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盛岡てくりコミュの盛岡の本屋さん 3 柏屋と賞文堂

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●柏屋/新田町

今はもうない、旧夕顔瀬橋を渡ってすぐのところにあった書店兼文房具屋さん。

昭和30〜40年代頃まで、上田を背中にして、夕顔瀬橋を渡った向こうは、新田町と言ったと思う。渡った先には交番があった。交番は、長町(今は長田町。昔は ながまち といった)と材木町の境目、現在の旭橋のたもとにも一つあった。当然、その頃はまだ旭橋はかかっていない。

夕顔瀬橋は、現在は盛岡駅寄りに一〇メートルほど斜めにかかっているが、かつては、もう一本、舘坂よりの新田町に続く道に直結していた。直進すれば、城西中学の脇を通り、そのまま太田橋につながっていた。線路は踏切になっており、地下道になったのは、私が幼稚園の頃だったか。

そこの通りも立派な商店街だった。もっきりもやっている大きな酒屋もあったし、飲み屋や食堂、靴屋もあった。既に営業を止めていたが映画館の跡もあった。私が髪の毛を切ってもらっていた床屋さんも、材木町からこの通りに移転したので、しばらく通った記憶がある。子供の私が通ったのは、なんといっても佐藤模型店だった。上田三丁目の○○○○(←名前が出こない)を知るまで、プラモデルは佐藤模型店で買っていた。

材木町の夜市が始まる以前は、夕顔瀬橋の欄干や、橋の手前・梨木町寄りの坂の上で、野菜を売る女性たちが何人もいた。近隣の農家から、作物を入れたリヤカーや籠をしょってやってきて、売っていたのだと思う。野菜や果物以外にも、漬け物やお餅などもあって、雨の日以外、一年中、店が出ていて、市場のようだった。

「柏屋」は、梨木町側から夕顔瀬橋を渡った先の、信号を渡った新田町商店街の入り口にあった。北上川を渡る前に、お店がやっているか休みなのか、見ることが出来た。あのあたりを今は夕顔瀬町というのかもしれない。

店内は、六畳に縦に三畳がくっついたような変形のくの字型で、全体を合わせても一〇畳ほどもない狭い店だった。そこでは本と文具を売っていた。本は、雑誌とマンガの単行本が少し。活字の単行本もほんの少し売っていた気がする。店は木造で、入り口は商店街側と北上川沿いとの二カ所あった。木枠の格子にガラスが入った扉だった。本棚も文房具を売っている棚も、みんな木製で、黒色系のラッカーが塗ってあったと思う。円筒系のマガジンラックに文具のノートと雑誌が混在していた。私はこの店で、小学生低学年向けの学習ノートなどを買っていた。マンガの単行本は、本棚の二〜三段くらいしかなかったと思う。

柏屋は、一九八〇年代に入って建て直された。三〇坪くらいの大きさになったと思う。文房具と本と、新しく化粧品も扱うお店になった。ちょっとした文房具と、マンガの単行本の新刊と文庫の新刊はとりあえず手に入る、みたいな意外にも重宝なお店になった。帰省した時には、家から一番近い本屋としてよく利用していた。

その後、夕顔瀬橋の掛け替えなどがあり、柏屋は通りから外れてしまった。そのせいで客足が遠のいたのか、ある時、帰省したら、柏屋のあった建物には全国チェーンのコンビニが入っていた。しばらくコンビニだったが、やはり人の流れがないのか閉鎖され、ここ何年かは、借り手のないまま空き屋になっている。今年のゴールデンウィークに前を通った時も、まだ空き屋のままだった。 大体、小さな本屋さんは、直近の小中学校などが主なお客さんだったりするが、柏屋の場合は、そういったお客さんはいたのだろうか。河北小学校は学区が異なるし、城西中学や岩手高校を近所と言えば言えなくもないが、少し半端な場所だったかもしれない。

何屋さんでもそうだが、家族経営の小売業は、跡取りがいないと存続は難しい。商店街がほぼ全滅してしまった現在、自営業は成り立ちにくくなっているようだ。今から本屋さんをやろうと思っても、採算などとれそうにない。柏屋をやっていた方々は、今、どうしているのだろうか…。


●賞文堂書店

柏屋を出て、奥羽街道を川沿いに山田線を越えて北上すると、舘坂橋の手前に「賞文堂」という書店がかつてあった。かつてあったのだが、いつなくなったのかはわからない。気がついたらなくなっていた。建物がどうなっているか等も、まるで確認していない。

広さは、一二畳から一八畳程度の四角い店舗。道路面真ん中にレジあって、店内の壁面に沿ってコの字型に三面、本棚があった。コの字の中に二列、本棚があったが、右半分は文房具売場だった。ここも柏屋と同じで本屋さんと文房具屋さんが一緒になった店だった。

こうしてみると、かつての盛岡は随分と狭いエリアに、書店と文具店があったことに驚かさせる。夕顔瀬橋を渡ると「柏屋」があったし、渡らないで材木町に入ると「赤沢号」と「きずや」という文具店があった。本屋さんだと東山堂材木町支店があった。上田に向かえば、岩大植物園の裏門前に「石川文具店」があった。赤沢号では書籍を扱っていたしスーパーカブで雑誌の配達もしていた。石川文具店でも雑誌を扱っていた。

1970年代までの盛岡は、住宅地以外の、商店がいくつか点在する商店街未満の表通りなら、どこの通りにも、文房具屋と本屋があったような気がする。これは他の土地だとどうなのだろうか。盛岡が過剰に多かったのか、調べてみたことがないのでわからない。

「賞文堂」は、これといった特徴はなかったが、私が小学生の頃としては、マンガの単行本の棚が一つあり、近所では多い方だった。当時は、小さい本屋さんが多かったせいか、マンガの単行本は、本棚の二段だけとか、四段だけに置いている店がほとんどで、賞文堂のように、まるまる一つの本棚がマンガに当てられている店は、滅多になかった。

なんて書いてみたが、記憶に頼っているだけなので、正確ではないかもしれない。書きながら、賞文堂が文房具を本当に扱っていたか、記憶がおぼろげになってきた。…まあ、いいか。

賞文堂は、すぐ裏に厨川小学校があったので、メインのお客さんは、小学生だったと思う。並びには洋菓子屋などがあり、舘坂橋寄りのあのあたりは、商店街といえなくもなかった。現在はどうなっているのか、まるで知らない。グーグルアースで近景を見られるかもしれない。

八〇年代のいつ頃か、賞文堂の向かい側、つまり北上川縁に、ハチヤというスーパーが出来た。ハチヤビルというのが建って、その中にスーパーが入ったのだ。ここのハチヤが現在も続いているのかは知らないが、誰も客のいないハンバーガーショップなどもあり、妙に地方感が漂った空間だった。

ハチヤというと、一番、記憶に古いのは、材木町にあったハチヤだ。夕顔瀬橋寄りの、石川米穀店と現在の石川金物店の間のどこかにあった。ハチヤは、材木町通りに表口があり、裏口もあった。裏口から抜けると、そこにはお墓が点在していた。中央通りが拡幅整備される以前は、永祥院のお墓が、材木町と中央通りの間の地域に、広範囲に散らばっていた。もしかしたら、永祥院の墓地ではなく、地域のものだったかもしれないが、この間の土地には、未舗装の路地ばかりで、車の通れる幅のある道路はなかったような気がする。

お墓が整理され、中央通りが広くなったのは、岩手国体の開催に合わせてのことだった。 多分、昭和四五年あたりだ。この前後、盛岡は大改造が行われ、道という道が舗装道路になった。それまで西下台も梨木町も上田も長町も未舗装の土の道ばかりだったが、一挙にアスファルトの道になった。

コメント(16)

なつかしいですね。賞文堂←好文堂でしょうかウインク
>daiさん

そうです。好文堂です!!!!!!
ありがとうございます。
賞文堂は、仁王小学校の前の本屋さんだったような。
大体、いい加減な記憶なので、間違いがあったらどしどし訂正願います。
小学生のころ、立ち読みが趣味でした(笑)。柏屋書店は長時間いてもあまりおこられなかったとおもいます。
好文堂はたしかにマンガ多かったようにも思います。好文堂前のハチヤはかなり前に閉めてゲームセンターとなり、そこもすぐ閉めていまは学生向けの下宿となっています。http://www.gesyuku.net/room/hachi-pan.html
>daiさん

ありがとうございます。
柏屋は私も大好きな本屋さんでした。
ところで好文堂って、文房具も売っていましたか?
何しろ30年以上前の記憶で書いているので、非常に心許ない有様です。

ハチヤはパンションになっているのですか。
パンションというと、その昔、材木町に材木町パンションというのが出来たのが、私の高校生の時、今から30年以上前のことです。
お返事おそくてすみません。好文堂は文房具はすくなかったかと思います。もう少し青山町よりに菅原文具がありましたので。
>daiさん

お返事、ありがとうございます。
少なかったということは、一応、売っていたのですね。良かった。
菅原文具店、言われてみればあったような気がします。
当時は、小中学校の近所には必ず一軒は文房具店がありましたね。
 書店の話から脱線しますが…

「上田3丁目の●●●●」とは「だいまる模型店」の事ではないでしょうか。
私も子供の頃よく使いましたが聞く所では現在も店はやっているようですね。

新田の「佐藤プラモ」も当時私がよく行っていた模型屋さんです。当時(昭和50年頃)はここか「やなぎだ模型」が鉄道模型をよく置いていました。
 本町の「佐藤模型店」と似た名前だったので当時は親がよく間違えていた記憶があります。
>いんべさん

そうそう、「だいまる模型店」です! ありがとうございます。
健在ですか。嬉しいですね。私はモデルガンを見たり弄ったり、買ったりしていました。
新田町のは、「佐藤プラモ」でしたか。
だいまる模型店は最近廃業した張り紙を見ました、残念です。「やなぎだ」「やなぎや」どっちでしたか?古くはレーシングカーのコースが盛岡では最大級でしたね。
「佐藤模型」「佐藤プラモ」全部通っていました(笑)
新田町に住んで居ましたから柏屋とは切っても切れない生活でした、狭い階段上がって二階では小中学生の帽子の校章や襟章、学ランのカラーや紅白帽やハチマキ、応援団のホイッスルや白手袋。
いろいろ並んでました。
昔、柏屋の向かい側に味噌屋が有りませんでしたか?(うろ覚え)
その味噌屋の近くには馬蹄屋も有ったような記憶が・・・(うろ覚え)
夕顔瀬東映や長町の銀映座、懐かしいっすね。
>フォッフォさん

だいまる模型店、廃業ですか、残念です。
やなぎや、やなぎだ、は、どこにあった模型店でしょうか?

柏屋の近くに、味噌屋というか漬け物屋のような、樽の並んだお店があったような気がします。
新田町の映画館は、夕顔瀬東映と言ったのですか!
長町の銀映画座は、長田町交差点の中央通り沿いにありましたね。岩手国体の頃までは、エロ映画専門館として営業していたと思います。私は小学生だったので、入ったことはありませんでしたが…。
「やなぎや」「やなぎだ」?はたしか、旧緑屋近辺。大沢川原と言えば良いのかな(うろ覚え)(笑)
銀映座は成人映画もでしたが、洋画も邦画もやってて、「半魚人」や「少年ジェット」や東映や大映の怪談なんか良く見ました、画面の前方が畳敷きの頃がありましたよ。

>フォッフォさん

 長町の現東日本ハウスの辺りに映画館があった記憶はあるのですが名前を憶えていませんでした。
 「銀映座」と言ったのですね。

 大沢川原の模型屋さんですがおそらく「やなぎや」の方が正しかったと思います。建物はこの間の帰省で見た時は手芸屋さんだった様ですが今ではどうなっていますか。
 昭和50年頃は「盛岡ラジコンセンター」という肩書があり実際その辺りが充実していたようです。
いんべさん

そう、銀映座、市内ではかなり古い映画館だったと思います、南大通りには「みなみ東映」ってのも有りましたね、駅前にも「駅前日活」とか何軒か有ったし・・
銀映座はかなり早くに廃業してしまい、もっぱら夕顔瀬東映派でしたよ、「東映」とは名ばかりで
洋画邦画、とりまぜ三本立てで小学生で当時は120円くらいだったと思います、B級洋画も名画も封切りから一年経てば安く見られて、東宝の怪獣映画や洋画のB級ドラキュラシリーズや一連の
SF・・・ほとんど見てます。

「やなぎや」・・たしか今はシャッターには昔のペンキ書きの模型店の文字だけで店は別だったよな気がします。いつの間にか少年達が消えすこしお金をもったオジサンたちが今でもラジコンショップに出入りしてるようですね。

ハチヤ、赤沢号、好文堂、何もかもですなぁ〜〜シミジミ・・・超ローカル話。


>フォッフォさん
>いんべさん

貴重な情報ありがとうございます。
「盛岡ラジコンセンター」、ありましたね。
駅前地下以外に、駅前に映画館があったのですか。再開発される前の駅から、夕顔瀬にかけては、路地が迷路のようにあって、猥雑な雰囲気の地域でしたね。
開発が進むと駅前の風景は日本中どこも同じ風景ですわ。
「資本力の大きいもの勝ち」はしかたないですが整理されない雑然とした「特有の不便さ」
を味わう生活の方が何かと面白いと今でも思いますよ。
すごく楽しいことばかり書いてて
夕顔瀬東映ってあったんですね。

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