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いのちの響宴コミュのいのちの響宴in仙台物語 後偏 by YN

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いのちの響宴in仙台物語 後偏 by YN

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この世に偶然という文字はない。
いのちの響宴を進めていくうちに
そんな言葉が常に浮かんでくる。
とにかく必然以外には考えられない現実が
ハッキリした形となって目の前になって現れてくるのだ。

後でわかったことだが、七ヶ浜国際村がある会場は
縄文遺跡の跡地に立てられているという。近くに貝塚も見られる。

面白いことに沖縄会場となる知念村「くるくまの森」も
縄文遺跡の跡地に会場がある。
こちらも近くに貝塚があることで知られている。
もちろん最初から縄文遺跡の跡地を物色したわけではない。
たまたまのご縁でそうなったにすぎない。

僕は歴史にはさほど詳しくはない。
しかし最近、ある本を手にすることで興味深い事実がわかってきた。
色川大吉著書の『日本人の再発見』という本の中に、
次のような内容が書かれていた。


「             前略
日本の文部省検定の歴史の教科書、日本史の教科書を見ていますと、
征服史観と申しますか、大和朝廷中心史観というのが濃厚でございます。

大和朝廷が、南の方は奄美、琉球を平らげ、それから、北の方は、
蝦夷(えみし)、アイヌを平らげる、そして国家が定まるという、
これは『古事記』、『日本書紀』をふくむ「六国史」の中に出てくる
有名な言葉でありますが、蝦夷・南東を平らげずんば
大和安からずという言葉があります。

蝦夷というのは今の東北地方であります。
南東というのは、南九州から奄美、沖縄にかけての島々の人々ですが、
この蝦夷、南東を押さえなければ国は安まらないんだという、
この姿勢というのは、実は四、五世紀ぐらいから十四、五世紀ぐらいまで一貫
しておったわけであります。そして、そういう歴史の中で、
東北や南東の人々はつらい目を受けました。」

                   中略

「もともとこの東北地方の原住民というは独自の非常に高い縄文文化を持って
直接大陸と交流し、早くから鉄器を導入したすぐれた歴史をもっていた国です。
これは残念なことに、大和民族の北進政策の中でだんだん斬り従えられていって
大和化されていくわけでありますが、その過程で、
例えば八世紀から十世紀にかけて、アザマロの反乱であるとか、
あるいは英雄アテルイの東北連合軍が大和の侵略軍を迎え撃った歴史がある。
数万の侵略軍が東北軍に引き回されて、
一時は敗戦敗戦また敗戦というような状態になる。

これは今の宮城県の北部から南部にかけて激戦が行なっているわけですね。
また後に安部一族などというものが出てきますが、非常に長いあいだ、
千年ぐらいにわたって南から攻め上ってきた部族と戦っているわけであります。
ですから、東北地方には独自の文化があり、
原日本人と言ってもいいようなものが住んでいたんです。

大和朝廷は、これは今人類学的にいろいろ問題になっておりますけれども、
少なくとも騎馬民族説だとか、大陸渡来説というのが
非常に有力でありまして、外から入ってきた。
これは弥生の文化その他青銅器の文化などを持って入ってくるわけでありますが、
そういった部族が古くから日本列島に住んでいた出雲族であるとか、
国つ神の信仰のもとにあった諏訪族とか、東北の蝦夷族とか、
あるいは熊襲と呼ばれる南東の、南九州の部族を切り従え
日本列島を征服するわけですね。」


蝦夷を征伐したのは、今更言うまでもないが坂上田村麻呂である。
田村麻呂は多賀城を蝦夷征討の最前線基地として、
蝦夷のリーダー・アテルイを降伏させた。
結局、アテルイは都につれて行かれ首を切られることになる。

仙台の会場は多賀城から割合近い位置にある。
アテルイは京都の清水寺に眠っている。
8月2日長屋和哉氏の奉納コンサートが清水寺で催された。
たまたまそのときにアテルイの墓が清水寺にあることを知った。

これが単なる偶然といえるだろうか?
長屋さんの奉納はもしかしたら、
アテルイの心を癒すための奉納だったのか?
なんとなくそう思えてならない。

         ☆  ☆  ☆

仙台の『いのちの響宴『は二部構成である。
一部は出演者たちのトーク。
二部は鯉沼氏、田中氏、松井氏の
篠笛と琵琶と能の饗宴である。

タイトルは青葉の宴U能と音のコラボレーション)である。
青葉と名づけたのは仙台と関係が深いことと、
もう一つ平家物語と関係している。

鯉沼氏は、『青葉の曲』というタイトルの曲を作り、
田中氏とアンコールでよく共演されている。
これにちなんだ話を、以前スタッフの山田のんちゃんが書いた
ことがあるのでそれを引用させてもらうことにする。

       ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆
       
『青葉の曲』というのは、
平家物語に出てくるのエピソードを元に作られた
篠笛の名曲である。

平家の若い公達、平敦盛はたいそうな笛の名手で、
「青葉」という銘の笛を持っていた。

時は源平合戦のまっただ中、戦いの合間のある夜、
源氏の武将の熊谷次郎直実は、
どこからともなく聞こえてくる笛の音に聞き惚れ、
戦にささくれだった心が、ひととき慰められる。

あくる日、平家の武将と対峙した直実は名乗りを上げ、
その武将の首を打ち取る。
打ち取った首をあらためるために兜を脱がせると、
なんと、年の頃十六、七ばかりの容顔まことに美麗なる若武者。
思わず同じ年頃のわが子を思い出し、涙にむせぶ直実。
そして若武者の持ち物から、銘笛「青葉」が見つかり、
それによって、この若武者が平経盛の第三子、敦盛と知れた。
ひとときの戦場の慰めとなったあの笛の吹き手を打ち取ってしまったことを
直実は深く悔やみ、後に僧侶となったと伝えらている。

この「青葉の曲」に田中氏の平家語り「敦盛」がかぶさる。
「敦盛」は、織田信長が好んで舞った能の舞曲で、
「人間五十年、下天のうちを比ぶれば夢幻の如くなり…」
よく本能寺の変のシーンで炎の中で舞われている。


   思へばこの世は常の住み家にあらず。         
   草葉に置く白露、水に宿る月よりなほあやし。     
   きんこくに花を詠じ、栄花は先つて無常の風に誘はるる。
   南楼の月を弄ぶ輩も月に先つて有為の雲にかくれり。  
   人間五十年、下天のうちを比ぶれば夢幻の如くなり。  
   一度生を享け、滅せぬもののあるべきか。       
                               『敦盛』

         ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆
 

松井氏も舞台で時々この『敦盛』を舞う。
そこで松井氏にお願いした。
すると意外な答えが返って来た。
松井氏は敦盛より源氏の武将・熊谷次郎直実を
舞ってみたいと提案した。
なるほどそれは見ごたえはある。
鯉沼、田中両氏の演奏に松井氏の即興の舞。
どんな出し物になるのかが今から楽しみだ。

実は、七ヶ浜国際村のある七ヶ浜町花渕浜には
平家の落人のお墓があるという。
これも不思議な縁という以外にない。

       ☆  ☆  ☆

何度も言うが今年は終戦60年にあたる年である。
最初、日本とアメリカの戦争が終えて60年になる年に、
平和の祈りをしようというのが目的だった。
しかし、よくよく考えてみると60年という一つの節目であって、
そんなみじかな年月では済まされない、
もっともっと根深い歴史的意味があるような気がしてきた。

はるか昔、縄文時代には、
1万年以上も長い歳月に渡って
争いのない平和な日々が続いた。

人々は常に神に感謝し、自然と共生し、
祈りをベースに宇宙と調和しながら生活してしてきた。
それが弥生時代に移り一変し、
幾度となく同じ争いを繰り返してきた。
今もそれは続いている。
しかもそれだけには治まらない。
人間の争いは地球環境全体を脅かそうとしている。

それは精神的な安らぎ、言い換えれば
「心の平和」を置き去りにしまったからに他ならない。

いのちの響宴の英語タイトル名は、
「Celebration of Oneness」

みんな一つにつながっている。

縄文も弥生もなく、
源氏も平氏もなく、
イラクとアメリカでもなく、
仏教とキリスト教でもなく、
みんな同じで1つでつながっているんだ。
最近ではそのための響宴だと思うようになってきた。


京都主演のYaeちゃんが、
「Yaeサポーマンス」という活動を始めた。
国境や人種、性別、年齢などボーダーのない音楽を通して、
その想いから生まれたイベント、コンサートなどを多くの皆様と共有、推進し、
支援できたらと強い願いから生まれた活動だ。
彼女は自分のできることで誰かのために、
何かのために役立ちたいと考えている。

それは他の出演者にしても同じことだ。
同じ想いを共有する人と自分のできることで
何かをすることで確実に変る、
とうさぶろうは訴えている。
ぜひ、この機会に参加していただくことを強く願う次第である。

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