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キリスト教(聖書)への素朴な疑問コミュの召命観とかベルーフについて

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コミュ内全体

洗礼を受けるとき、特にいわゆる「聖職」になるときに問われるのに、検索すると用語解説もなかったので作成します。
ベルーフ、職業観もありにします。
エレミア 1955 口語訳
1:4 主の言葉がわたしに臨んで言う、
1:5 「わたしはあなたをまだ母の胎につくらないさきに、あなたを知り、あなたがまだ生れないさきに、あなたを聖別し、あなたを立てて万国の預言者とした」。
1:6 その時わたしは言った、「ああ、主なる神よ、わたしはただ若者にすぎず、

マルコ
2:13 イエスはまた海べに出て行かれると、多くの人々がみもとに集まってきたので、彼らを教えられた。
2:14 また途中で、アルパヨの子レビが収税所にすわっているのをごらんになって、「わたしに従ってきなさい」と言われた。すると彼は立ちあがって、イエスに従った。
2:15 それから彼の家で、食事の席についておられたときのことである。多くの取税人や罪人たちも、イエスや弟子たちと共にその席に着いていた。こんな人たちが大ぜいいて、イエスに従ってきたのである。

コメント(85)

>>[42]

男衆さんのお話は おもしろおすなあ〜。

と言うか イギリスのパブは 女性禁止
と言うところがあるようですが、 皆さんの書き込みを読んでいると

思考回路が 違うなあと思いながら、笑ってました。 はい

横から口を挟まずに 話の展開を見たいものですね。
ヒントは、マタイ25:19からお読みくださいませ。「小さいことに忠実だったので、大きいことを任せよう!主人と一緒に喜んでくれ!」と言われておりますし、ダビデは小さいですが「主よ、私はここにおります。どうぞお話しください。」と言いました。

遊女ラハブも、敵の主を神であることを悟り、スパイの言葉に聞き従い、窓に赤い紐を結んで自分の一族の命を断つ事のないように行動致しました。それで、ヨシュアもラハブの一族の命を断つ事はせずに残した訳です。

呼ばれているなら、応える。
どんなに小さな山であれ谷であれ、アーメンっと言って主に応える。

>>[45]

基本的に、プロテスタント以前のキリスト教は皆そうです。

プロテスタントが実は異常なんです。
何をもって「天職」と信じるかです。
>>[49]

プロテスタントと言ってもカルヴァン主義以降ですね(笑)

カトリック辺りなぞは、富があったら寝て暮らそう、を地で行きますからね。
仕方ないよね、プロテスタントじゃないもんね。
>>[50]

いや、何となく、、、、

まあ、強いて言うなら「約束の地」に!
>>[52]

ま、一応、天職の概念を考えた最初の人物はルターですw

ただ、ルター派は別に禁欲的では、なかったんですなあ。
その辺はカトリックに近い。

近世のルター派諸侯は、割と奢侈な生活をしていたそうで。
>>[55]

乳と蜜が流れていたらベトベトになりそうですね(笑)


>>[56]

カトリックの場合は、やはり修道制(実際は欲望まみれ)が禁欲生活を担っているのもあるんでしょうね。

>>[57]

ペトペトでも、アーメンと応えるべきです。(キッパリと)
>>[60]

行きすぎには、注意して、
夜に歩かず、昼に進めかなぁ?
>>[59]

専門用語で二重規範。

ま、プロテスタント以外は大抵そうです。
宗教さえ、エリートの独占だった。
つーか、昔の庶民なんか、聖書読めないし、教会は読ませてもくれないし、
そもそも写本は高くて、神父でも全巻揃えるのが難しかったし。

昔のカトリック教会で、「教会」と言えば司教団の事で、
一般信徒は含まれてなかったし。
客層によっては 一流が 三流、場末にもなりますね。


それでは ごめんやす。

またのお出でを 楽しみにしております。
>>[44]

>走り寄って「はい、主よ。私はここにいます」と言えてこそ、本物でありましょう!

***
違うと思うよw
寧ろ全くのその逆だと思うw
ミデアン人を恐れ
士師記
「時にヨアシの子ギデオンはミデアンびとの目を避けるために
酒ぶねの中で麦を打っていたが、
6:12
主の使は彼に現れて言った、
「大勇士よ、主はあなたと共におられます」。
***
と、主に召命されたにも関わらず、
貴女が言う
はい。わたしはここに居ります。どころか
ギデオンは主の召命のそのことばに対し、こう言ってます。
6:15「ああ、主よ。
私にどのようにしてイスラエルを救うことができましょう。
ご存じのように、私の家族はマナセのうちで最も弱く、
私は父の家で一番若いのです。」


と、走りよるどころか
隠れ、主の召命をも拒んでいますw









>>[43]

>気持ちの持ち方次第、、、?

へぇ〜?!

気持ちの持ち方次第で
救いがあるんだ???

キリスト教徒だけど、
初めて聞いた。(笑)
>>[67]

おやおや、お返事ありまへんなあ〜 カウンターで タヌキさんにならはったんと違いますやろかなw
>>[67]

モーセなども

出4:1モーセは言った、「しかし、彼らはわたしを信ぜず、またわたしの声に聞き従わないで言うでしょう、『主はあなたに現れなかった』と」。

4:10モーセは主に言った、「ああ主よ、わたしは以前にも、またあなたが、しもべに語られてから後も、言葉の人ではありません。わたしは口も重く、舌も重いのです」。

4:13モーセは言った、「ああ、主よ、どうか、ほかの適当な人をおつかわしください」。

としつこいくらい拒んでましたね。

イザヤは召命ではなく、遣わされることへの積極性はありましたね。

6:8わたしはまた主の言われる声を聞いた、「わたしはだれをつかわそうか。だれがわれわれのために行くだろうか」。その時わたしは言った、「ここにわたしがおります。わたしをおつかわしください」。
>>[70]

ホンマやね〜w
「たぬき」は便利ですよって・・
やっぱ、「タ」ヌキなんと、ちゃいますぅ〜?
(笑)

>>[71]

amen。

主の「召命」は
究極的に
「カルバリ丘の十字架」に付けられました
あのお姿にも等しいお姿なのだと感じています。
(それぞれに、「主のお働き」をなさいます方々のお姿を拝見をしてまして、
感じます所でありますね。)
当然、現代は無実の者が、そんな刑などもあり得ませんがw
しかも、
あの愛弟子のペテロですらも
たとえ、どんな事があろうとも、
(火の中、水の中であろうがの勢い?w)

主に従うとまで宣言なさっていましたのにね・・w

わたしは、仰る

主の召命と、ソレに対します、遣わされます事の積極性とは
まったく、別のものと
捉えています。
ですから、
どなたかの仰います
コレは単に己の傲慢の何ものでもないと、理解しています。

>いや、貧しくなくとも、神様に呼ばれたら、いかに小さき召命であったとせよ、走り寄って「はい、主よ。私はここにいます」と言えてこそ、本物でありましょう!
***

神に呼ばれる???

事態、意味もわかりませんがw

走り寄る?
自惚れも、キツイですwww

神が寄り添ってくださるのは分かりますが・・(笑)








あのおおお、、、

「召命」と言うのはそれに答えていくことでもあると思うんですね。
子どもダビデは「ここに居ます」と答えただけです。

例えば、モーセ、アブラハム、も謙虚に「いえいえ私などではなく」と言いますが否定と言うよりも応えておりますし、大いたいアブラハム何て本当に時間かかりましたし、

とにかく応えることです。
もし、応えていても、ヨナのような場合もあります。

最初は本当に否定的でしたが、逆方向の船に乗ると大嵐が来てヨナは悟ります。

ヨナの場合には、悟った後に魚の腹のなかに入るはめになります。

>>[74]


職業召命がルターの「ドイツキリスト者貴族に与える書」(1520年)で明確に語られるわけですが、さて、職業に就くことに「ここに居ます」という応答の意味はあるでしょうか。

その立場になってそう自覚するしかないわけですね。就職またはその人のいるべき場所に、神の呼び声などというものは与えられたなどということは、精神的病でもなければ聞くなどと言うこと自体ないのですから。

召命を、狭い、預言者の召しだしと応答に限ることは、ちょっと問題があるように思えますね。


>>[76]

マルチン・ルターの場合には、おそらく「祈り」をもって応えたのだと思います。

あまり詳しくありませんが、「私はここに立っている。それ以外の事はできません。」と言われたとお聞きしています。
そこには、すでに神に祈ったルターの質素な姿が見受けられるような気がします。

「私はここに立っている。」
と言うのはおそらくカトリック教会の司祭らに向けてと言う見方もできますが、「信仰のみ」と言う事を見出だした彼はその後も祈ったのでしょう。
そこには「私はここに立っている」と単に会衆にだけ言い放っただけでなく、「信仰によって救われる」と言うことの実践もそこにあったからこそと思います。

まあ、ルター派の教会に日々通われているSGTさんとは違い、あまりにも詳しくは無さすぎる 部分が多々ある答えで申し訳ないのですが、私にはそのように感じます。
また、別にアブラハム、ノア、ヨナ、エレミアなどによらずとも、新約でしたらパウロが職業的召命であったようにも思うことがあります。
単に職業に付く場合には、ルターの様な「ここに居ます」と言う応答は無いでしょう。

ルターの場合には「どうぞ、主よ、お遣わし下さい。」と言う心はあっただろうと思います。
ルターは落雷にあった時に怖くて、
「聖アンナ様、お助け下さい。
(助かったなら)修道士になります」と祈った。

無事だったので、父親らの反対を押し切って修道士になった。
実は、彼はそれまで結構色々な仕事をしてる。

日本だったら、「こんなに転職を繰り返すなんて、
堪え性か協調性がないのでは?」
と疑う人間。

いやあ、僕は彼に親近感を覚えますな。
彼も間違ったし、人間だから失敗もありましたが。
アンナというのは、マリアの母親ね。
彼は、病か何かで寝込んだ時も、「マリア様、助けて下さい」と祈ってる。

なかなか染み付いたものは離れないよーですな。
>>[77]

ルターの修道者としての召命ではなくて

ルターの述べている職業召命について言っているわけです。

聖職だけが召されているわけではなく、キリスト者はそれぞれの職業に召されていること

この職業に召されるという場合、神の召し出しやまた応答というものはありませんね。

あるキリスト者がコンビニのレジの仕事をしていたとして(コンビニのレジ打ちを卑下しているわけではありません)、その仕事に神様が就きなさいとか、また「ここに居ます」などという応答も当然ないわけです。

旧約の預言者、また聖職(教職、伝道者、信徒説教者)などの召命という狭い意味でだけで論じても、召命について誤ってしまうと思いますよ。



ルターの述べている「職業召命」については私は詳しくはありませんが、
「召命」と言うからにはその姿として「祈り」の姿があると思います。

それで、別に聖職者だけの事ではないと申し上げたこともありました。

お花屋さんも、魚やさんも、プログラマーも、鳶職も、バーテンダーも、キリスト者はそれぞれの「配置」に付くものだと思います。

私が長年シティホテルの宴会サービス課に所属していた時もそれなりの「召命感」があって仕事に打ち込めたと言うのはあります。
また、いくら立派に牧師になられても司祭になられても「単なる職業」になってしまう事もあります。

それは「祈り」の欠けてしまう生活ばかりした結果です。
せっかく神に応えて牧師、司祭、又修道者になる事ができたとしても、「祈りの生活」を心から行えない場合、その後は「単なる職業に就いた」ぐらいの事にしかなりません。

ダビデの場合には、途中でバテシェバと良からぬ事も行いましたが、結果として何故いまだに「神のしもべ」と認められ、又言われ続いているのかと言えば、彼の場合には最終的には神様に対しての「感謝」と「悔い改め」を言い表しているからだと思います。

コレが、単に神様に対しての感謝も悔い改めもなく「バテシェバちゃん!やったぜベイビィ!イエーイパンチわーい(嬉しい顔)💕」となると、傲慢どころか召命取り消しと言うか「神様を汚したオトコ」という事で終った事になります。
因みに、尊敬されている教父の中でも、ハンセン病患者と共に生きた司祭は、その召命を最期まで祈り続けたので、彼の事はプロテスタントでも言い伝えられております。

ダミアン司祭です。

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