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キリスト教(聖書)への素朴な疑問コミュの主の祈りについて。

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コミュ内全体

ルドルフ・ボーレンは言いました。

「『御国が来ますように』と祈る時、われわれは何を望んでいるのか」

ボーレンによれば、人は皆自分の「国」を持っているそうな。

愛情深い目で食器を洗う主婦にとっては、
それこそが彼女の国。
自分の顧客リストを眺めている営業マンにとっては、
それこそが彼の国。

自分が主人公でいられるような生活の場、
それが自分の国であり、大なり小なり、皆自分の国を持っています。

主の祈りで、「御国が来ますように」と祈るとき、
そういう自分の国を否定して、神の国の到来を願うわけです。
しかし、皆さん、「自分の国」を否定することを望んで祈ってますか。

これと対極にあるのが、ひと昔前、アメリカで話題になった「ヤベツの祈り」です。
歴代誌上4:10を元にしたこの祈りは、まさに、
「私の地境を広げて下さい」と祈るわけです。

皆さんは主日礼拝で主の祈りを祈る時、
「自分の国」を否定してますか。
やはり、「私の地境を広げて下さい」と心の中で願ってませんか。

その他、主の祈りについての質問トピです。

コメント(28)

カール・バルトは、教会の堕落を二種類に分けて論じました。

一つは自己満足の教会。
神の国を代表すると自惚れてる教会です。

もう一つは、世俗化した教会。
教会の使命に消極的で、社交場でしかない教会です。

このような体制をバルトは「浮遊体制」と呼びました。

さて、ジュネーブ並びにウェストミンスター教理問答では、人間の生きる目標が明示されてます。

すなわち、「人間の生の目標は、神に栄光を帰すことである」。

果たして、皆さんは、主の祈りを祈る時、
それまでの人生で神に栄光を帰すような事を目標にしてきたと、
胸を張って、
「御名が崇められますように」と願ってますか。
ヴァルター・リュティによれば、
キリスト教の苦悩はただ一つ、
神を半分しか問題にしないこと、だそうです。

すなわち、「われわれは確かに理性と感情の中に神を受け入れてはいるが、
しかし、神にわれわれの意志を委ねる気持ちはないという態度となって表れてくる。

われわれはやはり自分の意志を自分自身のためにとって置きたいのである」。

D写本系のいくつかでは、「御心が、天に行なわれるように、地にも行なわれますように」の、
「ように」(ホース)を表す言葉が省かれてます。
つまり、神の意志は天においても地のごとく、未完成であると解釈され得る文章になってるわけですな。

皆さんは、この写本を写した写本字生のように、神の意志は不完全で、
自分を委ねるには足らないと考えますか、
それとも否か。
さて、「パン」を意味するギリシャ語のアルトスは、
ヘブライ聖書のレヘム、アラム語のラーマと同じく、
新約聖書では生活の資一般を表します
(第二テッサロニケ3:12など)。

その意味で、ルターが、「私たちに日毎のパンを今日もお与え下さい」ね「パン」を、
地上で人間が生きるのに必要な全てのものと解釈したのは正しいわけです。

ドイツ語訳聖書などでは、この部分が、
「私たちが生きるのに必要なものを今日もお与え下さい」
と表現されてるものもあります。

さて、日毎を表すエピウーシオスの解釈はオリゲネスやヒエロニムスなどが論じてますが、
最近の新約聖書学者の解釈では、
エジプトのパピルスに書かれたエピウシオン(一日分の割り当て食料を表す)から、
これは一日に必要にして十分な量、すなわち「足るを知る」事を示しているとされる傾向が強いんですな。

皆さんは、主の祈りを祈る時、自分にふさわしい分だけを望んでますか。
それとも、「私の地境を広げて下さい」とやはり考えてますか。
さて、スイスの宗教改革者ツヴィングリは、
主の祈りを祈る時、いつも同じところで止まってしまったそうです。

すなわち、「私たちに負い目のある者を赦しましたように、
私たちの負い目をもお赦し下さい」。

とても、神が罪人を赦すようには、彼は自分に対する負い目を の持ち主を赦せなかったて、つまりそういうことですな。

皆さんは、神が自分を赦したように、自分に負い目のある者を赦してますか。
マルティン・ルターは、誘惑を、左からのものと、
右からのものとに分類しました。

左からのものは、人間が弱い状況、つまり、「病気、貧困、不名誉、また全て人間の痛みとなるもの、特に人間の意志や計画、善意、忠告、言葉、わざなとが認められず、軽蔑される時のこと」です。

自分の心が頑なになり、神を呪ったり、自分を無力な犠牲者と言い、責任を回避しようとする誘惑。

右からの誘惑は、強者の状況、すなわち、
「不貞、肉欲、虚栄、貪欲、虚しい栄誉」に魅了されること。

さて、ギリシャ語でペイラスモスと呼ばれる事態は、右からも左からも来ます。
ペイラスモスには二つの意味があり、一つは試練たるプロバティオ、もう一つは誘惑たりテンタティオ。
ルターらによれば、神は人間を誘惑しないが、罰しようとした人々を誘惑の状況の中で見捨てるわけです。

オリゲネスは、六つ目の願いを、「われわれは誘惑からの救いを願う。
しかし、それは、そもそも誘惑に遭わないということではなく、…われわれが誘惑に陥らないようにということである。
誘惑に陥った者は、私の考えでは、誘惑の中にラーマ入ったのである」。

皆さんは、「私たちを誘惑に遭わせず」と祈る時、
誘惑の中にはいないと断言できますか。
さて、ギリシャ語リュオマイは、救助するという意味で、
実は新約聖書はおろか、他の書物でもあまり見ない言葉です。

またギリシャ語のポネロス、つまり「悪い」は、普遍的には中性名詞として、抽象概念として用いられます。

しかし、新約聖書特有の言い回しで、男性名詞で「悪い者」と述べられてる箇所があります。
この場合はサタンを意味します。

オリゲネスからナジアンゾスのグレゴリオス、マクシモスに至るまで、
「悪しき者からお救い下さい」は、男性名詞のポネロス、すなわち悪魔やサタンだと解釈しました。

しかし、ラテン教父、ま、アウグスティヌスらは中性名詞としての悪の意味だと解釈し、
宗教改革者たちも大体アウグスティヌス流の解釈です。
ま、カルヴァンはどっちの解釈をとろうが「事柄それ自体はほとんど問題にならない」と書いてますが。

リュティやエーベリングに至れば、悪とは、すなわち「この世の悲惨、戦争、飢饉、疫病、地震」や、
「苦悩の山々」であり、
「私たちを悪い者から救って下さい」と言う時、
「全ての人々の名で、世界の名で」、「たとえばアウシュビッツのガス室」などの過去の出来事を含めて、
世界に存在する苦しみから救って下さいと語っている、とのこと。

皆さんは、主の祈りを祈る時、世界にある「苦悩の山々」や「過去の陰惨な出来事」に代表される悪から、全ての人々の名で救って下さい、と祈ってますか。
×〉誘惑の中にラーマ入ったのである

◯〉誘惑の中に入ったのである。

「日毎のパン」を霊的なものと解釈する教派もありますな。
>「『御国が来ますように』と祈る時、われわれは何を望んでいるのか」

文語体の「主の祈り」は本当によろしくないですね。教会の式文で採用されているので、教会の礼拝では用いますが、普段はギリシャ語か直訳で祈っていますね。

>皆さんは主日礼拝で主の祈りを祈る時、
>「自分の国」を否定してますか。
>やはり、「私の地境を広げて下さい」と心の中で願ってませんか。

とくに自分の国は意識したことがないですね。  

祈りにあるのように「あなたの国」ということを意識していますね。


>>[8]

〉文語訳

まあ、確かに、あの文章だと色々おかしい感じがしますなあ。
しかし、ギリシャ語で祈る事は、僕はさすがにしないですなあw
一言唱えればぁ。
・・・。

どこかで聞いたフレーズですなぁ。
つーか、原文は、
「日毎のパンを今日私たちにお与え下さい」と、
「私たちの負い目を赦して下さる…」の間に、
「そして」が入るんですな。

パンを求める祈りは、神に対する願い側にある、のですかね。

モラビア兄弟団の注釈には、ルター的な物質の他に、
パンには「サクラメント」、つまり聖餐が入るとしてます。

ヒエロニムスの主張みたいな話ですが、どうですかね。

ルターは、若い時は、「パン」を霊的な賜物と解釈してた。
歳をとって、意見を変えたんですな。
>>[8]

御国ってのも、一般的にいう天国 つまり死後の行き先の意味になってまして、主の祈り自体が往生念仏と誤解されやすいですね。
歴史のイエスにおいては、御国は、神の国、神の支配を指していたと思います。だから、御国を来たらせたまえ、だと思います。
>>[12]

弥陀の本願から来る称名念仏と普通の日本語で意味の読み取れる「主の祈り」とを混同する人はいないでしょう。

まるっきり違いますから宗教に明るくない人でも、そんな間違いはしないですし、入門書(マンガタイプ含む)なんかを読んでいれば、なお間違えたりはしないでしょうね。

「み国」という明治以来のキリスト教用語より「あなたの国」「あなたの王国」などと直訳体の方が、より一般には分かりやすいでしょうね。聖書協会の新共同訳に代わるあたらしい翻訳である「標準訳」のパイロット版では、この個所は古いままでしたね。

標準訳で、「御名の崇められんことを」の個所のみ「御名が聖とされますように」と原文に近くなっているのは、半歩ばかり進歩くらいですかね。
>>[14]

>弥陀の本願から来る称名念仏と普通の日本語で意味の読み取れる「主の祈り」とを混同する人はいないでしょう。

普通はわかりそうですけど、こちらカトリックの定番「ロザリオの祈り」は、アヴェ・マリアと主の祈りと栄唱の三点セットですから、もう面倒くさいので「ほぼ念仏」で良いことにしていますw

主の祈りの翻訳で重要なのは現行のカトリック版では「私たちの罪をおゆるし下さい。私たちも人をゆるします」となっていて、原文の「我らがゆるすごとく」という、一般的な日本語での恩着せがましい語感をやめた点ですね。
>>[15]

そういわれれば、カトリック信徒で、祈祷書と信心書で事足りるとする人ならあまり区別がつかない人もあるやもしれませんね。

南無耶蘇基督 にしたてみたらどうです(笑)(そう言えば昔、井上洋治神父の著書だったかで「南無アッバ」とかいう文庫本を読んだことがありましたね)

明治大正期の言葉としてはそれでよかったのかもしれませんが、もう平成も終わるのですから、ちゃんとした訳にしてもらいたいですね。
よく、「赦す」を「許す」と勘違いしてる人がいますが、
「赦す」(アフィエナイ)は、法律や経済で良く使われるギリシャ語で、
経済的な束縛や義務、負債を「免除する」、「解除する」と言う意味です。

罪を神に対する負債と見るのは後期ユダヤ教の思想的特徴で、
たとえばラビ・アキバなんかは、
「我らの父、我らの王よ。
あなたの慈しみによって、我らの全ての借用証書を無ものにしたまえ」と祈ってます。

ところで、ヴォルテールは、次の言葉を言ったとされます。

「神はわたしの罪を赦して下さる。
それが神の仕事である」。

みなさんは
ヴォルテールのこの言葉に賛成ですか反対ですか。
>>[17]

>「神はわたしの罪を赦して下さる。
それが神の仕事である」。


私はその通りだと思います。
ヴォルテールは名言を沢山残してますね。


少しことなりますが、他にも「罪を犯すのが人間、赦すのが神」という言葉もありますね。
>>[17]

主の平和!
前半の言葉のようなことは最初の教会の受洗講座「主の祈り」?で習いました。
「神はわたしの罪を赦して下さる。
後半は神が了解しているかは不明です。
現代論理学では命題とならないので、証明できないですが。
アリストテレス的論理学では可能性かもしれませんね。
それが神の仕事である」。
「罪の赦し」は、二度と罪を犯さない決意を引き出すが、「罪の許し」だと何度でも繰り返して構わない意味になるw
まことに、まことに、はっきりと言います( ^-^)ノ∠※。.:*:・'°☆

毎日腹黒いところを見ても、7の70倍許して、赦してもらう( ^-^)ノ∠※。.:*:・'°☆

はやく、証拠を(笑)( ^-^)ノ∠※。.:*:・'°☆
これ、これ、毎日提出している証拠と、違う証拠を出さないように(笑)( ^-^)ノ∠※。.:*:・'°☆
紛れもない数々の証拠だろうにw

それで不満なら、これでどうだ?w
こういう証拠もあるぞw

http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=16309&id=58996240&from=cross_search

>>[27]

はいだしょうこ

「おかあさんといっしょ」で歌のお姉さんをやっていたw

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