市野川容孝コミュのＷ･グリージンガー（小俣和一郎・市野川容孝訳）『精神病の病理と治療』（東京大学出版会）

…という翻訳をしました（2008年9月）。

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【訳者まえがき】（同書ⅰ‐ⅵ）

　哲学者のＬ・フォイエルバッハは、その晩年の著作『唯心論と唯物論』（1866年）の中で、次のように述べている。「唯物論（Materialismus）は、病人たちと医者たちとが存在していた限りすでに地上に存在していたのであり、また病人たちと医者たちとが存在しているだろう限り地上に存在するであろう」（船山信一訳、岩波文庫、136頁）。
　ここに訳出したＷ・グリージンガーの『精神病の病理と治療』の第二版初刷は、フォイエルバッハのこの書物の五年前、1861年に公刊されている（本訳書の底本としては1867年の同版第二刷を用いたが、増刷に際してグリージンガーは一切、手を加えていない）。
　キリスト教において、人は此岸ではなく彼岸のために生きることを教えられるけれども、それはある転倒（倒錯）にもとづいているのではないか。神が人間をつくったとキリスト教は教えるけれども、事実は逆で、人間が神という存在、いや観念をつくり出したのである。にもかかわらず、人間は、そのことを忘れて、自分がつくり出した神という観念によって、自らの手足を逆にがんじがらめにされている。そのような自己疎外から人間を解放すること。人間を来生から現世に連れもどすこと。そして、人間にその本来の力を取り戻させること。『キリスト教の本質』（1841年）でそのように説いたフォイエルバッハが、「唯物論」へと下降していくことは、ある意味で当然の道筋と言えよう。
　しかし、この下降は必ずしもバラ色に満ちたものではなかった。というのも、唯物論へと下降することで、あるいは唯物論によって下降することで、フォイエルバッハは、人間の受苦（Leiden）という問題に向き合おうとしたからである。しかも、来生という慰めなしに、である。病い（Leiden）に苦しむ者とその苦しみに寄り添おうとする医者がこの世に存在するかぎり、唯物論は常に存在する、という右の言葉で、フォイエルバッハが言おうとしたのは、そういうことだった。
　唯物論への下降、あるいは唯物論による下降は、グリージンガーがフォイエルバッハと共有するものであり、グリージンガーもまた、フォイエルバッハと同じように唯物論を導きの糸として、精神疾患という人間の受苦＝病い（Leiden）に正面から向き合おうとしたと言えるだろう。
　だが、両者は微妙にすれ違っているようにも見える。
　「疎外」──あるものがその本来の姿や場所から遠ざかってしまうこと──は、（ヘーゲルのみならず）フォイエルバッハの哲学にとっても主題の一つとなっているが、疎外という現象は（英語のalienationや仏語のaliénationという言葉がそうであるように）常に「精神異常」と重ね合わされて理解されてきた。事実、フォイエルバッハは、人間の自己疎外としてキリスト教を論じながら、「神学」とは、したがって一種の「精神病理psychische Pathologie」に他なならないと述べている（『キリスト教の本質』第一版序文）。
　その病理（疎外）から遠ざかっていくために、フォイエルバッハは唯物論へと下降していくのだが、グリージンガーはその逆に、少なくとも出発点においては、精神病理に近づいていくためにそうするのである。唯物論的基礎を欠いた精神医学、もっぱらに唯心論（Spiritualismus）に支配された精神医学は、精神疾患という受苦＝病いの実像をこれまでとらえそこねてきたのであり、精神疾患（という疎外）それ自身が、それに向き合うべき精神医学からさらに疎外され、精神医学の方もまた、その本来の対象である精神疾患から遠ざかっていたという意味で、自己から疎外されてきた。そのような二重の疎外状態から抜け出るために、グリージンガーは唯物論をその精神医学の基礎の一つにすえる。
　だが、それは、精神の独自性を一切認めず、精神を物質へと一方的に還元することではない。グリージンガーの次の言葉を読み落とすなら、彼の精神医学は決して正確には理解されないだろう。「精神の内部で実際に何が起こっているかは、精神過程を身体過程によって説明しようとする唯物論によっても、また肉体を精神によって説明しようとする唯心論によっても、明らかにされない。活動中の脳の内部で生じていることすべてをわれわれが知り、化学的、電気的その他のすべての過程をその細部に至るまで、われわれが見渡せたとして、それが一体、何になると言うのか。すべての振幅や振動、すべての電気的なものや機械的なものは、ただそれだけは精神状態にも、表象にもならない。いかにして精神が生成するのか――この謎は未来永劫、解かれることはないし、私の考えでは、たとえ天使がやってきて、われわれにすべてを教えてくれたとしても、私たちの知性ではそれを全く理解できないだろう！」（本書9頁）。
　精神は精神から、表象は表象からしか生まれない。そのように言うほかない。しかしまた、精神は身体を欠いて存在することもできないのであり、両者の関連や対応を見失うことがあってはならない。「構造的カップリング」や「オペレーション上の閉鎖（的連鎖）」といった概念に支えられた現代のオートポイエーシス論（Ｎ・ルーマン他）にも近似してくるが、グリージンガーの精神医学を唯物論と理解するのは、それゆえ正確ではない。それは、唯物論か唯心論かという二項対立そのものを脱臼させ、その向こう側を目指していると言うべきだろう。
　「訳者まえがき」としては、いささか不適切なことを書き連ねてきてしまったけれども、本書は、精神医学の古典（あるいは時代遅れの骨董品）としてのみ読まれるべきではない、と私は訳者の一人として思っている。「唯物論」というものがどういうものなのか、どういうものだったのかを、例えば同時代のフォイエルバッハ等の哲学と重ね合わせながら問い直す、そういう思想史的な作業にも十分開かれた、いや開かれるべき書物だろう。
　社会学という見地からも、いくつかのことを述べておきたい。
　「精神疾患は脳の疾患である」──グリージンガーは、本書でそのような主旨のことを繰り返し述べている。少なからぬ社会学的研究が、この種の医学的命題に対して真正面から異議を申し立ててきた、少なくとも、すべてをこの命題に回収することに対して異議を申し立ててきたことは、周知のとおりである。
　Ｔ･Ｊ･シェフの『精神病であること──社会学的理論』（原著初版、1966年、市川孝一・真田孝昭訳『狂気の烙印』誠信書房、1979年）を代表として、レイベリング理論に立つ人びとは、大筋において、精神病なるもの、あるいは精神病者なるものは、それ自身で存在するものではなく、特定の社会的文脈の中で、また特定の社会的相互作用を通じて、つくり上げられるものなのだ、と主張してきた。言い換えるなら、こうだ。精神病であるから、ある人は社会的に逸脱するのではない。周囲の他の人びとによって、社会的な逸脱という烙印（レイベル）を押されるから、その人は精神病者になるのである、と。近年流行の構築主義もこの延長線上にあるが、精神病のこのような社会学的理解からすれば、「精神疾患は脳の疾患である」という命題は、事態の本質を全くとらえそこねたものとなるし、この理解に依拠すればさらに、精神病に対するそのような医学的説明そのものが、特定の権力関係を背景として、他の説明の可能性を排除しつつ、選びとられ、構築されたものなのだ、といった批判も可能だろう。
　このような社会学的理解が切り開いた認識の地平とその意義を、私は過少評価すべきでないと考える。しかし、そこには限界があることも事実だろう。「精神疾患は脳の疾患である」という命題は一面的であり、問題を単純化しすぎていると言うなら、同じ批判は「精神病は社会的に構築されたものにすぎない」という命題に対しても向けられるべきである。
　構築主義的研究の一つと言ってよいＰ・コンラッドとＪ・Ｗ・シュナイダーの『逸脱と医療化』（原著改訂版、1992年）に寄せた「緒言」の中で、同じくアメリカの医療社会学者のＪ・Ｒ・ガスフィールドは、次のような苦言を呈している。「精神病は歴史を通じて、確かに定義上の変遷をたどってきた。しかし、それが理解されたからといって、社会や個人がこうした定義の包含する当該現象［＝精神病］に対処する能力が増すと言えるだろうか」（進藤雄三監訳、ミネルヴァ書房、15頁）。精神病は社会的に、あるいは歴史的に構築されたものにすぎない、とアイロニカルなまなざしを向けるのはよいが、では、その構築された精神病に現に苦しんでいる人びとに対して、構築主義は何ができるのか、そもそも何かをする気があるのか、という批判である。
　ある人を「病人」と見なすことの社会的な含意は何か。その一つとして、社会学者のＴ・パーソンズは『社会体系論』（原著、1951年）において、免責、すなわち当人に対して、今ある状態が「あなたのせい（fault）ではない」と言うことをあげた（佐藤訳、青木書店、435頁）。「精神疾患は脳の疾患である」と述べることで、グリージンガーが目指したのは、精神病者を厳密に、パーソンズの言う意味での「病人」にすること、つまり、精神病を当人のせいにしないという原則を確立することだった。
　グリージンガーより前に、ベルリンのシャリテ病院の精神科主任をつとめたＥ・ホルンは、「回転ベッド」等の（悪）名高い治療法で精神医学史にその名を残しているが、彼はこれらを、身体的治療の器具としてよりも、懲罰の手段として用いた。実際、ホルンはこう書いている。これらの治療器具がもたらす「苦痛を、多くの者が恐れる。だからこそ、秩序と規律を維持するには、これにかけるぞと脅すだけで、すでに十分なのである」（拙稿「医療という装置──Ｗ・グリージンガーの精神医学」『越境する知・４』東京大学出版会、所収）。ホルンはさらに、患者たちに、男女を問わず、軍事教練を課した。
　グリージンガーの脳病論は、このホルンにも見られる「道徳主義」、すなわち精神病の原因を本人の生活態度等に求め、これを矯正するために（治療として）一連の規律訓育を課す、しかも一般人に対して以上に強く課すような考え方と手を切るためにも、提示されたのである（本書13頁以下）。
　Ｍ・フーコーの『狂気の歴史』（原著初版、1961年）にも、少し言及しておこう。
　粗雑を承知であえて簡略に言うなら、この書物でフーコーが説いたことの一つは、精神医学という知が、それに先立って、あるいは並行して展開された「大いなる閉じ込め」等の一連の社会統制の実践に支えられ、またその上に成り立っている、ということだった。そのような歴史的事実をあらためて確認することは、無論、精神医学が自己反省を深めるためにも、決して無意味なことではなかろう。
　しかしながら、である。そのようなこと、つまり精神医学の起源が、純粋に医学的・科学的なものではなく、何よりも治安目的の監禁等にあることは、グリージンガーら19世紀半ばの精神科医たちにとって全く自明だったのであり、彼らは自分たちの課題を、百も承知のそのような起源との切断をおこないながら、精神医学を改革していくことに求めたのである。その一つのあらわれが、グリージンガーの右の「道徳主義」批判にほかならない。
　フーコーは、精神医学を支えている「道徳的サディズム」の典型例として、Ｆ・ルーレのシャワー、すなわち患者が妄想を語ったり、医者の忠告に従わないとき、シャワーを浴びせ、誤りを認めるまで浴びせかけるという方法に言及しているけれども（中山元訳『精神疾患とパーソナリティ』ちくま学芸文庫、163頁）、グリージンガーは、このルーレのシャワーを全く馬鹿げたものとして真正面から批判した（本書527頁）。
　道徳主義と手を切りながら、グリージンガーらがおこなった精神医療改革もまた、別種の道徳主義と社会統制をもたらした、いやそれらを強化しただけだった、と批判的に考えることは、無論、可能だ。しかし、道徳主義との訣別という課題が、グリージンガーらによって明確に意識されていたこと、また精神医学の起源が何であるかを、彼ら自身の方が、おそらく現在の私たちよりも深く認識していた、ということは、覚えておいた方がよい。
　グリージンガーのこの書物を、私は手放しで賞賛するつもりはない。そこには批判的に読まれるべき記述が多々ある。しかし同時に、そこにはまた、私たちが継承し、さらに展開させるべき精神医学の肯定的な可能性が、いくつもちりばめられていると言うべきだろう。
　繰り返しになるが、グリージンガーの精神医学は、すべてを物質に還元する乱暴な唯物論ではない。「精神疾患は脳の疾患である」と述べる一方で、グリージンガーは、実に繊細に、精神病者の内面世界を理解しようと努めている。それにまずふれてみたいと思う読者には、（訳文の拙さもあって）いささか堅くて読みにくい前半の理論的部分は後回しにして、症例が多く記述されている後半の第三部以降、また前半ならば第一部の第四章と第五章から読み始めることをおすすめしたい。
　最後に、本書の訳出にあたっては、19世紀の医学と精神医学に関する文献・資料を少なからず収集し、それらに目を通すことが必要だったが、私の師の一人であるデュッセルドルフ大学のアルフォンス・ラービッシュ（Alfons Labisch）教授、ベルリンの精神科医クリスティーネ・テラー（Christine Teller）氏、畏友のハレ大学教授クリスティアン・オーバーレンダー（Christian Oberländer）氏からは、その際に貴重な示唆や助力をいただいた。記して感謝したい。

2008年9月

市野川　容孝

コメント(2)

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[1] mixiユーザー 12月29日 17:31

いっちーさん、ご無沙汰しています。
ドジ竹です。

１９８０年代初頭より、私は「精神病」者と付き合いながら、常に「ラベリング」論やそれを批判してきた吉田おさみさん（「狂気からの反逆」新泉社１９８０）の論の中には、彼ら・彼女らの身体的不調に対して、なんら対応策がないことに悩まされ続けて来ました。
生臭い話ですが、「精神病」当事者運動の方とも、その点に関して論争をして来ました。
その背景には、状態が悪くなったときに私・私たちが批判してきたその時々の精神医療に頼らざるを得なかった事。それを十分にしないばかりに、多くの仲間の自傷行為＝自死を防げなかった事や、他害行為を防げなかった痛ましい経験がありました。すなわち、病気として素直に見ることが出来なかった（病気ということの感じが身体の疾患と同じようにしかみる事の出来なかった問題も当然にもありました）。治療を管理支配と直結させる傾向に呪縛され続けて来ました。
確かに、多くの治療（薬物治療）は本人の活動への負荷を生み出して来ています。また、精神活動の不調は「社会的責任能力がない」という名の下に、不当な強制医療の対象になってきました。それに常に対置してきたのは、「自由こそ最高の治療」という原理でした。
それ自体は誤っているとは思えません！しかし、その原則も時として、先の例でも触れたようにとんでもない過ちを生み出しかねない経験を随分してきた人がいるのではないでしょうか？

近年、息子さんの変調に気付き、精神科医療を受けさせたつもりが、精神科医の方がきちんとした管理ができない形での医療（本人の経験不足と硬直して人権論に呪縛された状態のままでの）を行い、結果として、心神喪失状態での一家殺傷事件に巻き込まれた人と出会いました。現在も交流を続けております。
そこで医療とは何か？リスク管理との関係はどうなのか？という問題提起に常に直面させられています。
改めて、ラベリング論や「強制的医療の被害者＝精神病者」像から、本当の意味で喜怒哀楽を共にする健常者と精神病者との共生と、その中での医学・医療の位置が問われている、思いを強くしています。

イッチーさんがグリージンガーに何故こだわっているのか、上記のたちい地で考えてきた私には、やっと少しわかるようになってきました。
今、新書でさえ読めるまとまった時間すらない中でも、関心があります。この成果をせめて安価で読み易い新書等にまとめていただきたいものです。

着かない感想ですみませんでした。

[2] mixiユーザー 01月27日 14:13

ドジ竹さま、レスポンスありがとうございました。私からのレスポンスが遅くなって、すいません。

ドジ竹さんが、具体的な問題として提起されたことに、私自身どう答えてよいのか、まだ分からないのですが、Ｗ・グリージンガーについて一つだけ補足をさせてもらうなから、彼は、その脳病論とともに、「自由」という理念を治療の根幹におきました。

上で言及した拙稿でも引用しましたが、グリージンガーは1868年のある論文の中で、こんなことを言っています。

「私の考えでは、きわめて多くの患者たちに、現在ドイツで認められ、また実際に与えられている以上の、もっと多くの自由を与えることができるし、また与えなければならない。与えなければならないというのは、患者の自由を真に止むを得ない以上に制限することが単に不正であるからばかりでなく、本質的には次のような理由による。健全な情緒力を維持し、これを真に人間的な生活に向けて働かせることは、慢性患者の場合でも、最も重要な課題だが、この情緒力は［ホルンらが「治療」と称しておこなってきた］長年にわたる軍隊風の規律や機械的な生活によって（……）萎縮させられ、ぼろぼろにされてきた。……なぜそうなるのか。この情緒力は、ある程度の自由がなければ、成長することができないからである」。

「いわゆる精神病者も含めて、人間は、食べ物や飲み物を放り込み、ぶっきらぼうに扱えば動き出すような生ける機械ではない。人間には感覚がそなわっている。人間には興味関心というものがそなわっている。そして、人間には心があるのである」。

ドジ竹さんが問われていることは、グリージンガーの一番目の言葉の中にある「真に止むを得ない」場合とは、どういう場合なのか、ということに関係していると思います。「唯物論（脳病論）が自由をもたらす」という単純な物言いも、避けるべきでしょう。しかし、それでも、（人文社会科学系の人間が軽蔑しがちな）グリージンガーの精神医学の中には、今でも読みほぐし、今につなげるべきものが、まだ多く埋蔵されたままのような気がします。

自分は臨床に立つ資格もないのに、フロイト等を読みかじった程度の「擬似」精神分析に自己陶酔的にはまり込み、他人に対しては新たな「道徳主義」を抑圧的にふりかざす連中のことを考えると、なおさら、そう思います。

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