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意識の共有化コミュの自他を越える、、例?

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コメント(25)

おっと、、、エエーー
思想の共有て来ましたか、、、?
何も共有と言う事ではないのですが、、、、、それも思想とは、、、、?

いやあーー、やはり、なかなか難しいを感じますね。
そのエナジーは大切なものであります。
ただ、熱の差があるということでありましょう。

道具の性能や録り方云々等を語るのであればよいのでしょうが心や真理等の話は、政治や野球や宗教等の話と同じく興味ある同士でないとなかなか通じづらいところはあるかもしれんですね。

いずれにせよ応援しております。
そう、何時も言う事は同じです。
ココロは電池 エネルギーそのモノです。

>道具の性能や録り方云々等を語るのであればよいのでしょうが

この辺の理解の事でもですが。
実はこれなども、大きな目でみればヒントと言う事に思うのです。
道具はイロイロ教えてくれます。
それも、使いにくい物程多くを実は教えてくれていると思うのです。
それを、、、使いにくいを、、、自分で工夫し楽しみにする。
と言う事まで可能です。そう趣味は色々なノウハウを楽しみながら学ぶと言う事。
但し、、真剣に、、でないと、、何も見えないのですね。

成功よりも、失敗からの方が多くを学びます。同じです。当たり前。

>心や真理等の話は、政治や野球や宗教等の話と同じく興味ある同士でないとなかなか通じづらいところはあるかもしれんですね。

それがそうあってはイケナイと言う事なんですが。
違う温度差でないと、、、感じない。気が付かないと言う事です。

「そう言う意味合いを知る」言う事がこの現実でもあり、このNETでもある訳ですが。
なかなか、、、其処が表面化の前に終わってしまうのです。

だからと言って嘆いている訳ではないのですが、、、、ご心配をおかけする様です。

これは全てに言える事ですね。、、、思考を同じにすると言う事ではありませんね。

イケナイ、、もう寝ます、、、
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=25872691&comment_count=9&comm_id=12049
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=641655931&owner_id=348668&comment_count=2
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=10170374&comment_count=15&comm_id=15073
http://d.hatena.ne.jp/kazetabi/20080101/1199168549#c
http://d.hatena.ne.jp/kazetabi/20071227/1198729569#c


ここに全てがあるように感じた。

マサに違う考えこそ、そこにヒント、、、、、、でも誤解されると言う事。
それを大きな意味で教えているのが、、、、やはりアートだと感じる。

http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=25872691&comm_id=12049
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=10170374&comm_id=15073
久しぶりにTVをひねれば
昨日は、、、http://www.nhk.or.jp/bakumon/previous/ 哲学の先生が面白かった。
太田君なかなか鋭いではないか。

つい先ほど、、http://www.tbs.co.jp/program/rekishi_20080103.html
やはり継続には寛容性が鍵、、、と、、
何も変わっていない、、、、いや変ったか?、、
逆に概念がより強硬になってしまったのか?これはすでに滅びの姿ではないのか?
故に、すべてがヒト事、、、か?必然がもたらす結果と言う事。

、、、、マトモな音楽番組すらないか。

、、、政治問題もまるで、代弁する様にそこで終わりと言う
実に上手いプロデユース実にイメージで全てが収まると言う巧妙な仕掛、、、、。逆!最悪の、、、意識の共有になっているではないのか?
これも必然だろう、、、、
やはり新聞、マスメディアに触れない方が良いのかも知れない。

今年は、、、ますますTV離れしそうだ。
でも「爆門学問」は注目しよう。
http://www.nhk.or.jp/bakumon/book_dvd/
多分見てるだろうなーーーーと思いきや、其処に焦点が合っている
マサに現在の原因がみごとに露呈している。
http://d.hatena.ne.jp/kazetabi/20080103

私なんぞ書くよりも、、、マサに上手く言っている。
> 物事は、何一つ「それじたいで」価値を持つものではなく、何ものかと出会うことで、その「出会ったものと相補的に」活かし合うものだと私は思っている。

★マサに違う温度差故のコミュニケーションから物事は始まると言う事。
(ヨウするに、、、こう言う基本的な考え方の意識の共有と言う意味!
それを、逆に知る為に、教材としてのこの現実が目の前に有るのでは無いかとさえ思う。其の話題の本題など、知れた事にさえ思える。ココ数日の風旅の編集後記はすべてを実にわかり易く言えてる様に感じた。)

アートはマサに「違う考え方がある」と言う事を教えてくれている様に感じるのです。でも現実一般的には全く逆の様相になってしまった?


マサに、、、、、

> どんな素晴らしい小説や映画も、その「作品自体の価値を客観的に」論じても仕方ない。
>その作品の生命は、その作品と出会う人と「の間でのみ」相補的に共有される。そして、
>「自分が」「想定する目的を」得るために作品を見る人は、その作品と「出会えない」だろう。
>それ以上に大切なことは、出会いの「深さ」なのだと思う。

★そう質と言う事。そしてそれを磨くと言う事だろう。
現在この質と言う事が本当に希薄に思えるのです。
なぜなら感性なども同じく到底、枠にハマりきれないからです。


当然の様に、、、
> 社会的な目的志向性とは関係ない(無駄)ところで行っていることは、「予測不可能な未知との出会いを創出」する。その出会いの深さや豊かさが社会的な価値に通じるという「保証はないが、」
>社会的な価値や目的に「固執しすぎる」と出会いは縮減し、活性化した面白い人生にもなっていかないし、そうした人間の集まりである社会も活性化せず面白いものにもなっていかないだろうと思う。

>「風の旅人」は、この時代の権威的価値観に右へならへをするのではなく、言葉、映像、読者が出会い、相補的に活かし合える場として存在できればと思う。

★ナラバ、、、話し合いがあっても良いのではないかと想う。
ホント少ない。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=1206426&comm_id=98707&page=all

これで良いのか?とも想う、、、。
このNET社会では、未だここが広がって行かない!!
これは、既存のマスメディアからすると実に好都合だろう。
当然息の掛かったこれら宣伝塔としての役目の終焉は脅威だろう。
故に早くから危機感を抱いている。
でも、どうあがいてもユックリかも知れないが極自然にそれは崩れるだろう。これが摂理の動きだ。

これで想うのが、逆に、「あの鎖国」実に良かったと想う。独自の文化がモノのみごとに花開くと言う事、この現在の基礎を作っただろう。それも全てのヒトに意識せず遺伝子レベルまでにも刷り込まれている様に感じる。この危機感がこの現在を作ったエネルギーに成り得た気がする。それは現在眠ったママだ!マダ退化していない!
人為的鎖国は実に多くを残した様に想う。マサにヒトは馴される。

グローバル化はさて、、、、最悪にさえ想える。??
独自のモノは生まれにくくなる。
でも摂理は又離れる様に働くだろう、でもそう言う繰り返しかも知れない。

>自分の思考を積み重ねて、自分でつくることから始めなければ、何も変わらない。

そう。自分の中で感じ、悩み考え消化し、さてどうするか?
ある意味それも良いのは十分理解するが。

更に、、、
その後は?どうか?ここで更に違う温度差に出会うと言う事も必要だろうと想うのです。
つづく、、、
http://d.hatena.ne.jp/kazetabi/20080101
の中から、、、、このコミを作った最大の意味でもある。
このNETの使い方として以下。
言葉と言うモノを媒介として、のみコミニュケーションですから、冒頭にも書いた様に非常に難しいのは、解った事です。でも其処にこのNET故の特長を生かしここに可能性を見るのです。
それには、、唯一可能なのがヒトの気持ちそれも「自他を越える意識」だなと想うのです。

この自他を越える意識がこの現在を作っただろうと思うのです。
これはマサにエネルギーとして内面で渦巻き表に出たがると言う事。
其の結果がこの現在、、、善かれと、、、!


>そうした個人のバックグラウンドが十分に感じられるように言葉を発信したり、表現したりすること。つまり、言っている(表現している)ことが正しいとか間違っているとか新しいとか古いとかの分別はどうでもよく、

ここです!
個人のバックグランドなどどうでも良いと言う事。(何処の誰でも同じ土壌だと言う事。其処には色眼鏡のバイアスが一切ないと言う事が可能と言う事。このバイアスが物事を歪めると言う事!)
マサに 
★>その人自身の思考の軌跡が、十分に感じられるかどうか。
そうであれば、、、十分に可能だと想うのです。
ヨウするに、オウラカに、自分と他人の区別をしないと言う考え方
これ、、は無理!! そんな事不可能??

そうでしょうか?ココロを開けば誰でも可能です。誰もが持っている基本的な気持ちです。ココを刺激され、、、、ヒトは幸せなど感じる訳ですね。

故に逆に非常に危ういと言う事でもあります。
非常に利用され易いのです。ヒトの基本的な心理マサに摂理だからです。メディアはマサにココを当然巧妙に使っています。
故に自分と言うモノがしっかりしていないと!と言う事。
自分の未来の事だと、だから磨くと言う事。
、、それが自分だけに止まらないと言う事にも成る得ると言う事。

それがココでは唯一可能だと思うのです。
ソリャ、、、当然邪悪な意識も存在するでしょう。様は何でも有りで良いでしょう。
其の文面から、それを見抜くと言う事これを磨くと言う事をすれば良いと言う事。
送り手と、受け手はスベテは個別だと言う事。それは個々のココロの問題だと言う事。(自分は偽れないと言う事。何れ知ると言う事。)
但し、、、受け側で選択出来るうちの事ですが。永遠の問題は判断出来ない子供にどうするか?と言う事!


>、、まずは自分自身の多層さ、一筋縄でいかないところを認識するところから始める。
>、、つまり、自分のなかの認めたくない部分を割愛しているということだろう。
> 自分の多層な全体と付き合っていくことを避けていては、世界の見え方も変わらない。そのことを常に頭の片隅に置いておこうと思う。


>最初から思考の位相が異なっていることがわかっている対話も、自分の思考の刺激になるから行っているのです。

★故にヒントがわかり易く表面化しやすいのです。

>同時に、なぜ正しい主張というのは、バックグラウンドの異なる見知らぬ相手に対しても自分が正しいと思うことを認めさせたくなるものなのだろうかと思いながら。
 
>この対話は、言語というものを考えるうえで、私にはとても興味深い。
そう!
★ここに可能性を見るのです。故に普通のこの私が!私が!の概念では上手行くはずがないと言う事。
其の方法が「自他を越える意識」この謙虚さだと思うのです。
其の話題の思いを同じにすると言う意味では決してありません。
同じでは全く意味がないのです。「違うからこそ」、其処に意外性の花が開くと言う事。

つづく
>実はとても個人的なものなのだけど、共通語という社会的な言葉を使って考えているから、どこで誰にどう語ろうが、社会的なものだと思ってしまう。しかし、その共通語で指し示しているものが、たとえ同じ言葉を使っているとしても同一であるという保証はない。
>決して社会的なものではなく個人的なものなのだけど、本人はそれに気づいていない。

> 言葉における本来の社会性というのは、コミュニケーションを成立させるということ。全然違う言葉を言い合っていても、「うん、それわかる」とか、「ちょっとちがうな、でもそれって、こういうこと?」「きみがそう言いたいのは、ああ、そういうことがあるからだね」とかいう感覚が得られること。こうしたコミュニケーションを実現させるためには、使う言葉の正確さ以前の問題として、

>相手のバックグラウンドに思いをはせること、それを理解することが大事だろうと思う。

★これを更に、、一歩進めて考えると言う事。
其の個人と言うのではなく「自他」を越えた意識でと言う事。
そう逆に相手のバックグラウンドと言うバイアスの威力にそれは歪むと言う弊害があると言う事。

>なぜこの人はこういうことを言っているのだろうか?と。それを思うことなく、自分の頭のなかにある自分にとって正しいことを相手にぶつけても、コミュニケーションは成立しない。
>つまりそういう言葉の使い方は、社会的でない。でも、それを自覚せず、言葉の使い方が社会的でないのに、社会的に正しいことを語ろうとする”先生”は、とても多い。
>言っていることの社会性よりも、その本人のスタンスの社会性の方がよほど大事で、それを見失って語られるものは、どんなに立派そうなことでも全て個人的なことにすぎないと私は思っている。だから、
>その個人に興味が持てない場合は、話にも興味が持てない。


> ブログでも何でも書かれていることに意見を述べる場合は、なぜこの人はこういうことを書こうとしているのだろうと思いをはせたうえで行わないと、コミュニケーションは成立しない。

★そうして狭い意味での既設の概念で考えるんではなく一歩進んで、考えると言う事をしない限り何も変わらない。
それなくして
>なぜこの人はこういうことを書こうとしているのだろうと思いをはせ
と言う事も可能だろうと思うのです。

> 相手のバックグラウンドに関係なく、自分の個人的な考えを述べるために「場」に参入して、「問題意識の持ち方が違いますね」と言っても、そりゃ個人的な考えを一方的に言うことを目的に参入しているのだから、違って当然でしょ、となってしまう。それを受ける側からは、姿形も見えない、また考えに考え抜いている思考の軌跡も見えない、「問題意識という言葉の断片」だけしかないわけだし。


★と上辺を見ても仕方がないのです。
 
つづく、、、
>言葉における社会性は、言っていることの内容ではなく、また、正しいことを言っているか間違っていることを言っているかでもなく、コミュニケーションを成立させるために、
>誰に何をどのように言うか、ということに尽きると思う。

★そう!でも。
どうであれ受け取り方の考え方で大きく変わると言う事。
そこにはイマジネーションを働かす必要が生じる
それが現在不要にして来ている訳ですね。
故に
其処には「自他」を越える意識だと思う。
社会的であろうが個人的であろうがどうでも良いと思う。
当然!其処には大きな誤解を含んでいる。
故にそれを、、、
何故、、、そう想い其の様に言うのか?其の真意を聞くと言う事このキャッチボールが欠かせないだろうこの処理がジャマクサイ、文章が長い、、、
などと、、、細かな事じゃなくおおらかさが必要ではと思うのです。
様は、、そのココロ、気持ちの真意です。


>なぜ正しい主張というのは、バックグラウンドの異なる見知らぬ相手に対しても自分が正しいと思うことを認めさせたくなるものなのだろうかと思いながら。

>最近、僕もコメントのやりとりで、このことをつくづくと感じました。せめて、一般に流通していない、こんな本人にとっての「正しい主張」があったんだとサプライズがあれば、僕自身を悩ませるw、考えさせる展開もあるのですが、そういうことは本当に少ない。
> 正しさよりはその人の思考の過程(文体)が滲み出ていれば、その言葉は人を動かす。奇貨ですよ。

★マサにココです。そのココロです。
何処の誰でも良いと言う事!其処に気付きを引き出すヒントが見つける事が出来るか?と言う事。
様は受け側でそれに気が付くかと言う事。

>そうなんです。社会性があると思って主張していることが、実はとても個人的な自己満足にすぎず、自分の思考の過程(文体)という個人的だと思われることが、他者にとってサプライズとなって、それがゆえに社会性を持つということがあると思います。


★ヨウするにそれが社会性があるとか無いとか、などどうでも良い事に思う。
様は其処に納得出来る様なヒントがあるかどうか?
それが見つける事が出来る感性を持ち合わせているか?
そうありたいと感じるのか?どうか?
そして、、、どうするのか?
と言う事。


>コミュニケーションが成立しない言葉の氾濫。そういう傾向が強まると、その人自身の思考の過程など無視されて、、、、正しいか間違っているか、それだけが問われる。正しい価値というのは、常に相対的なものなのだけど、
>思考の過程を飛ばしてしまうと、

★マサにココ、ココロの動き!経過が大事。でも往々にしてそれは見えないのです。故にイマジネーションが出来る感性を磨く必要があると言う事。
其処に「無い」のではなく!
それを観る眼が出来ていないと言う事。それはアンチョコには見えないと言う事も知ると言う事。それにはNETの使い方にも注意と言う事。
こう言う事も、実は、、本ではなく、、実体験から知ると言う事。
やはりこれは失敗と言う所からしか磨かれないと言う事。
様は苦労からしかその見る目は育たないだろうと言う事。
近道は無いと言う事。でもこれはやはり肌身で感じるしかないと言う事。解るとは、、、、頭で解る事じゃないと言う事。

>どこか一点に基準が決められて、、、、、国に対する批判を繰り返しながら、
>実は、自分たちが、そういう状態のための準備を着々と進めている。

★マサに、、、
>私の問題意識の根は、むしろそういった部分にあります。

自分がどの様に感じどうするのか?

そして本じゃなくても同じ事が更に双方向で可能だと言う事。
危うさもある道具ではあるけれども使い方次第だと、、、
そして、、より多くのヒトにも其の可能性は広げられると想うのです。其の可能性は十分あると想うのです。
(当然其の逆にも広がる可能性もある訳です。)
何も強制される事じゃなく自分で考え、、、
個々に選択すれば良い事ですね。
http://d.hatena.ne.jp/kazetabi/20080108/1199785970#c
ひょんな事から
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=7818583&comment_count=22&comm_id=68853
第三者的に物事を評価しようという姿勢が素晴らしい。
(でもこんな所にも嫌がらせがあるのか????)

誰もが知っている。
そうココがあった!!これは、ある意味マサに自他を越えている。
★フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
久々に覗きココにその例がある。
さすが学ぶべき事だ。、、、、マサにである。頭が下がる。

(やはり違うと感じる所だ。、、でも他では、、、反面不の部分もあるが。差し引けばどうだろう??)

以下、、、、皆さん御存知、、
そう。前提として。以下
http://ja.wikipedia.org/wiki/Wikipedia:ウィキペディアについて 
、、から!  
(但し全ての そのアドレスには カタカナひらがなも全てをアドレスに貼付けないとそのHPにはゆかないので注意。)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
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>自由に複製や改変を認めるオープンコンテント方式を取っているので、
>誰もが記事の編集に参加できます。
>参加に特別な資格は必要ありません。
>ウィキペディアの基本方針を守っていただくだけでよいのです。

>日本語版では現在までに 456,917 項目の記事が作成されています。
>また記事の著作権はGFDLというライセンスに基づいており、
>寄稿された文章を誰もが一定の手続きのもとに改変・複製・再配布する権利が保証されています。
>そして次から次へと参加者が記事を加筆・修正し、常にその質を向上させています。
>参加者が変わっても育ち続けることができますから、
>将来は質も量も史上最大の百科事典へと成長する可能性があるわけです。
>ウィキペディアのプロジェクトはたくさんの人たちによって支えられています。
>大学教授や大学院生、その他のいろいろな専門家も数多く参加しています。
>編集や運営のルールは参加者の話し合いによって定められており、
>運営においては特に著作権侵害の問題が起きないよう
>厳しい注意が払われています。
>問題のある記事の削除などの業務は、
>参加者の中から立候補や推薦により選ばれた管理者がボランティアで行っています。
>そもそもこのウィキペディアのプロジェクトを始めたのはインターネット企業“Bomis”の最高経営責任者であった ジンボ・ウェールズであり、

>当初は彼の個人的なプロジェクトでした。その後、ウェールズは2003年6月に アメリカ合衆国に非営利団体である「ウィキメディア財団」を設立し、
>現在はこの財団がウィキペディアのプロジェクトを運営しています。
>資金面では多くの人々の善意の寄付とウェールズが2004年からCEOを務めるホスティングサービス企業 Wikia からの援助がこのプロジェクトを支えています。

>ウィキペディアには誰もが編集に参加できるため、
>掲載されている記事の質が低いのではないかと危惧される方もいらっしゃるかもしれません。
>しかし、ウィキペディアの記事は多くの参加者によってチェックされ、
>誤った記述やわかりにくい表現がどんどん訂正されていくことで、
>長期的にはその質を向上させることができるのです。
>こうしたよくある批判に対してはよくある批判への回答が用意されています。
>引用は著作権法の認める範囲で行うことができます。

と、、、改めて書く事ではないが!

久々に覗き、、、感動だ!!

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=747717395&owner_id=924411
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=27950608&comment_count=12&comm_id=1766729
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=17265012&comment_count=19&comm_id=1505654
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=27302261&comment_count=13&comm_id=7465

先日キース・ジャレット ピアノソロコンサートで記念にとパンフレット購入
(残念ながらモノクロ写真は無かった!)

中で目についた言葉。武満さんとキースの対談でのキースの言葉。
「主張はパーソナルであればあるほど、それはユニバーサルなのだ」
と、、、、、

マサにそれは 自他を越えると言う事ですね。(根源は同じです。)

http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=30401275&comment_count=5&comm_id=12049
ある意味 想像性の希薄、、、、欠落、、かな?
原因は お受験故の教育でしょうか?
概念の本当の意味を理解していない様に思えるのですが?
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=30401275&comm_id=12049
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=899202344&owner_id=924411


と言う様に一般化すると言う事が実に大事。
以下1から5までBS特集番組がここで観られる。
http://jp.youtube.com/watch?v=xC182bkNqv4&feature=related
http://jp.youtube.com/watch?v=WJt6ypD92N4&feature=related
http://jp.youtube.com/watch?v=qG-R9v73uk8&feature=related
http://jp.youtube.com/watch?v=Od04dnCZGG8&feature=related

再度書く

マサに「普通のヒトのモノの見方」に影響し自分で見つけると言う事。

その根底には不安!コンプレックス!好奇心!、、etc.
から来るストレス、、、それも良い意味でのストレス。
もっと根底にはそれら総合的に影響し出来た感性と言う事!
が影響し意味も無く!感じると言う事。
(それは無意識が作用している故自覚はないのは当然!それを感ジルには温度差が必要と言う事。違う考えに出会うと言う事。でしか解るハズが無い!!摂理!
故にその事を共有すると言う意味。でも何も考えを同じにする必要は無いと言う事逆だ!と言う事!)

★これが科学する最大の意味なんだろう!
具体的にモノを「作るよりも」遥かに大事と言う事。

何故なら全てのヒトに影響する考え方だからだ!
それは遥かに大きな可能性を生む!からだ!!
でも、これも当然と言う摂理に裏ズケされてると言う事。

様は「摂理」
でもこの摂理はこの我々の住む次元だけかもしれないと言う事?、、、、
そういう固定した概念すら無いと言うくらい広大な摂理なんだろうか?

マサに宇宙はこの心の中にこそ存在する。曼陀羅の世界だ!
そう考えると、、随分昔からヒトはそれを実は知っていたと言う事。
体感で感じていたんだと想える。
やはりヒトは進む?とは、、、、、老化する様に、、、
退化すると言う事なのかもしれない。
そして全ての事に退化がすでに進んでる。
と言う事。 故にそれは止める事は不可能!
故に
そう言う事を! 素朴に感じると言う事なんだろう。
考えるんじゃなく、やはり感じるだろう。

やはり 高僧の言葉『考えてはいけない!』なんだろう、、、、、、

マサに難しい現実とはかけ離れた事じゃないと言う事。
実に当たり前だと言う事!(当たり前は見えないと言う事!)

「ワープする宇宙」
これはワープするとはマサに思考はこれが自由に可能と言う事だろう。
思考はいとも簡単に時空を超える事が可能!
でもそれは 但し 「想うと言う事。」は 残念ながらマサに想う以上の事は出来ない!、、、、そこに偶然性に出会い気が付くと言う事!
でも気が付くとは、元々知っていると言う事。
但 具体的に感じてはいないダケの事。(実は既に知っている!)
それを邪魔するのは概念!
ココはその一切が消滅可能な世界でもある。
マサに「アラヤシキ」そのモノだと感じてる。
でも素晴らしい制度に想う。
あの今は亡きカール・セーガンもそうだった。
http://www.planetary.or.jp/Sagan/
このYouTubeでも生きている。
この様に一般のヒトにもわかり易くする事で自分の研究(既に自分じゃない)の理解を広め様は予算獲得と言う事も出来るし何はなくとも難しいと想われてる事が
この様に一般のヒトにも開かれると言う事。
ここに大きな可能性を観るのです。
又そう言う事が大事だと言う事をその本人自ら知ると言う事。
マサにこの制度はマサに共有化ではないの?
向こうでは自分が理解するだけではなくイカにヒトに納得させるか?
ココを評価されるそうです。、、、さて、、、??
どうなんでしょう、、、、、?

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