ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

宮崎駿への反動を研究する会コミュの人と竜はひとつになってない!ゲド戦記

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
昨日、公開にあわせて劇場に足を運びました。

まず、宮崎駿が言った「素直な作り方で良かった」の意味がなんであったのかという事です。

映画の出だし、あっホルスの大冒険だ・・と思い始めてから、どうぶつ宝島、長靴をはいた猫、カリ城等々と、過去の作品のフラッシュバックが、終わりまで次から次へと脳裏によみがえったわけですが、吾郎監督がインタビュー等で、自分はゼロから何かを創造するタイプではない、アレンジ型であるというのを強調していた意味がこれでハッキリしました。

これは、押井守からある程度の評価を得ていることにも引っかかってきますし、父宮崎駿が、試写の途中で席を立つなんて言う理由にもかなっていて、要は、手持ちの駒が少ない息子の戦い方をさして宮崎駿はそのような事を言ったのだと、私は勝手に解釈しました。

これは意図的に、宮崎駿が顔を赤らめ退出せざるを得ない、既視感のある映像を作ったのかは定かではありませんが、作品の物語がなんの脈絡も無く展開していくところを指して言っている一斑も少ながらずあるのかもしれません。

個人的には、この部分で正当な宮崎駿の因子をもっているなという印象を持ちました。

ただ問題は、その理不尽な展開についていける作画の説得力や、巧みなレトリックを父ほどに有していない点にあるかと思います。父宮崎駿の作品に見られる映像の吸引力の妙が欠けている為に、傍目には纏まりの悪い未完成な作品と見られてしまう一斑が世間の評価に表れているのでしょう。

が然し、決してその力が無いと評価するのは早計で、微かながら惹きつけられるカットが何箇所かあったと私的に感じています。2作目が正念場と言ったところでしょうか。

原作ゲド戦記を絡めての感想は、後ほど・・

コメント(11)

やっと、6日のレイトショーで観て来ました。
正直言いますと「良かった。」

おそらく、多分に良いコンデションで観る事が出来た所に「良かった。」と感じた要因があるやと思います。
良いコンデションとは、
原作は1巻「影との戦い」と2巻「こわれた腕環」のみ読了の状態であった事。
散々批判意見を見ている事。
よってさほど期待せず、ハードルを低くして観賞出来た事。
チョップ村長さんの冷静な意見を拝見した事。

少なくとも、ヤフー辺りで散見する「台詞で全てを説明していて冗長」という意見は、私には的外れに感じました。作劇上、ギリギリ止む得なしと感じました。
ただ、一本の映画として考えるなら「真の名前」について、一説あるべきとは思います。
でも、唐突なハイタカの出現、テナーの素性についても1,2巻を読んでいれば、なんら違和感も疑問も生じずに感情移入出来ました。

まさに1,2巻の続きとして真っ白な状態で観賞すれば、かなり面白い作品です。
ま、そういった条件付で観る事が、映画作品としての良し悪しを左右するっていうのは問題ですが(笑)

また、極めて私見ですが、役者の声の演技は拍手ものです。
アレンの岡田准一とクモの田中裕子は素晴しい!!
声優のお約束をぶち壊した、ナチュラルな声の芝居は私としては大歓迎ですもので。
プロの声優にあんなナチュラルな声の芝居は出来ませんでしょう?
手嶌葵のテルーも、変にキャラ付けされず自然な芝居がテルーの人物像を複雑に表現していて良いと思います。

少なからず、東映動画の一時代から続くジブリの系譜を、キチンと踏まえて描かれている事に好感を持ちました。
吾朗監督が今まで観てきて、おそらくは心に残っているシーンを、改めて紡ぐ事にまるで批判的感情は持ちえません。

あえて退化させている画像表現はちと懐かしささえ感じてしまいました。
冒頭の海のシーンや、狼に襲われるシーンが「ホルスの大冒険」なのは明らかです。
もともと宮崎駿監督のオリジナルって何だ?と考えれば、吾朗監督のやりたい事の方向性は、一作目としては良かったと思います。
父親の引き出しや過去の作品を検証模倣しつつ、そこから自身の引き出しをあらためて生み出す過程のスタートと思えば、よく理解出来ますし文句のつける所では無い様に思います。

ちなみに途中出てくるオバサン二人は、私的にはツボに入っちゃいました(笑)

ただ、何にしても直球な所は、宮崎駿監督の捻りには遠く及んでいません。
時代性を取り込むのも、直球すぎるし、メッセージの発信も直球ストレートでした(笑)
暗喩比喩、見事なレトリックで表現される宮崎駿監督の奥深さはありませんが、それこそが作家の作家性たる所以でしょうから、比較する事自体無理のある話かもしれません。
でも私は、それ故にあえて今の子供達に見せるべき映画だと思います。

ジブリのイメージをコリ固めて考えていると、違和感があるかも知れません。
っていうか、ジブリの映画っていうのは観続けていると必ずどこかで反動が来るでしょう。
私の場合は「ラピュタ」で来ましたし(爆)

今作は結構短い期間で制作されていますから、荒い箇所が目に付くのも、仕方ない様に思います。

あえて描かれた父親殺しが吾朗監督の発想なのか、鈴木プロデューサーの意向なのか興味深い所です。
全く同じ構図でゲドも刺す事で、上手い具合に補完説明は成されていましたが(笑)

宮崎駿監督の全ての作品に影響を与えているという「ゲド戦記」を、吾朗監督が映画にするという螺旋な状況を深く考えてみる必要があるのかも知れませんですね。

しかし、ラスト近くのテーブルを囲んで談笑する4人の図は、良く良く考えれば「魔法使いの大賢人」と「墓所の巫女」と「エンラッドの王子」と「竜の化身」なんだと考えると、別の感慨を覚えたのでした(笑)
また予告で散々見せられた「命を大切にしない奴なんか大嫌いだ!」が、変に思想めく事なく語られたのでホッとしたのでした。

今作「ゲド戦記」は観て来た直後の実感としては、高畑監督の「おもひでぽろぽろ」や「となりの山田くん」、「猫の恩返し」よりは遥かに好きな作品です。

とりあえずは、初見直後の感想ですので、纏まりません。
改めて3巻以降の原作をようやく読む事が出来ます(笑)
それでまた考えが変わるかも・・・
また、来ます。
たいへん評判の悪いゲド戦記ですが、このコミュの皆さんは拝見しましたでしょうか。

まさか、私と周兵衛さんだけということは無いと思いますが・・・・それではレスをさせていただきます。

>「台詞で全てを説明していて冗長」

という、よく聞く批判は、やはりクモ対しての弁明がややねっちりしていた点に集約される気がします。

私は二元論自体を、現代に於いても強度を失っていない論理であるとは思っていますが、流石に「光と闇」という手垢の付きまくった二元論をやられてしまうと、脳内で言葉遊びをしてるだけという印象をうけてしまいました。あそこで何かを伝えたいとは到底私には思えなかったのです。

やはり親子とも、ニヒリズムは持っていても最終的には世界を肯定していきたいという姿勢は同じであると思っていますので、父と比べて、そこに行き着くまでの手続きに思慮が足りなかったなと考えざるを得ません。

逆に「直球である」(素直である)と周兵衛さんのやうに捉えることができるのであれば、監督にとって幸せなのでしょうが・・・

>また、極めて私見ですが、役者の声の演技は拍手ものです。
>アレンの岡田准一とクモの田中裕子は素晴しい!!

ジブリの声優問題に関しては、今取りだてて論う必要のない反動であって、可もなく不可もなくと言ったところでしょうか。それほど違和感は感じませんでした。

あと手嶌葵との出会いは、鈴木敏夫氏の発言通り、作品にとって幸運であったなぁと私も思います。

>あえて描かれた父親殺しが吾朗監督の発想なのか、鈴木プロデ
>ューサーの意向なのか興味深い所です。
>全く同じ構図でゲドも刺す事で、上手い具合に補完説明は成さ
>れていましたが(笑)

インタビュー等でも発言がありますが、鈴木敏夫氏の要望のようです。

ただ之は、鈴木敏夫氏がくりだす要望の一つに過ぎないらしく、この映画の完成は、それこそゲド戦記の文句が如く「ある人生」を体現した結果によるものであるという見方もあるようです。そして、その点が吾郎監督の資質としてあげられるという、映画以外の部分での無駄な演出に注目です(笑)

え〜話は戻りますが

映画開始より、後半まで続く重要な伏線が「父殺し」であり、時宜を得たパスをした
鈴木敏夫氏ですが

父を刺した人間が追われるべきものは、影ではなく「光」である

という展開が、先入観を裏返すミステリーで言えば謎解きに等しいカタルシスのある場面で、これだけ素晴らしいアイディアを吾郎氏は打ち返すことが出来たのに、何故うまく演出できなかったのかが、口惜しいところです。

ここで、父と息子はひとつになり損ねたんだと、私は思いました。

本日はこのあたりで・・
さすがチョップ村長さんですね。
初見で、厳しいながら大変お見事なご考察をなさってると思います。
私的には初見で具体的に作品考察を語るのは控えたいところです(笑)
原作もこれから読むところですし。

さて、チョップ村長さんが「光が追跡者」という超ネタバレを明快に解説して下さったので、ちょっとだけ私見を述べさせて頂きます。
しかしながら、手元でこの映像作品を確認検証する術がありませんので、相当の自信の無い感想であります事、ご承知下さい。

私は、「千と千尋」もそうですが、この作品もがどこに向けて作られたか?という事を考えるととても解りやすいと感じたのでした。
実は中々難しいながら、主人公たるアレンに感情移入出来るか否かが、結構重要なポイントの様な気がするんです。
「光と闇」という手垢のついた二元論も、手垢がついたと感じる我々層にはしつこいベタな御託に聞こえますが、この映画の対象層にとっては新鮮に受け止められる様に思いました。
そもそもそんな二元性をテーマにした原点たる原作(少なくとも1巻は)の映画化であるのですから、原作改変をしても、この部分はしつこくやる事に意義はあるように思います。
何よりも「真の名前」を知り、知らせるという事の作用力を表現するには、必要要素である様にも思いました。

宮崎父監督が、対象層に向けつつ映画を作りながらも、幅広い鑑賞者に感銘を与えるのは、その作家的演出能力所以である事は世界が認める事実な訳ですが、今作の吾朗監督の方法論はレトリックやメタ性が欠けつつも、特定の層に訴える術は初監督にしては、良くやったと思います。
で、その特定の層とは、自覚無自覚に社会に相容れられない時期を生活する層である様にも感じます。
ここで、父監督の作る様な物の様な、広い層にまで絶賛を受けるものが作れたら天才出現!ですよ(笑)

主体を追う物は影ではなく光だったというオチは単に父殺しの謎解きながら、「ダークサイド」を経験や理解した者には、あのさりげない表現こそが心に染み入るところだったりします。
「表と裏」とか「正と負」などという、誰もが持つ不確実な二元性のベタなレベルではなしに、「光」とまさに父殺しで象徴された「闇」という極端で具体的な二元性を表現している事は、走りすぎかな?とは思います。
第一、この既視感は、「スターウォーズ」、原作版「彼氏彼女の事情」が頭に思い浮かびます(笑)「ゲド」原作が原点でしょうけど。
しかし主体が闇を背負う者で追跡者が光であるという二元性の逆転オチが、特に強く、上手く、生かされていると思います。

この辺にチカラを込めているのは、今の世相だからという事なわけでしょうが、カタルシスを得る程では無いのは、やはり万人に共感理解させる演出力を持ち得ていないという事なのでしょうね。
でも、そこは察してあげたいところです(笑)
それに、時代性の取り込み方は、実直ながら案外個性があるなぁとは思えませんか?
おそらく、鑑賞者の経験則によっては心には響かないでしょうし、その辺が宮崎父監督には遠く及ばない、吾朗監督のまだ力の足りないところなのかも知れません。
宮崎父監督なら、圧倒的なカタルシスを持って作劇表現を成したでしょうし。

で、映画としては、さり気なく「闇」から開放されますし、実はテルーが竜だったって事で驚かされて、クモを粉砕するってところで上手い具合に成立していると思いましたのでした(笑)
肯定的に一言で言えば「父には到底及ばないが、良い物は持っているかも・・」って事でいかがでしょう?
散々既出している意見ですけど(笑)

多分、原作はまるで別物なのでしょうねぇ・・・・

>ジブリの声優問題に関しては、今取りだてて論う必要のない反動であって、可もなく不可もなくと言ったところでしょうか。それほど違和感は感じませんでした。

大変、当コミュらしい、気持ちの良い一刀両断、ありがとうございます。
スキッとしました(笑)
>さて、チョップ村長さんが「光が追跡者」という超ネタバレを
>明快に解説して下さったので、ちょっとだけ私見を述べさせて
>頂きます。

え〜若干、配慮が足りない部分もありましょうが、何故に躊躇無く之を書いたかといいますと、普通の方が見て直ぐあれが「光の追跡者」であるとわかったか? という事なんです。

正直私は、初見を演出という面で素直に見る性質なので、随分理解に時間が必要でした。

ここからは、稚拙な私の妄想ということで聞いて欲しいのですが、光の追跡者が、寧ろ本物のアレンであってくれれば余程解りやすかったと思ったりもするのです。正直、テルーに対して、突然名前を告げることに、戸惑いを憶えた人は私だけではないはずです。

ハッキリ言ってしまえば、言葉でいってしまうということですね。
それこそクモとのシーンではありませんが、不必要なところで押井ばりにロジックを読み上げ、必要なところでは沈黙するというのは、余程押井守の弟子になった方がいいじゃないかと勘ぐってしまう一斑も無きにしも非ずというか・・

話を戻しまして、そういう下地さえ出来れば、逆に「影との戦い」に於ける、言葉による影との同化という徹を踏んでも、見る側は素直に受け止めることが出来るでしょうし、また、アレンが竜と一つになることもできたんじゃないかと思うのです。

あともう一つ問題であったのは、剣に拘ってしまったことですね。
必要以上に拘った為に、おつかい色が強くなってしまった。
剣を抜くカットは、良かったとは思いますが、それをやる為に随分無駄な伏線を必要としたことも事実かと思います。

宮崎駿の血を受け継ごうと考えるなら、ルパンと同様に武器に頼らない演出を目指して欲しかったし、その方がジブリたるものを獲得できた気がします。

>「光と闇」という手垢のついた二元論も、手垢がついたと感じ
>る我々層にはしつこいベタな御託に聞こえますが、この映画の
>対象層にとっては新鮮に受け止められる様に思いました。

周兵衛さんのいうように、ターゲットを低くすれば新鮮に感じるのかもしれませんが、その割に解らなかったという声も結構聞くんですよね。どうなんでしょ。

ただ元来日本人は、二元論的思考と相容れない関係にあると思うので、そういう意味でも言葉遊び以上の意味はないんじゃないかと感じてしまいます。
はじめまして。
チョップ村長さんと周兵衛さんのやり取りを読んでいると、僕なんか考えもつかないほどの深読みをしていて関心してしまいました。特に「光が追跡者」・・・とは言われてみれば、そうですが、言われなければスルーしてました。

僕は、ここまで読み取って、思考して、文章にまとめる能力がありませんが、一つ、私見を述べたいと思います。

僕の率直な感想は、「まじめに作りすぎ」です。(これ以上、文章にすると稚拙さが分かってしまうから、書きたくないのですが、いい機会なので・・・)

とても丁寧に、悪く言えば説明的すぎる作り方のように受け取ってしまいました。
宮崎駿が辿った軌跡を追ったという見方もできると思いますが、僕が思った事は、宮崎駿(もしくは、ジブリ作品)が、「したたかに隠してきた」ものを、多くの視聴者に分かるようにやってしまったことです。

人間が持っている「闇」というのは、「ゲド戦記」のテーマなんだと思いますが、ジブリ作品もそこは、描き続けていると思います。ただ、「闇」の部分を表に出し過ぎると、数字が取れなかったり、エンターテイメントにならなかったり、スポンサーがお金を出してくれない・・・とかってことで、今まではしたたかに隠していたのだと思ってます。
吾朗監督は、演出っていう「嘘」がつけない真面目な人なんでしょう。そこが、とても嬉しくもあり、残念なところでもあります。

宮崎駿は高畑勲に「嘘」のつき方を教えてもらったんだと思います。吾朗監督の真面目すぎるところが、僕にとっては、とても気持ち良かったんです。2作目を作るってなったら、きっと、鈴木プロデューサーに「嘘」のつき方を教えてもらうんだろうなって思うと、作ってほしいようなほしくないような・・・もやもやした気持ちが出てしまいます。(故・近藤善文氏がいれば、状況は変わりそうなんですが・・・)

最後に、僕は原作を読んでないので、3巻の冒頭がなんなのか知りません。ただ、アレンという主人公が立っていながらも、彼に感情移入しにくかったです。冒頭のアレンと父との関係を具体的に描いてくれれば、「父殺し」のシーンに奥行きがでたように思いますし、ラストの繋がりが分かりやすくなった気がします。

僕の思ってることは以上になると思います。まだ、消化されてない気もしますが・・・
なんか「ゲド戦記」の話・「反動を研究する会」のテーマにそっていたのか不安ではありますが、以上です。
はじめまして、しょうたさん。

>なんか「ゲド戦記」の話・「反動を研究する会」のテーマにそ
>っていたのか不安ではありますが、以上です。

それほど、反動に拘る事もないですよ。基本的に禁忌が無いのがこのコミュの方針ですので(当然限度はありますが・・)お気楽に今後も書き込みお願いします♪

>冒頭のアレンと父との関係を具体的に描いてくれれば、「父
>殺し」のシーンに奥行きがでたように思いますし、ラストの繋
>がりが分かりやすくなった気がします。

基本的にアレンの構造が、ジブリの構造とメタな関係にあるので、ある意味アレンに感情移入できないのは、吾郎監督に感情移入できないことを裏から如実にあらわしているのかも・・(笑)

これはゲド戦記完全ガイドに載っていたりしますが、吾郎監督は

「立派な父と母に囲まれて、子供は息苦しさを感じている。それで切っ先を向けてしまうわけです。だから、本当に憎んでいたかはわからない。父を刺してしまうのは、自分でも説明できない感情なんです。」

ということを言っているんですね。これは、ゲド戦記を作ることで父の肋骨に匕首を差し込んだ自分の心情を言ってるのかもしれないですが、要するに、アレンの旅は父を刺した理由を探しだす旅ではないということなんですね。ですのでその解答が作品内で語られなかった時点で、必然的に我々の生活してる世界に受け渡されるのだと思います。

>人間が持っている「闇」というのは、「ゲド戦記」のテーマな
>んだと思いますが、ジブリ作品もそこは、描き続けていると思い>ます。

しょうたさんが言いたい事が、多分、もしくは仮に、「心の闇」ということだということにして、ジブリ版ゲド戦記に対象を絞ったとしても「闇」をテーマとするのは、少々苦しいかもしれません。

監督ご本人の口から語られているのは、宮崎駿も大好きな実証的なアプローチであるという事で、ご本人の口から語られている以上、みてる側からいう事はないのかもしれません。

>とても丁寧に、悪く言えば説明的すぎる作り方のように受け取
>ってしまいました。

作品全体が意味でイガイガになっていて、「頭で考えるのもほどほどにしなよ」っていう身体性を前面に押し出すテーマがありながら、脳みその中身みたいな観念的構成の呪縛より逃れられないのでしょう。

その錯綜した内容が、みんなを混乱させるのでしょうし現にテーマがしょうたさんに伝わっていないのが何よりの証拠で、説明的たる所以といえるのかも・・

>宮崎駿は高畑勲に「嘘」のつき方を教えてもらったんだと思い
>ます。

この部分が良くわからなかったのですが、宜しければどのような嘘の付き方を教えてもらったのか、嘘の具体的な意味を説明していただければ幸いと思います。

一般的な意味での「嘘の伝道師」といえば宮崎駿が大家であり、高畑勲は寧ろ誠実で、無謬性を追及していくタイプといえると思います。

鈴木敏夫氏に朝令暮改と言わせしめるその行動には、矛盾という言葉を意に介さない数々の武勇伝が伝えられています。

>(故・近藤善文氏がいれば、状況は変わりそうなんですが・・・)

もし、作画に参加なされていたらゲド戦記も随分違う物にはなっていたと思います。がしかし監督にと言う意味でしたらそれは別の問題かもしれません。

本日はこのへんで・・
しょうたさんが書き込んで下さって嬉しい限りです。
もっとたくさんの方のご意見を伺ってみたいですね。
ただし、ヤフーの様な検証性の無い好き嫌いだけの感情的なご意見はご免被りたいですね。
良かったという意見もダメだったという意見もセルフ検証の上での建設的な考察意見が聞きたいところです。

私自身、チョップ村長さんとのやり取りの中で、色んな考え方や検証方法を教えて頂いて、かなり新しい発見も出来ている次第です。

しょうたさん、心の闇と光という二元性っていうのはですね、もうジブリに限らず散々遣り尽されている事はご承知かと思います。
で、その二元性を初めて物語にした原点が原作「ゲド戦記?」なんですね。
宮崎父監督に「私の全ての作品はゲド戦記に影響されている」と言わせてしまう程に、世のクリエイターは影響されているし、似たテーマを持つコンテンツは多く作られたんです。
んで、心の闇を表に出しすぎた作品として「新世紀エヴァンゲリオン」がありますが、大ヒットしてますしね。
それ故、手垢に塗れたテーマの原点たる原作「ゲド戦記」を改めて映画化するというのは、宮崎父監督も拒否するほどに遣りづらい、作劇、表現しづらい事であろうと思うんです。
で、そんな「ゲド戦記」の映画化なんですから、もう、そういうベタな部分を実直に表現する事は避けられないでだろう・・と私は考える次第でして。


さて、先にも書きましたが、やはりこの作品の評価は、主人公アレンに感情移入出来るか否かにかかっていると思います。
で、大方の人は感情移入出来ないんだと思います。
それは、やはり背負うべき心の闇を鑑賞者に理解させる事が出来るか出来ないかがポイントであって、作劇力、演出力の問題なのであろうと思います。
で、アレンへの感情移入が成功すれば、追跡者が光だったというオチは難なく理解出来る所と思いますし、マイノリティたる評価意見はここにあるんじゃないか?と思います。

ある意味、万人受けする映画作品にはなっていないのでしょうね。

で、私の言う、この作品の対象者というのは、低い年齢層という事ではなく、割と闇の部分で生きていると言うか、過去に闇の部分を背負った経験があるという種類の人達の事でして、現代社会ってそういう層が確実に増えていて少なくは無いだろうと考えているんです。
告白しますが、私もそんな層の一人だと思います。
少なくとも、ポートタウンの描き方、路地裏で薬物中毒者がうな垂れているなんて描写を、如何様に受け止められるか?なんだと思うんです。
父殺しっていうのは、表現される心の闇の象徴でしか無い様にも感じます。

光と闇の同化には、テルーという触媒が必要で、それには実体の無い光アレンが、実体のある闇アレンが唯一心を開くテルーに名前を告げ闇からの開放を託したと、素直に観てしまいました(笑)
闇アレンは、さっさとクモに名前告げちゃってますし、光アレンは慌てたんじゃないでしょうか。
何とか闇アレンと同化しようと思っても闇アレンはそれを拒否しますし、唯一テルーだけが闇アレンを軟化出来る訳ですし。。

剣の拘りというのは、「魔法で鍛えられている」という部分が、アレンの特別性を補助していると思うんですね。
唯一、王子である事を証明するアイテムだと捉えていたのですが、そうではなく、アレンの心の開放をメタするカタルシスの小道具と、素直に考えた次第です。
これって、思い切り「ホルスの大冒険」ですね。
んでその元ネタは「王様と剣」ですね。
オマケに、剣を抜くカットは、深読みするに「ルパン三世マモー編」やハウル降板の細田守監督が作ったジブリ社内のメタムービー「ワンピース オマツリ男爵と秘密の島」に対する子息の反論の様な気もします(笑)

チョップ村長さんは勿論、しょうたさんの大変素晴しいご意見が聞けて、様々に頭の中を色んな考えが巡りますが、どうやら、ジブリの他作品の幾つかの如く、この作品は1回の観賞で語る事は難しい様に思います。
もう少し多角的に観る事をしてから語りたいところですね。
特にチョップ村長さんの様に、やや距離を持って観賞考察する事が肝要であると勉強しました。
チョップ村長さん、周兵衛さん・・・僕の駄文に意見を下さってありがとうございます。
時に、そうか・・・と頷き、時に、自分の思っていたことが伝わってない・・・と思いますした。そのため少々、文章にするのに考える時間を要しました。

周兵衛さんの言葉で僕とチョップ村長さんの決定的な違いが分かったように思います。

>チョップ村長さんの様に、やや距離を持って観賞考察する事

僕は、映画を鑑賞する時によくやることは、「映画の世界へはってしまう」事なんです。特にジブリ作品は映画の世界に入って、作品を観察していると思います。
主観的な考察はディベートになりません。だから、足りない頭で僕なりの理屈を作り述べています。でも、それにも限界があり、チョップ村長のような「やや距離」を持って、言語に置き換える事は僕はできません。(何十年かして、歳をとり、分を弁えることを覚えたら、話は変わってきますが・・・)
もし、このコミュが「宮崎駿への「言動」に対する反動」が根っこにあるのでしたら、僕のような主観型の映画人は、参加することがとても難しいように思ってしまいました。
また、僕は宮崎駿の言動は基本、無視します。言ってることがあべこべなんで・・・自分の思いを言ってるから、たえず変わってしまう。


>「立派な父と母に囲まれて、子供は息苦しさを感じている。
>それで切っ先を向けてしまうわけです。だから、本当に憎ん
>でいたかはわからない。父を刺してしまうのは、自分でも説
>明できない感情なんです。」

こういう風に吾朗監督が言っていたとしても、それが作品の中には出ていないと思います。普通の感覚からしたら、自分の肉親を殺したなら考えると思います。
何で殺したのか分からないってことで「悩む」と思います。それはとても大きい鍵になってると思います。そこをきちんと描くからこそ、アレンの物語になります。

また、父・宮崎駿のような作品と作るのであるなら、なおさら「映像」で言わないといけないと思っています。
宮崎駿は、昨日と今日と明日で「発言」が変わることは、僕も承知の上です。
宮崎駿の作品は「発言」では支離滅裂です。でも、できた映画には言葉で言えませんが、筋が通ってます。
ただ、これを証明できるものを出せるかというと、できません。


>一般的な意味での「嘘の伝道師」といえば宮崎駿が大家であ
>り、高畑勲は寧ろ誠実で、無謬性を追及していくタイプと
>いえると思います。

僕も同意見です。
宮崎駿の「嘘」は分かりやすんです。宮崎駿本人の言葉と宣伝側の言葉と作品の内容が一致していない。だから、「嘘」がばれる。
でも、高畑勲の場合は、「言葉」では制作サイドは同じ事を言ってる。だから、観客は、映画を見ても何も疑問に思わない。
宮崎駿は作品の「思い」を話すけど、高畑勲は「解説」してるだけで、作ったテーマや思いを話すことはない。
僕は絵描きの卵みたいな所にいる人間ですが、絵描き特有の感覚で「なんか匂う」って思ってしまったから。
この時点で、文章による交流を絶っているように思います。そこは深く反省をしています。主観すぎますもんね。

高畑勲は、実は、違うことを言ってるのでは?
そんな事を思ってます。

高畑勲・宮崎駿コンビで長くやってます。たくさん会社と喧嘩をしたと思います。こういう作品を作りたいのに、お金にならないから作らせてもらえないって・・・東映動画をやめたのも、自分たちが作ろうとしてる作品が作れないから、だったと記憶しています。
スポンサーや会社がOKを出す企画書の作り方だって、考えたはずです。こうすれば・・・いいのでは?この作品なら良いのでは?って。
そこには計算された「何か」があるように思います。
テーマとは別のベクトルで監督の(映画に対する)「思い」があるように思ってます。
その「思い」が突出していないから、テーマから外れていないから、誰も何も言わない。
それは僕にとっては「嘘」をついてるとしか言いようがない。
思想の上でも多くの影響を宮崎駿に与えた人が、そんなに穏便な性格をしてるとは思えない。もっと野心的で攻撃的であるはずなんです。僕なんかは、同時にそのもやもやの「嘘」に気づいた時に「やられた(笑)」って思って、嬉しくなってしまう。

それは僕にとって映画とは、だまし絵であるから。
私は、只今大変困惑しております。

何故かと申しますと、ル=グイン女史からの痛烈なる批判文が
掲載された事より端を発しています。

ジブリ映画「ゲド戦記」に対する原作者のコメント全文(仮)
http://hiki.cre.jp/Earthsea/?GedoSenkiAuthorResponse

>わたしたち人間のなかの暗黒が、魔法の剣のひとふりで、なぎ
>払われるわけではないのです。

私には、ホルスを再現しようとしたことが裏目に出たな、とだけ補足させていただきます。それより他に関しては、前に述べた通りです。

>たとえば映画のアレンの父親殺し は、根拠薄弱でいい加減な
>ものです。この殺人についての説明は、暗い影、あるいは分身
>のせいだとして出てきますが、後半にちょろっと出てくるの
>みで、迫力も説得力もありません。

原作者にでさえも、光の追跡者が理解されないとは、この演出がどういう事を意味しているんだろうと考えさせられてしまいます。

原作者との軋轢は、今回に始まったことではないですが、鈴木敏夫氏は、吾郎監督を担ぎ出した張本人として、もう一度このことに関して考え直す必要があるかと思います。

話を戻して・・

これは、しょうたさんに対してのご返答にもなると思われますが、
私はアレンの父殺しに関して若干の理解があります。

それは、昨今の(日本での)風潮をうけてのことだと思うからであり(之を取り入れることが、一般的に素晴らしいことであるかは各人の理解に任せますが・・)それこそ、日本で頻発している親を殺害する犯行の動機が、希薄であることがその要因としてあげられるからです。ル=グイン女史はそのことを解してわけではありませんから、理解できないのも当然かとは思います。

批判文に関して、私個人としての感想ですが、ル=グイン女史は、物象を大切にしようと表現に努めていながらも、観念的世界の人間であると感じました。

これは、すべての設定が、私の意思によって根拠付けられていなければならないという発言に即するもので、このEarthsea世界の完成度が高いことを証明すると共に、脳内の閉じられた世界と言わざるを得ない一斑がここにあります。

これではたとい、宮崎駿が演出したところで同じ結果になったであらうことは想像に難しくないというか、実写版との差だけは読み取って欲しかったと思います。

それでは通常のレスに移らせていただいて・・・

>でも、高畑勲の場合は、「言葉」では制作サイドは同じ事を言
>ってる。だから、観客は、映画を見ても何も疑問に思わない。

なるほど、しょうたさんは、映画のフィクションのあり方について話しているのではなく、発言に関しての嘘に注目しているわけですね。

ただその場合に関しても、高畑勲はアレゴリーとして含む事を言うとは思いますが、巧みな嘘をおっしゃる弁士であると私には、思えませんでした。はっきり言ってしまえば詩人なんです。彼は。

逆に宮崎駿の嘘は、理屈が通ってなくても説得力がある。要するにこれが巧みにレトリックを駆使しているということになるんだと思うのですが、その説得にレトリックを使用してしまっているが故にユーモアにずれていくところはあると思うんですね。

>思想の上でも多くの影響を宮崎駿に与えた人が、そんなに穏便
>な性格をしてるとは思えない。もっと野心的で攻撃的であるは
>ずなんです。僕なんかは、同時にそのもやもやの「嘘」に気づ
>いた時に「やられた(笑)」って思って、嬉しくなってし
>まう。

やはり、ここの皆さんは、簡単に捉えられるような内容には納得しないという考えでは一致してるなぁという印象をうけますね。実に熱い!

>宮崎駿は作品の「思い」を話すけど、高畑勲は「解説」してる
>だけで、作ったテーマや思いを話すことはない。

これはご存知ないかとは思いますが、かなり頻繁に発言されていると思います。ご紹介させていただきますと、「映画を作りながら考えた事」等が有名です。またDVDの特典等でもその発言を垣間見る事ができます。

で長くなりましたが最後に、

>チョップ村長さんの様に、やや距離を持って観賞考察する事

誤解の無きように言っておきますが、または、他のトピックを参照していただきたいのですが、私は主観しか語っておりませんし、客観的発言を強制もしたことはありません。

どんなに頑張っても、人の意見というのは主観的であり、フレームの問題はどこまでもついてまわると思います。

が然し、周兵衛さんが仰る「距離をおく」という表現が、正しい一斑もあります。それはどんなに入り込んでいても、私たち読み手が、読んでる傍から作品そのものに出演することが出来ないように、ある程度の距離を保たないといけないからです。

ですので、語り口をそれほど意識する必要は無いと思いますよ。少なくともここではといふ注釈が入りますが・・

それでは、今後も忌憚ないご意見をお聞かせいただけたらと思います。
いやぁ〜面白くなってきましたね!

原作者ル・グィンのコメント読みました。
多分に原作主義な方たちの批判意見とほぼ同じなのが印象的です。
恐らくはかなりの数のメールが来て、いわば原作ファンのあまりの批判意見に驚き、且つ同意できたんでしょう。
結局、原作者や原作主義者を満足させる映像化は、かなり厳しいという事です。
仮に「ロード・オブ・ザ・リング」の様に、原作をかなりの線で忠実に再現する以外ないでしょう。
いや、それでも原作者が納得するかは疑問です。
当初の「1巻と2巻の間を映画で作れば良い」というル・グィンの考えに全てが集約されていると思います。
まさしくチョップ村長さんの仰る「観念的世界の人間である原作者」という事に尽きると思います。

「魔女宅」にしても「ハウル」にしても、徹底的に原作改変を行う事が宮崎駿の作家性たる所以ですが、やはり誰が演出しようと、同じ結果だったろうと思うのは、私もチョップ村長さんに激しく同意します。
他トピでもあった様に、1巻をそのまま映像化しても、結局は日本では評価されないだろう事は明白なんですがね。

しかし、ル・グィンのいままでの状況を見る限り、こういう批判コメントが出る事は想定出来たですね。
むしろ、翻訳者の清水真砂子さんの本音の意見が聞いてみたいところです。
また、批判コメントに対する鈴木プロデューサーの意見も是が非とも聞いてみたいですね!

「ハウル」では、相当に原作改変されていたにも関わらず、原作者からは絶賛されていましたが、実はその方が普通じゃ無いのかもしれません(笑)


>しょうたさん
しょうたさんのページを覗かせて頂きました。
で、日記を拝見し、しょうたさんの仰る「したたかに隠してきた」ものの意味も解りました。
私は、今までのジブリが、しょうたさんの仰る「闇」をしたたかに隔してきたとは思っていません。
「もののけ姫」では、実直にハンセン氏病患者を連想させるシーンもありますし、タタラ場などはあからざまな社会主義の象徴ですよ。
「紅の豚」についても、ポルコが何故豚になったのか?という部分をあっさり流しているとは思いません。
それは一番重要な設定ですし、鑑賞者がそこに興味を持つか?持たないか?と云った観る側の問題ではないでしょうか?
で、小さいお子様が観ても、壮年男性が観ても、まるで違う感想を持たれても、ちゃんと評価出来る作劇演出が成されている事こそ評価すべきところなんだと思う訳です。
これって、物凄い事だと思うんですよ。
つまりですね、宮崎駿と言う監督は、どういう年齢層が観賞しても平気な様に、幾層にも意味を重ねて作劇表現しているんです。
で、それこそレトリックや暗喩や様々な手法を労しているという事なんだと思うんです。
宮崎駿の発言が変わるというのも、その辺に理由がある様に思います。
作品を鑑賞する時の鑑賞者の知識量や経験則の多い少ないによって、映画の評価が変わる様な作品は作っていないという事だと思うんです。
しかし、知識量や経験則によっては、深い意味やテーゼたる思想性やメタを感じ取る事が可能で、より面白く観賞出来る構造を持っている、という事なのではないでしょうか。
何よりも子供が観賞しても、しょうたさんの仰る「闇」を意識せずともストーリーについて行かれる様に作ってあるという事が特筆すべき点です。
それを(子供に対して)「したたかに隠している」と言うのでしたら、それは同意します。

で、今作「ゲド戦記」もポートタウンの描写を殊更に意識しなくても主要人物の物語は成立していると思います。
でも、宮崎駿の力量には遠く及びません。

ちと、話変わりますが、「ハウルの動く城」は、原作ではソフィーは魔法が使えるんですね。
で、実は映画でも、設定としてはソフィーは無意識に魔法が使えるそうなんです。
しかし、宮崎駿は映画の中でソフィーの魔法をあえて一切説明しません。
それが、あの映画を解りづらくした最大の要因なんでしょうが、その分、解釈の幅を大きく広げている訳です。

で、今作「ゲド戦記」も父殺しの理由を、あえて描く事は必ずしも必要要素とは私は思っていません。
この映画のテーマを狭くしてしまう事になってしまうでしょうし「心の闇」を「父殺し」の一点に収束してしか説明出来なくなってしまう様に思うからです。
壮大な原作を、2時間に収めた作品なのですから、アレンに感情移入する事を強要するのでは無く、多角的な考察を望んだ作劇を意図したつもりの様にも思います(笑)
ただ、観る方としてはアレンに感情移入出来れば解り易いと思うだけです。

ジブリの作品は初見と再見で大きく評価が変わってしまう事があります。一度でもそんな経験をしますと、初見で意見を語るのが結構恐怖だったりするんです(笑)

映像作品を鑑賞して、「良かった」「悪かった」とどちらかの感想に至ったとします。
私は「あ〜面白かった!」で終る事を良しと思っていません。
勿論、映像観賞なんて娯楽なんですからそれでも構わないのですが、もう一歩踏み込んで考えればまた違った発見をする事は少なくありません。
何故「良かった」のか?それを充分に検証考察するべきと考えます。
しかし、初見で「良かった」と感じてしまえば、その自分の感性を疑う事は中々出来ません。
「良かった」を前提の考察を試みる事になります。

私のいう「チョップ村長さんのやや距離をもって観賞考察する」という意味は、自分の感性も疑って考えているという事です。
それは決して客観的考察と言う事では無く、主観の構築プロセスを様々な情報と共に冷静に分析検証しているという事です。
これは、大変意義のある方法論だと思っています。
最終的に結論した絶対的主観は、非常に説得力を持ち得ます。

ちなみに、しょうたさんはご自身の立ち位置がブレる事なく、ご年齢にも関わらず深い考察力を持ってらっしゃると思います。
その感性を大切になさるべきと思いますし、色んなご意見を伺いたく思います。
http://hiki.cre.jp/Earthsea/?GedoSenkiAuthorResponse

ル=グウィンのお茶目な粗忽発言集が、更新されました。

>それでもなお、彼らはみな被害者なのです。大きすぎる責任が
>、それを負うだけの力を備えていない誰かに負わされた時から
>始まった、その連鎖反応の。

ル=グウィンは、興味深い便りとして一人の日本人のメールを引用しましたが、上記の文は、ル=グウィンの本心が見え隠れする、有り体に言えば、鈴木敏夫批判としての引用ということでしょうか・・

NHKのプロフェッショナルという番組で、鈴木敏夫氏がいみじくも語った

「自分の感覚だとか、考えてることが世の中に通用しなくなる。それがリタイアという事でしょ、その日が来ることなんですかね。必ず何処かでくるだろうし・・・」

と言わせしめたのは、時代が要請したことだったのかと、考えさせられます。

また、「さいはての島へ」においてのゲドは、時代が奏でる不協和音に、静かに耳を傾け、時代の波に抗い、すべての力を使い果たす。
これが私には、鈴木敏夫氏と重なって見えて仕方ないんです・・

今後のジブリを静かに見守りたいと思います。

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

宮崎駿への反動を研究する会 更新情報

宮崎駿への反動を研究する会のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。