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キリスト教(聖書)への素朴な疑問コミュの教派渡り鳥〜風雪ながれ旅

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コミュ内全体

キリスト教というのは、異端と呼ばれている人々も含めて星の数ほど教派がありますが、どこの教会で導かれるかはイエス様がお決めになることで、その教職者の働きとか勧誘者の働きもあるのでしょうけど、それも含めて神様のみこころで決まることです。

それなのに、それなのに、あちこちの教派を渡り歩いてさっぱり信仰が定まらないばかりかどんどん迷走していって、「いっそのこと仏教にでも行けば?」という状態のヒトがいるようです。

一応の信仰生活が定着した信者は、そのような人たちにどのように接すればよいのでしょう。

コメント(17)

さて、この僕ですが最初に扉を叩いた教会は「日本ナザレン教団」となります。福音派であるとか福音派でないとか言われていますが、僕にとってはどうでも良いことです。

転勤の都合でその教会を離れ、田舎町にあった日本基督教団の扉を叩いてそこで洗礼を受けました。

日本基督教団は信者数も教会数も多いので、教会によってやっていることが違い、それこそ「聖書命」で俗世に関心のない教会もあれば、その反対に「教会の使命は社会運動である」として礼拝はおざなりという教会もあります。

そうこうしているうちに、結局「聖餐のもとに一致する」のがいちばん良いのだと考えてカトリックに改宗して現在に至ります。

そして現在、ナザレン教団にも日本基督教団にも知り合いの牧師さんがいて仲良くしていただいており、御聖体がほしくなったら平日または土曜日のわりと空いている時間の御ミサにあずかっています。歌ミサではない場合には、ほぼ30分で祭儀は終わりますので大変ありがたいです。
もちろん、バプテストであるとかルーテルであるとか聖公会とかの信者さんがいれば仲良くさせていただきたいと思っていますが、なぜか嫌われる傾向があります。

ついでに言えば、僕が家電量販店に行ったら「いらっしゃいませ」すら言われずに店員が避けてしまうのですが、なにか嫌われオーラでも出しているんでしょうか??
そ〜言うの、教会ジプシーって言うと思ってた。
うちの親がそうだったな。コロコロ教会かえて、あっちゃこっちゃのボクスィに洗脳されまくってたなぁ。
ボクスィどもの言われるがままにした献金総額はいくらなんだろ?(-。-)y-~
静まるって、わたしこそ、神である事を知れ。

だと、存じます。

少し、この静まっての部分にスポットを当ててみますと

詩46篇
「やめる、静まる」 רָפָה ラーファー
信頼ですが。

10節「やめよ。私が神であることを知れ。」(新改訳)
10節「静まって、わたしこそ神であることを知れ。」(口語訳)
10節「力を捨てよ、知れ。わたしは神。」(新共同訳)
10節「心を静めて・・知れ。」(関根訳)
10節 Be still, and know that I am God (NKJV)
10節 "Stop fighting," he says, "and know that I am God, (TEV)
Keyword; 
「やめる、静まる」  be still, stop, 
37:8/46:10/138:8

詩46篇には二つの命令がる事がわかりますね。
この命令は神の招きと言っても良いかもしれませんね。(^^)

いつの時代においても、神の子どもに対する重要な神の招きですね。
一つ目には8節の「来て、見よ。」、
もう一つ目には10節の
「やめよ。知れ」です。
この二つは密接なつながりを持っている御言葉ですね。

まず、「来て」「見る」こと。
「見る」とは「ハーザー」(חָזָה)という言葉なのですが
多くの人々には隠されていることを霊の目で見ることを意味しています。
そのための内実は、「静まって」(「ラーフアー」רָפָה)、 神を「知る」(「ヤーダ」יָדַע)のことですね。
「やめよ」と訳された「ラーファー」(רָפָה)は
「失う、消え失せる、なえる、弱くする、静まる、捨てる、手を引く、手放す、猶予を与える、降伏する、
抵抗するのをやめよ。」といった意味がありますよ。
忙しく、落ち着きがなく、止まることを知らない活動に満ちた現代社会において、
この「静まる」ことは決して容易ではありませんが。
ひとたび「忙しさというブラックホール」の中に吸い込まれれば、
そこから脱出することも容易ではありませんけれども
ですが、神を信じる者にとってはこの「静まる」という意味を、決して消極的なことではなく、
むしろ神とのより親密なかかわり、
より深いかかわりを持つという積極的信頼を意味を教えていますね。
ゆっくりとした時間の中で過ごす沈黙は、
私たちのたましいの刃を研ぎ澄ませて、神から来るかすかな合図に対して敏感にしてくれますね。(^^)

「ゆっくり・ゆったり、ゆたかに」という「三ゆ」の心の構えが必要な事、
またあるいは、さらにもうひとつ重ねて
「ゆるがずに」という「四ゆ」の構えは、神の召しを実現させる心の構えですね。(^^)
しかもそれは、訓練なしには絶対に育ちません。

「静まること」「沈黙すること」「止まること」「頑張ることをやめること」「力を捨てること」
このことによってこそ、自己の言い分から解放されてこそ
神とのより深い交わりが保証されますよね。(^^)

その意味では「静まり」とは「深まり」と、ここで教えいます事は同義ですね。

預言者イザヤは警告していますね。
「神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。
『立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、
落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。』
しかし、あなたがたは、これを望まなかった。」(30章15節)
と。
それゆえに、自らの生活をシンプルなものとしてしまい、
「静まって、わたしこそ神であることを知れ。」(口語訳)という
神の招き(命令)を新たな思いで見直したいものですね。

驚く神の御言葉によって、新になられます事を
心から、お祈り申し上げます。m(__)mお邪魔をしました♪(^^)
>>[2]

僕は最初からルーテルで、他には浮気しなかったから良く分からないですが、
そういう人は多分、自分にあった共同体を求めてるんでしょうなあ。

ルーテルの牧師や信徒は、時として、「ルーサランというより、クリスチャンそのもの」とか言われて教派性を感じさせないきらいがあるそうですが、
まあ、これは逆で、ルターがクリスチャン像を形成してしまった事によるのでしょう。

近所にあった、ルーテルではない教派の教会は閉鎖されたそうで、
教会ジプシーはこの時代では次を探すのが大変そうですな。
ご自分の魂は

自分をお造りくださいました御方に

お任せなさる事が

一番の得策かとも。

あの人、この人でなく・・(^m^;


>>[5]

クリスチャンそのものって、どんなイメージなんでしょうね。

祈って賛美してというだけならどこのクリスチャンでも同じではないかと思いのですが、さすがに気持ちの悪い優男からGod bless you〜などといって握手を求められたら引いてしまいますね。

Twitterで有名になってマンガにもなった「ニーチェ先生」は、どうも神様にイカれた両親を見て呆れ果てたというのが発端であるらしいですね。
どこのキリスト教共同体にも馴染めない人を救う神学はあるのだろうか

無神論的キリスト教とかいうのもありますが、これだと道徳みたいになりますし、信仰さえあればなんでも良いというのも妄信的で困ります。

荒木貞夫が陸相だった時代に、「第一次世界大戦後の総力戦は金がかかりすぎるので最も効率の良い戦争は竹槍で戦うことだ」と言ったらしいのですが、当時としてはそれなりに受け入れられた精神主義だったのですが、まさか戦争末期に万策窮して竹槍を使うとはご本人も思わなかったでしょう。

「信仰だけで救われる」というのは500年前にルターが言った画期的な神学だったのですが、あくまでもカトリックがいう「教会のそとに救いなし」へのアンチだと思いますので、教会であれ会社であれ組織設計を甘く見て財政も運営も考えない信仰は困りますね。
>>[9]

御意

カトリックにもプロテスタント各派にも寄る辺がない人にはスピリチュアル系が良いのだと思います。

僕はカトリック信者です。アーメン。
>>[10]

とは言っても、ヨーロッパなんかでも、
「神を信じないし教会にも行かないが、聖書に書かれている教えは信奉してる」つー人も少なくないそうで。

まあ、熱心に教会に行くのはアメリカ人ぐらいでしょうけど。
>>[8]
無教会主義とユニテリアンユニバーサル(UU)だと思いますが、無教会主義は高度な聖研をしますので信仰ではないですが学問的な学びができないと難しいと思います。UUは特に信条をもたず、信仰は個人任せで集会は社会派のような講演会、音楽礼拝が中心のようです。転会者は「以前の教派−自分が嫌いなところ 」でやっていけますが、初心者が最初に訪れると良く解らないところありそうです。

そこでやはり、なるべく広い視点で受け取れる礼拝を行い、主の食事をする超教派教会の必要があると思います。入信儀礼は「入会スピーチ」とか。
>>[8]

逆に、甘く見て大丈夫だからこそ、福音ですよ。
福音というのは、そもそも「神の掟である十戒」でさえ守ることが難しい人たちのためにあるわけで、つまり、十戒守れるタイプの人たちの特徴というのは、当時はそこそこお金持ちなのだと思います。
土地さえ持てないで、「不法」を行わざるを得ない人たちもいるので、
イエス様は「わざわざ十字架に架けられる愛」を通して、また復活されて私たちの罪全てを赦されたと、考えて居ます。
貧しいものは、世の中にある掟を守れない場合が多いので、そこに目を向けられたのだと理解します。
ユニテリアンってスピリチュアルやんけwww
ジョセフ・マーフィーの成功哲学でも語り始めるのですかwww

まぁ、誤りとしか言えない予定論が現代スピリチュアルを生み出した
と言えばそのとーーりではある
そもそも「信仰」と言うのは神様からいただくものであり、カトリック教会が信仰を与えているわけではないですし、「教会の外に救いなし」はそもそも「キリスト教以外によっては救われない」と言う意味合いです。「信仰による救い」と言うのはアンチでもヘチマでもありません。
それとも、カトリック教会が信仰を与えているという考えがあるなら、「そう言う教派もあるんだな」くらいなものです。
また、キリスト教の枝葉がカトリック教会から出ているわけではなく、
キリストの体を幹としてカトリック教会も枝葉な訳です。

そこを勘違いされている方は、世界がローマ・カトリック教会で回っていると思う危険もあると思います。

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