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キリスト教(聖書)への素朴な疑問コミュのエピファニーについて。

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元は顕現主日を指しますが、ここでは宗教史家ミルチア・エリアーデによる定義、
つまり顕現体験ないし宗教体験に限定します。

エリアーデは、エピファニーこそ宗教の根本にあるものと主張しました。

これは、キリスト教においては聖母顕現などですが、
もちろん「幽体離脱」体験や、
魔境に属する現象も含みます。

トピ主はエピファニーをほとんど経験したことがないのですが、
皆さんはどうですか。
あれば、それはどのようなものですか。

コメント(49)

孔子が好んだのは、易経。
これは、単なる占い書じゃなくて、人生における指南みたいな書でもあるんですな。

魂魄の内、地を這う魄は鬼になるとされる。

鬼なんかも、良く使われた異体字はツノがなくて、田に九に人。

イメージでも何故ツノがあるかと言えば、陰陽道で艮(うしとら)の方角が鬼門だったからに過ぎず、儒教とは関係ない。
余談だが、東京、台東区の入谷鬼子母神、つまり真源寺があります。

ここの門には入谷鬼子母神と書かれているのですが、
その鬼の字が、ツノのない田に九に人。

しかし、儒教由来で亡霊を意味する鬼にツノがつくのは、説文解字の篆書が由来で、
それ以前は、ツノのない鬼がデフォルト。

しかし、説文解字を参照にした康熙字典がツノのある鬼で、
正字とされたから、古い、ツノのない鬼が不思議に思われたそうで、
案内文には、「鬼子母神は、釈迦によって子育ての善神となったという由来からツノのない鬼の字を使っている」という、
的はずれも良いところの「説明」をしてます。

まあ、日本人の理解などこの程度です。
私も正確には神の顕現というのはキリストの一回で、あとは臨死?体験の光の世界や亡くなった母親の出現だけです。顕現を現象として捉えると、現代の脳科学のいう「クオリア」をもった経験としか良いようがないと思います。感覚的には現実だが、写真、デジカメ、には写らないと思います(したことない)。
少し、サイトを引用します。
http://www.tenryo.net/old/rel-1-5.htm
「「第一章 概説 ― 聖の構造と形態」で、エリアーデは彼の宗教理解の中心概念である「ヒエロファニー」について序論的な説明をしています。「ヒエロファニー」という語は、ギリシア語の《ヒエロス》(聖なる)と《ファイノマイ》(現れる)を合成したエリアーデの造語で、「聖なるものの顕現」という意味になりますが、定訳はなく直訳も不便ですので、宗教学の慣例に従い「ヒエロファニー」というカタ仮名書きを用います。前節までに見てきたように、「聖なるもの」は人間の宗教の歴史において神の観念よりも先にあるもので、宗教は「聖と俗」の対比をめぐる人間の営みであると言えます。その「聖なるもの」は何らかの形で俗なるものの中で人間に現れ、人間の体験となるのですが、エリアーデはその現れを「ヒエロファニー」と呼び、あらゆる宗教現象をヒエロファニーの観点から理解し説明しようとします。」
厳密に言うと、ヒエロファニーの内、神の顕現を伴うのをエピファニーと言うのですが、
あまり意味のない区別ですな。

聖母マリアは神ではないが、
聖母顕現は大地母神信仰なくしてはあり得ない。

で、場所、つまりトポスと記憶が結びつく。
まあ、ルルドの泉みたいなもんです。

エピファニー経験をした少女はかわいそうに、修道女にならざるを得ませんでした。
ルルドの泉は、エピファニーを経験した人間が、
神聖視される様子の典型例。

ベルナデッタは、最初、顕現した何物かを「アレ」と司祭に伝えるだけで、マリアとは認識してなかった。
で、彼女は、16回目の顕現の時に聞いたら
「アレ」はこう言ったそうな。

「私は無原罪の宿りである」

実際にマリアだったとしてもこんな返答する変な女がいるかw
恐らくは、司祭か何かに心理的にに誘導されたのを投影したのだろうが、
ともあれ、当時のカトリックの法王が教理化したマリアに合致したので、
顕現したのは聖母マリアとされた。

で、ルルドの泉がフィーバーすると、他の地域のカトリック教会も、庭にルルドを真似して洞窟を設けたりした。

トポスと記憶が結びついた、トピカの出現ですな。
エリアーデは、トピカに代表されるトーテムを、
中心のシンボリズムと呼んだ。

まあ、嘆きの壁やゴルゴダや岩のドームが典型ですが。

で、ベルナデッタだが、彼女自身もクローズアップされ、
何故か会ってもいないベルナデッタに、求婚する青年まで現れた。
それどころか、ベルナデッタの家まで来る人間も出始める。

普通の人生を歩めなくなったベルナデッタは、22歳の時に、ヌヴェール愛徳修道会に入り、雑用と看護をするというつまらない生活を送った挙句、35歳の若さで死んだ。
日本でも、思春期の少女が「霊感」と称して、幽霊が見えただのいう場合がある。

13歳の田舎の少女ベルナデッタが「アレ」を見た、と言うのも似たようなもんでしょう。

しかし、それが聖母マリアと解釈されてしまった為に、カトリックに祭り上げられ、1925年に列福、1933年に列聖された。

彼女自身が信仰の対象にされたわけね。

まあ、宗教の始まりはこれと似たようなもんでしょうな。
まあ、クザーヌスが提唱して、エリアーデが掘り起こした、反対の一致、ですな。

神と被造物、極大と極小が一致するのが反対の一致で、
アリストテレスの言うトピカ、
エリアーデの言う中心のシンボリズムに集約される。

そういや、「ルルドの泉で」つー映画がありましたな。
日本などはトピカの宝庫。
四国の巡礼行やらなにやら山ほどある。

で、一種の反対の一致も起こる。
例えば白山信仰は菊理姫を崇めてる事になってるが、
何故菊理姫なのか、合理的理由はないわけね。
クザーヌスが言うように、悟性では分からない。

ベルナデッタの「アレ」みたいなエピファニーがあって、
それが菊理姫と関連付けられたかもしれない。

まあ、異教の話は良く知りませんが。

同じく、カトリックもトピカとトーテムの宝庫。
何せ、そもそもカトリックの教会は、
異教の聖地や、聖遺物の保管場所に会堂を建てていってるわけですな。
まあ、ある意味カトリックはキリスト教の枠組みからははみ出てるわけだが、
それはまあ今更として。
>>[16]
私はヒエロファニーは主観的にあり、それが宗教の核心になる一つの要素だと思います。
ただ、超越的な女性の出現が「無原罪のやどり」に形成されていかがわしいものになる訳です。
もしかすると、パレスチナのみそぼらしい婦人だったかもしれないけど、ローマ教会のステレオタイプに合わせられる訳です。
>>[21]
>ベルナデッタ
にルチアも核になるものは超越体験、少なくてもクオリアをどもなったヒエロファニーだったと思いますが、おびただしい解釈が歪めている訳です。
ルチアは生前、言ったことと違うと教会と争いましたね、
>>[24]

ま、本人が「体験」した現象と、
それを利用したい組織の思惑が違うなんて、良くあること。

エピファニーて何か可愛い響きですねw
まるで小型犬の名称みたいだw
>>[19]
>13歳の田舎の少女ベルナデッタが「アレ」を見た
確かに、ルルドは最初はそうした内容だったと読みました。少女ベルナデッタには超越者に対する慈母神的なものがあったのかもしれない、オットー、ここはキリスト教スレだった、これくらいで^^;
通俗書の「ファチマの予言」(五島?)にはシスターが付加に清書したというような文があったと思います。
聖書と同じく編集者がいたわけかと思いました。

ファチマは幽霊とは違う感もしますが?
>>[27]

太陽がくるくる回った、つー表現を考えるに、
やはり、ただの幻でしょうなあ。
>>[26]

ラテン語のエピファニアの方が好きですかw

エピファニア・ドミニ、だとカトリックでは良く聞くでしょう。
>>[29]
うちの塾に来ている小4の女の子に聞いてみたら、
エピファニー……響きが可愛い
エピファニア……なんか変な病気の名前みたい

という感想が返ってきましたw
>>[30]

顕現主日が病気にされてしまいましたかw
>>[28]
少し前のテレビの特集番組では、今でもシスターたちが取ると、「太陽がくるくる回」るとかで、シスターがカメラ回しましたね。早い日食という感じでした。
私のような人間が神になり画像を処理??
>>[32]

集団催眠みたいなもんでしょう。
良くある事です。
>>[33]

ルチア自身には強いクオリアは伴っていたようですが、兄弟たちには姿が簿やっとして、声も風の囁きのようだったとか書いてあったと思います。

しかし、写真には映らないはずと思いました。
>>[34]

まあ、こっくりさんで十円玉が動くのと同じで、
それこそ自然音を無意識のうちに、無理やり脳が「声」に変換したんでしょう。
>>[33]

難問の解決の鍵は聖体拝領と祈りですからいやはや。
https://www.google.co.jp/url?sa=t&source=web&rct=j&url=https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%25E3%2583%2595%25E3%2582%25A1%25E3%2583%2586%25E3%2582%25A3%25E3%2583%259E%25E3%2581%25AE%25E8%2581%2596%25E6%25AF%258D&ved=2ahUKEwiatO-i6f3aAhVBkpQKHbSwDWMQFjAXegQIBxAB&usg=AOvVaw1g2E4rmydv9KapnQl3FaV9

しかし、聖体拝領を分餐・分配、祈りを信念・信条とすれば現実の問題解決に貢献するかなと思いました。
マリアがクローズアップされたのは、
ヤハウェやキリストが遠い存在で「暇な神」になったからで、
また、ベルナデッタが神聖化されたのは、やはりマリアより近い存在だから。

まあ、人間だから仕方ない。
ネットのサイトの中からまともそうなのから引用。
https://okakuro.org/lourdes/
私が認定しうる奇跡
≪蘇生する赤子

貧しい職工のジャン・ブオールには、一人息子であるジュスタンがいた。ジュスタンは、骨軟化症で生後2カ月経ってもゆりかごのなかで座ることもできなかった。3月2日午後、発熱性の消耗性疾患で食欲が減退し、もはや何も受け付けなくなった。赤子の衰弱はなはだしく、かかりつけ医のペリュ博士にももはや打つ手がなく、刻々と死が近づいていた。不自由な身体で一生を過ごすよりこの方が本人のために幸せだ、とジャンは悲嘆にくれる母親のクロワジーヌを慰めた。しかし、諦めきれないクロワジーヌは「この子はまだこと切れていない」とつぶやくと、赤子を前掛けに包み、洞窟を目指した。そして、「そんなことをしたら、子供を殺してしまうぞ」という周囲の人々の制止も聞かずに、子供を裸体のまま冷たい水につけた。15分間もつけたかと思うと、また大急ぎで家に戻って寝かしつけた。この様子の始終を、聖母の出現の際にベルナデットに立ち会ったドズー博士が見ていた。赤子は一言も発せず誰の目にも絶命したものと思われた。昏睡状態は翌朝まで続いたが、朝になると赤子は突如目を覚ましてさかんに乳を求めた。そして、3月4日には起き上がり室内を走り回るようになるまでに回復した。
アンリ・ラセールがブオール家を訪れると、病弱どころか、元気すぎて遊びに夢中で勉強しなくて困ると母親のクロワジーヌがこぼす、ジュスタン少年がそこにいた。≫
「泉が発見されてから150年以上経過しているが、教会側が「奇跡である」と認定したのは66件。年間を通して500万人以上が訪れるルルドにあって、66件というこの数字は少し心もとない。」
科学的には査証されたとは云えない。

ローマ教会(カトリック)の奇跡認定について
「治癒したと申告した患者の医師に問い合わせ、偽りがないか確認し、なおかつMRIなどの科学分析によって現代医学を越えた治癒……本当の奇跡だと証明されねばならないそうだ。神の奇跡を科学的に解明、というのもなんだか妙な感じではあるがそういう事らしい。
ちなみに1960年から2000年までの期間で認定されたのは4人だそうで、実にカラい」
信仰心、心理的な要素が大きいと思う。
日本でも病気は気の病とかくし、気、精神的なものも重視されている訳で。
>>[38]
ルルドはスペインとの国教ピレネー山脈の麓にある観光都市です。日本で云えば日光という所だと思います。
一泊以上の旅行が理想でもパリの観光案内所で申し込めます。 私が良く利用したオルリー空港からルルド空港へ便があります。

ルルドの水は確か少し前のキャンプ場の共同の水場、いや神社の清め場みたいなところで飲んだり、近くに沢山あるお土産店で事前購入したボトルに詰めます。
私も500ml.は飲みました。(^^;
日本でも申し込めますね。料金が何か?
https://www.air-travel-corp.co.jp/repo_sights09.html
>>[38]
ルルドの水の科学的解明
比較的まともなもの。
http://www.naruhodo-genki.com/lourdes.html
ゲルマニウム電解水であり、活性水素が多いといった複合的な要素から「治癒」がされるというのが現在の見解。私は勿論、聖母出現伝承によるブラシーボ効果も多大とと思います。
>>[41]

〉プラシボ

ある話を思い出しました。

ある老婆が、真言をとなえて、病を癒してた。
その真言は、「洗い桶、三文」だった。

通り縋りの密教僧が、それを聞いて、老婆に言った。
「違う。大日如来のの真言は、『あびらうんけん』だ」

そこで老婆は、真言を「あびらうんけん」に変えたが、
二度と他人の病を癒す事が出来なくなったそうな。
>>[42]
今日もロードバイクの練習に合流して、谷川の路を走ってきました。昼は恒例のバーベキューで帰りは自主行動でした。

論文には書けない事項になりますが。
神癒や奇跡も自己経験的に確認すると真偽が自分なりに納得できると思います。
最初から否定して受けないと、全否定になるわけです。経験できるものは全部確かめたほうがと思います。
結果として私の場合は部分肯定であるわけですが。
>>[42]
プロテスタントが、聖母の出現をいかがわしいとするのは尤もだと思います。
ルルドもファチマも伝承を遡ると、女性的超越者であったことまでは確かと私は想定します。しかも、クオリアをもった遭遇者は一人だけということに特色があります。
聖母と判定しているのは相談にのったり、清書を手伝ったローマ教会の人物という気がします。
ここから、事実はヒエロファニーでなく、エピファニーの可能性が出てきます。
地母神の聖母の姿でのエピファニーの可能性もあります。
勿論、色々な超越者がいるのでなく、これは被顕現者側の見え方ですが。
>>[44]
>相談にのったり、清書を手伝ったローマ教会の人物という気がします。

私にも論文など書くとこうした経験はあります。
西洋古典の先生たちの論をどう思うかね、アリア君。
(ニュアンスはそうした考えに染まってないか)

事実を探求する歴史批判としてはかなりの完成度と思います。ただ、顕現現象、癒しをふくめ奇跡の現象面に全く触れてないことに問題があります。(ここでこのトピの)エリアーデ は宗教の第一の特質として、ヒエロファニー、エピファニーをあげてます。
もう一つ、彼らはイエスのローマによる十字架刑から逃げてます。西洋史のD先生は不完全ながら取り上げ・。
「アマデウス」という映画を見たかね。アリア君。

神が愛するモーツアルトを凡庸なサリエリが殺すという筋ですね。神の選びの話だったかと?
シナイの聖グレゴリウス (1260頃 – 1346) 「静寂主義者への教え」 

・・・あるいは霊的なもののどちらかを内的、外的に見ているとしたら、それがたとえキリストのイメージ、天使や聖人のイメージではあっても、いや、想像上の光が心一面に浸透するとしても、決してそれを受け入れてはならない。心には本来、夢想するという自然の能力があり、気を使って注意を払わない者たちの内に、心が願望するものの幻想的なイメージを容易に造り上げることができ、精神的禍をもたらす。善いこと、また悪いことの記憶も、しばしば突然にそうしたイメージを心に刻み込み、こうしてそれを夢想に誘い込む。その時、この誘惑を受ける者は、静寂主義者ではなく、白昼夢にふける者となり果てる。それ故、注意せよ。外見にはどんなに善いものであろうと、老練者に尋ね、吟味しないうちは、何かを信じるようにとの誘いにのってはならぬ。そうすれば禍を避けられるであろう。そうしたイメージを常に嫌い、心を無色、無形、イメージのない状態にしておくようにせよ。

(「修徳の実践 心の祈り「イエスへの祈り」に関する著述」 エンデルレ書店) 

信仰の話としてはイエス・キリストも神の顕現であるという解釈もあるようです。
https://www.google.co.jp/amp/s/www.biblegateway.com/blog/2017/01/epiphany-god-revealed-to-the-world-through-jesus-christ/amp/
>>[48]

それじゃ様態論か仮現論ですな。

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