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キリスト教(聖書)への素朴な疑問コミュの七十人訳聖書を中心に、翻訳問題。

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コミュ内全体

アリステアス書簡によれば、エジプトのアレクサンドリア沖合いの島、
ファロス島で、ユダヤの長老たちが、
ヘブライ語聖書を翻訳しました。

このファロス島は、ホメロスの「オデュッセイア」にも登場する、有名な島です。

七十二人の長老たちは、朝早く、王に挨拶した後、午後三時まで翻訳します。
その後はティータイムで、アリステアスによれば、彼らはエジプト王と同じ料理が出されてました。

こんな至れり尽くせりの待遇の結果、有名は七十人訳聖書が出来ます。
しかし、この七十人訳聖書、新約聖書に山ほど引用されてる割には、
底本との違いは踏まえてもなお、意訳、自由訳、改竄の多い訳でした。

七十人訳をはじめ、聖書につきまとう翻訳の困難さについて、皆さんはどう思いますか。

コメント(57)

>>[16]

正教会は聖書委員会とかに人を出さないんですかね?
>>[18]

しないでしょうね。

典礼用語などもすべてニコライ訳の文言ですから

宗教は変化を嫌うものですからね。

それに日本の正教に、まともな聖書学者なんているんですかね。



>>[19]

〉まともな聖書学者

…昔は、正教会の神学者は、正教会の神学を学ぶために、
カトリックの神学校に留学してたそうですな。

今になって改善してるとは聞かないですが。
>>[20]

カトリックみたいに、「sola scriptura」の足もとを掬う必要性が正教にはなかったから学問的な面は遅れているのかもしれませんね。


>>[21]

オリゲネスとヒエロニムスを、
ルターは割と辛辣に批判してますなw
>>[22]

奴隷意志論では

"教会著作家のうちでオリゲネスやヒエロニムスほど、聖書を不適当にまた不条理に論究したものはほとんどほかにだれもいないと言ってよいからである。"
(p.305)
などと言っていましたね。


>>[23]

ルターは、オリゲネス以来の比喩解釈を徹底的に嫌いましたし、ねえ。
>>[24]

先程の引用のちょっと後に、それがわかる発言がありましたね。

>>[12]

こんばんは。

curia訳といいますと
即座にイメージしますのは
ノルマン王朝時代(イギリスの王朝 )
法廷、ローマ教皇庁でしょうかしら?(^^)

***

すみません。

誤読ししてしまいましたもので
[26] ゑ美路
2018年10月04日 21:55

>>[12] SGTさん

こんばんは。ーーー
ーーー?

***
は、削除いたしました。m(__)m

>>[27]

おばんです。

アキュラ訳は二世紀のユダヤ教によるギリシャ語訳の旧約聖書のことですね。

当時、キリスト教が前二世紀にユダヤ人によってギリシャ語に翻訳された七十人訳から処女降誕などの教義を形成していたので、ヘブライ語聖書と違うということから彼らによるギリシャ語訳が作られました。

ユダヤ教とキリスト教のこの論争はユスティノスとユダヤ人とリュフォンとの対話にも現れていますね。以下引用します。

"71 「しかし私は、あなた方の教師に信を置くことはできない。彼らは、エジプト王プトレマイオスと共にいた七十人の長老たちによって作られた翻訳が正しいことを認めるのを拒否して、別のを作ろうと企てる。私はあなたがたに次のことを注意してもらいたい。すなわち彼らは、プトレマイオスと共にいた七十人の長老たちによって作られた翻訳から多くの聖句を取り去ったが、それらは、この十字架にかけられた人物こそ神また人であり、十字架にかけられ死ぬと明示されていたことが立証される聖句である。しかし私は、これこそあなたがたの国民全体から否定される点であることを知っているので、これらの点は主張しまい。むしろ、あなた方によって認められている聖句によって私の義論を進めよう。なぜなら、あなたがたも私がこれまで参考に引いたものには同意するからである。ただし、あなたがたは『見よ、処女がみごもっている』ということばに反対して、これは『見よ、若い女がみごもっている』と読まれるべきだと言う。私は約束した。この預言者は、あなたがたが教えられたようにヒゼキヤをさすのでなく、この私のキリストをさすのだということを証明すると。さて、その証明に進もう。ここでトリュフォンが注意した。われわれは、まず、あなたがたに完全に抹殺されたと言い張る聖書資料を教えてくれるよう、要求すると」、"


新改訳2017をパラパラと読んだが、
山上の垂訓、
「霊において貧しい者」を、
「心の貧しい者」に、絶対に書かないといけない掟でもあるんですかね。

NIVとかでも普通に「poor in spirit 」なのに。
>>[29]

聖書協会の様に校訂本文から一から訳したものじゃないですからね。

新しい底本と福音派の学説に合わせた単なる全面改訂版ですからね。

そんなに期待してもねぇ。
>>[31]

やっぱり明治元訳や大正改訳(現文語訳の新約部分)の影響が強いということでしょうね。

田川建三でさえ、その影響を100%拭えているかというとそうではないですね。ただ、原語にないものは括弧書きにしているのと、詳しい註があるのがいいですね。

>>[32]

精神ないし魂と書いて「こころ」と読ませるとか、
なんか工夫出来そうなのに、
絶対にしないのだから、
相当強いんでしょうなあ。
>>[33]

田川訳の様に、素直に

"幸い、霊にて貧しい者、天の国はその者たちのものである。"
(田川訳)

と訳せばいいのですが、それができない訳者は原語より慣例なんでしょうね。


>>[34]

新共同訳みたいに、翻訳委員の誰もが誤訳だと判断しても、
売り上げを気にして誤訳のまま「心の貧しい者」にした、
つー方が慣例に縛られるよりマシなんですかねw
>>[35]

聖書協会の体質と聖書協会の御用学者の意識のレベルの低さでしょうね。

では、次。

信仰義認の義認は、ラテン語ではユスティフィカティオと言います。

これは、以前のカトリック教会の日本語では成義と訳され、つまり義に成ると理解されていた言葉です。

スコラ哲学では、愛によって形作られた信仰が叫ばれ、
義と認められるだけでは足りない、
義に成る事が必要だ、とされてきました。

ロマ書3:28は信仰義認を謳った節で、聖書の最重要節ですが、これはやはり「義に成る」とは読めない。
ただ、ケーゼマンは、「義とされるのは、信仰によるべきなのだ」と理解せよ、と主張します。
これだと成義も義認もおかしいのですが、ケーゼマンは、ヴィルケンス同様、
論争において判断を下す(28節冒頭の、「私たちは、こう思う」より)形になってるので、いわば理想論の提示になると主張するわけです。

今では、カトリック教会も成義ではなく義認と理解してるそうですが、
果たしてケーゼマンの主張は如何?
義とする、という意味のユスティフィカーレというラテン語は、古典にはなく、
キリスト教神学の為の造語です。

ユストゥム(義人)とファケレ(つくる)の合成語。
早い話、これは神学が先にあって、それに合致する言葉をでっち上げたわけです。

訳語に造語を使うのは、別に悪い事はありません。
共和国も哲学も造語です。
しかし、少なくともこの造語は、プロテスタントを離反させるのに、十分だったようですな。
有名な誤訳は、まあ、モーセの角、ですな。
ヴルガタを翻訳する時、ヒエロニムスが誤訳したわけです。

しかしヴルガタですから権威があり、
いわゆる反ユダヤ主義もあったんでしょうな。
だからミケランジェロの彫刻みたいに、角を生やしたモーセ像が作られたりした。

つーても、ヒエロニムスも自分で訳してて、
「えっ? 何故角が?」
とか疑問に思わなかったんでしょうか。
>>[39]

34:29モーセはそのあかしの板二枚を手にして、シナイ山から下ったが、その山を下ったとき、モーセは、さきに主と語ったゆえに、顔の皮が光を放っているのを知らなかった。 34:30アロンとイスラエルの人々とがみな、モーセを見ると、彼の顔の皮が光を放っていたので、彼らは恐れてこれに近づかなかった。

「光を放っている」を「角が生えている」に置き換えても、民衆の態度に違和感なかったからあっていると思ったんじゃないですか(笑)

>>[5]
Hσαιας   ιουδαιας LXX
7:14 δια τουτο δωσει κυριος  αυτος υμιν
σημειον/ ιδου η παρθενος εν γαστρι εξει και τεξεται υιον και καλεσεις το ονομα αυτου εμμανουηλ
***
それゆえ、主自身があなたにしるしを与える。 ほら、未婚の女が妊娠して、息子を産むよ、あなたはその名をエマニュエルと呼ぶことになるよ。

1)ιδου (注意を喚起する間投詞)さあ、ほら (動詞οραω見る語源)
2)παρθενος(パルテノス)
η(女性冠詞)+〜で 未婚の女性、処女
ο(男性冠詞)+〜で未婚の男性
>>[41]

まあ、ヘレニズム世界はユダヤと違い、
処女信仰が強かったので、
未婚の女性が未通じゃないとは考えてなかったでしょうな。

婚前交渉が当たり前な現代日本とも違うし。

[>>[39] イリア・エレオスさん
元 44番

http://www.drbo.org/x/d?b=lvb&bk=2&ch=34&l=29-#x

cumque descenderet Moses de monte Sinai tenebat duas tabulas testimonii et ignorabat quod cornuta esset facies sua ex consortio sermonis Dei
cumque 関係副詞
tenēre(待つ)の直説法未完了第三人称単数形。
tabulas(名詞tabulasの複数)石板、タブレット
testimonii (名詞testimoniumの所有格) 証し、証拠
ignorabat igoro(知らない、無視する)の三人称単数未完了
quod 接続詞 and
cornuta (女性名詞cornuta 第1変化形)角
聖書以外では一角獣や悪魔を表現するのに良く使われるようですが(^^;
sua 代名詞 三単元複数 彼ら それら 前のcornutaをさす。 女性形だから複数の角は間違いない。二本、三本?
イメージはユニコーンでなく悪魔だなあ(^^;
モーセがシナイ山から下った時、彼は証言の二つの石板を持ち、彼は主との対話により顔に角が生えたことを知らなかった。
>>[46]

つーか、良く考えたら、
やはりヒエロニムスに反ユダヤ主義的心理があったから、
角が生えてるのも寧ろ好都合とか思って訳したんですかね?
私はイエスの時代においてはヘブライ語聖書がユダヤ教の聖典であったことは確かで、史的イエス、イエスの時代の学びには重要ですが、キリスト教的にはセプチュアギンタ(LXX)がいわゆる旧約でも良いと思います。
新約聖書が形成された時代は既にコイネーギリシア語、セプチュアギンタの時代であったのは確かです。
ギリシア正教は結果的に案外間違いない気もします。

「前記のように一世紀頃までに、旧約聖書のすべての文書がギリシア語に翻訳され、これらを収めたLXXは、後のヘブル語(一部アラム語)旧約聖書に含まれないいくつかの文書を含むことになった。・・
LXXは最初期のキリスト教会によって採用され、ヘブル語聖書でなく、セプチュァギンタがキリスト教会の旧約聖書(後の正典の大きな部分)となった。」
>>[37]

>ロマ書3:28は信仰義認を謳った節で、聖書の最重要節ですが、これはやはり「義に成る」とは読めない。

本文は下記で良いかと思います。
リデル&スコットで必要な補足をします。
http://bibledbdata.org/onlinebibles/greek_1894_utf8/

3:28 λογιζομεθα ουν πιστει δικαιουσθαι ανθρωπον χωρις εργων νομου

ουν then
χωρις without
νομου(νομοςの属格) law、rule、custom
εργων(εργωの複数) work, project
すなわち、我々が考えるには、人はが義とされるのは律法や規則、慣習ではなく、ピスティス(パウロによるとイエスの神への信、真、まこと)によるのである。

共同訳
3:28 なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。
口語訳
3:28 わたしたちは、こう思う。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。
上記はおなじみですが。

前田訳
3:28 われらの考えでは、律法の行ないとは別に、人はまことによって義とされます。

「すなわち、われわれが考えるには、人間は律法の業績なしで、信によって義とされる」「新約聖書」(田川、作品社、2018年7月、325ページ)

参考
「パウロの言語宇宙」(清水哲朗、岩波)
https://www.google.co.jp/amp/s/gamp.ameblo.jp/wunderlich/entry-10223174778.html
パソコン通信で著者清水哲朗先生には発刊前後にも論議して頂いた。
>>[50]

>口語訳
3:28 わたしたちは、こう思う。
**
さて、ここで言う「わたしたち」が問題になるわけです。
「パウロの教会」「パウロの仲間、ヘレニスト」「パウロとイエス」
私はパウロとイエスだと思いますが?


>>[39] イリア・エレオスさん
ヒエロスムスの母語はラテン語ですが、第二外国語でギリシア語を学んでます。
ウルガタの底本はLXXやヘクサプラなどコイネーギリシア語で間違うはずが?

https://bibledatabase.net/html/septuagint/02_034.htm

34:29 ως δε κατεβαινεν μωυσης εκ του ορους και αι δυο πλακες επι των χειρων μωυση καταβαινοντος δε αυτου εκ του ορους μωυσης ουκ ηδει οτι δεδοξασται η οψις του χρωματος του προσωπου αυτου εν τω λαλειν αυτον αυτω

へブル語テキストは以下など
https://www.blueletterbible.org/kjv/exo/34/1/t_conc_84029
>>[51]

パウロとその賛同者、でしょうな。
十二使徒が賛成していたら、必ずそう書くだろうし。
ナザレのイエスが、自分を信じれば救われる、などというのも無理がある。
事あるごとにわざを強調してるのは彼自身。

バルトみたいに、イエスの信仰、と解釈した場合、
むしろ何故救われるのか理解不能。
ハバクク書はそういう文脈でもないし。
まあ、ペトロやヤコブグループに対立していた、パウロ一味、つーのが自然。
>>[55]

>バルトみたいに、イエスの信仰、と解釈した場合、

正確には、イエスの信仰というのは(訳者の信仰が入っており)、イエスの<信>だと思います。

つまり、イエスが一回性の十字架刑において罪の解放した故に、全時代の人類は救済されたという普遍救済主義がそこにあるわけです。

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