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水流と水神コミュの木花咲耶姫(水の神)

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コミュ内全体

木花咲耶姫(コノハナサクヤビメ/コノハナサクヤヒメ)は
「桜の花の咲くように咲き栄える独身女性」の意。
木花咲耶姫は富士山に祀られることから通常は火の神と見られるが、
富士山本宮浅間大社の社伝においては
噴火を鎮める水の神として富士山に祀られたとしている。
水を必要とする酒解子神(酒造の神)とも呼ばれる。

古事記による表記=
 木花之佐久夜毘売(コノハナサクヤビメ/コノハナサクヤヒメ)
 神阿多都比売(カムアタツヒメ)
日本書紀による表記=
 木花咲耶姫
 木花之佐久夜毘売
 鹿葦津姫(カヤツヒメ)
 葦津姫(カヤツヒメ)
別称=
 木花開耶姫(このはなのさくやひめ)
 木花之開耶姫(このはなのさくやひめ)
 木花之佐久夜毘売(コノハナノサクヤビメ)
 鹿葦津姫(カヤツヒメ)
 神吾田津姫(かみあたつひめ)

木花咲耶姫はオオヤマツミの娘で、イワナガヒメの妹。
ニニギの妻となり、
ホデリ(海幸彦)、ホスセリ・ホオリ(山幸彦)を生んだ。

●コノハナサクヤビメを祀った代表的な神社
富士山本宮浅間大社(静岡県)
http://www.fuji-hongu.or.jp/sengen/
北口本宮冨士浅間神社(山梨県)
http://www.kashibesso.com/sub/sengen.htm

《目次》
埼玉県
●堀兼神社(狭山市)=書き込み33〜36
静岡県
●富士山本宮浅間大社(富士宮市)=書き込み27
東京都
●多摩川浅間神社(太田区 品川神社)=書き込み25/26
●境内社浅間神社(江戸川区 真蔵院 富士塚)=書き込み32
●境内社浅間神社(品川区 品川神社)=書き込み9/10
●境内外社浅間神社(杉並区 井草八幡宮) =書き込み3/4
●末社浅間神社(江戸川区 八幡神社 富士塚)=書き込み30
●末社浅間神社(杉並区 成宗弁天社)=書き込み2
●末社浅間大社(世田谷区 岡本八幡社)=書き込み17/18
●末社目黒富士浅間神社(目黒区 上目黒氷川神社)=書き込み11/12
●七夕=書き込み5
長崎県
●木花開耶姫神社(雲仙市)=書き込み20
兵庫県
●白國神社=書き込み37/38

↓MAP
http://www.google.co.jp/maps/ms?ie=UTF8&hl=ja&t=k&om=1&msa=0&ll=35.69775,139.631625&spn=0.001514,0.001682&z=19&msid=113844027188609943916.00000112af3c169b2d3b0

コメント(38)

●木花咲耶姫(成宗弁天社 下社浅間神社)祠
東京都杉並区成田東5-29-3

天保11年(1840)に馬橋村が開削した
善福寺川から高円寺村に引かれた新堀用水の中継池に利用された
弁天池を掘り上げられた土で富士塚(成宗富士)が築かれ、
そこに祀られていたものらしい。
なぜ、池(水)と山が組み合わされるのか?
木花咲耶姫の神風景としてのイメージは
富士山と水流の組み合わされたイメージである。
富士山と富士五瑚の組み合わせを
フィギュア好きの日本人がまるごと“模型”にしようとしたとしても
不思議は無いのかもしれない。
新堀用水の痕跡は成宗弁天社前の溝にだけ残っていたようだが、
近年、成宗弁天社は火災に遭ったようで、
拝殿と浅間神社祠も新築され、境内はまるごと作り替えられたようだ。
弁天池は成宗弁天社の裏側にあったというので、
裏(住友銀行社宅内)に回ってみると、
住友銀行社宅の給水タンクらしきものの設置場所になっていた。
富士塚はもちろん現在は無い。
弁天池はスチールのタンクに変わり、
住友銀行専用給水池になったということだ。
せめて富士銀行社宅にして欲しかったが、
あの会社も富士塚と同様、消滅してるか。
●境内外社浅間神社(井草八幡宮) 境内
東京都杉並区善福寺1-33-1

初めて井草八幡宮へ行ったときは青梅街道に面した歩道に
バイクを停めたのだが、
あとで、駐車場の場所を知り、2度目は駐車場へ入った。
境内と駐車場の間には一般車道が通っている。
愛車を停めてふと横を見ると石鳥居があった。
なぜこんなところに鳥居がと思いながら鳥居前にくると
奥に祠が見えた(写真左)。
祠前にやってくると『浅間神社』の標札が掲げてあった(写真中)。
祠の後ろは柵で立ち入れないようになっていて、
そこに笹の茂った小山があった。
それが富士塚であることはすぐ察知した。

富士塚は浅間信仰に由来するもので
『浅間』は『仙元』からきている山岳信仰であった。
浅間信仰はグループ(講)で資金を集め、
代表者が富士山に登拝することから富士信仰とも言われた。
富士講は戦国時代末期に長谷川角行が創始し、
18世紀半ばから江戸で大流行した。
富士塚は実際に富士登山ができない
虚弱者、老人、婦女子のために制作され、
現在も都内に50基ほどが残されている。

ここの富士塚は元は本殿西側にあったものが
昭和50年に移されたものだという。
この浅間神社は富士塚が神奈備で、
祠が麓の神社であるかのように配置されている。
しかも鳥居と祠の直線上から
意図的に富士塚の頂上はずらしてある。
これは厳島神社からみた弥山や大神神社から見た三輪山と同様だから、
何か理由があるのだと思われる。

普段はクローズしてある側の駐車場の方に回ってみると、
富士塚の麓には
長い辺がが4、50cmほどある丸石が積んであるのが露出していた。
(写真右)
それは麓だけではなく、全体がその丸石でできていて、
そこに土が盛ってあるようで、
笹はその土のある部分だけを被っていた。
試しに富士山の方角を眺望してみるが、
すぐ目の前にある桃井四小学校の校舎で視界は遮られていた。
●境内外社浅間神社(井草八幡宮) 水脈環境
東京都杉並区善福寺1-33-1

浅間神社から300m南にある八幡西橋に行ってみた(写真左)。
井草八幡宮から八幡西橋までは緩やかな坂道になっている。
両側は住宅街だ。
橋野下には善福寺川が流れているが水量は細い(写真中)。
ちょうど八幡西橋下で川底の幅が変わっていて、
下流側は幅を広げて、川底にマンホールの蓋が流れている。
善福寺川の下層は下水の暗渠になっているようだ。
●七夕

日本書紀によると、天孫瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が
吾田(アダ)の笠狭崎に天降りたとき、
波打ち際に八尋殿を建てて、中で機を織る(ハタをおる)
美しい棚機女(タナバタツメ)を見つけた。
それが木花開耶姫と磐長姫(イワナガヒメ)であった。
彼女たちは降りてくる神の衣を水辺で織っていたのである。
衣は身体(魂)を包むものであることから
“魂”をシンボライズしている。
このことから水辺で行われる神の衣を機織る作業は
“禊ぎ”の作業とされるようになった。
●棚機女(タナバタツメ)の星座

http://enkan.fc2web.com/minwa/seisin/9_sankou.html
●境内社浅間神社(品川神社)水脈環境
東京都品川区北品川 3-7-15

品川神社から真南300m地点には目黒川が流れている。
品川神社前を南北に抜けている国道1号線を辿って
目黒川に出て見た。
国道1号線は目黒川に渡された東海橋(写真左)を渡っている。
東海橋から品川神社を望むも、
ちょうどビルの陰になって見えない。
東海橋から上流を眺める(写真中)。
水量は豊かだが水はどす黒く不透明で水底はまったく見えない。
皮肉なことに、不透明なゆえに青空を映している。
川の突き当たりに見えるビル群が印刷会社だ。
現在はもちろん工場群は廃水処理をしていることだろうが、
工場群のある大崎より上流の水は透明なのに、
大崎より下流になると急に水が汚れているのは
工場群と関係があるとしか思えない。
廃水処理をしていようが魚が住んでなくて、
鳥が寄り付いていないことには間違いがないのだ。
ぼくも印刷物を制作する仕事に携わっているから事情は察しがつくが、
神田川でも日本最大手の印刷会社の工場群を通過した下流から
水質は極端に悪くなっている。
下流を眺めると
目黒川に架かった京浜急行の新馬場駅のプラットホーム超しに
龍神(タカオカミノカミ)を祀った荏原神社前の
鎮守橋、最奥に東京湾に面した火力発電所の煙突が見える(写真右)。
●境内社浅間神社(品川神社)
東京都品川区北品川 3-7-15

目黒川の北300m地点は小山になっていて、
品川神社の境内はその頂上にある。
この小山は高輪から続いている丘陵の南端にあたり、
北西の都心から流れてきた目黒川は
この丘陵の南側を迂回して東京湾に流れ込んでいる。

品川神社の階段下の左右の柱に
みごとな昇龍、降龍が巻き付いた石鳥居をくぐり、
階段を上がると中ほどにある踊り場の左手に
富士塚があった。
一合目、二合目には猿田彦神社、役行者二鬼像が祀られている。
塚の頂上まで登ると、かなり高かった。
標高20mとのこと。
頂上の足元に浅間神社の石祠が祀られており、
遠方に天王洲のビル群が望める。
試しに富士山の方向を見てみたが、
境内の樹木で視界が遮られている。

その富士塚の麓には浅間神社が祀られていた。
浅間神社の鳥居は品川神社の中央参道に向いており、
両脇に石灯籠。
鳥居の奥左手に『芳葉岡 富士 浅間神社』の石柱と
石灯籠。
社殿に向かって敷石が並んでいる(写真左)。
社殿前両側の狛犬の基壇には着色された富士山の浮き彫り。
富士山には『こ・ま・ん・い』のひらがなを
組み合わせてマーク化したものが入っているのだが、
何だかわからない。
拝殿は大鳥造。
中の神棚には神明造に寺院風の大きな桟を正面に着けた
横長で奥行きの浅い大きな祠が収めてあり、
左側に2基の猿像と狛犬、右側には猿像と狛犬が1基づつ。
猿像はかすかに着色が残っていて、左右の猿像の1対は
両手で何かを捧げているのだが、暗くてよくわからない。
猿像、狛犬ともに高さが30cmくらいの小さなもの
問題は祠中央の木花咲耶姫だが、
手前に逆巻く波と立ち登る雲の丸彫りの独立した壇があり、
奥には極彩色の急峻な形の富士山の浮き彫りか書き割りがある。
麓は海のようだ。
これはあきらかに海上から見た富士山の姿だ。
富士山の中央手前には木札があるのだが、
書いてある文字は判別できない。
これが見られたのは最初にここを訪れたときだけで、
幸運だった。
ほかの日に来た時は祠の扉は閉っており、
猿像も姿は無かった。
●目黒富士浅間神社(上目黒氷川神社)境内
目黒富士浅間神社:東京都目黒区目黒区大橋 2-16-21
目黒元富士:東京都目黒区上目黒1-8

バイクで目黒川を上流に向かって辿り、
246号線を渡る大橋に到達した。
目黒川は大橋下から暗渠になっており、
その200mほど北東に上目黒氷川神社がある。
上目黒氷川神社脇には交番があるため、
バイクを停めにくいので、
山手通から氷川神社の脇道に迂回したが、
そこも道幅が狭い上に交通量が多いので、
結局、氷川神社背面にある都営アパートの中の露地を抜けて、
裏側にバイクを停めた。
そこから階段を少し下ると脇参道階段の途中に出た。
参道を進むとちょうど末社である浅間神社の前に出た。
(写真左)
浅間神社手前に
「目黒富士浅間神社」と墨で筆書きされた木製の柱。
浅間神社は氷川神社拝殿の右脇奥に位置しており、
白木の明神鳥居、手水桶、朱の雪洞、左右2基の石灯籠、
右側にだけ狛犬が並び、
その奥に石製小祠を納めた小さな日吉造の社がある。
屋根の高さが2mほどだろうか。
社の右奥には富士講の人たちによって造築された
富士山形の石碑が立っている。

氷川神社麓に掲示してある「目黒富士」の説明板によると
文化9年(1812)に上目黒1丁目の切坂上に
富士講の人たちが高さ12mの富士塚を築き、
石祠(浅間神社)を祀り、7年後に
東側にある別所坂(恵比須から駒沢通りに下る坂)に築造された
新富士塚に対して「元富士」と呼ばれたという。
元富士は明治11年(1878)に取り壊され、
石祠と富士講石碑は現在の氷川神社境内に移されたという。
昭和52年(1977)に氷川神社に参道が開かれ、
氷川神社境内は「目黒富士」と呼ばれるようになったという。

目黒川は大橋から切坂下に向かって流れている。
氷川神社から山手通りを辿り、別所坂を登って
切坂上に行ってみると、そこは代官山の表通りの端にあたり、
現在はマンションになっていて、立ち入れないようになっている。
そのマンションの入口に区画された生け垣があり、
そこに「目黒富士跡」という表示板が立っている(写真中/右)。
説明板によると本物の富士山が望めたこともあり、
大勢の人でにぎわったそうだが、
現在はマンションなどに遮られて富士山を望婿とはできないが、
現在でもこの麓の東横線中目黒のプラットホームからは
台風の翌日などの空気の澄んだ日には富士山が望めるはずだ。
●目黒富士浅間神社(元富士)水脈環境
東京都目黒区上目黒1-8

切坂頂点にある目黒富士跡から蛇行した切坂を目黒川に下って、
270mほど南西にあるさいかち橋(写真左)に出てみた。
写真の橋の奥に見えるのが切坂のある丘陵だ。
さいかち橋から川面を見下ろすと川幅は広く、
水量はあるものの、水深はごく浅い(写真中/右)。
川には両岸の樹の枝が多い被さっている。
この両岸は桜の名所として知られ、春には花見客でにぎわう。
●末社浅間大社(岡本八幡社) 境内
東京都世田谷区岡本2-21-2

pm3:30
週末に愛車(バイク)の後輪タイヤを交換するために
雨の降る可能性があったが、世田谷区喜多見にある
ナップス世田谷店というバイク用品量販店に行った。
夏休み前ということもあるので、電話ですぐ交換できる状況かどうか
確認を入れて行ったのだが、作業開始まで、1時間半待ちと言われた。
ちょっとムカついたが、我慢して、
作業開始時間がくるまで、二子玉川の諏訪神社前の野川の河原と
瀬田の東名高速道路乗り口近辺にある瘡守稲荷神社の神体を見に行って
時間を潰すことにした。

ナップス世田谷店前の多摩堤通りでそのまま野川の河原に行った後、
瘡守稲荷神社に向かって、適当に露地に入った。
すぐに丸子川にぶつかり、丸子川沿いから鳥居が見えので、
寄ってみることにした。
丸子川にかかった橋を渡ると、
江戸時代中期の古民家が移設されている
岡本民家園の駐車場があったので、そこの駐車場に愛車を停めた。
民家園入場はpm4:00までで、すでにその時間を過ぎており、
ほかに車は1台もいなかった。

岡本民家園前の露地を入ってゆくと、
正面にさっき見かけた石鳥居があった。
石鳥居脇に「岡本八幡社」石柱。
その奥には鬱蒼とした森が立ち上がっている(写真左)。
鳥居からは70段ほどの急な石段が立ち上がっており、
すでに街灯には灯が付いていた。
階段を上がり切ると正面に
森に包まれた日吉造の八幡宮が建っていた(写真中)。
八幡宮の左脇には天満宮の黒い社が建っている(写真中)。
天満宮への短い坂はこのところの梅雨で、滑りやすくなっていた。
天満宮の背後の丘の森の中に石の祠が立っていたので、
左側に迂回して見に行くことにした。
その時誰かが境内の脇道に入って行った。
その脇道は時々通行者がいるので、石段を含めた参道は
その先に行くための近道になっているらしい。

やはり滑りやすい丘に登って行って石祠の前に辿り着くと、
それは第六天神の祠だった。
その祠前からさらに丘の先に石祠があったので、そこに進むと
それは愛宕宮の祠だった。
愛宕宮の祠前の山道はそのまま八幡宮の裏山を迂回しているので、
反対側まで進むと、2基の石祠が並んでいた(写真右)。
左側の大きな石祠が三峰神社、右の小さな石祠が浅間神社だった。
浅間神社の石祠は先ほど見た愛宕宮の石祠とまったく同じものだった。
三峰、浅間両神社から山道を下ると八幡宮の前に戻った。
●末社浅間大社(岡本八幡社) 水脈環境
東京都世田谷区岡本2-21-2

六郷用水の下流部分であり、世田谷区、大田区を流れる丸子川が
岡本八幡社鳥居の南60mを流れている。
そこに架かる橋から上流は石垣に沿ってショウブの葉が密生している。
(写真左)
ちなみにショウブはサトイモ科で、
きれいな花の咲く花ショウブはアヤメ科で、別ものだ。
ショウブははガマの穂のような地味な花しか咲かない。

http://www.city.niigata.niigata.jp/info/kantai/shicchi_no_shokubutu/shoubu.jpg

橋の近くには浮葉植物のトチカガミの葉が密集しており、
その周辺にだけ、鯉がいる(写真中)。
一方下流を見てみると、
すぐ隣にある橋の間まではショウブが刈り取られていて、
水量も少ない(写真右)。
橋の横にある岡本民家園は
江戸末期の生活様式と慣習を伝承する自然公園で、
公園内には
ゲンジホタルと

http://stat.ameba.jp/user_images/ba/89/10014417640.jpg

ヘイケホタルの

http://www.hotaru138.com/hs/ss.jpg

人工飼育が行われているホタル園と、
バッタが生息するのに適した環境を整えた雑木林もあるらしい。
>フィオさん

これ、陰石と陽石の組み合わせですか?
写真に写っている
石祠の中のものは陽石とは別のもの?
●多摩川浅間神社 境内
東京都大田区田園調布1-55-12

最初に女性と暮らしたのが
多摩川浅間神社前の東急東横線の踏切りを渡った
坂の上のアパートだった。
だが、その間、多摩川浅間神社には一度も参拝したことは無かった。
この神社はMr.ジャイアンツ長嶋家の参拝所としても知られている。
多摩川沿いの、
都内でも有数の古墳群の中にある
亀甲古墳(かめのここふん)の台地の東端に位置している。
この台地には玉川台公園があって、桜の名所として知られており、
花見をしたことがある。
福山雅治の代表曲『桜坂』は
亀甲古墳と玉川台公園の間を抜ける坂道のことだ。

ここは石製の神鳥居が3つある。
20段ほどの石段を上がり、一ノ鳥居をくぐると(写真左)、
正面に二ノ鳥居があり、その脇に富士塚がある(写真中)。
独立した富士塚ではなく、拝殿のある台地の崖が登山道になっていて、
途中に御岳石尊や食行身禄の石碑が立っているが、
現在は登山道には入れないようになっており、
参道石段の方から石碑前に出られるようになっている。
参道石段を登り切ると、右手に

・小御岳神社
・稲荷神社
・三峯神社
・阿夫利神社

の小祠が並んでいる。
向い側は社務所の広い屋上で、展望台になっており、
多摩川の雄大な景色が眺望できる。
参道正面にはきらびやかな拝殿があり(写真右)、
その屋根越しに本殿屋根が覗いている。
それは本殿が高い櫓の上に置かれているためで、
ここまでスリムで高い構造の本殿は珍しい。

源頼朝が豊島郡に出陣したときに
妻の政子がここ亀甲山(かめのこやま)から富士山を望み、
自分の守り本尊である浅間神社に夫の武運長久を祈り、
身に付けていた正観音像を亀甲山に建てたのが、
多摩川浅間神社の起源とされている。
●多摩川浅間神社 水脈環境
東京都大田区田園調布1-55-12

多摩川は山梨県、埼玉県の県境にある
笠取山(かさとりやま/標高1953m)山頂の南斜面を水源とする。
この水源の水も大腸菌が検出される場合があり、
熱処理しないと飲めないらしい。
それは水源の上方で猪や野猿が糞尿をするからだという。
微量の大腸菌でも検知できる装置ができてしまっただけだと思うのだが。

田園調布の『調布』は
奈良時代に多摩川流域で“調(税として納める特産物)”とされた
木綿の白布を指している。

多摩川の名称は759年に成立した万葉集には
「多麻河」と表記されているが、いかにも当て字っぽい。
江戸時代には「玉川」となったが、
この川は勾配が急なために古代からよくあばれた川で、
語源は「荒魂(あらたま)」からきていると思われる。
そのため、同じ理由で全国に「荒川」「玉川」の名称が散見される。

浅間神社本殿の裏を東急東横線が通っており、
東急東横線はそのまま鉄橋で多摩川を渡り川崎市へ通じている。
(写真左)
浅間神社のすぐ下流にある丸子橋(写真中/右)あたりは
多摩川の流路の変化で村が分断され、両岸に『丸子』の地名がある。
流路が現在の位置に収まったのは豊臣秀吉が日本を統一した
1590年の大洪水によるものとされている。
最後の多摩川の洪水は1974年の狛江水害で、
この時の家が崩れる映像が
山田太一の「岸辺のアルバム」の
タイトルバックに使われているのはよく知られている。
富士山本宮浅間大社
静岡県富士宮市宮町1-1



禊所という札がある場所以外でも
とにかく清い水に圧倒される。
まさに「水の神社」といった感じ。

横広がりの境内は 後ろに控える
山々を引き立てる。


「富士山おみくじ」という 富士山に見立てた
△の形の御神籤が人気。色は赤と青。


ここにくると門前の「富士宮やきそば」が名物。
周りには 看板や旗がたくさん掲げられている。
もちもちの麺の食感が楽しい♪(お土産もあり)






AYU さん  コノハナサクヤひめ に ついて ありがとうございます !

今夏 日本の旅で 静岡の浅間大社本宮で 禊の水に 足をしめらしまして

大島に向いましたが・・・  そこで マムシの皮に 足をまかれることになろうとは・・・・ 想像だに しておりませんでした・・・・

蛇の水神 のパワーを いただきました

さて もうすぐ ハワイ島に向かい 11月3日に サンフランシスコに帰ります   それまで ちょっと メールのチェック等 時間がなくなります

ハワイ島から帰りましたら ぜひ 天河のプロジェクトを施行いたしますので
ペーストのしかたなど 11月3日までに メールしておいてくださったら さいわいに存じます  

では バイクの旅 楽しんで  また 水の竜神さまの情報をよろしく なにとぞ

ピース & あろは 〜
>踊る菩薩さん

『マムシの皮に 足をまかれる』とは
どういう意味ですか?
●末社浅間神社(八幡神社 富士塚)境内
東京都江戸川区西葛西2-1

きっかけがあって、江戸川区を挟む中川と旧江戸川沿いを
バイクで走ってみた。
江戸川区は埋め立て地なので、神社は少ないのかと思ったが、
ほかから勧請された神社があったり、
西葛西の八幡神社のように
(おそらく移動したものだろうが)富士塚のある場所もあった。

船堀から中川の東側堤防を東京湾に向かって走っていると
石柵で境内の囲われた新しい八幡神社があった。
石製靖国鳥居の正面に平入屋根のシンプルな拝殿が見える。
(写真左)
広くはない境内に狛犬は無く、拝殿前は大きな石灯籠のみ。
説明板が出ていないので、
応神天皇以外の神が合祀されているのかどうか不明だが、
本殿の後ろに小さな富士塚があって、
山頂に石祠が二基祀られていた(写真中)。
片方は浅間神社だ。
富士塚はここへ移動された時に、
現在のボリュウムに省略されたのだろう。
新興住宅地ということもあって、背景はモダンな建物なので、
富士山から運んで来た溶岩が対照的に美しく見える。
人工的だが色が溶岩と馴染む石祠も似合っている。

拝殿は南東を向いているが、すぐ西側は中川の堤防だ。
この部分では中川と荒川が平行して流れており、
この二つの川を渡る10号線と
中川の上を走る首都高速中央環状線への入り口道路が
境内の目の前を走っている。
堤防はかなり高く、堤防の下には釣り竿が何本か川に突き出ていた。
●境内社浅間神社(真蔵院)
東京都江戸川区東葛西4-38-9

もう夕刻が迫っていた。
葛西を東西に縦断する450号線は
旧江戸川堤防にぶつかる直前で突然途切れ、
そこに雷香取神社と雷不動(いかづちふどう)の祀られた
真言宗豊山派(ふざんは)の真蔵院が並んであった。
『雷』に関しては真蔵院に以下の伝承が掲げられていた。

『葛西沖でしけにあった漁師が真蔵院の松にいた
竜の発する光で助けられ、
残された(?)剣を不動にそなえたことから、
「浪きり不動」と呼ばれ、
その浪きり不動が大雷雨の時に雷を退治したことから、
雷不動と呼ばれるようになった』

真蔵院本堂には不動明王が祀られているようだが、
その本堂の右脇に純白の鉄製鹿島鳥居があり、
その奥に小さな富士塚があり、そこに純白の石祠が祀られていた。
(写真左)
その浅間神社から東に南北に流れる旧江戸川までは230mほど。
堤防に出てみた。
そこは東京湾まで3kmほどの場所で、
堤防の内側は天井川になっていて、堤防から堤防下の草原までは
驚くほど浅く、3mほどしかない状況だった。
そのあたりの川幅は2〜300mほどだが、
堤防内の西側(真蔵院側)にだけ、
20mほどの草原が堤防に沿って連なっている。
日曜日ということもあって、
そこには散歩する人や釣りをしている人たちが居た(写真中)。
堤防内の草原に降りてみた。
草は短く切りそろえられているのだが、
かつて、それは見たことの無い光景だった。
そのために良い散歩場所になっているのだろう。
川縁まで出てみると、縁は大きな不定形の岩が
ゆるやかな傾斜で敷き詰められており、
それも見たことの無い光景だった。
今ならコンクリートで処理されてしまうだろう。
その岩場に河川内を頻繁に往来する釣り船の立てる浪が打ち寄せていた。
(写真右)
堀兼神社は井戸の方が先にできたんですね。

『日本武尊が当地において水がなく、苦しむ住民を見て』
日本武尊が助けるとしたら、
狩猟民族(縄文人)は敵だったわけだから、
やはり水田耕作をしてた人たちなんだろうね。
●白國神社
●兵庫県姫路市白国字山田691

延喜式神名帳式内社、播磨國四の宮。
創建は約1700年前。
主祭神は、木花咲耶媛。
または、神吾田津比賣神ともいう。
木花咲耶媛は、ここでは安産の神である。
白國氏三代・阿層武命の妻・高富姫が難産で苦しんだ時、吾田津姫の加護で、阿良都命を安産したという。
そこで吾田津姫が祀られ、お産の神として崇敬されている。
社伝では、阿層武命は景行天皇の曾孫とされている。

木花咲耶媛の、水神としてのもう一つの性格は、産褥の禊ぎ祓いの神である。


ところで、白國=新羅である。
祭神は、新羅国国主大明神ともいう。
神社名は、新羅訓(しらくに)神社ともいう。
播磨風土記に新羅人が渡来し、新羅訓村(しらくにむら)という村を作り住んだとある。
神社の近くには、金鋳場(かねいば)という小字や、他にも製鉄を思わせる地名が残っている。
●白國神社 水脈環境、弁天池
●兵庫県姫路市白国字山田691

白國神社の南に、弁天池がある。
奈良時代には、ここに白國寺(今は白國廃寺と呼ばれている)があった。
池の中の弁天島に、弁天堂があって、これが白國寺の塔跡らしい。
弁天島と対岸は、橋が架かっているが、普段は降ろされているようだった。
対岸は今は、学校の校庭になっているからだろう。
物騒な世の中だから仕方がないが、是非参拝したかった。

白國神社に関しては、神像ミュージアム・随神トピックも参照ください。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=45541802&comm_id=4490692

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