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上智大学ロシア語学科コミュのテロル

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 先ほどエジプトで爆発事件があったとの報道がありました。大勢の方が被害にあったようです。テロリストの犯行かどうかはわかりませんが、テロの波は今後も広がっていくんでしょうか。。。今秋仕事でギリシアに行く予定なのですが、ギリシアって、なにげに(オッサンなのにヤングの言葉使ってすみません。。。)結構危険地帯だったような気が。。。「エーゲ海に消ゆ」なんてことにならないように気をつけます。しかしテロで得するのは、少なくともテロする側じゃないような気がするのに。。。なんてことを言ってみても極東の経済大国で世界の水準からみれば恵まれたくらしをしている無知なダメンズが言う権利はないですが。。。話がぶっ飛びますが、インド独立の際のマハトマ・ガンジーの運動をあえて「テロ」と呼んでしまうなら、一番知的で過激なテロだったんじゃないかと思ったりもします。

さて、ロシアでテロと言えば最近はチェチェン人が一般的なようですが、彼らの歴史をざーっと紐解いてみると、いやはや、「造反有理」ですな。。。

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(以下日本カフカスクラブ:http://chechennews.org/より)

チェチェン人とその西に隣り合うイングーシ人は別個の言語を持つ別の民族グループである。しかしその関係には非常に近い関連性があり、似通っているため、彼らについてはともに記述するのが適当である。

「チェチェン(Chechen)」とはロシア語による民族名であるが、これはある低地の村の名から採用されたもので、国名の「チェチェニャ (Chechnya)」もまたここから由来している。(いずれもロシア語では最後の音節にアクセントがある)この単語は明らかにトルコ系言語からロシア語に入ったもので、それはおそらくクムク語(コーカサス平野の北部および東部地域で使用される)であろう。チェチェン人は自らを「ノフチ (Nokhchi)」と呼ぶ。(単数形は「ノフチュオ(Nokhchuo)」)同様に、イングーシもまた彼らの自称ではなく、ある村の名を元にしたロシア語による民族名にすぎない。イングーシ人は自らを「ガルガイ(Ghalghay)」と呼ぶ。

1989年の統計では、チェチェン人は95万6879人、イングーシ人は23万7438人である。チェチェン人は北コーカサスでは最大の民族グループで、(南コーカサスを含む)コーカサス全体では、グルジア人に次いで第2番目のグループである。


チェチェンとイングーシの土地は、ダリアル峠を経由して中央コーカサスを縦断する幹線道路の東方に位置しており、山麓及び平地から山岳高地に向かって広がっている。低地は土壌が豊かで、雨も多く、農作物の成長時期は長い。また小規模ながら油田も存在する。その東隣には、ダゲスタンのさまざまな民族が暮らしている。(彼らの多くはチェチェン語に関連性のある言語を使用する)北部平野部にはトルコ系言語を話すクムク人、そして(この3世紀の結果として)ロシア人が居住している。西にはイングーシ人、そしてさらにその西にはインド=ヨーロッパ語族イラン系言語を話すオセチア人が暮らす。南は(中央コーカサス山脈を越えて)南オセチア人およびグルジア人がいる。

チェチェンおよびイングーシ領には、実質的な都市が二つある。グロズヌィ(1995年当時で人口約40万人)は、ロシアによるコーカサス征服の間に、ロシアの要塞として建設されたチェチェンの近代的首都である。ウラジカフカス(人口約30万人、ソ連時代には「オルジョニキジェ」として知られた)は、イングーシ高地のイングーシ=オセチア領土境界にあるが、これもやはりダリアル峠を監視するために建設されたロシアの軍事要塞を起源としている。イングーシ低地にあるナズランは今も昔も重要な商業都市である。これらの都市は相当数のロシア人や非チェチェン、非イングーシ人口を抱えていた。ウラジカフカスにはイングーシ人とオセチア人、それに非常に多くのロシア人、グルジア人が混住していた。(グロズヌィは現在(94〜96年のチェチェン戦争時を指す)ロシアの爆撃によって破壊され人口が激減している。ウラジカフカスとそれに隣接するイングーシ人の土地では、1992年後半にイングーシ人の民族浄化が行なわれた)帝政時代、ソヴィエト時代、ポスト・ソ連と、いずれのロシア政府もさまざまな方法を用いて、チェチェン人およびイングーシ人を経済的に重要な地域から排除し、その地域にロシア人およびロシアのコサックが居住するように奨励してきた。こうして都市および低地における混住がもたらされたのである。


コーカサス地方は、古代からその言語の多種多様性と、この地特有の語族に見られる特異な文法構造で、知られている。こうした多様性が保持されてきたことは、数千年にわたって、この地域の独立 した各民族グループが概して平和的な関係にあったことを証明している。

チェチェン語とイングーシ語は、Batsbi あるいは Tsova-Tush(絶滅に瀕しているグルジアの少数民族言語)とともに、ナク=ダゲスタン語族もしくは北東コーカサス語族のナク方言群を形成している。北東コーカサスには30以上の言語があり、そのほとんどがチェチェンの東にあるダゲスタンにおいて使用されているものである。ナク方言群が他の言語から分離したのは5000〜6000年前に溯るが(すなわちナク=ダゲスタン語族の歴史は古く、英語やフランス語、ロシア語、ギリシャ語、ヒンドゥー語の属するインド=ヨーロッパ語族のそれに匹敵する)、チェチェン語とイングーシ語から分離したのは中世の頃と考えられる。ナク=ダゲスタン語族全体はコーカサス山脈の土着言語であって、コーカサス内外の他のどの言語とも明白な関係は認められない。ほとんどのコーカサス言語と同様に、チェチェン語は多くの子音を有し、アラビア語にみられるような口蓋垂音や咽頭音、それにアメリカ先住民族言語に多くみられるような声門閉鎖音や破裂音の子音を含んでいる。音声構造はスウェーデン語やドイツ語にいくらか似ているところがある。チェチェン語は、その姉妹諸語と同様、12の主格変化といくつかの性変化を含む語尾変化を持っており、主文節をつなぎ合わせて、長く複雑な文を形成する。格変化は、他動詞の主語が間接格の形で現れ、直接目的語は自動詞の主語のように主格となる。動詞は人称に一致しないが、直接目的語あるいは自動詞の主語に関しては、性に一致する場合もある。

チェチェン人の97%もしくはそれ以上がチェチェン語を自分の第一言語と主張する。またほとんどの人はロシア語も話し、非常に流暢である。チェチェン語とイングーシ語は互いに非常に近い関係にあるので、少し練習すれば相手の言うことをよく理解できるようになる。両言語が接している地域においては両方が使用される。チェチェン人はイングーシ人にチェチェン語で話しかけ、イングーシ人はイングーシ語で受け答えし、会話はだいたいスムーズに成り立つ。

チェチェン語は伝統的に文字で書かれる言語ではなかった。1930年代にロシア語のアルファベットを用いた音声表記が創出され、さまざまな出版物で使用されており、ほとんどのチェチェン人にとって読み書きのの手段は主にロシア語である。伝統的にほとんどの北コーカサス社会がそうであったように、多くの人がバイリンガルもしくはマルチリンガルで、異民族間のコミュニケーションには重要度の高い低地語が使用され(例えば、商業言語であり、早期にイスラムに改宗した人々が用いたクムク語)、読み書きにはアラビア語が使用された。

こうした役割において、今やロシア語がクミク語やアラブ語に取って代わるようになっている。特に、チェチェンやイングーシ経済の破壊が進み、失業、大量の流民化が社会構造を覆し続ければ、チェチェン語とイングーシ語が機能的に家庭内のみの言語となり、完全にロシア語に屈することになるだろう。これは多くの文化的遺産が失われることを意味する。

チェチェン人が、6000年あるいはさらに長期にわたって、現在の領土内もしくはその近くに居住してきたことは明らかである。それは、中央ダゲスタンに8000年もの途切れることのない考古学上の連続性があり、「ナク=ダゲスタン」語族が古くから土着のものであったことを示しているからである。

コーカサス高地は古代、比較的人口が多く、繁栄していたようである。中世後期から19 世紀までの「小氷河期」として知られる世界的な低温期は、高地の寒冷化を進め、植物の成育期季節を短くした。高地経済は弱まり、低地移住の引き金となり、高地の村々は放棄された。この経済危機は1500年代末から1800年代半ばまで続き、ロシアのコーカサス征服と時期を同じくしている。

記録に残された歴史上、そして推定可能な有史以前においても、チェチェン人は(これについてはイングーシ人も同様に)防衛以外での戦闘を起こしたことはなかった。ロシアによるコーカサス征服は困難で、多くの血が流された。広大な低地領土を持つチェチェン人とイングーシ人、そして中央峠への通路は第一のターゲットとされたが、それは同時に最も強固に防御されていた。そこでロシアは、低地の村々を破壊し、住民を追放、虐殺し、高地を降伏させた。おびただしい数の避難民が中東のさまざまなイスラム諸国に移住し、あるいは追放された。そして今日に至るまでチェチェン人はヨルダンやトルコに居住している。以来、さまざまなチェチェン反抗勢力が存在し続けている。それはロシア軍やソビエト軍に対するものであったり、集団化、反宗教政策、ロシア化に抵抗するものであった。

1944 年、チェチェン人とイングーシ人は、カラチャイ=バルカル、クリミア・タタール他の民族とともに、カザフスタンやシベリアに集団追放された。その際、総人口の1/4もしくは半分が命を落とした。1956年に「名誉回復」され、1957年に故郷への帰還は許されたものの、彼らは土地、経済資源、そして市民的権利を失った。以来、ソ ビエトおよびポスト・ソ連政府の下で、彼らは(公式あるいは非公式に)差別と差別的論調の対象であり続けている。最近でも、ロシアのマスメディアは、チェチェンの国家や民族を、ロシアでの組織犯罪や暴力事件を引き起こす殺し屋や盗賊のように描写している。

1992年末、ロシア軍の戦車と部隊が北コーカサスに送り込まれた。表向きには、1944年の強制移住後に北オセチアに政治的に編入された伝統的イングーシの土地をめぐるイングーシ人とオセチア人の民族紛争の平和維持軍ということになっていたが、実際には北オセチアからイングーシ人を強制的に排除し、そこにあったイングーシ人の村々を破壊したにすぎなかった。多くの死者が出、そのときの避難民は6万人に上る(イングーシの総人口の1/4に当たる)と現在も言われている。

(中略)

現在進行中のチェチェン侵攻(94〜96年のチェチェン戦争時を指す)は、これはチェチェンの低地に居住する、ロシア人を含む全住民に、多大な人的損害をもたらすことを意味する。だが、チェチェン民族にとっては、民族浄化、経済破壊、言語的文化的遺産損失の危機なのである


チェチェン人およびイングーシ人は、ハナフィー学派のスンニー派ムスリムであり、17世紀後半から19世紀初頭にかけてイスラムを受け入れた。以来ずっとそうであったように、現在もイスラムは穏やかではあるが、強く信じられており、彼らの文化的・民族的アイデンティティの中心的な要素である。


低地のチェチェン人は伝統的に穀物栽培者であり、高地のチェチェン人は羊を飼育している。ロシアが現れた当時、低地は豊かで余剰穀物を生産する一方、高地は食糧自給ができず、羊毛と卵を低地の穀物と交換していた。

チェチェンの社会構造と民族的アイデンティティは、家族及び氏族の名誉という諸原則、 年長者に対する敬意と服従、客へのもてなし、家族と氏族間の公式な威厳ある関係、そして公私にわたる礼儀正しいふるまいによって成り立っている。

親族関係と氏族の構造は、家長制度的ではあるが、女性は社会的、職業的に男性と平等であって、経済的にも自立することを認められている。

概して、学者、作家、芸術家、知識人らは、ヨーロッパとイスラム世界の双方によく 精通している。社会全体としては、北コーカサス固有の芸術的・知的伝統とともに、ヨーロッパやイスラム世界の遺産もまた自らのものと見なしていると言えよう。


ロシアに征服されるまで、チェチェン人は独自の言語と領土を持つ独立した民族でありながら、そこに正式な政治組織は存在しなかった。村々は、氏族がそうであったように、自治を行なっていた。村々は戦時における相互防衛義務を担っており、氏族間には支援関係があった。そしてそれは、より大きな氏族連合(それらは概して方言と一致する)に結びついていた。個々の氏族は尊敬される年長者に統率されており、年齢、親族関係、獲得した社会的名誉以外に、社会的階層や身分といった区別は存在しなかった。

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