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文芸の里コミュのSF 未完 〈11の2〉 遠泳

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 この夏休みの目標は、岬の灯台までの遠泳だと、メグ子には話したが、それが鮫の出現で阻まれたとなると、鮫退治が第一目標に上ってこなければならなかった。そして事実、この鮫を撃退させるために亮輔は今泳ぎ出したのであった。しかしこの目標は、人には語れない隠された野心のようなものだった。これは亮輔の心の中でも、順序が逆になってはいなかった。公にできる以前のこととして、鮫との格闘はその次に置かれていた。鮫との闘いが怖いからというより、これまでの人生で第一にかかげた目標はことごとく実らなかったという苦い体験からきていた。新しい事例からいけば、第一志望の大学受験は失敗していた。その前には新聞の川柳に投稿していたが、一度も入選したことはなかった。佳作にも入らなかった。そのくせ、半ば投げやりに出してみた俳句の投稿では、入選して景品まで送られてきた。もっと幼いときまで遡れば、待ちに待った遠足の日、照る照る坊主を作ってよい天気を頼んだが、たいがい嵐に見舞われ、遠足は中止になるか先に延ばされていた。
 そんなことから、鮫との対決も、そればかりをひたむきに追い求めてはならないと思っていた。その点ではメグ子に言ってしまった遠泳にしても、口にしてしまって後悔していた。遠泳ではなく、遊泳くらいにしておけばよかったのではないかと、今の亮輔はクロールで抜き手を切りながら悔やんでいたのである。
 彼は今鮫との格闘も、遠泳も、心から遠ざけて、一人海に浮かんで遊泳しているのだと言い聞かせていた。
 そもそも亮輔が泳ぎに秀でていったのは、ひょんなことからだった。
 亮輔の生まれたこの町は、海に沿って細長い地形をしている。背後には山が連なっている。けっこう高い山もある。低いことで名だたる筑波山よりは、いくらか高い。その山の中腹に、亮輔の祖父母が住んでいた。父親の故郷である。その祖父の家に、毎年夏休みになると、姉と一緒に出かけて農作業の手伝いをした。姉が中学生から高校生へと成長していくと、日に焼けると言って、農作業を厭うようになった。そうなると亮輔は一人で出かけて行った。農作業が好きというより、山の自然が好きだった。また孫を迎えて喜ぶ祖父母の笑顔が好きだった。
 ある日、祖父母の家に向かって山道を登っていくと、奇妙な鳥の鳴声に出合った。その鳥は草の中を亮輔の前になって進みながら、チョットコイ、チョットコイと鳴いていた。チョットコイと鳴く小綬鶏がいるとは、祖父母に聞いていたが、耳で直に聞くのははじめてだった。声を聴いたのが初めてなのだから、姿を見たことなどあるはずもない。どうしても鳥の姿を視たくてならなかった。
 鳥を驚かさないように、足音を忍ばせてついて行った。小綬鶏は鳴声から、すぐ近くにいると思えたが、どうしても鳥の本体は現さなかった。チョットコイとは聴けても、日本人がチョットコイと発音するのではなく、外国人がまどろこしい発音で、チョットコイと言っているようだった。
 草原は尽きて、潅木の木立が繁くなってきた。その木立の奥から突然、これははっきり日本人の大人の声で、
「こっちへぼって来い!」と叫ぶのを聴いた。その声が響くと同時に、鳥は鳴かなくなった。
 亮輔はがっかりするのと入れ違いに、大人の叫びに興味を持って、道をはずれ人間の声の方へ歩みを進めて行った。
「こっちへぼって来い」
 と叫んでいるからには、一人ではなく、相手がいると考えられた。間もなく木の間越しに、ぎらりと水面が光った。こんなところに湖があったのか。亮輔は新たな感動に揺すぶられて、なおも下草や潅木の繁みの中へ身を踊りこませて行った。小さな湖が開けてきた。周囲を緑の囲まれ、空を遮っているから、湖面を輝かす光芒はわずかなもので、それだけにダイヤを散りばめているように見えた。湖に映っているのは、ほとんどが木や草の緑なのだ。水そのものの青さなど、ほんの僅かに覗いているだけだった。その圧倒的な緑の中を、息あえがせて、一匹の犬が走っていた。気忙しく駆ける、犬の荒い鼻息が、湖面を伝って亮輔の耳に届いた。これでは小綬鶏も鳴かなくなるはずだ。
 犬は草の汁や撥ね散らす水と土との混濁に、哀れっぽく汚れている。本来は白い秋田犬のようだ。中位の大きさの秋田犬だ。喘いで出す舌の緋色だけが、夏を純粋に彩っていた。
「そこから水に飛び込んで、魚をぼってくるんだ!」
 傍から老人の声が涌いた。なるほど亮輔の立つ岸の近くに、手拭いを被った一人の老人が網を仕掛けていた。
犬に魚を追わせてすくいとろうというのだろう。
「もっと真剣にぼったくれ。とろ過ぎる。もっと盛んに水をかいて、ぼったくれ!」
 と老人が叫んだ。
 しかし犬の水かきは惨めなほど遅く、はかばかしく進まなかった。老人が叱りつけるように、犬が怠けているのでは決してなかった。犬は真剣だった。舌を出し、息遣いは陸にいるときより、ずっと烈しかった。そもそも犬の水かきなど、そんなものだったのだ。犬の水かきに、スピードを要求するほうが間違っている。
 犬が岸に向かって逃亡の姿勢を見せると、老人は声を大きくして、
「逃げるな。そこから戻って来て、魚をぼったくれ!」
 と叫んだ。亮輔は犬が哀れで見ていられず、湖を離れた。背に老人の叫び声と犬の荒い息遣いが絡まりあって、魚の漁はつづいていくらしかった。
 五月の連休の初日だった。亮輔は四日は祖父母の家に泊まるつもりで、出かけてきていた。
「来るとき小綬鶏にあったよ。チョットコイと鳴いていた。でも姿は見えなかった」
 と亮輔は報告した。湖で出会った犬と老人のことは話さなかった。
「小綬鶏が鳴いていたのは、樹の上か地面か」
 と祖父が訊いた。
「草の中だよ。僕の少し前を草を揺らして進んで行った」
「おまえを誘っていたんだろうな。そういう奴なんだ、あの鳥は。自分が何を喋ったのかは分からなくても、心の中では、おまえをどこかいいところへ、連れて行くつもりだったんだろう」
「いいところって、どこへ?」
 と亮輔は祖父に目をやった。
「そんなこと、人間のじいちゃんには分からんさ。でも小綬鶏は知っているんだ。チョットコイと鳴くからには、知っているに違いないのさ」
 と祖父は言った。
 すると小綬鶏は、あの深い緑に覆われた湖のなかでの犬と老人のドラマを、亮輔に見せたかったのだろうか。「ボッテコイ」と老人の叫ぶ声がすると同時に、チョットコイと鳴くのをやめて、姿をくらましてしまったのだろうか。
 小綬鶏が何かいいことを教えたかったという、祖父の言葉が気になって、翌日きのうの湖に出かけて行った。するとまたいたのだ、犬と老人が。湖の中心では、犬がぐるぐる小さな輪を描いて回っていた。犬は前へ出て行こうにも、それが出来ずに、一箇所で回ってしまう不幸に際会してしまったという感じだった。犬は喘いで、開いた口は上を向いていた。網を仕掛ける老人は、声を嗄らして叫んでいる。
 亮輔は犬掻きの無力さを、これほど見せ付けられたことはなかった。彼はたまらずズボンとТシャツを脱ぎ払い、パンツ一つになると水に飛び込んでいた。抜き手を切って泳ぐと、すぐ犬のいるところに届いた。老人が魚を追って来いと叫んでいたのを思い出し、それならばと、足をばたつかせて水音をつくり、腕の振りも大きくして湖面を波立たせた。
 亮輔の果敢な泳ぎに怖れをなした犬は、陸へと逃れて、おとなしくお坐りして、尊敬の眼差しで人間の泳ぎを見ていた。亮輔は犬に一目置かれたことが嬉しかった。彼は犬にいいところを見せてやろうとして、長い距離を速く泳いだ。陸が迫ったので目を上げると、そこは湖の北岸で、「釣りを禁ず。管理者」と立て札があった。釣りは禁ずるが、網ですくうのはよいというのだろうか。網にしがみついている老人の心が、何となく分かる気がした。亮輔は湖の魚すべてを網に追い込んでやるつもりで、向きを南に換えると、力強く泳ぎ出した。網に反応があったらしく、網を構える老人に緊張が走った。たしかな手ごたえがあったようだ。二度三度そんな動きをした。
 普段は一、二尾の獲物しかないが、亮輔の介入で七尾かかったと、水泳の技量を褒めて三尾分けてくれた。亮輔は犬に認められただけでなく、飼主にまで褒められて嬉しかった。これまで水泳に限らず、何においても褒められたことなどなかった気がした。祖父母は別だ。こちらは孫の行いを、良かれ悪しかれ認めてくれるから、出かけて来るようなわけだった。
 持ち帰った魚を祖母は鯉のあらいに作った。祖父の話では、釣人が木の枝などに引っ掛けて残していく釣り針に野鳥がかかって、何羽もかわいそうな目に遭い、それから釣が禁止になったとのことだった。
 亮輔の話を聴いて、そういう手もあったのかと、祖父はいまいましそうに洩らした。その感じで、祖父もかつて釣をしていて、あの湖を失った口だなと睨んだ。
 亮輔はその後も老人の魚追い役として泳ぎ、その度に魚を分けてもらった。そんな中で、泳ぎが見違えるばかりに上達していった。一匹の秋田犬に認められたことが原因して、亮輔は誰にも引けを取らない泳者として成長していったのである。湖から海に舞台を移して泳ぐと、体が自由で軽く、町の中学、高校では並ぶものがないほどの泳者になっていた。


 亮輔は今、そんなことを想い出しながら、クロールの遠泳にはいっていた。マラソンランナーが、過去の回想に浸りながら走って、現実の苦闘をやわらげるように、亮輔も自分の過去を振り返っていた。彼にはもう一つ、鮫と闘う恐怖を追い出そうとする意識も働いていたにちがいない。あんな奴のことは、いざ面と向かったときに考えるだけでたくさんだ。
 遠泳のクロール、ツービート泳法を取り入れ、湖のときとは違って、足をばたつかせることはしなかった。足をつかうと、疲労がはなはだしいのである。
 あの山の湖に、姉を一度も連れて行けなかったことが残念でならなかった。できれば嫁ぐ前、姉と二人だけで泳いでみたかった。ふっと、その姉の代わりに、パン屋の娘のメグ子が浮かんできた。何だろう。この不思議な訪れは。亮輔は頭を振って追い出そうとするが、そうすればするほど、彼女は心を締め付けてきた。女は亮輔の心ばかりか、肩の上に胸の辺りを押し付けてきた。実際にはパン屋で、そんな接触やすれ違いは、偶然にせよ起こらなかった。注文した品を取るときも、彼女は商品ケースの裏側から選び取っており、亮輔と手が触れ合う場面など一度としてなかった。
 それなのに、いま抜き手を切る亮輔に体重を預けるように押してくるこの重量感は、何を意味しているのだろう。
 ふと思いつくものがあった。遠泳の話をする彼に、私なら行かせないな、と強く拒んだ言葉である。彼が遠泳に出かけると言ったわけでもなかったし、鮫退治の計画などおくびにも出さなかったので、それきりになったが、もしかして彼女は、亮輔の思惑を見破っていて、彼女の意識が亮輔を止めようとしているのではないか。
 彼はそんなことを考えながら泳いで行った。それもまた、疲れをやわらげるための、回想の一部なのかもしれなかった。
 思わず顔を前にあげた。先程より灯台は大きくなっている。三分の一は距離を縮めていた。
 残りは三分の二だ。不思議に鮫のことは頭に浮かんでこなかった。湾のうちとはいえ、この広い海の中で、相手を探し出すなど不可能だ。向かってくる鮫を迎え撃つしかないのである。敵が来なければ、遠泳を完結させるだけである。
 亮輔は身を引きしめて泳ぎはじめた。心を一新したつもりだったが、腕を押してくるメグ子の力は引いていかなかった。亮輔は彼女を、かかわりの薄い体育系として、細波のように感じてきたが、案外近いところにいたのかもしれないなと、思い直しはじめていた。亮輔は泳者の自分を、体育系の中に加えず、独りよがりに体育系の彼女ら、あるいは彼らを、遠ざけてきたのである。
 隔たりがないとすれば、俺にも彼女に付き合いを申し込む資格があるということだな。同じ都市の大学に通っているのだし、同窓生名簿をくって、電話でもしてみるか。そうはいっても、そう簡単に動けるものではないことも心得ていた。きっかけがなければならないのだ。そしてそのきっかけが、先程の思いがけない出会いであり、それを自分は取り逃がしてしまったのではないのだろうか。それにしても考えられないこの肩と腕の重さだ。右に顔を上げると、そこに若さみなぎるメグ子がいた。薄化粧の内側から突き上げてくるのは、燃やさずに燻っている青春というものかもしれなかった。その青春なら同じ年齢の自分にも欠落しているはずはない。細波として遠ざけてきたものが、ひた寄せるいのちの波だったとすれば、いま抜き手で水をかくこの手応えを、確かなものにしなければならないな。そんな意気込みを動員して、亮輔は泳いで行った。
 遠望する周囲の風景から、ほぼ半分の距離を泳いだと思えた。亮輔は立泳ぎになって体を休めた。
 姉にサバイバルナイフを手放すと約束して買ってもらった水中腕時計を見ても、半分泳いだのは間違いなさそうだった。灯台を明瞭度ではかっても、半分進んだことは確かだった。
 亮輔は再び体を伸ばし、ツービートの泳法を忘れないようにしてピッチを上げた。
 泳ぎながら、顔を右に上げて町の方角をうかがう。まったく人影のない砂浜に、白波がけだるく寄せていた。逆U字形をなす海岸線の上部に漁港があった。一艘の小型漁船が埠頭を離れてくるところだった。その船が通る前に通過してしまいたかったが、そう簡単にいくものではないだろう。相手はエンジンを備えた機械なのである。
 遊泳禁止の海を泳いで、発見されたくはないが、そうかといって、こっそり浮いていて、死体と勘違いされても困る。やはり遠泳のペースを維持していくことにした。漁船が近づいたときは、少し無理をしても、片手を挙げて振るくらいはしたほうがいいかもしれない。
 そんなことを考えて泳いでいくうちに、早くもエンジンの音が耳に響いてきた。このときである。異様な波の気配に、亮輔は思わず逆方向に顔を上げた。青黒い巨大な胴体が、すぐ横をスーッと後方へ進んで行く。船ではない。漂流物でもない。生き物だ。すると、今のがまさしく鮫だ。
 そう察して、亮輔は身構え、腰のサバイバルナイフに手をやった。しかし、ない。手に当たるはずのものがないのだ。たちくらみのように絶望が襲ってきた。絶望に領されたというべきだ。そんなはずはない。亮輔は海水パンツの中を探った。ぶつかってくるものは皆無だ。
 一度横をすり抜けて様子を探っていった鮫が、あのまま行き過ぎたとは思えない。鮫ではなかったと思いたいが、他にあれだけ大きな魚は考えられない。イルカであってくれるように。亮輔は祈った。鮫であっても、人食い鮫ではないことを祈った。一方でナイフがなくなっていることが信じられず、二度三度海水パンツを手で探ったが虚しかった。海底に滑り落ちて行ったとすれば、探しようはない。危険物の隠し場所として、これほど相応しい所があるだろうか。
 亮輔は絶望を通り越して、気が抜けていくような感覚におそわれていた。一匹のクラゲになって、海面に浮かんでいる気がしてきた。何という儚く虚しい人生だったことだろう。そんな慨嘆に決定打を与えるように、今度は後方から水の動きが迫ってきた。鮫が引き返してきたのである。
 亮輔の足の近くに迫った相手は、さっきとは反対側を、つまり陸地のある側をスーッと通った。人間と接触するほどの至近距離で。そのとき亮輔は、鮫の細く鋭い目を見たのである。サバイバルナイフで突き刺すはずだったその目を、自分の目ではっきり捉えていた。ナイフがないとなれば、素手で向かうしかない。どうにかして鮫の背鰭にしがみつき、手の爪で鮫の目を突く以外にない。そんなことを暗黒の頭でめぐらせているうちに、漁船のエンジンの音が高まって響いてきた。漁船が鮫に気づいてくれればいいが。
 鮫の動きが、にわかに烈しくなった。漁船に逃げるどころか、自分の発見した獲物を横取りされてたまるかといった様子が、ありありと見て取れた。鮫は行き過ぎてしまわずに、亮輔の頭から四、五メートルのところで身を翻した。
 漁船から漁師の声が立ち上がる。
「鮫を発見。モリと矢を用意せよ。エンジン全開」
 そんな声がして間もなく、鮫に向かって一本の矢が投げ込まれた。漁船は亮輔のすぐ近くに来ていた。
「厄介者、船につかまれ」
 亮輔は言われるままに、船に向かって泳いだ。
 二本、三本と矢が鮫に向かって放たれている。一本は命中したらしく、血しぶきが亮輔に降りかかった。亮輔は矢に繋がれたロープの下をかいくぐって、船へと全力で泳いだ。鮫は無言で矢やモリと戦っている。
 漁師も鮫には負けていなかった。次々と矢を射ち込み、ロープを引き寄せ、鮫の口が迫ったところで、大きな釣り針を開いた口に引っ掛けた。
「これで万事休すだ。いくらもがいたって、逃げられはしない」
 亮輔は船に泳ぎ着くと、漁師が手をかして、船に引き上げられた。彼はぐったりと漁獲物のように、船の床に横たわった。
 漁師が二人がかりで、鮫の口に引っ掛けた巨大な釣針に連なるロープをひっぱり、鮫は船腹に横付けにされた。
 鮫はまだ生きていた。生きたまま曳航するのだろう。
「こいつのいのちと解体は、若い衆へのみやげだ」
 中年の漁師が言って、二人の漁師のいる前甲板に行くと、煙草を吸った。二人の中年漁師と二十代の若い漁師、中に機関士がいた。開いた機関室の窓から、陸に連絡する声が洩れて出た。
「鮫は捕獲しました。頬白鮫です。学生も捕獲しました。学生は灯台を目指して力泳していましたが、鮫に狙われていました。鮫は学生の周囲をめぐって、いつ襲うか時をうかがっていたようです。危ないところでした。え? 元気です。傷はありません。鮫ではありません、学生です。
 海水浴場は解禁にしてよいと思います。侵入したのは一匹だけでしたから。では、詳しくはまた」
 亮輔は甲板のトモの方に立って船腹に括りつけられている鮫を見下ろしていた。彼の上向きになった細長の目が、怒りをたたえて亮輔を睨んでいる。鋭い眼光があり、目の長さはサバイバルナイフより長かった。
 結局、そのナイフを棄てにきたようなものだった。あのナイフには、海底が絶対見つかることのない、安全な隠し場所だったのだ。姉に貰った水中腕時計の輝きを、目で撫でながら、亮輔はそう思った。
 舳先のほうで話す漁師たちの声が、風にさらわれて亮輔の耳に届く。
「やっこさん、彼女たちに借りができて、大変だろう。一人はパン屋の娘で、もう一人は、役場の総務課長の娘らしいぞ。その総務課長の一言で、俺たちは緊急出動させられたわけだもんな。そのくせ、遠泳の学生とは恋人でも友人でもねえってんだから、今の若いもんは分からんてもんよ。二人とこの町に借りができて、やっこさんもこれからが大変だ。有名なスイミングクラブに入って腕を上げねばならんだろう。国体とかオリンピックに出てよお」
 それを遮って、もう一人の中年漁師が言った。
「そんな無理はせんでも、海水浴場が解禁になれば、海水浴客が押しかけてきて、町の財政も潤うってもんよ」
 そう話すのと前後して、スピーカーの声が風に四散して飛び込んできた。
「鮫は退治されました。ただいまから、遊泳禁止を解除します」
 そんな声が繰り返されている。三分と置かずに、子供たちが蟹のように這い出してきた。
 亮輔は漁師の話に出て来た二人の娘のことが、頭に引っかかって放れなかった。パン屋の娘は分かっても、もう一人の総務課長の娘というのが、まったく分からなかったのだ。
 パン屋のメグ子は、彼が泳いでいるときにも、腕に重圧をかけてきたので、彼女が亮輔の目論見を見破っていたと納得できた。おそらくメグ子から教えられて、一緒に動いたというのが真相であろう。メグ子の友人の一人が、たまたま役場の総務課長の娘だったのだ。
 やはり体育系の細波の中にいて、亮輔からは遠い存在であったものが、彼女たちからは亮輔は同じ体育系として気になる存在であったのだろう。亮輔は、自分が仲間に入れられていたことが嬉しかった。
 いずれにせよ、亮輔は自分に借りなどないと思いたかった。あったとしても、それはこの船腹にくくりつけられている鮫が、すべて背負ってくれていると信じた。
 さきほど海水浴場の遊泳禁止を解除するという放送があって、七分もすると、海には次々と人が集まってきていた。
 亮輔の家に向かう通いなれた道からも、子供たちが飛び出してきた。亮輔は目を凝らして、あの女の子を探していた。ビニール製のプールに浮き輪を持ち込んで、姉に怒られた女の子である。たしかトモ子といった。
 風にもっていかれそうになりながら、大きな浮き輪を抱えて駆けてくる女の子がいた。すぐ後ろから、姉が追いかけてくる。あの姉妹にちがいない。
 あの家庭は、何か不幸を抱えているな。亮輔はそんな、まったく関係ないことを考えて、心を曇らせた。
            了

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