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トム爺の奨励集コミュのトム爺の奨励集(4)

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本
2006.10.29.(日)
門戸聖書教会・礼拝・奨励
「人間になる」(ヨハネ1:14、?ヨハネ3:2)
信徒伝道者・宮平光庸
1.奨励の前の証し
  私たちの直接的な信仰体験には限界があるため、しばしば信仰的な読書を通して追体験的に信仰経験を補うことが有益だと思います。私自身もそのような信仰書の読書経験があります。例えば、ハレスビーの「良心」を通して、
 「青銅の蛇」に関する聖書の教えを涙しながら夜通し読んで、この世のものでない平安と喜びを経験したことがあります。その信仰的経験を通して以前に奨励させていただいたことがありますが、今日は、もう一つの信仰的な読書経験を通して「人間になる」ことについての奨励をさせていただきたく願っております。

2.ファン・ルーラーの「聖霊論」に関する信仰的読書経験
  私が定年後にそれまでは許されなかった時間的なゆとりが与えられ、神学校に入る前にある書物にひきつけられ、時々涙しながら、年末年始の数日間で通読いたしました。あたかも自分の聖化に関して悩み続けていたときに大きな光と慰めを与えられた記憶があります。それはファン・ルーラーの「聖霊論」に関するものでした。あたかも目から鱗が落ちるように私が深く教えられたことは「クリスチャンは人間になるのであって、その逆ではない」というコロンブスの卵のような発見でした。

3.最近、読んだジャン・バニエ著「人間になる」
  信仰書に関する紹介が続いて大変恐縮ですが、同じようなテーマに関する
 もので、とても教えられた信仰書がラルシュの家の創始者として知られているジャン・バニエの「人間になる」でした。なかでも、霊性の探求が大きな主題になっている今日、バニエの霊性理解にはとても感動を覚えました。それは、「人間であることから霊性が自然に生まれる、あるいはむしろ霊性とは真に人間であることであり、それが私たちの人生と人間性を形作るべきだ」という主張です。

4.聖書における「人間になる」こと
  先ほど司会者が朗読してくださった聖書箇所(ヨハネ1:14)によれば、
 アンセルムスの「なぜ神は人になられたか」という主題に関することが記されています。一言にして「神は人間になられた」のですが、その理由については教会の歴史を通して深い洞察が行われてきました。ある理解によれば、それは「人間が神になる」(神化)ためであるとされており、またある理解によれば、「神が人の子になられたのは、人が神の子になるためである」と聖書的な解釈がなされています。

5.私たちクリスチャンはどうなるのか
  もう一つの聖書箇所(?ヨハネ3:2)によれば、次のように記されています。「私たちは、今すでに神の子です。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。」それは、第一のアダムが堕落した結果、どうしようもない私たちの罪を贖うために第二のアダムとして完全な人になられた、その人に似る者になるのです。すなわち、私たちは神の像として創造された本来の「人間になる」のであります。

6.現在の私たちはどのような状態にあるのか
  堕落する前のアダムは「罪をおかさないことができる」状態にありましたが、堕落後は「罪をおかさないことができない」程どうしようもない罪人になりました。しかし、第二のアダムとしてのキリストが受肉され、十字架上の贖罪を完成してくださったため、私たちはやがて「罪をおかすことができない」状態へと高められます。しかし、私たちの現状は堕落前のアダムの状態でも、終末的な天国の状態でもなく、その中間段階で完全に贖われる希望をいだきながら信仰によって生きています。

7.現在の私たちに必要なことは何か
  ダビデが姦淫と殺人の罪を告白したときに、どうしようもない罪人の叫びとして「きよい心」と「ゆるがない霊」(詩篇51:10)を求めましたように、私たちも心の内奥に新しい心と霊を与えられる以外に方法はありません。
 預言者エゼキエルによれば、神が「新しい心と新しい霊を得よ」(エゼキエル18:31)と言われても、私たちは自分でそれを得ることはできません。しかし、憐れみ深い神は、新しい契約において、「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける」と約束されました。

8.私たちの希望の根拠
  もし私たちの何かに私たちの救いの根拠が置かれているとすれば、私たちには全く希望はありません。確かに、私たちは神の恵みにより、信仰を通して救われますが、その信仰でさえも私たちの救いの根拠ではありません。私たちの信仰とは神の真実を信頼するという意味においての信仰であり、神の恵みを受ける手のような信仰に過ぎません。しかし、神の言、約束、契約は必ず実現し、成就されることを信じて、私たちを取り囲む現状の如何にかかわらず、ヨブのような忍耐と希望をもって、生き抜きたく願います。

8.祈り
  「父なる神様、あなたの朝ごとに新しい憐れみとご真実によって、私たちが今ここに生きることが許されておりますことを、心から感謝いたします。どうか、人間に過ぎない私たちが神のようになりたいという誘惑に合せられることなく、真の神の像としてのイエス様に似た者に形作られるまで、希望をもって信仰によって、忍耐強く信仰生活を続けていくことができますように御言と御霊によって助け導いてください。私たちの主なる御子のお名前により祈ります。アーメン。」
 以上


2006.11.12.(日)
門戸聖書教会・礼拝奨励
「ヨブの苦難と忍耐」(ヤコブ5:10〜11)
信徒伝道者・宮平光庸
1.不条理な現実の姿
 私たちが生活している現実の世界には納得のいく説明ができない様々な不条理で満ちています。神が創造された世界になぜ悪が存在するのか?なぜ悪人が繁栄するのか?義人はいないにせよ、なぜ善人が不当な苦しみに会うのか?生まれつきの身障者をどう理解すればよいのか?なぜ様々な不公平に満ちているのか?私たちは理解に苦しんでいます。

2.ヨブの苦難と鬱病
 ヨブ記を読みますときに、昔から苦難の問題があったことに気づかされます。
ヨブがその財産と家族を失い、自らの命も危険にさらされる厳しい経験をしたとき、自らの生を呪い、死を願う鬱病に陥ったことがわかります。すべての人が生まれながらの罪人であることを認めながらも、通常は真面目な人が鬱病にかかりやすいことを私たちは知っています。

3.この世の賢者の倫理的判断
 厳しすぎる苦難に直面したヨブのところに老人・学者・青年の友人たちが訪れ、ヨブの苦難の説明を試みるのですが、ヨブは自分が正当に理解されていないことに苦言を呈します。友人たちの主張は一見して筋のとおった倫理的な判断のように思われますが、それは自然界における原因と結果の物理的な法則に類似した因果応報の思想です。

4.ヨブの主張
 この世の賢者たちの主張を要約すれば、善人は祝福され、悪人は災いにあうので、ヨブの直面している災いの背後にはヨブの罪が隠されているに違いないと責め立てます。しかし、ヨブの反論によれば、現実の世界には悪人が繁栄し、善人が災いにあうことがあると主張して止みません。そこで、正鵠を得ない友人たちに失望したヨブは神と議論をしたく願うようになります。

5.神のヨブに対する反語的な答え
 神はヨブに答えて仰せられます。「知識もなく言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか。・・・わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか。」(38:2,4)「あなたは死の陰の門をみたことがあるのか。・・・あなたは天の法令を知っているか。地にその法則を立てることができるか。」(38:17,33)「非難する者が全能者と争おうとするのか。」(40:2)

6.神のヨブに対する反語的な答え(続)
 「あなたは・・・自分を義とするために、わたしを罪に定めるのか。」(40:8)「だれがいったい、わたしの前に立つことができよう。だれがわたしにささげたのか、わたしが報いなければならないほどに。天の下にあるものはみな、わたしのものだ。わたしは彼のおしゃべりと、雄弁と、美辞麗句に黙っていることはできない。」(41:10〜12)

7.ヨブ記の全体的な背景
 ヨブ記(1:6)をみますと、神が創造された世界に何故かサタンが現れてきたことが解ります。神が創造された善き世界に存在しなかったはずの悪と罪がなぜ存在するのでしょうか?この難問に対する正解を提示することはできませんが、ひとつ明らかなことがあります。それは、神は依然として世界を支配しておられ、サタンは神の許容の下でしか行動できないことです。(1:12)

8.苦難の意味
 新約聖書の光に照らされるとき、私たちは苦難の意味について少しは理解できるように導かれています。「私たちが神の国にはいるには、多くの苦しみを経なければならない」ことを覚えて信仰にしっかりとどまるように勧められています。(使徒14:22、?テサロニケ1:5)ヤコブは「苦しんでいる人」に「祈り」を勧めます。(5:13)「御国が来ますように」(マタイ6:10)

9.十字架の意味
 ある意味でヨブはキリストの型であると思われます。キリストの十字架は義人が受けた苦難と受け止める以外に理解のしようがありません。ヨブもアダムの原罪の影響から逃れることはできません。しかし、キリストは罪のないお方でした。キリストの苦難の十字架はこの世であり得る最も不条理な出来事です。しかし、神はキリストの受難により私たちを救い、悪を善に変えられました。

10.苦難への聖書的対応
 「苦しみにあったことは、わたしにとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」(詩篇119:71)「苦難と忍耐については、・・・預言者たちを模範にしなさい。・・・耐え忍んだ人たちは幸いであると、私たちは考えます。」(ヤコブ5:10,11)「患難が忍耐を生み出し、・・・品性を生み出し、・・・希望を生み出すと知っているからです。」(ローマ5,4)

11.お祈り
 神様、「人とは何者なのでしょう。」(7:17)「人が死ぬと、生き返るでしょうか。」(14:14)私たちは苦難を耐え忍んだヨブとともに「贖う方は生きておられる」(19:25)ことを知らされて心から有難うございます。また、「あなたには、すべてができること、あなたはどんな計画も成し遂げられること」(42:2)を信じて感謝します。主の御名により祈ります。アーメン。

2007.3.18.(日)
門戸聖書教会・礼拝奨励
「信仰によって」(ヘブル11:1〜3)
信徒伝道者・宮平光庸
1.はじめに
   最近、「ユダ福音書」の発見と出版に伴い、聖書正典の成立に伴う教会の権威ないしは聖伝の権威にかかわる問題が改めて問われるようになってきている。問題の所在は、聖書(正典)の権威と聖伝の権威(教会伝承の権威)に対して、私たちがいかなる信仰的立場を立つかにより、大きな相違が生じてくることにあると思われる。そこで、今朝は「信仰」の意義について、ご一緒に学びたい。

2.聖書主義に立つ私たちの教会
   私たちの教会は明確な聖書信仰に立っている。聖書信仰を表明した宗教改革者の主たる主張は「聖書のみ」、「恵のみ」「キリストのみ」「信仰のみ」という基本的な信仰告白にある。ところが、それらの信仰告白の基盤である聖書信仰を表明するときに、その背景に何らかの「伝統」の影響があることも忘れてはならないと思われる。簡潔に言えば、それは「聖書的伝統」とも呼ばれるべきものである。そして、それは信仰的受容による。

3.信仰による救いに関する聖書的な立場
   聖書信仰に立つ限り、私たちが救われるのは恵により、信仰によることを疑う人はないと思われる。ここで、しばしば問題になるのは信仰を強調するローマ書と行いを強調するヤコブ書の主張が一見して対立しているように見えることである。しかし、ここで覚えるべきことは、「私たちが義とされて救われるのは信仰のみによるのであり、その信仰は信仰のみでは終わらない。」ということである。
  
4.聖書における信仰の位置づけ
   聖書の中でも良く知られている「いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」(?コリント13:13)とのパウロの言葉の通り、愛との対比において信仰の位置づけは明らかである。また、「愛によって働く信仰だけが大事なのです」(ガラテヤ5:6)
  とあるように、偽りのない信仰には「信仰の働き」(?テサロニケ1:3)が伴うものであり、それは「愛」(?テモテ1:5)である。

5.聖書(ヘブル11:1〜3)が教える信仰の内容
   今日の礼拝・奨励の主題聖句(ヘブル11:1〜3)には信仰の定義と
も言われる内容が記されている。それは「信仰とは希求されている実体の
確信であり、不可視的事実の確実性の確認である。実に、先導者たちが、
信仰により、実証されたとおりである。信仰によって私たちが理解するの
は、この世界が神の言によって完成され、従って、観察されていることが
生起するのは現象的なことによらない、ということである。」(私訳)

6.信仰の定義(ヘブル11:1)
   信仰とは客観的な実体や不可見的な事柄を主観的に確信することである。
信仰とは見えない神の存在を信じ、その神を求める者に報いられることを
信じることに他ならない。ここで、信仰の基盤が神の言にあることを覚え
たい。なぜなら、神の言は必ず成就するので神が約束された言が未だ成就
していないときも、それが必ず成就するという確信の根拠を、必ず約束を
守られる真実な神におくことこそ信仰に他ならないからである。

7.信仰者の実例(ヘブル11:2)
   信仰の歴史的な実証者とは、アベル、エノク、ノア、アブラハム、サラ、
イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセ、ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、
ダビデ、サムエル、その他の預言者たちであるが、それらの信仰の先輩に
学ぶために、私たちは聖書の全体を学ぶ必要があろう。さらに、聖書に名
前を記された人々のみでなく、教会史を通して証しされてきた信仰の先輩
に学ぶことも有益であろう。後で、ウエスレーの例を取り上げたい。
  
8.信仰の内容(ヘブル11:3)
   私たちが観察している世界は現象的な事柄では説明できず、それが神の言により創造されたことは信仰により理解する事柄である。これは、前述したように、可見的な世界が不可見的な神によって創造されたという信仰告白であって、それは科学的に実証できるものではない。しかし、それは非科学的な信仰告白ではない。科学の基盤も証明できない信念(信仰)に基づいていることは、周知の事柄である。
  
9.主イエスが誉められた信仰者
   新約聖書にでてくる百人隊長の信仰(マタイ8:5〜13)から学ぶことができる大切な教訓は、彼も隊長として部下の兵士に命令すれば部下がその命令に従うように、真の権威を持っておられる主イエスの命令(言葉)がその通り実現するという信仰である。また、カナン人の女(マタイ15:22〜28)のように、子犬が主人の食卓から落ちるパンくずをいただくように、謙遜に神の言を食べる信仰である。

10.ジョン・ウエスレーの信仰に学ぶ
   ウエスレーがアメリカ伝道に失敗して帰国途上の船上で嵐にあったときモラヴィア派のクリスチャンたちの信仰に感動した話は有名であるが、自らの信仰の弱さに悩んだウエスレーは、ツィツェンドルフがアメリカへ送ったモラヴィア派の神学者ペーター・ベーラーと出会ったとき極めて重要な教訓を学んだ。それは「信仰がわかるまで信仰について説教せよ」というものであった。その彼が英国と世界にあれほど影響を与えたのである。

11.信仰に関わる留意点
  信仰と知識の関係として信仰が知解を求める(信じるために知るとともに知るために信じる)ことを理解する必要があろう。また、信仰が単なる知識にとどまらず人格的な信頼であることは、ナイアガラの滝上の綱渡りの名人に自らの命を委ねられるかという自己反省により信任する信仰か否か試されるであろう。さらに、人は死に直面するときに、その信仰が現わされるので、信仰者の最後の言葉に学ぶ必要があろう。

12.信仰生活に関する留意点
   聖書信仰とは神の言に対する信仰である。神の言とは、その言が表現する実体としての神ご自身である。ちなみに、ヘブル語で言をダーバールというが、それは言とともに出来事を意味している。神の言が信仰と生活の唯一の規範であるというときに、信仰と生活は分離した別のものではなく一つの信仰生活である。すなわち、神の言は人の言葉(諸信仰告白を含む)によって曲げられてはならない信仰生活の唯一の規範である。
  
13.実際の信仰生活における留意点
   内村鑑三がアマースト大学に留学していたとき自らの信仰に悩み、学長から有益なアドバイスを受けたことは有名である。すなわち、自らが植えた苗木の根がどれだけ成長したかをチェックするために何度も根っこを掘り返さずに、目を自らの心の内よりも神に向けることである。今日、問題とされている「霊性」の探求においてさえ、その本質が「神に向かうこと」であると理解し納得することは信仰生活の助けになるに違いない。

14.信仰者の最後の言葉に学ぶ
   聖書的な神学者として知られているヘルマン・バーフィンクが死の床で語った有名な言葉は、大切なのは自らの著作ではなく信仰であるということであった。ギリシャ正教会の聖人の死の床に置いて、弟子たちの質問に対する返答は、自分はいま悔い改め始めたばかりであるという謙ったものであった。一書の人かつ信仰の人ウエスレーの最後の言葉は「最も幸いなことは神が共に居てくださることである」というものであった。
  
15.おわりに
   「信仰は聞くことから始まり、聞くことはキリストについてのみことばによる。」(ローマ10:17)おわりに、キリストの十字架上の7つの言の最初(ルカ23:34)と最後(ルカ23:46)をとくに覚えたい。
  信仰の創始者であるとともに完成者である(ヘブル12:2)キリストは、私たちの救い主であるとともに、ある意味で模範者でもある。私たちも、赦された者として人を赦し、死の床で自らの魂を神に委ねたい。

16.祈り
主よ「信じます。不信仰な私を助けてください。」(マルコ9:24)
以上
目がハート

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