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おもしろ歴史館-新裏太郎山通信コミュのマガジン第八号

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今号は、9月1日に小生が担当しました新生上田市公民館公開講座
『堰が支えた人々の暮らし』の大要を送付します。
山里に暮らしている拙宅の周りを見ても、虫食い状態に耕作の放棄された田畑や住宅に転用された農地が目立ってきました。水田農業やそれに不可欠な堰(農業用水)への関心も薄れるばかりです。一方で、食の安全や食糧自給率低下は深刻な様相を呈しています。そうした状況の中、幾ばくかでも共に考えてもらえればと、浅学非才を顧みず、引き受けた次第です。
 1999年、ブックレット『農業の文化財堰を歩く 千曲川右岸編』(桂木一部担当)が刊行されてから少し時間が経ちましたので、再度史料や市町村史などに目を通してみました。改めて感じさせられたのは、堰への近現代史からのアプローチの乏しさです。
 この100年、政治支配や行政の形態、そして何よりも農地所有の形態が大きく変化してきました。それに不可欠な農業用水も旧来の慣行を一面では維持しつつも、大きく変化してきたはずなのですが、そうした見地からの研究はほぼ白紙といってもいいかもしれません。では、この講座を引き受けたお前はどうなんだといわれそうですが。
ということで今回は、千曲川右岸最大といわれる吉田堰を中心に、ガイドブック的な内容になってしまいましたが、ご了承下さい。
聴講されたのは、どう見ても小生よりもはるかに年配の方々がほとんどでした。また、上記のような内容にも拘わらず、熱心に聞いて頂いて有り難かったです。
以下、大要です。地図や写真、一部資料などは貼付できませんでした。ご了承下さい。
わが町発見
 新生上田市公民館公開講座 2007,9,1 桂木 惠担当
『堰が支えた人々の暮らし』大要
  ー吉田堰を中心にー
初めに
(1)日本の水田農業の実際
 堰を考えることは、水田農業を考えること。(畑灌もあるが、基本は水田灌漑。)
放置された水田と商業施設や住宅地へと転換された水田→米と水田、それを支えた用水路への関心低下
?年々減少の一途を辿る水稲。(図表1 上表左)
  長野県の耕作放棄率17,5?、全国平均は9.7?(長野県農政部平成18年度調査)
  

 ?農業従事者の高齢化
  図表2(上表中) 

(2)堰の現状
 ・水田農家の減少と、受益者負担原則のため維持管理への一戸当たりの負担増
 ・かつては飲料水としても生活用水としても重宝。子どもの遊び場ですら。役割低下は汚染に。
 ・水田は減少しても、虫食い状態に減少するがゆえに、農業用水路としての堰の役割は低下せず。
2、農業の命綱=堰の歴史(概略)
(1)堰という用語について。
 「本来の堰は、河川を横断して水の流れを塞ぎ止め、流水の分水や貯水量を目的として設置された構造物…近世の堰はその構造物と田畑を灌漑するためにそこから引き入れた用水路をも含めた総称の意味  を持つようになり…」国史大辞典 吉川弘文館 本県では「せんげ」ともいう。
(2)堰の始まり
水田開発と共に堰はある。九州佐賀県にある最古の水田跡である菜畑遺跡、水田と共に水路も発見。
 この時期の水田は、一区画が数十平方メートルの極めて狭いもの。後期の登呂遺跡は数百平方メートルから1000平方メートルのかなり大規模な水田。水路の存在も確認。
(3)荘園から惣村へ
  領主の管理下から地域的結合体の自主的管理下に移行。同じ水系毎に村々の話合いや争い。水論が高じて武力を伴う場合も。
(4)戦国期から幕藩体制期
  戦国大名やそれに続く幕藩体制下の諸大名の新田開発やそれに必要な堰の開発。
  堰の管理運営は、農民の自治的なものに委ねる。
  近世の新田開発に伴う新堰は、開発には莫大な投資を必要したが、実際の管理運営は、それまで同様  に地域の村々の自治的なものに。水論解決のための話し合いや訴訟などを繰り返し水利慣行が確立。
(5)明治政府と普通水利組合
  自然村を廃止して市町村制へと中央集権的なものに改変。旧来の水利慣行を尊重する普通水利組合の  組織化。費用は、小作人を除いた農民負担。
(6)戦後の農地解放と土地改良区
  全ての耕作者加入を前提とした土地改良区の維持管理運営の下で管理運営。しかし、実際の管理運営  は、旧来の伝統を尊重。しかし農地所有制の大改革と堰との関係の史的研究は殆ど白紙。
  食糧増産を目指しての農業生産力向上と農家個々の所得拡大を目的とした堰や溜池の工事活発化。
(7)高度経済成長期
  区画や圃場の整備も活発化。コンクリート三面工法と近代的な頭首工建設など。
(8)米余りの時代・減反
  工業中心の経済発展。農村への公共事業の投資先として土木工事。機械化や化学肥料の大量投下によ  る「金のかかる農業」が、経営を圧迫。
  1969(昭和44)年、初めて減反実施。政府は、転作や耕作放棄に対して補助金というアメを与  える一方で強制的な減反というムチで米余り対策。愚策としかいいようのない、青田刈り。
  減反を強制的に進めても、未だ米余りの問題は解決せず。堰もまた、厳しい時代の中に放置。
  農水省の田園空間博物館の行方は?。
  
3、堰の持つ価値
(1)水の優れた有効利用
  いくつもの田を順に潤した後、その多くを再び川に戻す灌漑。塩害に苦しむアメリカの灌漑と対極。
  灌漑するだけでなく、排水までもが視野に入れた開発。
  乾田の増加による増収。
(2)構造的に価値を持つ堰(土木史的立場からの研究は、近世のみを対象)
  ?水温を上げる工夫
   蛇行させて流路の早さを押さえたり、浅くして水温を上げる工夫(曲尾用水の温水路など。)
水面付近の草を刈ったりして日照を確保する努力
?漏水を防いだり、流路を変えたり、下流へ確実に流す工夫
厚敷き(アッチキ)など 
自然流下の力だけで、遠くまで等高線沿いに水路(横堰)を築く測量と施工の技術。
  ?水害から守る工法
   隧道、樋渡(河川を立体交差で渡る構造)など
(3)文化的に価値を持つ堰
  ?今日まで生きる水利慣行
   工業用水や生活用水を確保するという名目で、水利慣行を敵視する動き。しかし、これまで長年の   水利慣行があったからこそ守られてきた水。菅平鉱毒による河川汚染や菅平カントリークラブの
   水横取り事件に一丸となって反対し、水を守る対応ができたのも水利慣行故か。
(4)長野県に於ける堰の重要性
長野市の場合、年間降水量は過去(2001〜2003年)平均893?。東部町で751?
全国平均1737?。静岡や高知の約3分の一。(日本気象協会及び東御市消防署調べ)
   堰の果たす役割の多い長野県。(図表3 上表右参照)
   ため池の多いといわれる上田小県でもため池に頼る率は36?(関東農政局調べ)
 
「農地および基幹農業水利施設の状況」(平成18年度関東農政局)より作成

4,神川の用水堰と吉田堰の概要
(1)多くの堰を潤す神川と最大規模の吉田堰
 ?烏帽子山系と四阿山系からの川や沢は幾筋もあるが、神川以外は、何れも水量乏しく、急流。
 ?神川から取水している堰
 吉田堰の他、横尾堰・窪堰・堀越堰・新屋堰・岩門堰・常田堰など。(別掲菅平ダムのパンフレット)
?長大な堰 (別掲地図)
  真田町石船取り入れ口より、本原地区を経て上田市の北東部矢澤・赤坂地区を経て森、大日木、小井  田地区を通り、東部町深井地区に至り、西海野で千曲川に落下する本流だけで全長12キロメートル
 ・規模(受益面積)から言えば吉田堰の300haが群を抜いて大きい。(1999年調査)尤も、1  970年頃の600haに比べればかなり減少。
(2)吉田堰の歴史
 ?赤坂将軍塚や真田の古墳などから、中原、番匠、下原、赤坂、矢澤一帯のはそれなりの水田が開発さ  れていたのでは。沢水か小規模の用水路を利用していたと推定。
 ?開削年代について
 ・明治25年の水利組合設置願いでは、「養老元開鑿」(717年)と記述。しかし根拠はない。『上田小県史』でも、小県年表の養老元年説を紹介。養老年間は、律令国家が墾田奨励。染谷台の条里の跡や信濃国分寺建立を考えれば、その可能性あり。
 ・現吉田堰に平行して確認できる古い堰を童女堰とよび、後から開削したのが吉田堰ではないか。
(『真田町誌歴史編下の推測』)
 ?永禄元年(1558年)から13年をかけて大改修。
 ・水路を大幅に延長して、中吉田や東部町の東深井、西深井地区まで延長。
?加勢人足の発足と消滅
 ・水利権の放棄によって水に余裕ができたことへのお礼として、田中村などからの加勢人足の発足。
  「上深井、下深井、中吉田の三村は往古は烏帽子水系に属していた。それが吉田堰ができることによ   って神川水系に変わっていった。…我々が神川水系に走ったため、烏帽子水系は水が楽になった。   だからそれらの人々は、吉田堰へ加勢人足を出すべきである」(『和村誌』歴史編)
「田地用水堰一カ所 但堰口ハ、加賀川ノ流ヲ真田下よりあけ申候、普請ハ堰下吉田・深井・森・小   井田ニテ人足百五十人つつ堰仕廻迄出申候、右之外組中九ケ村より一日ニ九十五人つつ五日間ニ加   勢人足古来より出申候」  深井村寶永三戌差出帳  『大日本近世資料』
・「乍恐以書付奉願上候
   第一区小県郡中吉田村外五ケ村組合吉田堰加勢人足   一,四七五人
   内五十人 本海野村  七十五人 田中村  五十人 常田村  加沢村 二十五人 東上田村
   五十人 栗林村  五十人 東田沢村  五十人 中曽根村  五十人 海善寺村
   右加勢人足、前々より勤来候処、当年に至り再三頼入候へ共、苦情悲嘆申居候に付、吉田堰普請差   支に付、奉恐不顧、何卒人足差出候様、被仰付度、奉願上候…」 明治初年 『上田小県誌』   ?吉田堰普通水路組合の発足
 1890(明治23)年 水利組合条例(法律)に基づいて吉田堰普通水利組合発足。
堰役人は、それまでの村々の庄屋に代わって選挙で選出。
   選挙資格は、「満廿五年以上ノ男子戸主ニシテ組合区域内ニ住居シ此用水ニ関係アル土地ヲ所有」   するものに限られていた(前掲 箱山貫太郎『吉田堰』)また、「区域内に住所なき者は所有土地   の所在に依」っていた=不在地主を前提。
  それまで負担の無かった上流の組合外関係村(殿城村・本原村・長村)も人夫を出すように変化。
「…但し該村より北なる長村真田組本原村、殿城村赤坂組、矢沢組、下郷組、漆戸村、この堰水を  以て多少田に供せり。然れ共其修繕費を償はざりしが、明治中に至り、改めて此水を用る村々、
    用水の多少に随ひ、修繕費を出だせり。 」 『長野県町村誌』芳田村
「吉田堰組合外ナル小県郡、殿城村、下郷、矢沢、赤坂、本原村ノ内下原、上原、中原、長村ノ内  真田ヨリ、毎年定員ノ人夫ヲ吉田堰修繕ノ為出勤セシム、然レドモ…吉田堰組合外ナルヲ以テ唯
人夫ヲ出勤セシメ、堰組合ノ指揮ニヨリ使役スル迄ニテ、其他ノ費用ハ負担スルコトナシ」
       1892(明治25)年「普通水利組合設置追伸」 (箱山貫太郎『吉田堰』所収)
 ?吉田堰管理組合
 ・戦後神川沿岸土地改良区が発足。吉田堰もその管理下に。
・豊殿村が上田市と合併した1957年以降も、旧来の慣行を引き継いで自主的に管理。
現在組合員のいる部落(神川取水口の旧長村はじめ、真田地域は旧来から含まれず)
小日木 長入 宮ノ上 小井田 中吉田 町吉田 下吉田 東深井 西深井 海野 栗林
   上青木 大屋 石井 林之郷 水沢 漆戸 (中吉田がその中心を担う。)
・農地改革に伴う管理組合の変化(この点の研究は殆ど白紙)
5,その他吉田堰の特徴
(1)下流域の権利と苦労
 現在組合員がいるのは、上記の通り、下流域。これは江戸時代と基本的に同じ。管理も費用もこれら  の地区でほとんどを賄っている。取水口のある石船地区には下流域から謝金。
(2)上流よりも優先されるはずの下流の権利
吉田堰は、下流区域が「通水(通し水)」という権利を保有。上流の殿城・本原・長の各役場に通告  すると、二昼夜は、途中で取水できなくなり、下流域へ全て流れるようにできる権利。しかし違反も。
(3)他の堰よりも優先される水利慣行=歴史的に古い堰が優先
  「三枚はずし」
横尾堰は吉田堰よりも上流にあるも、吉田堰の水不足の際は、水量を減らして吉田堰への水量を優先  的に確保する権利。
(4)改修工事の苦労
横堰(等高線に沿う堰)故の苦労。幾多の普請や改修工事を経て立体交差などの工夫。
  取水口(頭首工)の工事(最もよく流され、年に数回も改修工事も。)
大規模な矢沢地域の隧道
(5)沿線に多数存在する寺社や水神様など信仰の対象の多さ。
・石船神社、表木神社、出早雄神社、滝宮神社、瀧水寺、良泉寺など
(6)その他のエピソード
 ・昭和20年代まで多く見られた水車と規制。
・三面工法のメリット、デメリット。
・コンクリートで蓋をされた堰
6,吉田堰を歩く(主な見所)  番号は、別紙吉田堰関係図を参照
・取水口周辺。(頭首工写真?から隧道〜沈砂池写真?) 現在のものは、1975年完成
  地元の人でも知らない人がいる。
・石船神社下の集落に多く見られる生活用水の跡(写真?)
 (かつては飲料水にも。現在では防火用水に利用)
・石船集落の勢至菩薩他石像文化財。(写真?)
 ・堰に沿って植えられた桜並木。 (写真?)
・吉田堰の流れを一部引き込んだ親水公園(写真?)
・表木神社と脇を流れる吉田堰。(写真?)
 ・町原団地の完全暗渠にした堰。(写真?)
・町原団地より一段下を流れる旧媼堰と思われる水路 (写真?)
・出早雄神社(入り口に大正年間の近くの道標あり。) 写真?
・滝宮神社(写真?)。すぐ下に瀧水寺と弘法太子の像がある。(弘法伝説は、水との関わりが深い)
・良泉寺(写真?)とその下を滝のように流れる吉田堰。
・薬師堂隧道入り口。?の場所
・行沢水路橋と樋の口水路橋 写真?
・大日木分水口と瀬沢川を超える陸橋 ?の場所
・深井池と吉田堰。 ?の場所
 ・東深井の古い集落と吉田堰。 ?の場所
 ・国道18号としなの鉄道を潜り、千曲川へ流下する吉田堰 ?の場所
7,未来を指向して
・安心して食せる米作りを。
このまま減反していくことへの疑問。
   有機低農薬米作りなどで、単位当たり収量を減少させてでも米作りの存続を。
・生活雑排水の流入などによる汚れ対策と環境問題
・水田の持つ湛水機能(巨大ダムに匹敵)の見直しと、景観としての田園風景の一環としての堰
   田園空間博物館への登録
・千数百年にも亘る歴史的価値を持つ文化財としての堰。
 ・堰の水を引き込む親水公園や池などで水に親しむ施設の整備。


 

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