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キリスト教(聖書)への素朴な疑問コミュの聖書の宗教を中心とした宗教学的な考察

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宗教学は本来は神学中のひとつだったとされてます。キリスト教の宣教師が布教において異教徒と出会い、その探究をしたことが始まりとも云われます。
現代では宗教学は科学的な見方で、神学は信仰からの見方というのが一般的です。
私の関心は「聖と俗」「宗教儀式(特に食事)」「宗教共同体」ですが・。
学者的にはオットー、エリアーデなどです。
比較する場合は、仏教や神道も多少は良いと思います。

コメント(48)

ウェーバーによって描かれたカルヴィン主義、ないし近代的資本主義の基になった啓蒙思想は、
カルヴァンその人の思想そのものではありません。

カルヴァンは、金持ちに、「彼は共同体を世話すべきだが、それは『あなたの貧しい人』と共に、だ」という態度を見せてました。
ルター的な逆説表現ではないですが、貧困者が金持ちを必要とするように、金持ちも貧困者を(使命としての救済、善行の対象として(?))必要とする、というかたちになっています。

この点カルヴァンは決して古代から続く富や財の考え方からは逸脱していません。
つまり、カルヴァンの思想がカルヴァン主義になり、ジョン・ロック流の啓蒙思想へと続くプロセスにおいて、
資本主義の精神の母体としてのプロテスタンティズム・ピューリタニズムが、
人類史上唯一エートスを変えた、人類的に異質な思想・イズムとして金字塔を打ち立てていると言えるでしょうな。
近代法における所有権の特徴は、その絶対性と抽象性。
つまり処分の自由。
煮て食うなり焼いて食うなり自由だということです。

アメリカのどこかのCEOたちが、自分たちが経営する会社が傾いて議会を通じて米政府に援助を申し込んだ時、
議員に、「(あなたがたが所有する)自家用ジェットを処分しようとするつもりの人はいますか」
と聞かれて、
誰も是と言わなかった、ということがありましたが、近代的資本主義では全く問題ないわけですな。
経営者は株主に対して経営の責任を負うわけで、正当な報酬を得て獲得した富を吐き出さないといけない義務はないわけです。

自発的貧困、つまり、修道者やスーフィー、上座部仏教僧侶などで見られる清貧の思想は、
あらゆる宗教の基礎にあったりしますが、現実として、人は経済の中で生きていかないといけないわけです。
つーわけで、二重性の解消や、妥協案が出される。

キリスト教の教父の時代、アレキサンドリアのクレメンスは、「どの金持ちが救われるか」として、
人間は富を欲望する心を浄化すべきだと主張しました。

「金持ちがその財産を、財産が神から彼に管理するよう任せられたように使うならば、
特に貧しい人々や助けを必要とする人々の為に使うならば、
富そのものは神の国から無条件に閉め出すことはない」
…だそうで。
二重性の解消論は、結局のところ不徹底なので、行き着く所まで行くわけです。

四世紀の人物、カエサレアのバシリウスが言うには、
「(富が)貧しい人に分け与えられないならば、それは不正である。
所有している者が搾取された貧しい人々に、…何も分けず、そのことによって貧しい人々をひょっとして困窮の内に死なせるとしたら、
その者は殺人者と見なされ得る」。

財宝は彼らの為ではなく、管理の為に与えられたのである、

「財宝が彼らから他の者にもたらされなければ、彼らの所有は盗みである。
何故なら、その所有は本来、神に−そしてそれと共に貧しい人々に属するからである」

つまり、別トピではないが、キリスト教社会主義になるわけですな。

今のカトリシズムでも継承されていますが、パウルス六世の回勅「ポプロールム・プログレッシオ」では、
「公共の福祉は時には土地所有の分割を必要とする。
それは土地所有が、その大きさ、そのわずかなあるいはそもそも成果のない利用のために、住民がそれによって受ける悲惨さの故に、国が被る著しい損害のゆえに、公共の福祉の妨げになっている時にである」

これに対してドイツ福音教会は、1962年に、社会部会における「社会的責任における財産形成」という報告書で、
人間は「地上の財を自由に使用する」(第四項)権利があるとし、財産は、人間はが「責任と自由のうちに共に生きる」(同)のを助ける神からの贈り物である。

で、期待されるのは、

「財産を獲得する実際の可能性が各人に開かれていることである。
人間は自由である為に、『わたしのものだ』と言う事が出来るべきである」(同)

加えて、

「人間は自由であり続けるために、『あなたのものだ』と言うことができなければならない」(第五項)。

果たして、正しいのはどっち?!
>>[6]
主の平和!
今晩は失礼します。今日は初夏のような天気でしたね。すぐ、寒気が降りてくるので気をつけて下さい。

レスをありがとうございます。
>レビ記二十五章・23を根拠に、最長49年間だけ
以下ですね。

口語訳1955
25:23 地は永代には売ってはならない。地はわたしのものだからである。あなたがたはわたしと共にいる寄留者、また旅びとである。
25:24 あなたがたの所有としたどのような土地でも、その土地の買いもどしに応じなければならない。
25:25 あなたの兄弟が落ちぶれてその所有の地を売った時は、彼の近親者がきて、兄弟の売ったものを買いもどさなければならない。
25:26 たといその人に、それを買いもどしてくれる人がいなくても、その人が富み、自分でそれを買いもどすことができるようになったならば、
25:27 それを売ってからの年を数えて残りの分を買い手に返さなければならない。そうすればその人はその所有の地に帰ることができる。
25:28 しかし、もしそれを買いもどすことができないならば、その売った物はヨベルの年まで買い主の手にあり、ヨベルにはもどされて、その人はその所有の地に帰ることができるであろう。

旧約聖書レビ記第25章に基づく50年に1度の大恩赦と借金相殺の暦ですね。
基本的に、ユダヤ教では土地は神のものであることがわかります。
しかし、キブツなどのモデルは根元的にはエッセネ派の共同体ですね。クムランが代表例です。
クムランは保管されていた死海文書だけでなく、共同体としても関心が持たれている訳です。
宗教学では宗教的コミューンと云われてますね。
≪私有財産を否定し平等な労働を原理とする共産主義的な生活共同体の意味でも用いられ,この意味でのコミューンには大別して宗教的なもの,政治的なもの,心理的なものがある。 宗教的コミューンはユダヤ教のエッセネ派にまでさかのぼれるほど古く,また世界各地に見られる。欧米では原始キリスト教会をモデルとする宗教コミューンが,とりわけ16世紀以降各地で建設されている。≫
https://kotobank.jp/word/%E5%AE%97%E6%95%99%E7%9A%84%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%B3-1335531
>>[6]
カトリックと云えば、フランスにも、元カトリックの修道院を中心にしたコミューンが36000ほどありますね。
農林水産省のデータですが
宗教コミューンで検索するとでます。
www.maff.go.jp/primaff/koho/.../primaffreview2004-11-7.pdf
>>[13]

>フランス

コミューンの元祖の国ですな。
パリ・コミューンの末路まで知る人はあまりいませんが。
>>[14]
主の平和!
おはようございます。昨日は早めに寝ました。

パリコミューンはミッション(宣教村落共同体)と同じく、ジェノサイドされてホロコースト(焼きつくす捧げもの)になったと覚えてます。

クムランもナザレもミッションも昔のコミューンの最後は似ている気がします。時代が早かった気もします。
>>[15]

いや、単純に、共産制は危機に弱いんですよ。
羊飼いがいない羊の群れは、猟犬に蹴散らされるのがオチです。
いつも疑問に思うのだが。

宗教学というのは対象の解剖であるし、また対象の相対化でもある。
信仰をしたいなら宗教学は止めとくべきではなかろうか。
「宗教」という横並びの分類は唯一無二の世界観とは相いれないものではないだろうか。

一個の絶対的世界観からする「外道」の研究なら意味はあるが。
>>[17]

あ〜それ誤解。

他の宗教を調べるぐらいで信仰が揺らぐなら、宗教進化論なんか生まれないですし。

まあ、一般に、アニミズムから多神教、
多神教から拝一神教、
拝一神教から唯一神教へと「進化」して、
その過程で脱呪術化・世俗内禁欲化が為されると言いますな。
つまりアーメンですが。

無神論者は、お伽話は皆等価値に無価値だと誤解するから困る。
ハートマン軍曹じゃないんだから。
>>[18]

社会学は結局のところ他人の生活をデバガメよろしく密かに監視することに尽きる、という議論もあるわけ。同じことは宗教学にも言える。

神学の延長なら教徒以外には通用しない学ですねえ。
こういう考えは古代ギリシャからあって、
アルテミス像とか祀っていた時代から、
ギリシャ神話の神々は神格化された人間で、
まともな神はデミウルゴスすなわち創造主として別格とされた。

プラトンはさすがにミュートスとソクラテスに語らせてますが、
日本神話みたいに、概念を全て神格化したような多神教を知れば、さもありなんとは思います。

ただ、日本の場合は御霊信仰、つまり怨霊や死霊、祖霊という、生前の人格を喪失した人間、というものを神格化してるので、
逆にダーウィニストがハマったりした、近代心霊主義の先取りみたいな考えで、先進的と言えます。

江戸時代には、「最近の子供は妖怪の話をしても怖がらないから困る」と愚痴る記録が残ってますな。
>>[20]

当然、通用しません。

宗教進化論が一世を風靡するしたのは、
単にキリスト教国が近代世界システムを構築し、覇権を握ったからです。

つまりアーメンです。
昔はアジア的専制、
儒教は呪術宗教として忌避の対象にされたものです。
で、ご存知の通り、日本特殊論。

日本が近代化に成功したのは石門心学だ武士道だと言われ、
昔懐かしNIES諸国が勃興すれば儒教経済圏とか言われたものです。

脳を如何に効率的に用いる習慣があるか、ではなく、
現代の成功の原因を上位構造から説明しようとするから、
いわば評価の基準が形成される。

ナチス・ドイツだ
(続き)

(ナチス・ドイツだ)と、
新訳聖書のパウロ神学は「劣等な」ユダヤ神学、
ルターこそ、ローマからの脱却をはかった、「アーリア人的」英雄とされた事があっさりと忘れられます。

ルターが、アウグスティヌス以上に傾倒したのがパウロだと言うのに。

現代人が現代から、現代の基準で語る以上、
自己賞賛以外の何物でもありません。

つまりアーメンです。
つまりプロテスタンティズムが人類最強の宗教です!!!

働け働け死ぬまで働け!!!
>>[25]

トピにあんまり関係ないけど、ギュスドルフ『神話と形而上学』という本がお薦めです♪
ギュスドルフはメルロオ・ポンティやサルトルと同時代の哲学者なんですけど、信仰はプロテスタントだそうです。

なぜか他の実存哲学者と比べてあまり人気なくて古書はお買い得価格になってます。
しかし内容はすんごいお買い得!!です。近年まれな掘り出し物でした。
「哲学は神話意識と理性の葛藤から生まれた」のだそうです。

訳者は久米博という紛らわしい名前の人で、あとがきによると岸田秀に本書の翻訳を勧められたと言ってます。

機会があったら読んでみてね(^^♪



ところでジツゾンといえばイリアさんはキルケゴールに言及しないけど守備範囲外かしら。
>>[26]

読んだが、実存主義的な信仰を僕は持てなかったんで、
しっくり来なかったんですな。

証という、まあ教会員の「信仰にまつわる体験談」みたいな事をたまに聞いたし言ったりしますが、
他の人が実存主義的な証をするなか、
僕はそういう証は出来なかった。

おおっと、キルケゴールが、形骸化した信仰と化していた、
デンマークのルター派国教会に対する批判を込めていたのは百も承知ですw
僕の場合は神を信じてから聖書を精読したクチなので、
聖書を読んで、共時的な意味合いで、イエスの死が今の自分のために、という世のクリスチャンの信仰パターンとは真逆なんですなあ…
若い頃はサルトルも読んだんですけどね〜

所詮近代主義者・進歩主義者に実存的不安というのは合わないのかも。

あるとすれば、実存的退屈(?)
>>[27]

思い付きで聞いてみたんですけどw どこぞで「真理」の話がされていたのが動機ですけど。
「主体的真理」というのは共感するところがあります。
確かに「客観的」を誇る哲学の虚をつくものではありますからね。
「原子の偶然の運動」はある意味、客観化の極なんです。

同時代のマルクスも、客観の形式を論破しようとした一つの試みではあるわけです。


「証」というのは行為のやりようによってはもろに洗脳技術になりますわね。
これは教会によって違うのでしょうけど。
どろどろした告白になることもあるのかなあ。

外から見た感じではあかしはある意味信仰の核とも思われます。
イリアさんはちょっと客観主義的?なところがあって、変わってるなあと思ってたのですがw
>>[31]

〉どろどろした告白

そりゃありますよ。
「私はこんなにひどかった。
しかし、イエス様によって救われた」がフォーマットですし。

若い娘の男性遍歴なんか聞かされた日には…おおっと!

あと、やりようによっては、ではなくて、
そのまんま洗脳技術ですよ。

アウグスティヌスはもちろん、
回心に至る道程が劇的なほど、
「良い」信仰者なわけです。

ルターが予定説に悩んだ時、修道院長はさが彼に言ったアドバイスは、
「君は殺人などの大きな罪を犯してないから分からない」という、
一見無茶苦茶な言葉。

「正しい人」に、自分は糞だなんだと告白させることによって、
「正しさ」を剥奪させる。

つまり、加入にあたって、自己の自信や支えをウォッシュするのが、
共同体の通過儀礼というヤツです。
>>[30]

宮本武蔵の剣術を見て、
五輪書を読むようなもんでしょうな。

近くの教会に行って洗礼を受けなければ、
と思ったのは事実だから仕方ない。
教会でもそう証してますし。
>>[35]

勝てば良い、だと、負けてしまえば全て否定されるわけですな。
どんなに理論付けていてもダメ。

型を学んで、その上で離れる、ではないと、ただの野狐禅に過ぎないわけです。
どうしてもそうでなくてはならない究極的な様式なんて、
突き詰めれば無いわけですし。
どっぷりと浸かった上で、否定するなら、その上での自己には何か意味が生まれるんでしょう。

十重禁戒、四十八軽戒を知った上で破戒僧になるのなら、一休になる。

知らないであーだこーだ言っても相手にされないだけ…
最近は後者が多いが。
>>[38]

聖書みたいに、五輪書の写本には割と相違があるので、
弟子による偽作説もあるんですなあ…

やだやだ人間の世は。
あ〜、やっぱり僕は未だに本質主義者だ。

主観から逃れられないと知っているにも拘らず、
客観的な真理を求めてますなあ…
まあ、本当は論文みたいに、神顕現は「」(エリアーデ、1960、56ページ)、「」(オットー、1955、23ページ)であるが、私は「」と思う、と書きたいが、私も皆さんもなかなか時間が?
>>[41]

皆括弧付きを補完して読んでますよ。

で、なければ一々論者に挙証させないといけないw
主の平和!
今晩は失礼します。
今日はゴルフのし過ぎで足がむくみました。
昔からスポーツは好きですが、神学校を出てからは負けるためにやっているので面白くない。神学校は最下位に合わせた牧会モード、会社は相手に合わせた仕事モードです。沢山賞金を取らせないと(^^;。
アメリカのルーズベルトの3Sに加えて、スタディ、スポーツが好きですね(^^;。
**
Battling the Gods
神々との戦い
対話
THERSANDER: The gods are dead. Their withered bodies lie immolated on the altars of science and reason. The pious are exposed for credulous fools. DIOTIMUS: Nonsense! Belief in the gods is stronger than ever. It is true, of course, that the peacocks of the academy deceive themselves that their worldly knowledge is all. But you should get out into the streets . Leave behind your chattering dinner parties and take a walk through the city: the shrines are packed, the temples blackened with the smoke of sacrifice.
***
テアルスアンダー曰く、神々は死んだ。しわくちゃの彼らの体は科学と理性の祭壇の上に捧げられた。
敬虔なものは、信じやすい愚か者であることを露呈した。
ディオティムス曰く、ナンセンスだ。神々への信仰はこれまで以上の強くなっている。勿論、アカデミーの気取り屋が自らの世間知が全てだというのは自己欺瞞だ。だが、君は通りに出たほうが良い。晩餐会の談話を抜け出して街中を散歩するべきだよ。神殿は満員だし、寺院は燔祭の黒煙が上がっている。
**
という対話で始まりますね。
>>[43]

これね、宗教の意味がキリスト教発生以前とその前である意味違っているのをぼかしている気がしますな。

古代の宗教というのは「崇拝様式」なんですよ。
別に信仰する必要なんか無かった。
プラトン辺りだと、神話の神々は人間の神格化だと言われるようになってますが、崇拝のための様式を守って共同体の一員であることを示し、利益にあずかることが目的だった。
アルテミスが処女神でありながら多産神でも平気だったわけで、問題は「崇拝方法を守るか否か」だったわけで、「その概念を内心から信じること」ではなかったわけで。

キリスト教は違う。
聖書から導出される(とされた)教理を、内心から信仰していなければならない。
信仰していれば、崇拝方法は自由。
典礼なんか何度も変わっているし、まあカトリックが一時賛美歌を禁止してましたが、ルターが言うように「賛美歌は一般信徒による説教だ」とか言っても、何か別におかしな話があるわけではない。

キリス教以前の古代は「いる」「いない」は問題ではないから、「いない」と考えてもどうということは無かった。
戦争に負けてしまうような民族の神など誰も顧みなくなるし、そういう態度が「無神論者だ」と批判されていたわけじゃない。
キリスト教は、自分に利益がなくても「いる」「いない」かを内心から信じているかどうかの方が問題とされた宗教で、
だからこそ近代の方の無神論が出てきた時に、割りと大きな打撃を受けた。
利益を与えないわ、神を信じなくても別に倫理を守れる、というのなら、信じる必然性が無いわけで。

つまり、無神論も、キリスト教以前と、キリス教国教化以後では意味合いが違っているんではないですかね?
>>[44]
主の平和!
今日は失礼します。
日中は多少暖かくなりましたね。
今日は月末で委員会はなく奉仕後、昼食です。
***
「神々との戦い」冒頭のテルサンダーの言葉の神は死んだ、はニーチェも言った訳ですが神学的にはアルタイザー、ハミルトンらの「神の死の神学」が有名ですね。

ハミルトンの著書から野呂先生は以下のようにまとめてますね。
『キリスト教の新しい本質』(The New Essence on Christianity)という別の神学書があるが、この論文集『神の死の神学』ではその神学書での彼の立場が棄てられていることが明瞭である。ハミルトンの関心は一貫して、何故この世界に悲惨が存在するのかというドストエフスキー的問題であり、『キリスト教の新しい本質』の中では、その解決が神の無力という思考の中に求められていた、神は力なき愛なのであり、人間の悲惨に対してご自分で同情し苦しまれる存在である。
:**
神は無力だが、人と共に苦しむ、共苦するという訳です。
>>[44]
私は信条や神学からキリスト教に入ったわけでなく、それなりの経験的、体験的な神の「実在」の確認から入ったので、神は「ある」(最近の「十戒」の映画の場面にもあるが)というのは前提でこういう論議ではかなり違いがあるかもしれません。
顕現は脳が作り出したとして、なぜ天照や仏陀でなく、キリストなのかという問題も出てきます。


キリス教以前の古代は「いる」「いない」は問題ではないから、「いない」と考えてもどうということは無かった。
***
この辺は後の方で論議されているようです。
また。
>>[28]

主の平和!
こんにちは。失礼します。
午前中は、自転車の自主トレに参加してました。

この映像の次に出てくるのですが、「ネラファンジア」も国よっては、私の家のキーボードよりも廉価なもので録音されていて驚きました。
それでもYAMAHAのはなかなかと思います。
***
レスが少し遅れました。

> 僕の場合は神を信じてから聖書を精読したクチなので、

啓示でなく、理性による自然認識によるというわけですか。
>>[47]

違います。

直観めいた示唆に応じた結果です。

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