれつき普遍文法をもっていることになります。そして、語彙は語彙目録としてどこからかアプリオリに与えられることになります。
 これは実感としても言語事実に相違するわけですが、西欧の発想を絶対視する現在のアカデミズムでは疑問を抱かれません。これに、異を唱えたのが時枝誠記の『国語学原論』です。■
「から」と「ので」の説明(3)……言語の本質について(➀)

 時枝誠記は東京帝国大学文学部国文学科の卒業論文で言語の本質について、「この問題を考えて、私は言語は絵画、音楽、舞踏と等しく、人間の表現活動の一つであるとした。然らば言語と云は れるものは、表現活動として如何なる性質を持つものであるかを考えて、始めて、言語の本質が、何であるかを明らかにすることが出来るであろうという予想を立てたのである。」と「大胆な仮説的断案を下した」のです。ここで注意しなければならないのは、「表現活動として如何なる性質を持つものであるか」と言語を表現そのものではなく、「表現活動」とするところへ踏みはずしており、これがその後の展開で現象学に依拠したのと相まって後々まで尾を引き、機能的な論理に進み言語学者や国語学者の能力不足も重なって、時枝文法を単に4大文法の一つという位置付けで現在に至っています。しかし続けて「思うに言語の本質は、音でもない、、文字でもない、思想でもない、思想を音に表わし、文字に表わす、その手段こそ言語の本質というべきではなかろうか。 ここにおいて、言語学の対象は、音響学の対象とはあきらかに区別せられるであろう。言語学者が音声を取扱うのは、音声そのものが対象の如く見えて実は然らず。音声を仲介として思想の表さるるprocessである。」と「思想の表さるるprocessである」と言語表現の本質を「process(過程)」と喝破したところに言語論の一大転換をもたらした功績があります。そして、昭和16年12月の真珠湾攻撃の月に出された『国語学原論』でソシュールの言語論を構成主義的、言語実体観として批判し言語過程説を提起します。

 ここでは言語活動、表現過程そのものを言語としてしまう踏み外しを踏襲しており、そこから導かれた主体的表現や客体的表現、文の詞辞による入れ子型構造という画期的業績も否定されてしまいます。米欧構造主義言語学の影響下にある金田一春彦は「不変化助動詞の本質―上/下」(『国語と国文学』1953年)で時枝の主体的表現/客体的表現を主観的表現/客観的表現にすり替えて批判し、現在の国語学、日本語学はこの金田一のパラダイムを受け入れています。
 戦前から映画表現と言語表現について考察していた三浦つとむはこの時枝の言語論の意義を見出し、「言語学のコペルニクス的転換」と評価し、その機能主義的な誤りを唯物弁証法に基づき是正、発展させ『認識と言語の理論 第1部〜3部』(1967,1972:http://okrchicagob.blog4.fc2.com/blog-entry-188.html参照)として結実します。現状と、<「から」と「ので」の説明>の前提を理解していただくため歴史的経緯を記していますが、次に三浦による言語本質論を必要な限り略述し、<「から」と「ので」の説明>に移りたいと思います。

 とりあえず、「の」「ので」について「☆日本語教師☆ トピック―『の』を考える(その1)」の[63][64]に概略を記しましたので、お急ぎの方はご覧下さい。(http://mixi.jp/view_bbs.pl?comment_count=64&comm_id=19124&from=right_column_new_bbs&id=28570123)■
 「から」と「ので」の説明(4)……言語の本質について(◆

 三浦つとむによって明かにされた、言語の本質とは以下のようなものです。

 三浦つとむによって明かにされた、言語の本質とは以下のようなものです。
 時枝は「音声を仲介として思想の表さるるprocessである。」と「process」そのものを言語としてしまいましたが、「process」つまり過程と結果は区別しなければなりません。従って、言語とは過程の結果としての表現そのものつまり、対象―認識―表現という過程的構造を持った表現そのものということになります。時枝の明かにした通り、音楽も絵もまた表現です。音楽は表現であり、音楽活動、作曲、演奏、鑑賞は音楽ではありません。写真、絵も同様です。言語活動、言語行動、言語の理解、読解、鑑賞も言語ではありません。では、音楽、絵、写真などと言語表現との相違とは何か、言語表現の特殊性が明かにされなければなりません。

 音楽、絵、写真などは感性的認識を直接感性的に表現し、受け手もまた直接感性的に認識、理解するところにその特殊性があります。言語をこのような感性的側面から見れば、単なる音声であり、紙に印刷されたインクの描線であり、ディスプレイ上の輝点であるドットの集まりでしかありません。これらは、感性的対象であり、文字が象形文字から生まれたように元は絵です。しかし、この感性的対象は特殊な決められた形となっている所にその特殊性があります。音声の場合は特殊な決められた音の形、音韻です。この音韻に対し、これに対応する文字の決まりがあり、これらを単語に結びつける決まり(語彙法)、単語を文に結び付ける決まり(文法)、文章とする決まり(文章法)と階層的な規範が決められています。

 他方、言語は意味をもっています。しかし、これは目には見えず、手で触れることもできません。この側面は非感性的、超感性的です。では、この意味の源、実体とはなんでしょうか。これは話者の認識した概念です。花を見て美しいと感じた人の心であり、これが意志し脳に認識された概念であることは明かです。これも、非感性的、超感性的であり外部から見ることも、触ることもできません。しかし、人と人が協働して社会生活を営むためにはこの概念を伝えあいコミュニケ―ションを図る必要があります。そのためには、これを形として物質化し感性的に表現しなければなりません。このために、先に述べた重層的な取り決め、規範を定めることにより形、つまり形式として表現しているわけです。人が認識した概念一般、個別的な概念を表現するためには、表現すべき対象世界のもつ普遍性に基づき、一般的、共通的な要素に区分しこの要素概念に形としてのラベルを貼らなければなりません。これが名前付け、銘々です。これが語となります。この語の内容である概念が語の意義です。そして、時々に感じ、認識した個別概念をこの語の組合せで表現することになります。この表現こそが言語です。言語は形式と内容の統一として生み出され、存在します。この内容は要素としての語と個別概念に対応する二つの段階、質の異なったものがあり、これらはきちんと区別されなければなりません。

 言語とは表現であり意志の特殊な形態である規範により言語規範、つまり言語法を定め、これを言語共同体の各個人が共有し、言語規範を媒介として個別の話者が認識した概念を表現したものです。この言語規範こそがパロールと呼ばれたものの本質です。当然、表現された言語とはパロールです。
 これこそが三浦が明かにした言語過程説と名付けられた言語本質論です。つまり、言語とは話者が対象を認識した個別概念を表現したものであり、対象―認識―表現という過程的構造をもった表現です。■
「から」と「ので」の説明(5)……語の分類について()

 前回の、言語とは話者が対象を認識した個別概念を表現したものであり、対象―認識―表現という過程的構造をもった表現であるということは、言われてみればごく当たりまえのことで、われわれの実感に沿うものですが、これを媒介する語彙規範と言う認識のあり方と、媒介という過程をきちんと捉えないと論理的に説明できません。そして、言語表現が形式と内容の統一として実現され存在していることを捉えなければなりません。
 ソシュール以来の構造言語学から、その変形としての生成文法、認知文法、認知言語学、同様のパラダイム下にある日本語記述文法がこの過程的構造を捉える事が出来ず、語の定義、分類、一つできずにいるのは論理的必然です。

 単語としての一つの語とはどのように定義されるでしょうか。三浦の定義を掲げておきます。
 「一つの語であるか否かは客観主義的に辞書に規定された規範においてではなく、表現主体が無意識的に運用しているところの規範において決定されるのである。これが、本質的な分類の基準である。すなわち、圧倒的多数の表現主体によって現に運用されている規範が、一般的な分類の基準となるわけであるから、時と場所から規定された相対的な分類となるので、絶対化してはならない。それでは言語にとってもっとも根本的な分類は、どんな内容をもつものであろうか?それを把握するには、これまでの言語学が捉える事の出来なかった言語の表現としての本質的な特徴を見なければならない。絵画や写真が客体的表現と主体的な表現の直接的な統一であるのに対して、言語ではこの二種類の表現が分離して別個の語によって行われる事を、私は『日本語はどういう言語か』以来指摘してきた。語の分類にとってもっとも根本的なものは、この客体的表現と主体的表現のいづれに属するかという分類であって、これは日本語のみならずあらゆる言語に妥当する。」(『認識と言語の理論 第三部』 P81)

 ここに言われる、客体的表現が<詞>であり、対象を概念としてとらえ表現した語です。名詞、動詞、形容詞、副詞等です。主体的な表現が<辞>で、助詞、助動詞、感動詞ですが、使役、受け身の助動詞等は本来接尾語として<詞>に入れられるべきものです。

 さて、本トピックの「から」「ので」ですが、これらの品詞を明かにしておきましょう。語の機能や接続という非本質的な分類では品詞分類も混迷してしまいます。助詞は語として捉えられた対象のそれぞれの面の客観的なつながり認識を表します。この多様な客観的側面のどの側面を捉えるかにより、助詞が分類されます。「から」は格助詞や接続助詞に分類され同じ形式でもいくつかの部門に分類されます。
 
「から」の場合、起点を表す格助詞「から」から「ここから・このことから」というように理由を表す使い方が派生し、さらに前後を継ぐ接続助詞へと派生したと思われます。「の」は格助詞と「名詞」の使い方があり、この相異が形式的な見方では正しく捉えられずに、形式に引きずられ「準体助詞」などと「格助詞」の一つの特殊な使い方と誤って解釈されてしまいます。さらに機能的な見方から前接する語を名詞化する機能をもつ、文法的な意味しかなく語彙的意味を持たない形式だけの「形式名詞」などと名付けられることになります。

 「ので」の「で」も「雨なので車で行こう。」の場合、「雨なので」の「で」は判断の<助動詞>「だ」の連用形ですが、「車で」の「で」は手段を表す<格助詞>です。このような、語の分類が正しく理解されないと、「ので」と「から」、「だから」「のだから」「なのだから」の相違と関連も正しく捉えられません。これらの、同形意義語の相違は話者の認識の相違に対応していますので、話者の認識を捉えられなければ、語順という形式か語の機能に依拠して解釈する他なく、論理が混迷してしまいます。■
「から」と「ので」の説明(6)……「の」の二種類

 前回は<品詞>について説明させていただきましたが、主体的表現の語である<辞>に属するのが、肯定判断の<助動詞>「だ」、助詞「から」、客体的表現の語である<詞>に属するのが<名詞>「の」です。<助動詞>「だ」は終止形で連用形は「で、だっ」となります。活用というのは語のつながりにより形が変化するもので、意義そのものに変化はありません。

 <名詞>「の」は、形式的、機能主義的な分類では単独で使用できず、主語になるのが<名詞>であるという機能をもたないため<名詞>ではないことになってしまいます。このため、形式が同じ<格助詞>の「の」に準ずる<準体助詞>とされたり、語を名詞化する文法機能だけを持ち、意味を持たない<形式名詞>などと呼ばれることになってしまいます。山田孝雄は<名詞>を実体概念を表現する語であるとしました。これが、名詞の本質であり、<名詞>であるか否かの基準は語の内容におかれなければなりません。「はず」や「ため」も、内容がきわめて抽象的で主語には使われませんが<抽象名詞>です。そして、もっとも抽象的実体概念のみを表すのが<抽象名詞>「の」です。

 この「の」のには二つの使い方があります。

  (1) このリンゴは赤いが、向うのはまだ青い。 (A)
  (2) 赤いのは美味しそうだが、青いのは酸っぱそうだ。 (A)
 
この(1)では最初にリンゴが話題に出され、次には「向うのリンゴ」が「向うの」と「リンゴ」を単に抽象的な実体としてとらえ直し「の」と表現されています。(2)はその場面を受け、同じように「の」と表現されていますが、この文だけからは、「の」が具体的に何を指すかは明らかではありません。しかし、これらはいずれも具体的な実体である対象をあらしている点では同じです。この使い方をA型としましょう。「の」には次のような使用法もあります。

  (3) 学校へ行くのはいやだ。 (B)
  (4) 顔が赤いのは熱でもあるのかも。 (B)

(3)では「学校へ行く」という行為を媒介的に実体としてとらえなおし、それを「いやだ」と断定しています。(4)は「顔が赤い」という状態を媒介的に実体としてとらえなおし、「熱でもあるのかも」と推定しています。これらは、具体的な実体としての対象ではなく、動的な行為や状態を抽象的に実体としてとらえなおしている点で、(1)(2)のA型とは異なっています。これを(B)型としましょう。抽象名詞「の」の使い方としてはB型のほうが圧倒的に多くなっています。
 さて、この<抽象名詞>「の」の後に(判肯)定断を示す「だ」や「です」を加えたのが「のだ」「のです」という表現です。

  (5) ぼくが食べるのは赤いのだ。[(1)(2)のリンゴの続き] (A)
  (6) ぼくは大学校へ行くのだ。 (B)
  (7) その傷はどうしたのだ? (B)
      滑って、転んだのです。 (B)

このように、A 型、B型があります。そして、<助動詞>「だ」の連用形「で」を続け「ので」となったのが、トピックの「から」に対する「ので」です。■
「から」と「ので」の説明(7)……永野賢の「ので」

 前回、<抽象名詞>「の」+肯定判断の<助動詞>「だ」の連用形「で」である「ので」の「の」の使い方に、具体的に存在する物を表す「の」と、媒介的な実体概念を表す「の」の二種類があることを論じました。そして<助詞><接続助詞>「から」と比較される「ので」は後者の媒介的な実体概念のみを表す「の」と判断辞<で>の二語の組合せということになります。通常、これを<接続助詞>の一語とするのは誤りであり、この解釈から「から」との比較も混迷してしまうことになります。
  
 雨が降るので、遠足はやめた。

の場合「雨が降る」という事態を媒介的に実体として捉え、その事態を動かぬものとして「の」と話し手が確認し、さらにこれを肯定し強調する話し手の判断が「で」で示されています。「雨降りで遠足が流れた。」という場合は、話し手と無関係に存在する「雨降り」を単に一つの事態と捉えた<名詞>に、理由を示す<格助詞>「で」が付加されているにすぎません。

 では、現在も多くの論者が依拠する永野賢の論文『「ので」と「から」とはどう違うか』(『国語と国文学』昭和27年2月号)はどのように述べているのでしょうか。

 しからば、「ので」の語構成はいかにと言えば、前記の松下の説、すなわち「の」に「で」(原因を表す格助詞)がついたもの、という考え方を、私は支持したい。国語調査委員会の「口語法」(大正五年)も、この説である(同書、一八八ページ)。この「の」は、今日いわゆる準体助詞であり、「で」は、国立国語学研究所で私がおこなった研究の報告書「現代語の助詞・助動詞――用法と実例――」(国立国語研究所3、昭和二六年三月刊)の九一ページに、「理由・根拠・原因・動機を表す格助詞」として述べたところのものである。

と、「で」<格助詞>説にたっています。そして「の」を<準体助詞>としています。このような、形式主義的、機能的な発想から、助詞<から>と「ので」を比べ、結局次の結論に至ります。

  「から」は、表現者が前件を後件の原因・理由として主観的に措定して結びつける言い方。
  「ので」は、前件と後件とが原因・結果・理由・帰結の関係があることが、表現者の主観を超えて存在する場合、その事態における因果関係をありのままに、主観を交じえずに描写する言い方、

これが現在の定説になります。しかし、実際はこれまで述べてきたように「ので」が<抽象名詞>「の」と判断の<助動詞>「だ」の連用形「で」が組み合わせられた表現であり、「その事態における因果関係をありのままに、主観を交じえずに描写する言い方」ではなく、反対に、ことがらを一旦自分の認識としてとらえなおし断定の判断を加えて表現していることが判ります。

 このように、「ので」と「から」の相違の正しい理解を得るためには、言語とは何かの根底から見直し、話者の対象の認識の相違という対象→認識→表現の過程的構造をとらえ、正しい品詞論を展開しないと到達できないのであり、現在の形式的、機能的な言語論、文法論では「40年はおろか、100年たっても、解けないでしょう。」ということです。三浦つとむが、時枝誠記の『国語学原論』を言語学の「コペルニクス的転換」と呼んだ所以がここにあります。
 つぎは、「から」についてみて見ましょう。■
  「から」と「ので」の説明(8)……「から」

 「から」は、「学校から帰った。」のような、起点、始点を表す<格助詞>の用法から、さらに基準を示す用法となり、因果関係の原因・理由を表す<接続助詞>へと転成したものといえます。

  雨が降るから遠足は取り止める。
  いい子だから、だだをこねないでね。
  せっかくだから、ありがたくいただきます。
  危ないから、近寄らないで。

などと使われます。これらが「ので」に対して「主観的」と言われているのですが、次のような例を考えてみましょう。

  (1) あの店は高いから、買うのは待とう。
  (2) あの店は高いから、皆が避けるのだ。

(1)は、話者の主観による高いという判断といえますが、(2)は高いと判断して避けているのは、他の多くの人で話者はそれを客観的な事柄として表現しています。

  危ないからそっちへ行ってはいけないよ。(命令)
  危ないから、ここで遊んではいけません。(禁止)

なども、「危ない」という原因を直接的に述べているのであり、因果関係の客観的状況がある場合にそれを捉えて直接的に述べ、結論にもっていっているのが判ります。これが、「ので」の場合は、

  危ないので、そっちへ行かないようにしようね。
  危ないので、ここでは遊ばないようにしましょう。

といった使い方になります。これまで説明してきたように、「危ない」とストレートにぶつけるのではなく、一旦<抽象名詞>「の」で話者が実体的に受け止め、それを判断辞「だ」で主観的に判断した表現になります。それゆえ、丁寧な表現であり、「で」で一旦自分の問題として受け止めているのが判ります。これに対し、「から」は客観的な状況をストレートに因果関係として訴える形になり、命令や禁止の文に使われることになります。
 こうして、丁寧に、論理的に解明してみると永野賢の主張であり、通説の根拠となっている、

  「から」は、表現者が前件を後件の原因・理由として主観的に措定して結びつける言い方。
  「ので」は、前件と後件とが原因・結果・理由・帰結の関係があることが、表現者の主観を超えて存在す   る場合、その事態における因果関係をありのままに、主観を交じえずに描写する言い方。

とは全く逆になるのが判ります。このような、実感と論理に反する主張をもっともらしく喧伝してきたところに、議論が錯綜、収斂しなかった根本的原因があります。

 これが解明できなかったのは、<抽象名詞>「の」の媒介的な用法が解明できなかったのが直接的な要因ですが、その根底には言語本質の把握ができていないことがあるのはこれまで説明を重ねてきた通りです。■
 結局何を言いたのだろう。
 どうも、世間の「主観客観」とは正反対の主張らしい。
 そういうのが好きなんだろう。
 それが「言語の本質」らしい。

 どちらが一般的か? 当方は関知したくない。
【主観と客観】
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1963376492&owner_id=5019671
 【主観と客観】 まとめ(1)

 主観と客観、主観的と客観的、「から」と「ので」について論じて来ましたが、最後に纏めをしておきたいと考えます。主観と客観については、戦前/戦後の陳述論争から始り、金田一春彦「不変化助動詞の本質―主観的表現と客観的表現の別について」を通し、現在の仁田義雄や益岡隆志、尾上圭介のモダリティ論につながるホットなテーマですが、その本質が明らかにされないまま常識的な議論に終始しています。

最近の大木一夫『文論序説』 (ひつじ研究叢書(言語編)第144巻:2017/5/25)などでも、かならずしも明晰には論じられていません。

ここは言語学のコミュなので、まずその方法論について最初に時枝誠記の『国語学原論』第1章の総論から引用しておきましょう。

 凡そ真の学問的方法の確立或(あるい)は理論の帰納ということは、対象に対する考察から生まれて来るべきものであって、対象以前に方法や理論が定立されて居るべきはずのものではない。それが又学問にとって幸福な行き方であろうと思う。たとえ対象の考察以前に方法や理論があったとしても、それはやがて対象の考察に従って、或いは変更せらるべき暫定的な仮設として、或いは予想としてのみ意義を有するのである。……

 言語研究の大きな飛躍は、常に言語自体に対する深い省察が契機となっているということは否定が出来ない。かくの如くして、対象に向けられる研究の焦点の移動に対応して、常に立場や方法の変更が規定されるのである。それは対象の輪郭が茫漠(ぼうばく)として、対象そのものを把握することを一の重要な使命とする精神科学の分野に於いては、学の必然性であろうと思う。かくして言語学は、その発見せられて行く対象に応じて常にその方法を反省し、その理論を検討して、真の言語的対象の把握を目指して不断に精進すべきであると云わなければならない。(岩波文庫『国語学原論 上』20p)■
 【主観と客観】 まとめ(2)

主観とは脳の機能で、客観はこれに対立する概念で主観と客観とは、対立するとともに切り離すことのできない概念です。

けれどもこれは、主観の成立によって、はじめて客観とよばれる実体が成立したことを意味するのではありません。現実の世界それ自体は、主観と無関係に実在していますが、主観の成立によりそれとの関係において客観という既定を受けとります。子供を持たない夫婦を親とは呼べませんが、子供を持つことによって初めて親という規定を受けとるのと同じです。親と子の関係は不可分ですが、この不可分の関係は、子供が生まれたときそれと同時に親と呼ばれる人間それ自体が無からあらわれてきたことを意味するのではありません。主観と客観の関係もこれと論理的に同じです。

この主観と客観という定義を明確にせず、感覚的にとらえ各自の捉え方で話しを展開するため論が錯綜してしまいます。さらに、客観的、主観的になると属性表現の語となり、比喩的な意味が加わり混乱が助長されます。

客観的とは表現された内容が主観に依存しない、主観または主体を離れて独立に存在するさまということになります。主観的は、表象・判断が、個々の人間や、人間間の主観に依存しているさまということになります。

この、客観的/主観的は表象・判断、つまり表現された内容についての見方で、これを媒介する語自体について客観的/主観的を区分できないところに注意が必要です。

言語について言えば、表現されるのは文、文章であり、その前段に語を組み合わせた句があります。これらは話者の個別認識に対応しており、この内容について客観的/主観的、真理/虚偽の判断ができますが、これを媒介する語については規範としての意義を概念として表わすもので、これ自体は客観的/主観的、真理/虚偽の判断の対象とはならない点に注意が必要です。これは媒介としての存在であり、表現の過程的構造からその区分が導きだされなければなりません。

表現された内容は、それを生み出した話者の認識とその元となる対象が存在し、それとの比較により客観的/主観的、真理/虚偽の判断が加像となります。表現そのものは当然主観によるもので、対象を反映している点で客観的でもあり主観的かつ客観的な存在と言わなければなりません。その内容が、表現の過程的構造に基づき判断されることになります。■
トッピクの内容とは違いますが、主観と客観に関連して、英語は客観的な表現を好み、日本語は主観的な表現を好むと聞いたことがあります。その場合、例えばどんな表現(文?)が客観的であったり主観的になるのでしょうか。
英語の場合、SVO,SVCの文型が規範化しているので、下記のように主語に名詞、名詞句が置かれ、物、事を主語とした論理的な表現になります。
主語を必須としない膠着語である日本語は助詞や助動詞を粘着し事態に沿った自然な表現になります。

その結果、英語の形式論理的な文が客観的と見做され、対象を自然に表現した日本語の文が主観的と言われるのではないでしょうか。

しかし、実際は感覚的な印象であり、ここで論じている主観的/客観的という本来の表現の内容に対する評価ではなく、こうした感覚的な主観的/客観的という対比が議論を混乱させることになると思われます。

Our greatest glory is not in never failing, but in rising up every time we fail.

最大の栄光とは失敗しないことではない。失敗するたびに立ち上がることにある。
by Ralph Waldo Emerson(エマーソン)
“rise up” = 起き上がる、立ち上がる
“fail” = 失敗する

Failure is a detour, not a dead-end street.
失敗は回り道。行き止まりの道ではない。

by Zig Ziglar(ジグ・ジグラー)
“detour” = 遠回り、回り道、迂回路
“dead-end” = 行き止まりの

The most important thing in communication is hearing what isn't said.

コミュニケーションで最も大事なことは、言葉にされないことに耳を傾けることだ。
by Peter Drucker(ピーター・ドラッカー)■
 ネタがひとつ増えました。
 
車から降りる
車を降りる

「から」は意志的、「を」は客観的な感じなんだとか。
「意志的」は「主観的」に近いのでしょう。 
 何を根拠に……。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1963628472&owner_id=5019671
犬が車から降りる。

猫が車を降りた。

これが、それぞれ現実の場面の表現であれば文の内容は客観的ですが、犬と猫の意志を問題にしてもどうしようもありません。

格助詞は時枝誠記が主体的表現である辞に分類しています。

これは、対象→認識→表現という言語表現の過程的構造に基づき、認識主体の主観を基準にして主観に対立する客体を概念化した客体的表現に対し、客体の反映により話者の主観に生じた意志、判断、推量等を客体化することなく直接に概念化したもので、主観そのものの概念化です。これが最も基本的、論理的な語の区分と考えます。■
 ネタがひとつ増えました。

【「非」「不」「未」「無」で否定の仕方はどう変わる?】
http://www.kanken.or.jp/kanken/trivia/category04/161202.html
※日本漢字能力検定協会のサイトだけど、これでわかるのかなぁ。
===========引用開始
漢検博士:どちらも、後ろにつく語を「〜ない」と否定する語だが、「不」は下につく言葉を単純に打ち消すときに使い、「非」は一方に本来あるべき姿があって、それに対して「そうではない」「よくない」と否定するときに使うんだ。たとえば「不足」は単純に「足りていない」という事実だが、「非常識」は本来あるべき常識がない、ということになる。 〇不:不運、不安、不要、不幸、不使用、不燃物、不信任 など 〇非:非行、非礼、非道、非常、非公式、非常口、非合法 など 「不合理」と「非合理」のように同じ単語についた場合、「男女で賃金差があるのは不合理だ」「幽霊を信じているなんて非合理的だ」というように、単純に理論的に否定するのと、情動的に否定するという違いがわかりやすいかな? 「不戦」と「非戦」も同様で、「不戦」は軍備はあるが今は戦わないことを選択するという単純な方針であるのに対し、「非戦」は戦うことそのものを否定する個人の感情が感じられるよね。
===========引用終了

 これはもしかすると「不合理」「不戦」は客観的で、「非合理」「非戦」は主観的ってことなんだろうか。
 まさかぁ。
 ネタがひとつ増えました。
 
https://kotobank.jp/word/%E3%81%BF-636904#E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.9E.97.20.E7.AC.AC.E4.B8.89.E7.89.88
===========引用開始
大辞林 第三版の解説



( 接尾 )
形容詞・形容動詞の語幹に付いて名詞を作る。
そういう性質・状態、またそういう感じを表す。 「暖か−」 「厚−」 「おもしろ−」 「新鮮−」 〔「味」を当てることがある。接続する語が「さ」より少なく、対象の性質・状態・程度を主観的・感覚的にとらえる〕
そういう状態をしている場所をいう。 「深−にはまる」 「弱−」 「茂−」
===========引用終了

〈接続する語が「さ」より少なく〉はそのとおりだろう。

〈対象の性質・状態・程度を主観的・感覚的にとらえる〉……ふーん、
 ってことは
「暖かさ」は客観的で
「暖かみ」は主観的なんだ。

「厚さ」は客観的で
「厚み」は主観的なんだ。

 なんで?
 辞書がムヤミにこういうことを書いていいんだろうか。
 これも関係するかも。
【たまには主観で語ってみる(笑)──「芯が強い」の類義語】
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1948256445&owner_id=5019671
[45]に対する自己レスです。

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1967161674&owner_id=5019671
こんな、いいかげんな解説もあります。

<日本語の「わけ」と「はず」の違いは?>
(日本語教育能力検定試験まとめ)

https://nihongokyoiku-shiken.com/post-654/

これでは、教師も学習者も混乱する他ありません。■
https://nihongokyoiku-shiken.com/post-654/
 たしかに相当ヒドい。ほかのエントリーも読んでみたが、ほぼホニャララで、【主客】の話以前の問題。
 これで「日本語教育能力検定試験まとめ」とうたうのはやめてほしい。
 詳しくは下記をご参照ください。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1968389135&owner_id=5019671

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