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城下町コミュの大和高田

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 大和川支流高田川(花内川)流域の高田の地は、人皇第3代安寧天皇〔位;549B.C.〜510B.C.〕が片塩浮孔宮(カタシオノウキアナノミヤ)を置いた地とされ、人皇第10代崇神天皇〔位;97B.C.〜29B.C.〕の代に至って宮跡に建玉依比古命と建玉依比賣命を祭る石園座多久虫玉(イワゾノニイマスタクムシタマ)神社が、その北方に高皇産霊神(タカミムスビノミコト)を祭る高田天神社が創建されたと伝えられるなど、大和盆地の中でも古くから開けた地であった。
 律令時代になると葛下郡(カツラキノシモノコオリ)蓼田郷と呼ばれ、平安末期には多武峰を本所とする磯野荘が成立、その東側や北側は摂関家を本所、春日大社を領家とする大和国最大の荘園平田荘の一角となり、高田郷と呼ばれるようになった。高田の地名は高皇産霊神の「高」と蓼田の「田」を組み合わせたと言われている。
 磯野荘は静御前の母である磯野禅尼の故郷とされ、静御前は源頼朝に子供を殺された後、この地に隠棲したとの伝説がある。
 鎌倉時代になると平田荘八荘官の一員で用明天皇の末裔と称する當麻(トウマ)氏が勢力を伸ばし、興福寺一乗院が春日大社に替わって平田荘領家となった南北朝時代頃から当麻氏は高田氏を名乗って、磯野荘北方の有井城を本拠とする有力な国人領主に成長した。
 永享4(1432)年、有井城主高田為貞は6代将軍足利義教の命によって高田川東岸に高田城を築き、長男の為秀を高田城主とし、有井城は三男の為隆が受け継いだ。
 為隆の子の為綱は蓮如に帰依して有井城を本願寺に寄進し正行寺としたため、高田城が高田氏の本城となった。
 為秀の子為長は高田城に隣接して常光寺を建立し、この頃から小規模ながら高田城下町が形成されたようである。為長は聖徳太子開基とされる証菩提寺(現不動院)の本堂〔重要文化財〕も再建している。常光寺には為長の五輪塔が遺されている。
 応仁の乱(1467〜77)に際し、高田為長は西軍の畠山義就に組した越智氏の与党として活動し、東軍の筒井氏等と交戦したが、明応9(1500)年に越智家栄が死去すると、高田氏は筒井党に鞍替えした。
 だが、永禄2(1559)年に畿内の覇者三好長慶の命を受けた松永久秀が大和に侵攻すると、高田為長の曾孫為政は筒井党から松永側に寝返りを打ち、このため永禄7(1564)年に高田城は筒井党の布施氏に包囲された。
 布施氏の高田城攻囲は四年間にも及んだが、広大な濠を持つ高田城は難攻不落で、永禄11(1568)年に上洛した織田信長から大和支配権を公認された松永久秀が布施軍を撃退するまで持ち堪えたのである。
 元亀2(1571)年、久秀が信長に叛逆したのを機に高田為政は久秀と敵対していた筒井順慶に組し、天正2(1574)年には上洛して信長に謁見、3000石を安堵された。
 しかし、天正8(1580)年に信長が大和一国破城令を出し、高田城が破却された際に高田氏当主の藤七郎(為政の弟?)は自刃を命じられ、所領は没収されて筒井順慶の所領に編入された。
 天正10(1582)年、織田信長が本能寺の変で横死すると、高田氏は本領に戻り、為政の父為業(タメノブ)が当主に復帰した模様であるが、天正11(1583)年、筒井順慶から招かれた為業は、謀計であろうとみて熊野に落ちのびたが熊野衆に攻められて終わったと伝えられる。
 天正13(1585)年、為政の子為成は郡山城主豊臣秀長に招かれ、城下に参着したところ「お手討」と伝えられたので自害して果てた。この結果、高田氏本家は滅亡したが、為隆の系統は環濠集落有井の地で現代まで存続している。
 慶長年間(1596〜1615)初期になると、有井の正行寺が高田川西岸に移転して来たため寺内町が形成され、旧高田城下町と一体化した街が形成されたが、正行寺は数年で有井に戻った。
 慶長5(1600)年、高田の地は布施16000石に封ぜられた外様大名桑山一晴の所領となったが、一晴は高田を本願寺12世准如上人に寄進、准如は越前国三国湊の専立寺住職宗誓を看主とする本山直属の御坊を正行寺跡地に創建、専立寺と命名した。宗誓は新田義貞の弟脇屋義助の子孫で、曾祖父の代から専立寺住職を務めていた家系である。
 新庄(布施)藩は高田御坊専立寺門前に商人を近郊から集めて商家町として発展させる施策を採り、江戸時代の高田は綿花取引を中心に発展して行く事となった。
 なお、磯野荘の地は戦国時代に布施氏に押領されていたが、天正18(1590)年に浄土真宗の順照寺が成立、一向宗の環濠集落となり、江戸時代は郡山藩領に組み込まれた。
 延宝9(1681)年、高田本郷で火事があったが、井原西鶴の『好色五人女』に登場する八百屋お七の物語は、高田本郷の事件を江戸を舞台に変えたものだとの説もある。高田の常光寺には「延宝九年辛酉歳二月四日本室理誓信女位」と刻まれた「志ち」の墓が残る。
 天和2(1682)年、新庄藩改易に伴って高田は天領となった。
 幕末の勤王の志士として知られる若狭小浜藩士梅田雲浜(1815〜59)は、五條の勤王学者森田節斎を頼って大和を訪れていたが、安政2(1855)年、高田で木綿問屋を営む豪商村島屋の千代子と結婚し、雲浜の仲介で村島屋は長州藩との交易でさらなる巨富を得たと言われる。
 慶応4(1868)年5月、天領だった高田の地は奈良県葛下(カツゲ)郡高田村となり、明治22(1889)年に高田町となった。明治30(1897)年に北葛城郡が設けられた際には高田町に郡庁が置かれている。
 昭和7(1932)年、町の中心を流れる高田川を西方に付け替える工事が開始され、昭和18(1943)年に完成した。現在の県道5号線(通称中央道路)が旧高田川河道である。昭和24(1949)年に新高田河畔に1000本のソメイヨシノが植樹され、高田は大和盆地随一の桜の名所として知られるようになった。
 昭和23(1948)年、奈良県下二番目の市となり、以後も商業都市として発展を続けたが、現在は大阪のベッドタウンとしての性格が強まっている。

コメント(24)

12日火曜日に行って来ました。

石園坐多久虫玉(イワゾノニイマスタクムシタマ)神社です。
〔延喜式内社〕〔県社〕祭神;建玉依彦命・建玉依比売命

左;一の鳥居と拝殿
中;標柱
右;本殿

石園坐多久虫玉神社です。

左;摂社竜王宮 祭神;豊玉比古命・豊玉比賣命
中;人皇第3代安寧天皇片塩浮孔宮(カタシオノウキアナノミヤ)跡
右;静御前ゆかりの地
真言宗豊山派妙音山長谷本寺です。

左;本堂と鐘楼
中;左:薬師堂 右:観音堂
右;古代官道横大路(中近世の伊勢本街道)
浄土宗金谷山常光寺です。

左;山門
中;標柱
右;本堂
左;常光寺 高田城主高田三河守當麻真人為長墓
中;同上
右;高田城跡
高田城跡と水濠を拡幅した堀池です。
左;伊福寺跡
中;八幡神社〔村社〕 祭神:応神天皇 一の鳥居と拝殿
右;八幡神社 本殿
高田天神社です。
〔郷社〕祭神;高皇産霊神(タカミムスビノミコト)・神皇産霊神(カミムスビノミコト)・津速産霊神(ツハヤムスビノミコト)

左;表参道
中;由緒
右;拝殿

高田天神社です。

左;本殿
中;摂社當麻(トウマ)神社 祭神;高田城主高田三河守當麻真人為政
右;同上
左;高田天神社裏参道
中;馬冷池
右;さざんかホ−ル
真言宗御室派不動院です。

左;山門
中;本堂〔重要文化財〕
右;同上
左;不動院 大聖歓喜天堂
中;梅田雲浜顕彰碑
右;同上
浄土真宗本願寺派如意山高田御坊専立寺です。

左;表門〔高田市指定文化財〕
中;石橋と太鼓楼〔高田市指定文化財〕
右;築地塀〔高田市指定文化財〕と野口雨情歌碑「高田御坊の 櫓の太鼓 叩きゃぽんと鳴り ぽんと響く」


高田御坊です。

左;太鼓楼〔高田市指定文化財〕
中;水濠
右;庫裏(クリ)
春日神社です。
〔村社〕祭神;天児屋根命(アメノコヤネノミコト)

左;一の鳥居と拝殿
中;源義経伝承地
右;義経の七つ石
有井城跡に建つ浄土真宗大谷派有井山正行寺です。

左;山門
中;有井城縄張り
右;本堂
高田河畔の桜です。丁度満開で見事でした。
高田河畔の大中公園です。花見の中心地のため、多くの屋台が出ていました。
左;大中公園 静御前記念碑
中;静御前の塚跡
右;同上
磯野環濠集落です。中心に浄土真宗興正派彗日山順照寺があります。

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