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お城めぐりしよう!コミュの御殿部

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滋賀県在住の城郭ファン、ウォッカマティーニと申します。

このたび、管理人u1様のお許しをいただき、僭越ながら「御殿部」を創設させていただくこととなりました。よろしくお願いいたします。

城や陣屋において主が居住し、政庁としての機能を果たした御殿ですが、現存例が少なく、また、城の中でも天守、櫓、石垣や堀などの構造物に比べると地味な存在です。

しかし、近年は熊本城本丸御殿の復元が大きな話題となり、篠山城大書院、佐賀城本丸御殿など御殿建築の復元も増え、注目される要素となってきました。もちろん、二条城、高知城、川越城、掛川城などの現存例も極めて貴重です。

当部では、現存・復元を問わず、過去に存在したものも含め全国の城や陣屋の御殿建築について情報交換の場とさせていただきたいと存じます。もちろん、実際に訪れた方の報告や写真の投稿は大歓迎です。

浅学非才ではございますが、微力を尽くさせていただきますので、皆様のご参加とご協力をなにとぞよろしくお願いいたします。

なお、ご参加に当たり以下の点にご留意いただきたいと存じます。

※寺院における書院建築などは、もともと城にあったものを移築した場合を除き、原則当部の対象外といたしますが、比較や説明における例示や引用は可といたします。

※史実に基づかない現代の遊興・飲食施設目的などの建築例は対象外といたします。

まずは、私の訪れた中から投稿させていただきます。写真左から:二条城二の丸御殿、熊本城本丸御殿、柏原陣屋表御殿

コメント(600)

和歌山城本丸にあった御台所が、和歌山市の光恩寺に移築されています。
名古屋城御殿
名古屋城御殿車寄せ
内部の様子
外観
 信濃国松本城の御殿跡です。フィルムが劣化していたため、お見苦しい写真でスミマセン。あせあせ(飛び散る汗)

左;古山地御殿跡(市立博物館内)
中;二の丸御殿跡土蔵
右;本丸御殿跡
彦根城楽々園(槻御殿)です。
江戸前期に4代藩主・井伊直興が造営し、江戸後期に拡張された井伊家の下屋敷です。
玄関や御書院は修理完了していましたが、地震の間は修理中でした。
三重県、田丸城の三之丸御殿奥書院です。

明治の廃城後に移築されて農家として利用されていましたが近年になって城跡の前に戻ってきました。内部見学には事前予約が必要との事。現在の三之丸は中学校になっています。
京都府、二条城。
二ノ丸御殿と本丸御殿の両方が残っているなんて流石です。故に国宝・世界遺産となっている。

本丸御殿は元が桂離宮からの移築建築物だったために二ノ丸御殿よりも質素な感じです。
 御殿じゃないんですが御容赦下さい。
 土佐国佐川領の郷校だった名教館です。玄関は高知県指定文化財です。
 詳しくは以下を御参照下さい。
 http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1958172031&owner_id=250900

 文久2(1862)年に建築された下総国関宿城の新御殿です。城下の日蓮宗宝樹山本足院実相寺に客殿として移築されています。
 関宿城については以下を御参照下さい。
 http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1964947104&owner_id=250900
 伊予国来島城の城主居館跡に建つ心月庵です。歴代城主の位牌が安置されています。
 来島城については以下を御参照下さい。
 http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1965998649&owner_id=250900
ひろしと申します。名古屋城本丸御殿、つぶやきで上げましたが、こちらにもアップします。将軍の宿所として建てられた上洛殿は、とても華やかな室内を復元しています。
愛知県設楽町田峯城
地方のお城の館としては立派過ぎるような・・・($・・)/~~~
眺めの良い場所に立っています。
 三重県伊勢市の伊勢安土桃山城下街にあるインチキ安土城最上階「黄金の間」です。
 信長は天主で居住していたと伝えられていますが、こんなキンキラキンの所で暮らしていたら精神に変調を齎しそうです。ww
 まあ、元々血迷った男でしたが…。
 こちらも伊勢安土桃山城下街にある復元山田奉行所です。内部は劇場になっており、大岡越前守関連の演劇が行われているようです。
群馬県七日市陣屋です。富岡高校内に正殿が残っています。こんな素敵な遺構がある高校は素敵だなあ・・・って生徒は何にも感じないんだろうなたらーっ(汗)
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180911-00010000-asahiand-life

朝日新聞に御殿の特集記事がありましたので貼らせてもらいます。

二条城、掛川城、高知城、川越城など取り上げています。
 山形市の天台宗妙円山形照寺宝光院本堂〔山形県指定文化財〕です。形照寺は天長3(826)年に慈覚大師円仁が現山形市北郊の中野で開山したと伝える古刹で、慶長6(1601)年に最上義光(モガミヨシアキ)が現在地に移建して寺領278石を寄進、寛永14(1637)年に塔頭(タッチュウ)の宝光院が創建されたようです。その後、慶安元(1648)年に3代将軍徳川家光から朱印状によって寺領を安堵されています。
 元和8(1622)年に山形藩主となった鳥居忠政は山形城を大改築しますが、その際、最上氏ゆかりの寺々に建物を下付し、現在の本堂は本丸御殿の一部が移築されたと伝えられています。ところが、最近の解体修理の際に、松平直矩(ナオノリ)が藩主だった貞享5(1688)年に江戸初期の建物を移建した事が判明、本当に本丸御殿だったのか疑問符が付く事になりました。しかし、鳥居忠政時代に形照寺本坊へ移築された御殿が、貞享5(1688)年に宝光院へ再移築されたと考えれば辻褄は会いますね。形照寺本坊は現在は廃絶しています。

 山形城と城下町の歴史は以下を参照して下さい。
 【古代・中世篇】
 http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1967996107&owner_id=250900
 【近世・近代篇】
 http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1968008676&owner_id=250900
明けましておめでとうございます。
2008年9月設置の当御殿部も11年目に入っております。
これもひとえに皆様の精力的な投稿の賜物と感謝申し上げます。
本年も何卒よろしくお願い申し上げます。

さて本日、遅ればせながら名古屋城本丸御殿の上洛殿を見てきましたので、投稿させていただきます。1〜2枚目が上段之間、3枚目が二之間です。

当部の歩みと重なる10年の長きにわたった本丸御殿の復元工事も昨年6月についに完成、感慨深いものがありました。
>>[580]
川越城の本丸御殿も幕末の御殿建築として実に貴重な遺産だと思います。
川越は喜多院にも江戸城の御殿が移築されて残っていますし、是非いつか訪れたいものです!
もちろん御殿目当てですが初詣も兼ねて
奈良県橿原市 橿原神宮 織田屋形(柳本陣屋)
を塀越しに眺めてきました。
それにしても4日なのに大勢の人人人・・・
山形県山形市 宝光院本堂になります。
山形城の建築物と伝えられています。
[578] 大審問官さんが載せていますね。
 文久3(1863)年八月十八日の政変で失脚した三条実美が長州での滞在場所とした何遠亭を平成27(2015)年に復元した物です。井上馨の実家に増築された離れで、何遠亭を含む井上邸離れは高田御殿と呼ばれ、尊攘派藩士達の巣窟になっていました。
 野田御殿の流しです。野田御殿は、明治2(1869)年6月に隠居した長州藩主・権大納言毛利敬親(モウリタカチカ)の隠居所として、現在の山口市菜香亭の地に建設が開始されましたが、完成前の明治4(1871)年3月に敬親が死去してしまったため、居住は行われませんでした。その後、明治18(1885)年の明治天皇行幸の際の行在(アンザイ)所や明治40(1907)年の嘉仁(ヨシヒト)皇太子(大正天皇)の御泊所として使用され、大東亜戦争後は県職員住宅となって蔵だけが残っていましたが、それも平成3(1991)年に取り壊されてしまいました。
 信越国境の復元関川関所と役宅です。
 詳しくは以下を参照して下さい。
 https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1972859576&owner_id=250900
上野国甘楽郡の小幡陣屋の御殿跡です。
建物遺構は無いものの、敷地がそのまま遺され、御殿の平面復元がなされています。
 肥前国佐賀城の本丸御殿です。御座間と堪忍所(カンニンドコロ)は天保9(1838)年の建築当時の物です。

左;外観
中;外御書院(ソトゴショイン)の長廊下
右;御座間

 佐賀城に関しては以下を御覧下さい。
 https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=398257&id=93981518
 肥前国佐賀藩主の別荘「神野の御茶屋」です。現在は神野公園となっています。
 「神野の御茶屋」については以下を御覧下さい。
 https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1975507158&owner_id=250900
 滋賀県大津市の天台真盛宗瑞応山法王院盛安寺客殿〔重要文化財〕です。元和5(1619)年に廃城となった伏見城の遺材で建立されたとの伝承があります。
 上野国前橋城です。前橋城の歴史については以下を御覧下さい。
◎城下町前橋の歴史 古代・中世編
 https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1978761449&owner_id=250900
◎城下町前橋の歴史 近世・近代編
 https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1978772727&owner_id=250900

左;本丸御殿(明治・大正時代の群馬県庁舎)写真
中・右;天台宗大興寺本堂(旧前橋知藩事松平直方邸宅)
 最後の佐倉藩主堀田正倫伯爵邸〔重要文化財〕です。明治建築です。
 詳しくは以下を御参照下さい。
 https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1981473001&owner_id=250900
岩出御殿 
和歌山県岩出市 以下案内板より
いわで御殿の由来と沿革
昔からこのあたりには風光明媚な小山があり、周辺の人々に景勝地として親しまれてきました。
そこに妙見堂という建物がありましたが、慶安二年(一六四九)紀州徳川家初代藩主・徳川頼宣がこれを和歌浦に移した後、その跡地に別荘を築かれたそうです。
この建物を「巌出(いわで)御殿」と呼び、歴代藩主が参勤交代の時など、ここに宿泊していたそうです。八代将軍吉宗も幼少の頃は、ほとんどここで過ごしていたと伝えられています。
この地からは大台ケ原や吉野に源を発する紀の川、箱山、紀州富士の名で知られる龍門山の美しい姿を望むことができます。
また当時は岩出の地名どおり川の中には人とり岩・畳岩・なまず岩・えぼし岩や車岩などと呼ばれる奇岩が点在していたそうです。
さらに上流は我国有数の材木の産出地でしたので、筏が下り、景観に風情を添えていたと思われ、紀州家が別荘を建てていたことがなるほどと頷ける景勝の地であったと思われます。
巌出(いわで)御殿は、宝暦一四年(一七六四)に取り壊された後、時代の流れとともに大阪では八州軒、横浜では臨春閣と所・名前を変えながらも、現在は横浜市・三渓園に「臨春閣」として国の重要文化財に指定され当時の姿を残しています。
さてこの地は、巌出(いわで)御殿が取り壊された後、御殿山と呼ばれ昭和のはじめ頃まで公園として地元の人々に親しまれていましたが、
奇岩のあった辺りが川の流れの障害となり再三にわたる岩出の水害の原因となっていたので川幅を広げるため、奇岩及び御殿山の一部を取り崩すことになり、かつての姿は失われています。
紀州藩の御殿
1.山口御殿 
和歌山市の北東部、市立山口小学校・幼稚園敷地内付近

初代藩主が別邸として堀を備えた設備を設置
参勤交代の際に、歴代藩主や幕府の使者の休憩所として利用されたとみられます。
2.西浜御殿
養翠園
県立和歌山工業高校付近に所在した紀伊徳川家の別邸
10代藩主徳川治宝は、文政7年(1824)に藩主の地位を譲って隠居し死去するまで、ここで隠然たる勢力を維持したそうです。
3.の湊御殿の建物を平成18年(2006)に移築しています。
入園料100円 P無料
3.湊御殿
和歌山市湊御殿1丁目から3丁目
紀州藩二代藩主徳川光貞(みつさだ・1626年〜1705年)の隠居所として元禄11年(1698)に造営されました。隠居した藩主が生活するために、湊御殿の敷地内にはたくさんの建物が建てられ
明治までは有ったみたいですが現状地名以外名残は有りません。
一部設備は上記2へ移動しています。
 長崎歴史文化博物館として復元された長崎奉行所立山役所です。
 詳しくは以下を御参照下さい。
 https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1982176885&owner_id=250900
 明治建築ですが、上野国館林城八幡曲輪にある旧館林藩主秋元家別邸です。
 明治時代末期に上毛モスリンによって建築された和館を旧藩主家の秋元興朝(アキモトオキトモ)子爵(1857〜1917)が買収して別宅とし、昭和5(1930)年には秋元春朝子爵(1881〜1948)が東京の神田駿河台本邸から洋館を移築して連結させたため、和洋折衷の建築となりました。石燈篭や庭石の中にも東京の本邸から移された物が大半です。地元の政財界の人間を招き花見会等が催される迎賓館としての役割を果た、庭園は“富春園”と呼ばれていました。
 昭和36(1961)年に春朝子爵の子の秋元順朝(アキモトナオトモ)埼玉銀行頭取(1905〜67)から群馬県が買収して、今は県有財産となっています。
 

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