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勤皇佐幕コミュの尊皇攘夷って?

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コメント(9)

薩摩は第二次長州征伐までは公武合体派で第二次長州征伐後は武力倒幕派と厳密には尊皇攘夷とも言えないんですけどね。

尊皇攘夷と言って間違いではないですが・・・。なので長州藩に関してだけ言うと、幕府も尊皇ではあるのでその点は共通であるけど前提とするものが佐幕なのか倒幕なのかという違いであって、そこの点に関してのコメントは佐幕派の人間としては当然良い思いはしないとしか言えないですね。

で攘夷については長州が実際に攘夷を行った下関戦争の原因となった外国船砲撃に関しても一応幕命でやった形ではあるので、将軍のその場逃れで約束した攘夷期限とはいえ公式な幕府の命令である以上は責められないというジレンマが。

ちょっと長く語ってしまいましたが結論としては長州の尊皇攘夷が倒幕を前提とした物であった上に幕府を利用して攘夷を行ったと云う点で気に入らないと思いますね。
勤皇と攘夷は当時はあたりまえの思想ですね。ただ方法論が「政治の実行主体が幕府か天皇か」、「富国強兵か武力排斥か」の違いです。
その点では薩摩は実に日和見的で思想よりも権力を求めていたのでしょう。

長州勢は尊皇の志士などと呼ばれますが、池田屋事件の際に明らかになった天皇拉致計画、禁門の変という御所攻撃などを見ても、とても尊皇の志士のやる事では無いですね。
また、開国派と判断した人物の殺戮などは許されざるテロ行為です。
攘夷の幕命は『襲来候節は掃攘致し候やう致さるべく候』ですから、沖合に停泊もしくは航行している艦船への攻撃は拡大解釈も甚だしいです。ましてや商船の襲撃など問題外。
なお、この蛮行による賠償金の支払いは明治7年まで続きました。
攘夷といえば話は逸れますが黒船来航前に幕府は「異国船打払い令」とかいうある意味危険な法令を出してましたね。
何せ外国船は問答無用で打払って良いとか云う法令でしたからね。

何はともあれ日本の当時の軍事力を見ると井伊直弼の独断は正しかったと云えますし、長州・薩摩の攘夷は危険な考え方であったのは確かですね。
日本の軍事力を一番知ってたのは幕府でしたから、幕府の判断が一番正しかったでしょうね。
異国船打ち払い令…徳川家斉が発して、没後すぐに廃されたとんでもない法ですね。

鎖国とは言っても正確には限定的開国ですから幕府は外国の力は知ってましたね。
だから富国強兵策をとって開港と通商に踏み切ったわけですが、薩長はそれが分かるまで多くの犠牲を出してしまいました。
長州激派は幕政を批判していたけど自分達は何も知らなかったということですね。
しかし事の始まりはペリー来航時の老中首座・阿部正弘が広く世間に意見を求めた事にあると思います。
ペリー来航時に幕府が初めから独断で開国を決めていれば、天皇が表に出てくる事も無く後々の尊皇攘夷もそこまで勢いづかなかったかもしれないですからね。ペリー来航時の幕府はマダ権威が残ってたので幕府独裁体制を維持出来てたにも関わらずそれを放棄し、結果権威失墜や天皇家を歴史舞台に呼び出す事になってしまい、長州の暴挙が為される羽目になってしまった訳ですし。阿部の判断が完全に間違いとは言いませんが、朝廷や諸藩にも政治参加できるという状態にしてしまったのはやはり問題であったと思いますね。

それが無ければ幕府が決めた事だから仕方ないって風潮になってたはずですしね
たしかにそれはありますね。
一番の問題は朝廷に勅許を求めて、それが得られないまま修好通商条約を締結したことではないでしょうか(和親条約については上奏して追認されましたが)。その為に過激な反体制主義者に尊皇という口実を与えてしまいました。
そもそも鎖国は幕府が決定した事だから本来朝廷の許しは必要無いのです。

ただ、広く意見を求めることは近代国家への脱皮の為に避けて通れない道だと思います。
徳川幕藩体制は十一代家斉の頃から崩壊が始まっていましたし。

阿部の時代感覚は優れていたけど、政治センスには欠けていたんでしょうね。
>>ただ、広く意見を求めることは近代国家への脱皮の為に避けて通れない道だと思います。
徳川幕藩体制は十一代家斉の頃から崩壊が始まっていましたし。

そこは同意ですね。結局遅かれ早かれ幕府以外の勢力が政治に参与する事になっていたという事ですかね。
修好通商条約時の幕府であればマダ独裁体制を辛うじて維持はしてましたけど、普通に考えて200年以上続いてる組織と考えると、独裁を維持できなくなるのは時間の問題であったかもしれないですし。

尊皇とは話が逸れますが、幾ら長州が尊皇を騒ぎ立てても14代将軍の徳川家茂と孝明天皇が健在の内は幕府を倒す事は出来なかったと思うと、この2人の急逝は悔やまれますね。
特に孝明天皇は攘夷論者であると同時に頑ななまでの佐幕派でしたからね。
家茂に関しても孝明天皇の義弟であるので朝廷との結び付きが強く、また幕臣からの信望高く忠誠を集めたという人なので幕府側の結束も慶喜時より強かったと思われますしね。何せあの勝海舟が唯一従順に従う相手であったと言われてるだけあって人柄に恵まれていたのでしょう。

何はともあれやはりペリーが初めて来てから調印まで1年くらい猶予があったのに何の対策も立てられなかった幕府ひいては阿部に問題があったのは確かですね
薩長の立てた明治天皇が睦仁親王でなく南朝の末裔の大室寅之祐だとしたら、水戸の勝ちとも言えますね。

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