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I.Kant カント 純粋理性批判 コミュの「われ思う」という命題のカントによる追究

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「われ思う」という命題はあらゆる悟性判断の形式に付随し、またあらゆるカテゴリーの運搬具としても働いている。
そうするとこの命題から行う推論は、まったく先験的な(経験の混入を一切排除する)悟性使用によってのみ行われうるのだということがわかる。
「われ思う」というこの命題をここに批判的な眼で追究してみよう。

(岩波文庫版・中64頁参照)

コメント(2)

カントは言う。

「われ思う」だけではいかなる対象も認識するわけではない。
何か対象を認識するということは、直観が与えられ、それを意識の統一のために規定することによって初めて成り立つことなのだ。
また、思考というものも、こうした意識の統一があって初めて成立する。
だから、「われ思う」を直接意識したと言っても、決して「われ在り」、私それ自体を認識したことにはならない。


さらっとすごいことを言っている。
さらにカントの追究を追ってみます。

「われ在り」と認識するとはどういうことかと言えば、まず直観に「われ」というものが与えられ、これを思考の機能によって規定されたものとして意識した時にこそそう言いうるのである。
したがって「われ思う」だけなら、まだ「われ」というものについての悟性概念(カテゴリー)は成立しておらず、そこには論理的機能が姿を現しているだけだ。
このような論理的機能は決して思考に認識の対象を与えるわけではない。
すなわち「われ」は決して認識の対象として与えられていない。

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