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究極の神示「飛鸞宣化」コミュのキリスト / 平成七年四月三十日

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   来たれ 光の時代よ 去れ 闇の時代よ
   主の福音が示される時 天は狂い 地は震える
   主の願いと共に 新しい時代が開かれる   吾乃
 キリスト
ム命を奉りて聖域に来臨す。
主ムに礼拝し、賢人達と親しく接す。
  本日、開壇の祝いと共に、天道を行ずる者達に対する訓を示さん。本日の訓示、「末日と人と宗教」を訓示す。洗耳して聞くが良し。         哈哈 止

    「末日と人と宗教」
 光より生じて、光へと帰すのか。闇より来て、闇へと去るのか。喜びも悲しみも作られるものなのか。恐怖も不安も創られるものなのか。神が救いを創り給うのは、何が為か。神が人(魂)を創り給うたのは、何が為か。多くの人々は神をどの様に執らえ、神がどの様な存在であると想うのであろうか。現世に於いては、人が神を創ったのか、神が人を創ったのか。
 人則ち心と置き換えれば、人は生まれてから死ぬ迄の間に恐怖や不安を除かれるならば、それを救いと想って居る。それが救いであるか無いかは別にして、それが救いだと信じるものである。それを行なう最初の者は教祖と言う風に呼ばれて居るが、その者は一時的安らぎを受く者達の苦しみを全て受けるのである。そして、其の苦しみにて喘ぐのであろう。若し、そうでないとするならば、其の教祖とか呼ばれる者は精神的普通ではないか、それとも人々(信者)を別の目的で利用しようとする者であろう。
 神に対する認識の正しさが無き者は、宗教を語るべきでない。神とは何か、それを認識すれば人間の目的は明らかになる。長い歳月の間、人類は、はっきりと神を見た事は無いのであろう。そして、人は神を様々に表現す。ある人は、神を力だと言う。ある人は、神を主だと言う。ある人は、神は法則であると言う。神が力であると言う人は、神に何かを求めている。神が主であると言う人は、人間は神の下僕であり神を畏れ絶対服従を思う者である。神が法則と言う者は、人間の限界を認めて仕舞っている。神は力でも、主でも、法則でも無い。全ての宗教の神は、是の三つの要素の何れかに属している。神が人間(魂)を生じたのは、何故であろうか。それは、力でも無く、主でも無く、法則でも無い。愛以外の何ものでも無い。そして、人々は力や主や法則にて幸福になる事は出来ない。しかし、人々は今でも力と主と法則にて幸福になろうとしている。故に、人類は長き歳月の間に神を見た事は無かったと、以上の理由により言わざるを得ない。
 本当の愛とは如何なるものか。人々は、それを知る為に現世に於いて修行する。時々、神は何故に罪を為す事を承知の上で、三界に魂を下したのかと言う者あり。三界に行かなければ、罪も苦しみも主ムの悲しみ・憂いも無いわけである。然し、愛が反映して當然の環境で、愛も又、当然である故に、愛が生ずる事の無い様な場所にて愛が発生して絶対的愛(心)が完成するのである。愛されるから愛し返す。是れは、誰にでも出来る事である。人から仕打ちを受け傷つけられても愛せる心、それは難しい。恐らく、徳を積み苦行・難行して、神通自在で智恵、神の如しとなるよりも難しい。故に、人は輪廻してきた。様々な人の心を知る為に、そして多くの病気・事故・不遇に出会い苦しんだ。それも他人の心を知る為に。故に七情六欲があり、四生六道があり、気天・地獄・阿修羅界があるのである。
 絶対的愛が無ければ、何故にいけ無いのか。一つの例を用いて示せば、旧約聖書にはアダムとイブが神により創られ、そしてアダムとイブは蛇にそそのかされ善悪知る禁断の木の実を食べて失楽園にいたるとある。是の内容の中に出て来る蛇とは、大天使長ルーシェルであったと言われている。大天使長という位置付けにあり乍ら、何故にその様な事を犯したのか。それは神の絶大なる期待が、自分よりもアダムとイブに注がれたと想い、その妬み心が大天使ルシェールに、その様な大罪をなさしめたのである。神の側近の地位であっても完全な愛が無ければ、一瞬にして大天使から大悪魔に変じて仕舞うという話である。
 完全な愛は難しい。罪を為す者がいれば、大抵の人々は天罰を受けるが良いと思うのであろうが、その様な人に対しても目覚めてほしい、是れ以上他人を傷付けないでほしいと自らの事の様に胸を痛める事が正しい。現世は罪を犯してはいけないが罪を犯しやすい處である。自分は絶対だと想っていて他人の罪を嘲笑し罵れば、自らも罪を犯す事となる。完全な愛は、全てに対して愛であり、偏見・差別も無い。そして、一人一人の痛み・悲しみを自分の事の様にしなければならない。主であるラウムは、全てに対して愛であり、如何なる罪人も善人も皆、同じである。誰の為にも喜んで下さり、又、悲しみ涙する、それが主ムである。故に、本当の救いがあるのだと認識したならば、その救いを迷わず傳えるのが完全なる愛である。人に厳しくする事、優しくする事、注意する事、黙してさせていく事、皆、根底に思いやりがあるならば、全て愛であり、愛の表現である。苦しみ・悲しみ・悩み全て、人の為となる。それを知らねば本当に人を癒す事は出来ない。自分は罪深く、又、智恵浅く不完全である。そうでなければ誰も救う事は出来無い。許す事すら出来ない。博愛は単に広く人を愛する事では無い。深く愛し、又、どの様な方向からでも注ぐ事の出来る愛である。七情六欲は根深い。然し、それを超えねば完全な心を、魂を、愛を養う事は出来ない。自らを苦しめる者それですら愛の一端と、自らを磨く者と想うが良い。

 天命に依りて、新壇名を降す。
 (※省かせて頂きます。)
 以上
 三壇の天壇の命が降された。天道は、聖賢の道、魂の救いの道である。道である故に智っていれば、宗教で無いもの、単に理天極楽に帰る道である。故に、これは宗教では無い。度度言っておく、天道は道であり、宗教では無い。宗教は是の訓示で述べた様に、神も人も畜生も完全な心、愛を養うべき教えであり、例えであり、元を正せば道徳である。唯、人が救いを求める故に、道徳が宗教へと変わり、そして今に至るのである。そして、宗教には神があるが、是れは科学として受け取ってほしい。人類の未知なる領域である故に、人類は神を認識して、決して迷信や信仰であるとは言わない日も来るだろうから。宗教は道徳・神(科学)・願いが混じり合って出来たものと判断して良い。是の絡んだ状態を解けば、萬教帰一は実現出来る。そして、ラウムー神は愛であり、しかも完全な愛であり、心の生じた極・魂の故郷である。
 吾、茲に筆を置く。
主ムに辞叩し、天外理天に帰す。       哈哈 退


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※『ム』、『ラウム』はラウムの字です。
(漢字の「母」を90度回転したもの)

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