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埋もれた偉人 無名の偉人 コミュの幕末、明治維新

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コミュ内全体

物事を公平な目で見るのは大切な事。

戦後日本は、過去の戦争の事で一方的に悪者とされ続け、
所謂自虐史観を植えつけられました。

それが20世紀末頃、自衛戦争史観が盛り返しをはかり、
アジアで日本を叩いているのは中国韓国北朝鮮のみで、
他のアジアの国はむしろ誉めているという。

この事で、物事を公平に見る事は大切であると思い知ったのです。
両者の言い分を公平に見て、自分で判断する。
分からなければ、保留にする。

それは明治維新についてもいえる事で、
最近は色々と美談ばかりではない話が幾つもでてきました。

「明治維新という過ち」(毎日ワンズ)という明治維新批判本が物議を醸しましたが、
この書籍に感情的に反発するのは、反日系の人とやっている事が同じではないでしょうか?

明治維新は英仏の代理戦争という見方に対し、「陰謀論」と切り捨てる人もいます。

批判に真摯に耳を傾ける事は大切ではないでしょうか?
それを受け入れるかどうかはまた別です。

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赤松小三郎

幕末期の兵学者・政治思想家。

天保2年(1831年)4月4日、
信濃国上田城下に上田藩士・芦田勘兵衛の次男として生まれ、
清次郎と名付けられる。のち、同藩士・赤松弘の養子となり名を小三郎と改める。
藩校の明倫堂に学び、竹内善吾の高弟植村重遠に師事する。

嘉永元年(1848年)、江戸に遊学。幕臣で数学者の内田弥太郎のマテマティカ塾に入る。
嘉永5年(1852年)、西洋兵学者の下曽根信敦に入門。
安政2年(1855年)、勝海舟に入門し、勝の従者として長崎海軍伝習所に赴き、
オランダ人より語学、航海、測量、騎兵学等を学ぶ。
安政5年(1858年)、オランダの兵書『矢ごろのかね 小銃彀率』を翻訳し出版。
安政6年(1859年)4月、長崎海軍伝習所の閉鎖により江戸に戻る。
咸臨丸への乗船を希望するも、選ばれず。

万延元年(1860年)3月、養父赤松弘の病没により、赤松家を相続。
文久2年(1862年)、上田で調練調方御用掛となる。
文久3年(1863年)、上田で砲術道具製作御掛となる。

元治元年(1864年)9月、第一次長州征伐に際し、公務として江戸へ出る。
11月より、江戸へ出て横浜に駐屯するイギリス騎兵士官・アプリン大尉より騎兵術、英語を学ぶ。

慶応元年(1865年)4月、第二次長州征伐に際し、
大阪に在陣。陣中で英国陸軍の兵書の翻訳を進める。
慶応2年(1866年)3月、『英国歩兵練法』を翻訳、出版。
8月、「方今世上形勢の儀に付乍恐奉申上候口上書」を幕府に提出。
9月、藩主の松平忠礼に藩内の身分制度撤廃と言論活動の自由を求める建白書を提出。
10月、薩摩藩から英国兵学の教官としてスカウトされ、その後、京都の薩摩藩邸で開塾する。

慶応3年(1867年)、薩摩藩の依頼により『英国歩兵練法』を改訂し、新訳で出版。
5月、前福井藩主・松平春嶽に対して「御改正之一二端奉申上候口上書」[1][2]を提出。
島津久光と幕府にも、春嶽宛のものと同様の建白書を提出。
9月3日、上田藩に帰国の途上暗殺される[3]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E6%9D%BE%E5%B0%8F%E4%B8%89%E9%83%8E

坂本龍馬より時代に先駆けた赤松小三郎 暗殺犯の黒幕は西郷隆盛だった
https://dot.asahi.com/wa/2015102900050.html

「長州レジーム」から日本を取り戻す!
歴史から消された思想家・赤松小三郎の「近代立憲主義構想」を葬った明治維新の闇〜
岩上安身による関良基氏インタビュー(その1) 2017.6.6
https://iwj.co.jp/wj/open/archives/382111

コメント(1)

凌霜隊(りょうそうたい)は、慶応4年(1868年)に郡上藩の脱藩士によって組織された部隊。
戊辰戦争において、旧幕府側に立って新政府軍と戦った。

幕末の動乱期、郡上藩青山家中においても、
勤王派、佐幕派に分かれて激論が繰り広げられていたが、藩論は勤王と決した。
しかし、徳川家譜代の家臣であった青山家では、
情宜的に佐幕の雰囲気も強く、特に江戸藩邸においては佐幕派が多数を占め、
脱藩して新政府側に抵抗しようとする考えの者もいた。

新政府軍が江戸に迫りつつあった慶応4年4月10日(1868年5月2日)、
江戸家老朝比奈藤兵衛の息子、朝比奈茂吉(当時17歳)が隊長となり、
江戸在番の脱藩士45名による部隊を組織して、これを凌霜隊と名付けた。
「凌霜」とは霜を凌いで咲く葉菊のような不撓不屈の精神を表す言葉で、
青山家の家紋である青山葉菊に由来する。

結成の経緯については、江戸家老朝比奈藤兵衛が、
幕府側が勝利した際の事も考慮して主導した、
藩の存続をかけた二股的な戦略であったという説もある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%8C%E9%9C%9C%E9%9A%8A

戊辰戦争・明治維新150年企画!郡上藩「凌霜隊」の書籍再版にご協力ください!
https://camp-fire.jp/projects/view/83532

朝比奈茂吉
https://blogs.yahoo.co.jp/yuso_sirakaba/53958538.html

凌霜隊、軍服姿の写真発見 新政府軍と戦った旧郡上藩士
坂田林左衛門
https://www.gifu-np.co.jp/news/20180724/20180724-60064.html

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