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私の勉強部屋コミュの室町時代・世阿弥とその背景・・ノート(いい加減にメモってます)

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室町って興味なかったんですけど(そもそも歴史にあんまり興味がない)ちょっと勉強してみます。

1338年足利尊氏が幕府を京都に開いてから,1573年織田信長*が足利義昭を追放して幕府をたおすまでの約240年間をいい,足利時代ともいう。 →https://kids.gakken.co.jp/jiten/7/70008070.html

久々日本の歴史年表みたけど、並びを間違えてたわ。


14世紀世界
https://ja.wikipedia.org/wiki/14%E4%B8%96%E7%B4%80


西洋音楽で言うと、中世西洋音楽と呼ばれる区分の時代なのか。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E4%B8%96%E8%A5%BF%E6%B4%8B%E9%9F%B3%E6%A5%BD
ルネサンスは14世紀だけど、ルネサンス音楽ってのはもっと後なのね。メモ。

ギヨーム・ド・マショー(Guillaume de Machaut, 1300年頃 - 1377年)なんか生きてた時代くらいか。

世阿弥と関係なさそうだけど、ついでだから→その時代の音楽家 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E4%B8%96%E8%A5%BF%E6%B4%8B%E9%9F%B3%E6%A5%BD%E3%81%AE%E4%BD%9C%E6%9B%B2%E5%AE%B6%E4%B8%80%E8%A6%A7


いきなり熊本はどうしてるのかと思ったら、南朝一辺倒
「南北朝時代 (日本)」も参照

天皇親政下の政策は、拙速な改革や朝令暮改、恩賞の不公平や新課税など多くの問題をはらんだもので、親政権は急速にその支持を失っていった。建武2年(1335年)足利尊氏は鎌倉で反親政に乗り出し、後醍醐天皇は新田義貞を討伐に差し向けた。天皇に近侍していた菊池武重・武吉兄弟は「菊池千本槍」を携え、また阿蘇惟時・惟直親子も共に新田軍に加わって、箱根・竹ノ下の戦いに参戦した。この時、阿蘇親子に向けた「後醍醐天皇綸旨」が「阿蘇家文書」として現存している。しかし新田方は破れ、京都までの退却をも追われた。菊池武重は殿軍として足利直義を退ける活躍を見せ、建武3年/延元元年(1336年)には京都・大渡橋の戦いでも尊氏軍を迎撃した[14]。その後武重は比叡山に逃れた後醍醐天皇に付き従い、そのまま軟禁された。

足利尊氏は京都で北畠顕家に敗北し、態勢建て直しのために九州へ逃れた。この際、九州の有力武士団に軍勢催促状を送り、武家政権復活に期待を寄せる少弐頼尚らはこれに従った。しかし、菊池・阿蘇氏は南朝への義理に服した。武重不在を守る菊池武敏や阿蘇大宮司惟直と惟成兄弟は軍を率いて北上し、優勢な戦力を背景に多々良浜の戦いに臨んだがこれに敗れ、尊氏の再決起をみすみす許した。建武3年4月3日、九州北部に一色範氏(道猷)を、南部に畠山直顕を置き、少弐頼尚や大友氏泰らを率いて尊氏は大船団で京へ出発した。その途上、迎え撃つ天皇方を湊川の戦いで撃破し、敗れた楠木正成とともに菊池武吉は切腹して果てた[14]。この後、尊氏と、これを避けて吉野に逃れた後醍醐天皇による、南北の両統が迭立する南北朝時代が始まった。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E6%9C%AC%E7%9C%8C%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2

まぁ、世阿弥の頃は、3代目ショウグン将軍足利義満の時代ですが。


世阿弥 世阿弥(ぜあみ、世阿彌陀佛、正平18年/貞治2年(1363年)? - 嘉吉3年8月8日(1443年9月1日)?)は、日本の室町時代初期の大和猿楽結崎座の猿楽師。父の観阿弥(觀阿彌陀佛)とともに猿楽(申楽とも。現在の能)を大成し、多くの書を残す。観阿弥、世阿弥の能は観世流として現代に受け継がれている。

よくみたら15世紀にもかかってくるのか。

コメント(3)

世阿弥の頃の熊本はこんな感じか。wikiから

室町の肥後
菊池氏の盛衰

今川貞世が去り渋川満頼が九州探題に就くと、菊池氏はまたも反逆の姿勢を顕わにした。しかし、続く断続的な戦乱の中菊池氏は段々と衰え、代わって詫磨満親が勢力を伸ばした。しかしこれも一時期なもので、南北朝時代に名を馳せた河尻氏とともに応永年間には目立った活躍を見せなくなった。

菊池氏は一時的に勢いを取り戻す。菊池兼朝は肥後守護職に任ぜられたものの、阿蘇氏や相良氏の勢力圏にまでは守護の権力を及ぼすことはできず、一国を支配するだけの権力を打ち立てられず、菊池氏の歴代守護を悩ませることになった[2- 5]。永享3年(1431年)菊池持朝の代になると親幕府の態度を表し、筑後・肥後の守護に任じられた。菊池城下は隈本に代わり守護所(隈府)となった。次代の為邦は日朝貿易に乗り出し、また城下に玉祥寺や碧巌寺を建立するなど、その富と徳は褒め称えられた。しかし後半生には筑後守護職を大友氏に奪われて日朝貿易が不可能となり、相良氏の八代進出にも無策のままで終わった。これが菊池氏衰退の始まりとされる。

次代菊池重朝は守護職も継承し、公権力を用いた菊池城下の整備を行い、菊池五山や城下町の形成がこの頃行われた[2- 6]。重朝はまた、文化人としての業績も残した。重臣の隈部忠直とともに建立し、招かれた桂庵玄樹が詠んだ漢詩に残される孔子堂。藤崎八旛宮の造営。また連歌の会も多く催した。文明13年(1481年)8月に興行した万句連歌は、後に書写されたものが伝わり、会の参加者を知ることが出来る。それによるとほとんどが肥後北部の者で、菊池氏系の有力庶氏は加わっていない。また、半数は菊池氏の直臣の名が見られ、特に隈部氏からは多くの出席が見られる。この頃、菊池氏勢力下の政務は隈部氏・赤星氏・城氏(藤原性)が家老家として執り行い、かつて「菊池家憲」で定められた合議制は影も形も無かった。重朝が亡くなった明応2年(1493年)、菊池惣領は嫡子能運が継いだが、彼が最後の菊池本家嫡流となった。
阿蘇氏の分裂、矢部郷に拠点を移す。「浜の館」の隆盛

一方、阿蘇氏は一族分断の危機に晒されていた。阿蘇惟澄は一時北朝にも付いた嫡男・惟村に大宮司を継がせたが、弟の惟武はこれを不服として征西府に訴え出て認められ、貞治6年/正平22年(1367年)大宮司の補任を受けた。この時から阿蘇一族はふたつの系列に分かれて対立を始めた。

阿蘇惟村 – 惟郷 – 惟忠は矢部に本拠を置き九州探題や大友氏の支持を得ていたが、阿蘇神社領を配下に置き菊池氏に支援された惟武 – 惟政 – 惟兼を抑えられなかった。応永11年(1404年)には惟郷が攻め入り、同族での合戦となった。この時には幕府が仲裁に入った。その後も争いは続いたが、宝徳3年(1451年)一族長老らの決議により惟兼の子・惟歳を惟忠の養子として両統の一本化を図った。しかし、惟忠は実権を手放さなかったため、文明17年(1485年)惟歳とその子・大宮司惟家は相良氏の助力を受け、一方の惟忠と子・惟憲は守護菊池重朝の支援を取り付けて幕の平(現:上益城郡山都町杉木・山田)で激突した。戦いは惟忠と惟憲側の勝利(幕の平合戦)に終わった。
人吉と八代

南北朝時代、球磨地方の相良氏は多良木の上相良と人吉の下相良に分かれ、阿蘇氏のような対立を繰り返していた。この膠着状態に決着をつけ当地の統一を成したのは、文安5年(1448年)上相良を滅ぼした相良(永留)長続だった[2- 7]。だがこの実態は庶家による下克上とみなされている。長続は守護・菊池為邦から葦北郡の領有権を獲得し、寛正4年(1463年)には名和顕忠助力の引き換えに、高田郷(現:八代市南部)も領地に加えた。

相良氏の援助を受け八代城に戻った名和顕忠は、しかし高田郷を惜しみ、文明8年(1476年)薩摩の牛屎院へ出兵した相良氏の隙を突いて高田郷に攻め込んだ。長続の嫡子相良為続は天草領主を味方に引き込み防いだ。文明14年(1482年)ふたたび顕忠が攻めると、またも天草衆と共同して為続はこれを撥ね返すと、そのまま八代を攻撃し2年後には制圧に成功した。勢いを借りて豊福(現:宇城市、旧松橋町)まで進出した。だが、明応8年(1499年)には菊池能運の助力を得た名和氏に敗退し、松橋・八代を手放して球磨へ引き戻った。
世阿弥の生涯

生涯

世阿弥が生まれたとき、父である観阿弥は31歳で、大和猿楽の有力な役者であった。観阿弥がひきいる一座は興福寺の庇護を受けていたが、京都へ進出し、醍醐寺の7日間興行などで名をとどろかせた。世阿弥は幼少のころから父の一座に出演し、大和国十市郡の補巌寺で竹窓智厳に師事し、参学した。[1]

1374年または1375年、観阿弥が今熊野で催した猿楽(申楽)能に12歳の世阿弥が出演したとき、室町将軍足利義満の目にとまった。以後、義満は観阿弥・世阿弥親子を庇護するようになった。1378年の祇園会では将軍義満の桟敷に世阿弥が近侍し、公家の批判をあびている(「後愚昧記」)。1384年に観阿弥が没して世阿弥は観世太夫を継ぐ。

当時の貴族・武家社会には、幽玄を尊ぶ気風があった。世阿弥は観客である彼らの好みに合わせ、言葉、所作、歌舞、物語に幽玄美を漂わせる能の形式「夢幻能」を大成させていったと考えられる。一般に猿楽者の教養は低いものだったが、世阿弥は将軍や貴族の保護を受け、教養を身に付けていた。特に摂政二条良基には連歌を習い、これは後々世阿弥の書く能や能芸論に影響を及ぼしている。

義満の死後、将軍が足利義持の代になっても、世阿弥はさらに猿楽を深化させていった。『風姿花伝』(1400年ごろ成立か)『至花道』が著されたのもこのころである。義持は猿楽よりも田楽好みであったため、義満のころほどは恩恵を受けられなくなる。

義持が没し足利義教の代になると、弾圧が加えられるようになる。1422年、観世大夫の座を長男の観世元雅に譲り、自身は出家した。しかし将軍足利義教は、元雅の従兄弟にあたる観世三郎元重(音阿弥)を重用する。一方、仙洞御所への出入り禁止(1429年)、醍醐清滝宮の楽頭職罷免(1430年)など、世阿弥・元雅親子は地位と興行地盤を着実に奪われていった。

1432年、長男の観世元雅は伊勢安濃津にて客死した。失意の中、世阿弥も1434年に佐渡国に流刑される。1436年(永享8年)には『金島書』を著す。後に帰洛したとも伝えられるが、幼少時に参学した補巌寺に帰依し、世阿弥夫妻は至翁禅門・寿椿禅尼と呼ばれ、田地各一段を寄進したことが能帳に残っている。大徳寺に分骨されたのではないかといわれている。「観世小次郎画像賛」によれば嘉吉3年(1443年)に没したことになっている。[2]
将軍に愛された美少年・世阿弥〜謎の後半生 http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/turedure/2009/08/post-a872.html

なかなか腐的な記事でステキ。 

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