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ゴスペルハウスコミュの「同意なしに注がれる」

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ゴスペルハウスメッセージ 2018.02.17
「同意なしに注がれる」 ルカ10:25-37,ヨハネ 15:13-15

ルカ10:25-37
25 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」
26 イエスは言われた。「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」
27 すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』、また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』とあります。」
28 イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」
29 しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とは、だれのことですか。」
30 イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎ取り、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。
31 たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
32 同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
33 ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、
34 近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。
35 次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』
36 この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」
37 彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」

ヨハネ 15:13-15
13 人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。
14 わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行うなら、あなたがたはわたしの友です。
15 わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。

フェイスブックやツイッター、インスタグラムやラインやミクシーなど、インターネット上には、さまざまなSNSが存在します。
その中には、友だちを作って、情報のやり取りをするものもあります。
ところで、その友だち・つながりの作り方に、2種類あるのを知っていますか。

フェイスブック・ライン・ミクシーは、友だちになるためには申請して承認してもらわなければなりません。
つまり、相互の了解・同意があって、はじめて友だちになれるものです。
それに対して、ツイッターやインスタグラムは、フォローするというボタンを押せば、だれにでもつながることができます。
相手側の同意は必要なく、一方的につながりを作れるのです。
(もちろん、そのようにしない方法もありますが)

では、実生活ではどうでしょうか。
友だちを作るという場合、双方の同意が必要でしょうか。
それとも、一方的に友だちとなっていいのでしょうか。

多くの方は、双方の同意が必要と感じることでしょう。
実際、そのほうがトラブルも少なそうです。
しかし、聖書はそうは言わないのです。
同意なく友となることが、良しとされているのです。

ルカ10:25-37は、「善きサマリア人のたとえ」として知られています。
当時、ユダヤ人とサマリヤ人は反目しあっていたということを念頭に、このたとえを読んでください、
強盗に襲われて半殺しになったユダヤ人を見て、同じユダヤ人の祭司もレビ人も知らん顔をして通り過ぎます。
しかし、サマリヤ人はかわいそうに思い、手当・介抱してあげるのです。
そして、イエスさまは聞きます。
「この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」(36節)

イエスさまをためそうとした律法学者はこう答えます。
「その人にあわれみをかけてやった人です。」(37節)
サマリヤ人という言葉さえ、その良い行いさえ認めたくないかのような冷たい言葉です。
これが、ユダヤ人とサマリヤ人の関係を端的に表していると言っていいでしょう。

さて、サマリヤ人は、強盗に襲われた人の隣人、つまり友だちになりました。
しかし、半殺しになったユダヤ人は、それを了承していません。
半殺しですから、意識もあったかどうかわかりませんし、友だちとして了承するかどうかなどという状態ではなかったでしょう。
ですが、たとえ回復して意識が戻ったとしても、彼はサマリヤ人と友だちになるでしょうか。
もっと言えば、サマリヤ人に助けられ、介抱されたことを喜ぶでしょうか。
私は「否」と答えざるを得ません。
民族間の憎しみや争いや蔑みは、悲しいことですが、かんたんに消えるものではないのです。

そして、サマリヤ人も、そんなことは百も承知でした。
感謝もされず、喜ばれもしない。
友と認めてくれることもない。
逆に、恨まれるかもしれないことを承知の上で、彼は傷ついたユダヤ人の友になったのです。
彼は、同意なしに友になり、同意なしに愛を注いだのです。

それは、またイエスさまのスタンスでもありました。
ヨハネ15:13-15は、イエスさまの十字架前の決別説教の一部です。
ここでイエスさまは、弟子たちのことを「友」と呼ぶことにしたのです。
「わたしはあなたがたを友と呼びました。」(15節)

弟子たちは、このことについて、何も了承していません。
それどころかきっと、「いえいえ、私たちは弟子です。イエスさまこそ師です。」と思っていたことでしょう。
それでもイエスさまは、同意なしに、一方的に、友と宣言したのです。
「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(13節)
そして、イエスさまの言う友とは、いのちを捨てても惜しくないという関係なのです。

弟子たちは、イエスさまに命を捨ててほしいとも思ってないし、友であってほしいとも思っていません。
もっと生きていてほしいし、主であり、師であってほしいのです。
自分は、弟子であり、しもべでありたいのです。

しかし、イエスさまはそんなことにはお構いなしに、友と呼び、いのちを惜しまないほどの愛を注ぐのです。
それは、弟子たちが何かを成し遂げたからではありません。
そして、弟子たちが同意したからでもありません。
同意なしに注がれる愛が、資格なしに与えられる愛が、イエスさまの愛なのです。

この愛は、あなたへの愛でもあります。
あなたが何を成し遂げたからでもなく、あなたが同意したわけでもない。
それでもイエスさまは、惜しみなくいのちをあなたのために捨てたのです。

同意なしに注がれる愛は、あなたのものです。
同意なしに与えられる赦しは、あなたのものです。
この愛を、力いっぱい受け取りましょう。

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