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東海道本線沿線観光コミュの勧修寺(カジュウジ)

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 真言宗山階派大本山。山号は亀甲山。寺名はカジュウジですが、地名はカンシュウジと発音します。
 山科駅から地下鉄小野下車。
https://www.google.co.jp/maps/place/%E5%8B%A7%E4%BF%AE%E5%AF%BA/@34.9616896,135.8052255,17z/data=!3m1!4b1!4m5!3m4!1s0x60010e5dc4f6b6f9:0xdff79371fb5df4b0!8m2!3d34.9616896!4d135.8074142
 南山階(ミナミヤマシナ)の来栖野(クルスノ)にあるこの地は、元来、9世紀中葉に山城国宇治郡の郡司である大領(ダイリョウ)を務めた宮道弥益(ミヤジノイヤマス)の邸宅だった場所です。宮道氏は、元来、宿祢姓の下級豪族でしたが、承和2(835)年に朝臣(アソン)姓を授けられています。
 そして、『今昔物語集』巻22「高藤内大臣語 第七」に以下の様な話が収録されているのです。
 弥益には列子(タマコ;?〜907)という娘がいましたが、貞観年間(859〜877)初頭のある日、藤原氏北家の若者藤原高藤(フジワラノタカフジ)が趣味の鷹狩を楽しんでいた際、俄雨に遭遇したため、通りがかった宮道屋敷で雨宿りを求めます。宮道邸には大きな池を中心とした美しい庭園があったため、それが気に入った高藤は弥益に勧められるままに一泊しますが、その際、高藤は列子に一目惚れして一夜の契りを結びます。翌日、高藤は愛刀を列子に預けて帰京しますが、鷹狩から帰らぬ息子を心配して待っていた父の良門(ヨシカド)は激怒し、高藤が今後鷹狩に行く事を厳禁してしまったため、高藤と列子は長らく音信不通となってしまいました。それから6年後になって、高藤は漸く列子と再会して妻としますが、列子には6年前の一夜の契りで宿した娘がおり、胤子(タネコ)と名付けられていました。列子は、その後、定国(867〜906)・満子(872〜937)・定方(873〜932)の三人の子も産んでいます。
 さて、高藤は左大臣藤原冬嗣(フユツグ)の孫ですが、父の良門は高藤が生まれた直後に正六位上内舎人(ウチトネリ)という微官のまま早世してしまっていたため、20代で公卿に列した従兄弟の基経(モトツネ)等とは違って地方官を歴任するばかりで、長らく従五位に留まっていましたから、郡司レヴェルの娘を妻としても不自然ではなかったのです。また、「父の良門が激怒…」云々の話は、既に良門が死んでいた以上、勿論デッチアゲであり、高藤が列子と6年も逢えなかったのは地方勤務が続いたからでしょうね。
 その後、胤子は元慶8(884)年頃に光孝天皇第七皇子の源定省(ミナモトノサダミ)と結婚、翌年、長男源維城(ミナモトノコレザネ)を産んでいます。
 ところが、仁和3(887)年に至り、関白藤原基経とその妹である皇太后藤原高子(フジワラノタカイコ)の権力闘争の結果、異例の措置として源定省が皇族に復帰、第59代天皇として即位する椿事が突発します。これが宇多天皇で、胤子は女御に叙される事となりました。続いて寛平5(893)年には源維城改め敦仁(アツギミ)親王が皇太子に立てられたため、藤原高藤は想定外の恩恵を被る事となり、翌年、従三位に叙されて公卿に列し、寛平7(895)年には参議となりました。また、宮道弥益も従四位下修理大夫(シュリダイフ)に抜擢されたのです。
 胤子は寛平8(896)年に亡くなってしまいましたが、翌年、敦仁親王が第60代天皇として即位します。これが醍醐天皇で、これにより天皇の外祖父となった藤原高藤は正三位中納言に昇進、さらに昌泰2(899)年には大納言となりますが、翌昌泰3(900)年初頭から病臥したようで、特例として100年以上絶えていた内大臣に叙されてから亡くなっています。また、延喜7(907)年まで存命していた宮道列子(ミヤジノタマコ)は、天皇の外祖母として従三位に叙され、死後に正二位を贈られたため「玉の輿に乗る」の語源になったとも謂われています。
 さて、『勧修寺縁起』等によれば、昌泰3(900)年に醍醐天皇は、若くして死去した生母藤原胤子の追善のため、胤子の祖父宮道弥益の邸宅跡を寺に改める事とし、胤子の実弟である右近衛少将藤原定方(後に右大臣)に命じて造立を行わせたとされています。そして、胤子の父である藤原高藤の諡(オクリナ)を取って勧修寺と号し、開山上人としては東大寺出身の法相宗の僧である承俊(ショウシュン)律師(?〜906)が迎えられました。なお、胤子が生前に建立していたとの史料もあるため、小規模な氏寺だった物を醍醐帝が大規模な寺院に改築したとも考えられます。なお、当寺を訪れた渤海王国の使者が「山相、亀甲の如くして仏法興隆の聖地也」と評したため、醍醐天皇は亀甲山の山号を与えたとの伝承もあります。
 勧修寺は、醍醐天皇を開基とするだけに、延喜5(905)年には定額寺(ジョウガクジ)に列せられ、皇室と藤原氏の援助を受けて栄えました。本尊は醍醐天皇の等身像とされる千手観音で、寺紋は裏八重菊です。
 また、宮道邸時代からあった庭園の大きな池の氷が、五穀の豊凶を占うため毎年正月2日に宮中へ届けられるようになったため氷室池(ヒムロイケ)の名が生まれ、池泉回遊式庭園は氷池園(ヒョウチエン)と呼ばれるようになりました。
 天慶5(942)年に宇多天皇の皇孫雅慶(ガキョウ)大僧正が当寺に入りますが、以後、当寺のトップは長吏(チョウリ)と呼ばれる事となりました。
 天暦元(947)年には藤原胤子の娘で伊勢斎宮(サイクウ)を務めた柔子(ヤスコ)内親王が多宝塔を寄進しています。
 天永元(1110)年に第7世長吏となった寛信(1084〜1153)は、藤原高藤八世の孫である参議藤原為房の子で、東寺長者・東大寺別当等を歴任した人物であり、「勧修寺法務」とも称されて、真言密教の事相に通じ、真言宗小野流の一派である勧修寺流の祖とされる事となりました。
 鎌倉時代の勧修寺は、現在の京都市山科区勧修寺一帯を領するほか、各地に広大な寺領を持ち、真言宗小野流の中心寺院、皇室所縁(ユカリ)の寺院として最盛期を迎えました。建武3(1336)年の「勧修寺寺領目録」によると、勧修寺の寺領は加賀国郡家荘をはじめ、三河・備前等の18ヶ荘に及んでいます。更に建武4(1337)年に後伏見天皇第七皇子で北朝光明天皇の弟である寛胤法親王(1309〜76)が第15世長吏となって以来、勧修寺は宮門跡寺院となり、「山階門跡」とも呼ばれて繁栄が続きました。嘉慶2(1388)年には3代将軍足利義満が勧修寺八幡宮に田地を寄進しています。
 ところが、応仁の乱最中の文明2(1470)年に兵火で寺は焼失してしまい、更に豊臣秀吉が勧修寺東側を南北に走っていた伏見街道を直角に折り曲げて勧修寺境内を南北に分断する工事を強引に行います。いくら東海道から伏見城への最短ルートだとは言え、名刹の境内を分断するのは異例の措置ですから、恐らく秀吉と勧修寺の間で何らかのトラブルがあり、それに伴う嫌がらせだった可能性が高いようです。この結果、街道で分断された南側は境内地から外されてしまい、寺領は800石から600へ減少、勧修寺は零落してしまいました。氷室池も面積が半減してしまったようです。
 その後、天和2(1682)年に至り、霊元天皇皇子の済深法親王が第29世長吏として入寺すると、勧修寺は復興し始めます。済深法親王は東大寺大仏殿再建に功があったとして、元禄8(1695)年に寺領を1012石に加増され、父霊元天皇や伯母の明正天皇・伯父の後西天皇等の旧殿が伽藍として下賜されたのです。荒廃していた氷室池も整備されて氷池園も復興、氷室十五勝と命名された中島・亭・橋・滝石組等が設けられました。
 続いて、第30世長吏となった尊孝法親王は伏見宮家出身でしたが、その叔母の真宮理子女王(サナノミヤマサコジョオウ)が紀伊藩出身の8代将軍徳川吉宗の正室であった縁で、紀伊国の紀三井寺等の約100ヶ寺が勧修寺の末寺となったのです。
 幕末の第32世済範(サイハン)入道親王(1816〜98)も伏見宮の出身でしたが、天保12年(1841)年に2歳年下の叔母幾佐宮隆子女王(キサノミヤタカコジョオウ)と共に駆け落ちするという不祥事を起こした結果、翌年、光格天皇養子・二品親王・勧修寺門跡の地位が停止され、伏見宮家から除籍されてしまいました。しかし、元治元(1864)年に至り、将軍後見職の中納言一橋慶喜等が済範入道親王の還俗を孝明天皇に願ったため、済範入道親王は伏見宮家に復した上で、勅許を以って復飾し、山階宮晃(アキラ)親王と呼ばれる事となりました。山階宮は国事御用掛として幕末の政界で活躍し、明治維新後は、議定や外国事務総督等の要職を歴任しています。
 なお、維新後の勧修寺は廃仏毀釈の直撃を受けたのみならず、明治4(1871)年に門跡寺院制度が廃止されたため衰微し、明治5(1872)年から明治14(1881)年の間は境内の一部が勧修小学校とされ、宸殿(シンデン)が校舎として使用されていました。また、維新後の真言宗各派は対立と分派・合同を繰り返し、御室(オムロ)派・醍醐派・大覚寺派等が独立して行きます、勧修寺は「真言宗」に留まり続けましたが、明治40(1907)年に「真言宗」が空中分解して山階派・小野派・東寺派・泉涌寺派として独立する事となり、勧修寺は山階派本山となりました。しかし、昭和15(1940)年の宗教団体法施行により、既存仏教各派の統合が進められ、真言宗各派は再統一されました。
 大東亜戦争(1941〜45)中には伽藍が陸軍病院の分院として使われたり、境内が薩摩芋畑や蓮根畑に開墾されてしまう事もありましたが、昭和27(1952)年に再度山階派として独立、大本山となりました。
 刺繍釈迦説法図〔国宝〕以下、多くの寺宝を所蔵します。
 氷室池を中心とする池泉回遊式庭園の氷池園〔京都市指定名勝〕は平安時代の様式を残し、花菖蒲・蓮・水連の名所として知られています。

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 7月19日火曜日に行って来ました。
左;中門(勅使門)
中・右;徳川光圀寄進の燈篭
左・中;書院〔重要文化財〕
右;本堂〔京都市指定文化財〕
左;這柏槇(ハイビャクシン;Juniperus chinensis var. procumbens)
中;弁天堂
右;半夏生(ハンゲショウ;Saururus chinensis)
左;伊呂波紅葉
中;泳帰橋
右;緑鴨洲
左;白花渚(ハッカショ)
中;仙人石と観音堂
右;方壺島(ホウコトウ)
左;本紫陽花(ホンアジサイ;Hydrangea macrophylla f. macrophylla)
中;梔子(クチナシ;Gardenia jasminoides)
右;槿(ムクゲ;Hibiscus syriacus)

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