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城下町コミュの安芸吉田

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コミュ内全体

 安芸吉田は、日本海に注ぐ江(ゴウ)の川の上流である可愛川(エノカワ)と支流の多治比川の合流点付近に開けた標高200m程度の小盆地で、盆地北側に聳える標高約390mの郡山西側の大通院谷は旧石器時代から近代に至るまでの複合遺跡となっており、氾濫原になり易い可愛川流域よりも郡山一帯が太古にまで遡る集落として栄えていたと推定されます。
 また、『日本書紀』には「一書に曰く」として、素戔嗚尊(スサノオノミコト)による八岐大蛇(ヤマタノオロチ)退治は可愛川流域で行われたとの話を紹介しており、須佐之男命(スサノオノミコト)・脚摩乳命(アシナヅチノミコト)・手摩乳命(テナヅチノミコト)・稲田姫命(クシナガヒメノミコト)を祭る清(スガ)神社〔郷社〕が郡山南麓に鎮座しています。
 律令時代には安芸国高宮郡高宮郷となり、郡衙も置かれたので郡山の地名が生まれました。平安時代になると高宮郷は吉田郷と改称されたようです。
 永治元(1141)年、人皇第75代崇徳天皇が近衛天皇に譲位した際、吉田郷は隣接した麻原郷・豊島郷・竹原郷と共に崇徳上皇を本家とする吉田荘となり、従三位左近衛権中将花山院忠雅が領家を務めました。後に太政大臣花山院忠雅は、姻戚関係にあった平清盛に吉田荘領家職を譲りましたが、平家政権崩壊後に奪回しています。
 承久3(1221)年の承久の乱後、幕府政所別当大江広元の四男季光が戦功を嘉されて吉田荘地頭となり、本貫地の相模国愛甲(アイコウ)郡毛利庄(モリノショウ)に因んで毛利氏を称するようになりました。なお、毛利がモウリと読まれるようになるのは戦国時代になってからだったようです。
 なお、大江氏は実際には土師連(ハジノムラジ)の子孫なんですが、人皇第51代平城天皇皇子の阿保(アボ)親王の子孫と称していたため、阿保親王が一品(イッポン)の位であったことに因んで、一品の字を紋章化した「一文字に三つ星」を家紋としており、これは毛利氏に継承されました。
 毛利季光は幕府評定衆に名を連ね、寛元4(1246)年には、第5代征夷大将軍藤原頼嗣を自邸に迎えて甲冑着初式を行うという栄誉を得るなど、幕府高官として重きを成していました。また、二人の娘を執権北条時頼と権大納言花山院師継に嫁がせています。
 ところが季光は、宝治元(1247)年の宝治合戦に於いて妻の兄である三浦泰村陣営に加わったため、四人の息子と共に自刃に追い込まれてしまい、本貫地の相模国毛利庄は没収されてしまいました。
 この際、季光の四男で越後国刈羽(カリワ)郡佐橋荘南条地頭だった経光のみは越後在国中で乱に加担していなかったため佐橋荘南条を安堵されたのみならず、吉田荘地頭職継承も認められました。
 経光は嫡男基親に佐橋荘南条、四男時親に吉田荘を継がせ、時親は永仁4(1296)年に吉田荘領家の権大納言花山院家教と下地中分を行って、吉田荘四郷のうち、吉田郷と麻原郷を地頭方、竹原郷と豊島郷を領家方が支配する事になりました。
 毛利時親は越後国南条荘や河内国加賀田郷の地頭職も与えられ、六波羅探題評定衆も勤めましたが、内管領長崎円喜入道の専横を嫌って加賀田郷へ隠棲、元弘3(1333)年の元弘の乱では中立を維持していましたが、嫡男貞親は北条方に組したため、後醍醐天皇は本領安堵を認めず、吉田荘地頭職は右大臣入道花山院家定の家人である美濃全元に与えられてしまいました。
 そこで時親は、足利尊氏が政権を掌握した建武3(1336)年7月に吉田荘奪回のため安芸国へ赴く事とし、嫡男貞親に加賀田郷、貞親の嫡男親衡に南条荘を譲り、親衡の嫡男元春を伴って、大江一門で備後国の有力国人である長井三田入道を頼りました。元春の母は三田入道の娘だったのです。
 そして、三田入道の支援を得た時親・元春は美濃全元を追放して実力で吉田荘に入り、郡山東南の標高293m・比高90mの尾根に吉田郡山城を築城しました。ところが、毛利貞親・親衡親子が越後で南朝方として挙兵したため、時親は尊氏への忠誠を示すため、元春を尊氏の側近高師泰の指揮下に入れて勢力の挽回を図る事となりました。元春は尊氏から吉田荘地頭職半分を安堵されています。
 その後、時親の取り成しで親衡は足利方に帰順し、安芸に下向して日下津城を築いて別家を起こし、子孫は坂氏を名乗る事となりました。
 然るに観応元(1350)年に観応の擾乱が勃発すると、元春が足利尊氏方に立って九州探題今川了俊麾下で九州へ出陣している留守を狙い、親衡が足利直義方に立って挙兵、南朝方の周防守護大内弘世と同盟して吉田郡山城を攻撃して一時攻略するなど、親子の角逐が続きましたが、永和元(1375)年に親衡が死ぬと、元春は敵対している一族の掃討を進め、永徳元(1381)年頃に漸く吉田荘全体の実効支配を確立、嫡男広房に吉田荘地頭職半分、即ち家督を譲りました。
 ところが、至徳2(1385)年に、広房が出陣先の安芸西条に於いて行われた南朝方との合戦で戦死してしまったため、その死後に出生した嫡男光房が家督を継承、祖父の元春が後見する事となりました。
 しかし、元春の死後は、若年の光房を侮った庶家の面々が反抗し、応永25(1418)年には吉田郡山城が庶家連合軍の攻撃を受けるに至りましたが、光房は近隣の国人領主の仲介で何とか庶家連合との和平を実現しました。その後、光房は3代将軍足利義満の命令を受けて周防守護大内盛見(オオウチモリハル)を攻め、九州にも遠征しましたが、永享8(1436)年に九州で陣没しました。
 光房の後を襲った嫡男煕元(ヒロモト)は、嘉吉2(1442)年に6代将軍義教が害される嘉吉の乱が勃発すると、逆賊赤松満祐撃滅のため播磨まで出陣し、長禄元(1457)年に周防守護る大内教弘が安芸守護武田信繁・信賢父子の居城である佐東銀山(サトウカナヤマ)城へ来襲した際には、幕命により吉川之経(キッカワユキツネ)等と共に武田氏救援に赴いています。 
 このように幕府への忠勤を励んだ煕元でしたが、寛正4(1463)年に毛利氏庶家の反抗を受け、幕府への讒言によって領地の一部を関所として召し上げられてしまいました。
 翌寛正5(1464)年、煕元の後を襲った嫡男の豊元は、備後・安芸・山城守護山名是豊(ヤマナコレトヨ)に与して応仁の乱に参戦するため上洛しますが、是豊は父山名宗全と不仲だったため東軍に属する事となります。しかし、東軍側の毛利氏への措置に不満を抱いた豊元は、文明3(1471)年に帰国し、西軍側の有力大名大内政弘に味方して父の代に失われていた所領奪回に成功したのです。これ以後、毛利氏は大内氏傘下の国人領主の一つとなりました。
 豊元は、東軍に使嗾された徳政一揆を鎮圧し、また大内氏の安芸支配の本拠である鏡山(カガミヤマ)城を包囲した東軍を追い払うなど、大内氏の安芸国への勢力伸張に尽力しました。この戦功により大内政弘から西条盆地の一部を所領として与えられ、また備後国では西軍の山名政豊を助けて、旧主たる山名是豊の東軍勢と激闘を繰り広げて撃退し、世羅台地の一部を獲得しています。
 文明8(1476)年に豊元の後を襲った弘元は、明応8(1499)年に前将軍足利義稙を保護した大内義興と、11代将軍足利義澄を擁する管領細川政元の何れに与するかで揺れ、この危機を自身の隠居という形で解決に導きましたが、その心労と酒毒によって永正3(1506)年に急死してしまいました。
 弘元の後を継いだ嫡男興元は、永正4(1807)年に足利義稙を奉じて上洛した大内義興に従って四年間在京し、永正8(1511)年に細川高国・大内義興連合軍が足利義澄を擁立する細川澄元を撃破した船岡山合戦にも参加しています。
 しかし、その間に出雲の尼子経久の勢力が安芸国へも及んで来たため、帰国した興元は国人領主間の紛争に疲れて酒に溺れるようになり、永正13(1516)年に25歳の若さで急死してしまったのです。
 この結果、僅か2歳の嫡男幸松丸が家督を継承、興元の弟元就(モトナリ)が後見役となり、大内義興陣営から尼子経久陣営へ鞍替えしましたが、大永3(1523)年に幸松丸も急死したため、元就が家督を継ぐ事となったのです。
 こうして歴史の表舞台に登場した毛利元就は、再び大内義興麾下に戻り、周辺の国人領主平定を進めましたが、天文9(1540)年に尼子晴久が30000もの大軍を率いて吉田郡山城に来襲、毛利氏は存立危機事態に追い込まれますが、元就は即席の徴集兵も含めて僅か3000人の寡兵で尼子軍撃退に成功したのみならず、尼子方と同盟していた旧安芸守護家武田信実の佐東銀山城をも攻略して安芸国の覇権を確立したのです。
 その後、元就は三男隆景を竹原小早川氏、次男元春を吉川氏の養子として安芸国支配権を着々と固め、天文15(1546)年には形式的に嫡男隆元に家督を譲っています。この間、元就は大内義隆へに臣従を続けていましたが、天文20(1551)年に大内義隆が守護代の陶晴賢(スエハルカタ)の謀反によって殺害されると、元就は晴賢に与して安芸・備後両国の国人領主統轄権限を与えられました。 
 そして、天文20(1551)年頃には吉田郡山城南麓に堀を設けたのを皮切りに山全体の要塞化が図られ、標高約390m・比高190mの山頂部の本丸に元就の居館が移され、そこから放射状に延びる尾根とその支尾根や谷部に大小270以上の曲輪が設けられました。複数の尾根ごとに多数の曲輪があるため、それぞれが小城のような造りになった複雑な縄張りは、単なる国人領主の城とは大きく異なる壮大な物でした。
 城の南には内堀、西には大通院谷、北の尾根には裏手の甲山と区分する堀切があり、これら城域部分の総面積は70000屬砲盖擇咾泙靴拭K楷櫃琉戝焚爾二の丸、その下に三の丸があり、本丸から三の丸周辺までの中枢部には石垣が築かれていました。旧本城には隆元の居館が設けられています。
 城下町は、内堀の南側に150m程の所を北西から南東へ抜ける大道と、更にその南にあった大道の間に発達し、多くの小路も設けられていました。また、三日市・六日市・十日市も開かれ、そのまま町名となっていました。
 一方、毛利氏の勢力拡大に危機感を抱いた陶晴賢は、元就に安芸・備後統轄権返上を要求したため、両者の関係は決裂、弘治元(1555)年の厳島合戦で晴賢を撃滅した元就は、弘治3(1557)年には晴賢が擁立していた豊後大友氏出身の大内義長を討って、長門・周防・安芸・備後を支配下に置く有力大名に成長したのです。同年、元就は毛利隆元・吉川元春・小早川隆景の三人の息子に『三子教訓状』を書いていますが、これが後世になって遺言状と誤解され、「三本の矢」のエピソードが生まれました。
 また、元就は尼子氏との間で石見銀山争奪戦を繰り返していましたが、永禄9(1566)年に尼子義久を屈伏させて、石見・出雲・伯耆・隠岐も制覇、八ヵ国を領する巨大戦国大名となりました。なお、家督を相続していた嫡男隆元は永禄6(1563)年に不審な死を遂げていたため、その子輝元が形式的に家督を相続しています。
 元就は元亀2(1571)年に吉田郡山城で死去しますが、嫡孫輝元に対し「決して吉田郡山城から本拠を動かすな」と遺言したと伝えられています。
 毛利輝元は、山陰道担当の吉川元春と山陽道担当の小早川隆景の叔父達の活躍により、美作・備中・備前・因幡・但馬も支配下に置いて中国地方13ヶ国を統一したのみならず、播磨にまで勢力を伸ばし、天正4(1576)年には織田信長によって追放された第15代将軍足利義昭がを備後国鞆(トモ)に保護して反信長包囲網の一翼を担う事となりました。
 しかし、やがて信長麾下の羽柴秀吉軍の調略で備前の宇喜多直家が寝返り、因幡・伯耆・備中・美作も秀吉に攻略されて守勢に立たされてしまいます。
 こうした状況下の天正10(1582)年に本能寺の変が突発すると、輝元は羽柴秀吉と和平を締結して、翌年秀吉に臣従、長門・周防・安芸・備後・石見・出雲・隠岐の7ヶ国1120000石を安堵されました。
 この時期の吉田郡山城下は数万人の人口を誇る大都市として殷賑を極め、「西の京」「吉田千軒」とも称されていました。この時期の本丸には三層の天守閣も設けられていたようです。
 輝元は秀吉軍の先鋒として四国攻めや九州攻めで活躍し、天正19(1591)年に祖父元就の遺訓に背いて交通の便の良い広島へ本拠を移します。この結果、吉田郡山城下の家臣や町人は広島城下へ移りますが、吉田郡山城は廃城とはならずに維持されていたようです。そして吉田は広島城と山陰地方を結ぶ出雲路の宿駅となり、新たな役割を担う事となりました。
 その後の輝元は、朝鮮出兵に参加、官は従三位権中納言に至って豊臣五大老の一人に名を連ね、領地は1250000石に増加しますが、慶長5(1600)年の関ヶ原合戦で西軍の総大将となったため、長門・周防両国369000石以外を失って凋落してしまいました。
 そして、安芸国498000石を与えられた福島正則は吉田郡山城を維持していましたが、慶長20(1615)年の一国一城令によって廃城となり、吉田には脇往還の宿場町としての機能のみが残される事となりました。寛永14(1637)年に島原の乱が起きると、キリシタンの決起を恐れた幕府の命で広島426000石藩主浅野光晟(アサノミツアキラ)によって、城跡の石垣や堀等も破却・撤去されています。
 文政2(1819)年の吉田宿は家数908軒で、うち411軒が町方でした。
 幕末の動乱期になると、文久3(1863)年1月に広島藩主浅野長訓(アサノナガミチ)は藩政改革の一環として各郡に代官を常駐させる代官勤番制を実施、吉田宿には高田郡代官所が設置されました。更に同年12月には従来蔵米30000石が給されるのみで所領の無かった浅野家分家の広島新田藩の居館が吉田宿に設けられる事となり、吉田郡山城跡の山麓に吉田陣屋が築かれますが、約3000坪もの地に濠を廻らせ物見櫓を備えた大規模な物でした。実は浅野長訓は広島藩主就任前に広島新田藩主を務めていたため、実家の権威を増そうとしたようです。また、文久の幕政改革で、江戸定府大名の在国が認められるようになったため、江戸定府だった広島新田藩主の居館を設ける必要もあったのです。吉田陣屋には長訓の甥の長厚が30000石の藩主として乗り込みました。
 しかし、明治2(1869)年の版籍奉還に際して広島新田藩は広島藩へ併合され、吉田陣屋も解体されてしまいました。
 明治4(1871)年の廃藩置県後、吉田宿は広島県高田郡吉田村となり、明治11(1878)年には高田郡役所が設けられ、明治29(1896)年には町制が施行されました。しかし、広島市との間に峻険な上根(カミネ)峠が聳えていて鉄道敷設が困難だったため、次第に交通の要地としての性格を失い、衰微して行く事となってしまいました。
 しかし、平成9(1997)年の大河ドラマ『毛利元就』放映を機に観光客が増加、平成16(2004)年には高田郡の全町村が合併して安芸高田市が誕生したのです。

・福泉坊の大イチョウ
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=320240&id=82838370
*毛利氏城跡 郡山城跡
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・清神社
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・清神社のスギ
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・宮崎神社
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コメント(43)

 安芸新田藩士だった絵師小島雪崝(コジマセッソウ;1806〜78)の墓です。浄国寺跡にあります。
 藤杜(フジモリ)神社です。
 ここは小早川隆景の館跡です。毛利元就の三男として生まれた隆景は竹原小早川家の養子となり、兄の吉川元春(キッカワモトハル)と共に「毛利両川」として甥の輝元を支えました。豊臣政権下では秀吉に重用されて毛利輝元から独立した大名として扱われ、筑前・筑後371300石を与えられて豊臣五大老にも名を連ね、官位は従三位中納言に至りました。
 市街中心部の県道29号線沿いに戎神社があります。祭神は蛭子神(ヒルコノカミ)・事代主神(コトシロヌシノカミ)・大江広元(オオエノヒロモト)の三柱で、御神体は大江広元木像です。
 慶長8(1603)年に広島城下に遷座されて胡子(エビス)神社となりましたが、毛利氏先祖の大江広元像は広島藩主福島正則を憚って吉田に留め置かれたようで、小さな社が維持されました。なお、広島市内の胡子神社は昭和20(1945)年の原爆で消滅した後に再建されています。
 浄土真宗本願寺派高林坊です。
 ここの鐘楼門には、建武2(1335)年鋳造の銅鐘〔広島県指定文化財〕が架かります。銘文によると、元来は高田郡甲田町甲立にあった石室寺に懸けられていた物で、銘文中「建武第二刻十月廿四日」と鋳造年月日が刻まれており、鋳物師(イモジ)は河内国の名工丹治友重です。上下帯素文で、乳は一区内に四段四列の16個あり、南北朝時代の標準的な作例です。総高は87.4僉口径は46.1僉⊇杜未100.5圓傍擇咾泙后 『国郡志下調帳(コクグンシシタシラベチョウ)』には、甲立の宍戸氏が陣鐘にしていたものを当寺に寄進したと記されており、石室寺の荒廃後、一時宍戸氏の手に渡っていたと推定されています。
 浄土宗智水山清住寺です。
 ここの本尊は10世紀製作の千手観音菩薩立像〔広島県指定文化財〕です。一木造の四十二臂(ピ)像で、合掌手先及び脇手全ては後補ですし、他にも後世の修理箇所が認められますが,独特の優麗なる面相表現が印象的で,裳裾(モスソ)には翻波(ホンパ)文が見られます。33年に一度しか開帳されない秘仏で、写真も非公開です。
 この仏像は、吉田荘の堂宇に安置されていましたが、毛利弘元(1468〜1506)の時に郡山満願寺境内に堂を建立して移されました。
 弘元の次男元就は出陣のたびに祈願をするなど厚く崇敬していましたが、天正17(1589)年に輝元が広島城に本拠を移す事を決めた際、この仏像を移動しようとしたら、その厨子は「重きこと大磐石の如し」として吉田に残され、清住寺に安置されたと伝えられます。
 安芸高田市歴史民俗博物館の入場券とパンフレットです。
安芸高田市歴史民俗博物館です。

左;ロビー
中;清神社祭礼 子供歌舞伎だんじり屋台〔安芸高田市指定無形民俗文化財〕
右;吉田郡山城ジオラマ
 ゆめタウン吉田店に入っているRoséの「から揚げランチ 1050円也」です。
 吉田郡山城跡〔史跡〕遠望と三矢の訓石碑です。
 青光井山尼子陣所跡〔安芸高田市指定史跡〕遠望と毛利元就廟所参道入口です。
 毛利元就の菩提寺だった臨済宗洞春寺跡です。
左;洞春寺跡にある初代時親から8代豊元までの毛利氏歴代合同墓。元就の父に当たる9代弘元の墓だけは吉田町多治比の悦叟院(エソウイン)にあります。
中;毛利氏第11代当主幸松丸墓
右;左から10代毛利興元(オキモト)、11代幸松丸(コウマツマル)、隆元夫人尾崎局(オザキノツボネ)の墓
左;百万一心碑
中・右;嘯岳(ショウガク)禅師(1527〜99)の墓。
 嘯岳は二度も明(ミン)に渡り、帰朝後は丹波高源寺・京都の建仁寺・南禅寺等で要職を務めた高僧で、元就の要請により竹原妙法寺の住職となりました。元就逝去の際には葬儀の導師となり、また元就三回忌に建立された菩提寺洞春寺の開山にもなった人物です。柊(ヒイラギ)の大木の下に高さ2.7mの宝筐印塔(ホウキョウイントウ)が建っています。
左;郡山2号墳
中;郡山1号墳
右;吉田城下町遠望
左;登山道
中;御蔵屋敷跡
右;釣井壇
左;姫の丸
中;釜屋(カマヤ)の壇
右;厩(ウマヤ)の壇
左;勢溜(セダマリ)の壇
中;尾崎丸堀切
右;真言宗御室(オムロ)派霊臺(レイダイ)山満願寺跡
左;旧本城堀切
中;旧本城
右;旧本城より青光井山尼子陣所跡〔安芸高田市指定史跡〕を望む
 清神社〔安芸高田市指定史跡〕とスギ〔安芸高田市指定天然記念物〕です。
 広島新田藩吉田陣屋跡に建つ広島県立吉田高校です。
 宮崎神社〔安芸高田市指定史跡〕です。
 安芸高田市歴史民俗博物館で購入した毛利氏関連グッズです。
  吉田郡山城主毛利元春(師親)ゆかりの広島銘菓「川通り餅」です。

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