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武田勝頼コミュの勝頼に最後まで従った者

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 武田勝頼に最後まで従った者は、いったいどのような人物だったのであろうか?

 勝頼に最後まで付き従った者を記す資料として挙げられるのが、?田野の景徳院の牌子、?甲斐国志、?甲陽軍鑑などである。

 このうち、成立の事情から、田野の景徳院の牌子が一番信頼のおける資料であると考えられるので、これを元に、どのような人物が勝頼に最後まで付き従ったのか見てみたい。

 甲州市大和町の田野は、武田勝頼一行が織田軍に追い詰められ最期を遂げた場所であり、武田氏滅亡の地である。現在、景徳院境内には、勝頼・勝頼夫人・子の信勝の墓所がある。

 天正10年(1583年)3月、甲斐国国主武田勝頼は織田信長・徳川家康連合軍の侵攻により、甲府から移転した本拠であった新府城(韮崎市)を捨て家臣の郡内領主小山田信茂を頼り落ちのびる。しかし、土壇場で信茂の謀反に遭い天目山へと敗走し、武田氏は滅亡した。
小宮山内膳の弟である僧拈橋チョウ(人偏+長)因は、笛吹市(旧一宮町)の広厳院の七世住職であったが、勝頼一門が自刃したことを知ると、殉死者の身元を確認し、これをあつく葬り戒名をつけてやったという。
勝頼が滅んで、数ヶ月後、今度は信長が横死して甲斐は無主状態となり、最終的には徳川家康が領することになる。
 家康は同年7月に勝頼と家臣ら殉死者の菩提を弔うため、田野郷一円を寺領として寄進し、寺院を創建。広厳院から七世拈橋を招き、天正16年には伽藍が完成した(『国志』、『景徳院文書』による)。
 家康はこの他にも武田遺臣を保護しているが、無主となり緊張状態にあった甲斐国における領民懐柔政策でもあったという。
 その後、江戸時代には住職不在状態となり衰退し、寛永年間に広厳院から住職が招かれ再興されている。
 安永4年(1775年)には景徳院11世要道和尚が勝頼の二百年遠忌として景徳院境内に、勝頼公、 北条夫人、信勝の宝篋塔3基を、またその左端には殉難の将士等34人の名を刻んだの方形塔と右端には乙女達16人の名を刻んだ方形塔を建立した。
 しかし、天保年間には火災が生じて主要伽藍を焼失し、弘化年間や明治にも火災が生じている。

 さて、平成19年2月19日、山梨県甲州市教育委員会は、同市の寺院・景徳院にある県指定史跡「武田勝頼の墓」から、墨で法華経が書かれた経石が5415個見つかったと発表した。経石は「多字一石(石に経文が数行に書かれている)」もので、全国的にも墓から経石が出土したことは稀少な事例であるという。
 経石は安永4年(1775年)に建てられた墓石の下から出土したものもあった。従来、信勝・勝頼・夫人墓の両脇は殉死した者たちのモノと考えられていたが、その下からも勝頼らの法名が記された石が出土したため、再考する必要があるという。
 いずれにせよ、勝頼の墓は、安永4年(1775年)以前、恐らくは創建当時から存在していたのではないだろうか?
景徳院本堂には将士等と乙女達の位牌が残されている。上記経緯を考えると、景徳院の牌子は、他の資料に比べ、より事実を反映していると考えられる。

 田野の景徳院の牌子に挙げられた、勝頼に最後まで従った者は、以下の通りである。

景徳院殿頼山勝公大居士 武田勝頼(37)北条院殿模安妙相大禅定尼 同夫人(19)法
雲院殿甲巌勝信大居士 武田信勝(16)鱗岳大和尚、円公首座禅師

忠屋存孝居士・土屋惣蔵昌恒、阿白道総居士・河村下総守、慶宝道賀居士・安倍加賀
守貞村、常叟道温居士・温井常陸介、跡叟道張居士・跡部尾張守、忠叟道節居士・小宮山内膳友晴、金渓道助居士・金丸助六郎昌義、中源実宝居士・小山田平左衛門、洞谷宗谷居士・小山田掃部介義次、明藍道白居士・小山田弥助、久桂芳昌居士・小山田於児、秋峯道純居士・秋山紀伊守光綱、水村山谷居士・秋山杢介、鉄岩恵船居士・小原丹後守忠次、空岸東海居士・小原下総守忠国、西安道伊居士・安田伊賀守、月窓江海居士・岩下総一郎、実山金性居士・小原源五左衛門、堅英了雄居士・秋山源三郎景氏、傑伝宗英居士・秋山宗九郎、観応月心居士・秋山民部光明、清寒霜白居士・秋山宮内、円応寒光居士・多田三郎、即応浄心居士・内藤久蔵、一峯宗誉居士・小原下野守、虚屋道幽居士・山野居源蔵、清神道林居士・神林清十郎、原清道賢居士・小原清次郎、賀屋道養居士・有賀善右衛門、源与道屋居士・土屋源蔵、天真了然居士・穴沢次太夫、本光道如居士・薬袋小助、松峯道鶴居士・貫井新蔵。

 上記人物の戒名を取り、整理し直すと以下のようになる。

勝頼(三十七歳)と夫人(十九歳)、嫡子信勝(十六歳)、僧二人(鱗岳大和尚、円公首座禅師)
跡部尾張守勝資、安部加賀守貞村、小原丹後守忠次、小原下総守忠国、小原源太左衛門、小原下野守、小原清二郎、温井常陸守、秋山紀伊守光綱、秋山杢介、秋山源三郎景氏、秋山宗九郎、秋山民部光明、秋山宮内、土屋惣蔵昌恒、土屋源蔵、河村下総守、小宮山内膳友晴、金丸助六郎昌義、小山田平左衛門、小山田掃部介義次、小山田弥介、小山田於児、安西伊賀守、岩下総六郎、多田久蔵、内藤久蔵、山野居源蔵、神林清十郎、有賀善左衛門、穴沢次太夫、薬袋小助、貫井新蔵ら三十三人。他に女衆十六人。計五十四人(景徳院位牌)

 上野晴朗氏は『定本武田勝頼』の中で、「勝頼に最期まで付き従っていった人々を見ると、勝頼の諏訪郡代時代からの家臣と、国主になってからの旗本たち、また執政上の側近ばかりである。なかには小宮山内膳のような特異な例もあるにはあるが、しかし他に寄親をもち、その武士隊将に被官していた武士は、ほとんど加わっていない」(P333)と分析している。

 ちなみに、?甲斐国志、?甲陽軍鑑に記載された人物は、以下の通りである。

?甲斐国志には士46人、侍婢23人、主従合計72人とある。
大龍寺鱗岳和尚、小宮山内膳正、金丸助六昌義、土屋惣蔵昌恒、土屋源蔵親久、秋山
紀伊守光継、秋山民部丞光明、阿部加賀守勝宝、小原丹後守守次、小原下総守忠国、
小原下野守、小山田平左衛門、温井常陸介氏照、多田新蔵盛房、薬袋小助信里、岩下
惣六郎、貫名新蔵元重、山居源蔵正久、斎藤作蔵昌勝。

?甲陽軍鑑には侍44人、女房衆23人、主従合計70人とある。
土屋惣蔵、秋山紀伊守、小山田平左衛門、同掃部、子息弥助、同お児(16)、土屋源蔵、金丸助六、秋山民部、同弥次郎(民部子)、坊主円首座、阿部加賀守、温井常陸、小宮山内膳、小原丹後、小原下総、岩下惣九郎、小原下野、多田新蔵、大龍寺鱗岳和尚、御鷹師斎藤作蔵、山名居源蔵、御歩衆山下杢助、みない小助、ぬきな新蔵、歩の20人衆までかようにお供ありといえども、ただ44人なり。

コメント(20)

まあよくご存知で…すごい情報量ですね

実際私も何回も景徳院に行ってますが,甲斐武田の最後の地故,
感慨無量になります.

地元の塩山の教育委員会の方も言ってましたが,おそらく今の勝頼妻子や
家臣の墓の前身は,墓石らしい物も無く,土盛り程度のお墓ではなかったのでは
ないでしょうか?との事です.

今宝物館になってる建物がありましたね?
建物の名前は忘れましたが,確か古い木造建物です.
その付近に,勝頼や信勝らの胴体のみになりますが,
遺骸やら,勝頼の正室の北条夫人や侍女らは,その辺りに
集団埋葬されたのではないか?との推測があるみたいです.

尚,天目山で果てた武田一党は,死を覚悟して,それぞれの甲冑の中に
おのれの出自や名前を書き込んだ紙を忍ばせていたそうです.
これは織田・徳川連合軍におのれが首を取られた時,
自分の身元が分かる様に,そしておのれの遺骸を弔ってもらう故,
わざとそうしたというのですから,涙の出るお話です.

また,天目山で果てた武田一党の遺骸を勝頼一行らが自刃した翌日に
最初に埋葬にきた人物が三谷某という侍だったそうで,
涙ながらにその遺骸を処理し荼毘に伏していたそうです.
三谷某は元武田の忠臣だった人物ではないかという事です

ですから三谷某や,3日遅れて遺骸の弔いで現地に入った
武田ゆかりの女性の理慶尼などは,
果てた勝頼一行の遺骸の身元はなんとか分かり,弔う事ができた様です
これはすごい情報量ですね。ものすごく深く調べないとここまで見ることもできないでしょうに。
もちろん、ここで最後まで運命をともにした人々、特に片手千人斬りの土屋殿などは伝説になっていますね。
天目山で自害はしなかったものの最後まで勝頼を裏切らなかった人に真田昌幸という人がいますが、これはまた事情が異なりますけどね。
この70名という数字は少なすぎると考えねばならないでしょう。もう少し100人ほどはいたのではないでしょうか?
額田王様
いつも、さまざまなところで、目から鱗の落ちるようなコメント、ありがとうございます。額田王さんから頂いたの勝頼一党の埋葬についての情報に接し、私も胸に迫るものがありました。
やはり、当初は皆の首の無い遺体が一箇所に集められ、集団で埋葬されたのですね。滅ぶということは、こういうことなんですね。
長篠の戦死者を埋葬した信玄塚を思い出します。
額田王さんのコメントを参考に調べたところ、「勝沼の坂本家史料を見ると、大善寺の桂樹庵理慶尼も戦いが終わった五日後、菩提を弔うために田野の戦場に入ったが、そのとき三科某という武士が、涙に暮れながら死体処理をしていたのを見たと書かれている」(前掲『定本武田勝頼』)そうです。
機会があれば、続きは改めて報告します。
廃人課長show@Ganryuz様
勝頼と最後まで運命をともにした人々が70名というのは、私も少なすぎると思います。少なくとも小山田信茂が裏切ってから田野に移るまでの間にも、鉄砲を打ちかけられたりして命を落とした者おり、それらの人たちもカウントして100人以上と考えてもおかしくないと思います。
ご指摘のように、天目山で自害はしなかったものの最後まで勝頼を裏切らなかった(異説もありますが・・)真田昌幸や叔父の一条信竜(甲州崩れの際、家康との戦いにて戦死)のような武将については、もっと勝頼との関係を分析していきたいと考えています。
本文に書きましたが、「勝頼に最期まで付き従っていった人々を見ると、勝頼の諏訪郡代時代からの家臣と、国主になってからの旗本たち、また執政上の側近ばかりである。なかには小宮山内膳のような特異な例もあるにはあるが、しかし他に寄親をもち、その武士隊将に被官していた武士は、ほとんど加わっていないとの解釈は、最後まで勝頼を裏切らなかった武将を対象にした場合、果たして正しいものなのか、調べていきたいと考えています。
>タケタケさま

真田昌幸は裏切らなかったのでしょう。北条との駆け引きでうまいこと武田を生かし、時節を待とうとしたのが昌幸だったのでは?
交渉の証拠としていえるのはその部分だと思います。彼はその後も手続きを間違えて裏切ることはなかったはずですから。
一条信龍は残念ながらボンボンでしたね。最後の最後まで武田が滅ぶとは思っていなかったのではないでしょうか?
だから、堂々と古府中にいたわけで、ずいぶんと穴山梅雪をうらんだようです。そこは私とて同じ。
心情的には真田昌幸も一条信龍もそうですが、最後の最後まで裏切らなかった中には高遠城の仁科盛信や諏訪の一党もあげられます。
諏訪は武田に滅ぼされた家で、この甲斐討伐のときに勝頼を見捨てて諏訪家を復興するべきだという家臣を跳ね返して
戦死した諏訪家の人までいたようですので、やはり慕われていたのではないでしょうか。
さらに言えば、本来天目山まで一緒にいるべき重臣たちが長篠のつゆになっていたので、さびしい最後にはなりました。
散々悪役にされた跡部も長坂も皆殉死しています。悲しい死に方ではありましたが、とんでもない裏切りだったのは木曾、穴山、逍遙軒ぐらいのものです。
勝頼公とその一党の最期について,参考までに涙涙の逸話が残っています.

山梨県旧大和村の田野の山里にて,その勝頼公とその家臣や
女性ら一党らが潔い最期を遂げた数日後,
勝頼の親族衆の理慶尼一行らが遺体埋葬と弔いで田野を訪問したら,
既に三島某なる武士らしき男性1人が涙しながら,
穴を掘って1人1人遺骸を埋葬していました.

理慶尼が近寄ると,三島某は武田家ゆかりの者らしく,早々にその弔いや埋葬の為訪問したとか…

理慶尼ら手伝うと,首が無く甲冑もはぎ取られた哀れな武士らの遺骸の
着物のふところからは,氏名や素性が記された小さな紙片が出てきたとか…

勝頼公に殉じた家臣ら一行は,その最期を予感し,
万が一おのれの首を取られて,遺骸の素性が分からなくなる事を案じて,
後日たまたま,おのれの遺骸を埋葬してくれた人の為に
供養を頼みたく,各自わざと自分の氏素性記した紙片を,
おのおの着物のふところに忍ばせたそうです。

最期を迎えていた勝頼公一行らは男性より女性の数が多かったそうです.
侍女らは自刃もしくは日川という川の淵に身を投げたという事です.
勝頼公一行が最期を遂げたご当地に伝わる悲しいお話です

滝野川五右衛門様

久しぶりにコメントします。私も『甲乱記』に注目しています。

服部治則著『武田氏家臣団の系譜』では、著者が武田勝頼家臣の官途名・受領名について検討した際、古文書と『甲乱記』に挙げられる官途名・受領名に異同のないことが明らかにし、『甲乱記』が比較的信用できる史書であることを証明しました。

『甲陽軍鑑』『甲乱記』などでは、勝頼主従は華々しく戦って討死を遂げたと記されていますが、これについては異論もあります。諸資料を比較検討して、真実に近づければいいと思っています。
実際はそれだけ慕われてたわけですね。せめて同盟国の上杉謙信が長生きしていれば織田軍は攻められずに滅亡は免れたかもしれませんね
オオイシさま
私も上杉謙信が長生きしていれば、その後の展開は大きく違っていたと思っています。なぜならば、御館の乱は起こらなかったからです。(あるいは、もう少し後に起ったからです)
御館の乱の結果、北条氏を敵に回し、徳川・北条の同盟が成立して、勝頼が孤立化したことが、滅亡の大きな原因であったと思えるからです。しかし、歴史にIfは禁物です。残念ながら、事実は信玄も謙信も勝頼にとって最悪のタイミングで亡くなってしまったのです。
景虎を支援してたら越後は北条の勢力下に入り、別の理由で北条が裏切ったら越後からも攻められるようになるでしょう
> タケタケさん
> 勝頼主従は華々しく戦って討死を遂げたと記されていますが、
> これについては異論もあります

『改正三河後風土記』では疲れと空腹で動けず討ち取られたんでしたっけ。
まあ武田家滅亡から200年以上して編纂された史料にイキナリ出てくるんじゃ信憑性はどうかというハナシですが。
跡継ぎで揉めている間に、越中、能登、加賀まで広げた上杉家の勢力圏を織田に持っていかれたのが痛いですね。

また勝頼自身、当初は北条家の要請で景虎支援のために出兵していますが、勝頼が越後にいた三ヶ月の間、肝心の北条家から誰一人越後に来てませんからね。そこは勝頼も不信感を持ったところじゃないかという気はします。(北条の軍勢は勝頼の帰還後に越後に入り、坂戸城でうろうろしてるうちに冬になり帰還)

勝頼は景勝と景虎の和議を取り持っていますが、勝頼にとっては、景虎が跡を継ぐと甲相越の鼎立のバランスを崩すため、跡継ぎは景勝の方が望ましいという判断はあったでしょうし、その上で景虎との和議を成立させて三家の協力体制を築ければという考えはあったのかなと想像してみたりしますが。

北条家自身がロクな援助も出来ていないのに、景虎の死を理由に武田家と敵対に至るというのは、そもそも北条家も、先の無い武田よりも織田につきたかったのかなという感じもしますね。
武田宗家は滅びたけど、景勝と同盟結んだ事で米沢武田家を存続させる足掛かりを作れたんだし、景勝と結んで正解だったと思いますね
武田勝頼が御館の乱で、上杉景勝を支援せず、景虎を支援していたら、という仮定ですが、上杉家中の出方次第だと思います。

まず、勝頼が景勝支援に踏み切った理由としては、賄賂云々の話ではなく、景虎が上杉家を掌握すると上杉家は景虎の実家である北条氏の勢力下に入り、武田家は織田・北条に囲繞されることになり、早晩どちらかの傘下に入らざるを得ないという見通しがあったからと考えられます。その場合、パワーバランスの関係で景勝を支援したと考えるのが、妥当であると思います。

勝頼は景虎・景勝を和睦させることにより、景勝を支援したわけですが、よりシビアに見れば、上杉家に景虎・景勝を併存させることにより、上杉家が北条氏の勢力下に入るのを防ぎ、さらには、家中の分裂に乗じて、越後を傘下に収めようとする魂胆があったのかもしれません。

しかし、この分析が果たして正しかったか?というと難しい問題です。

景虎が上杉家を掌握したことが、即景虎が実家である北条氏の傘下になるか、という前提が正しいのかが問われます。

謙信の時代、同盟を結んだ時期があっても、上杉氏と北条氏の信頼関係は今一つでした。むしろ、両家中に不信感を抱く国人は多く、景虎が北条氏の傘下になれば、異議を唱え反乱を起こする越後の国人が多く出たと思います。

景虎は越後の国内事情を優先せざるを得ず、そうなると景虎は北条氏の傘下にはなりえず、従来のような(ほぼ)対等な形での三国同盟の維持が可能だったかもしれません。

やがて、武田・北条・上杉との三国同盟と織田・徳川連合の対立軸が生まれ、最前線である勝頼が矢面に立たされることになり、いずれにせよ厳しい局面に立たされと思います。
武田にも直江兼続みたいな智将がいればうまく立ち回れたかもしれませんね。
>>[19]
ならば武田勝頼が上杉から直江兼続を内応させれば織田信長に立ち向かえる戦力になった可能性もあったかも?

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