☆☆☆☆ きこり 正確には次のように表記しなくてはならない。[木にある差異郡]―[網膜に生じる差異郡]―[脳内の差異郡]―[筋肉の差異郡]―[斧の動きの差異郡]―[木に生じる差異郡]・・・。サーキットを巡り伝わっていくのは、差異の変換体の群れである。その差異のひとつひとつが「観念」―情報のユニットーであるわけだ。 p.431 ところが西洋人は一般に、木が倒されるシークエンスを、このようなものとは見ず、「自分が木を切った」と考える。そればかりか、“自己”という独立した行為者があって、それが独立した“対象”に、独立した“目的”を持った行為をなすのだと信じさえする。 p.431 「ビリヤード球Aが、ビリヤード球Bにぶつかって、Bをポケットに落とした」という言い方には、問題はない。人が斧で木を切り倒す出来事も、その出来事のシステムのすべてに、純粋なハード・サイエンスの記述を当てていこうと言うのなら、それはそれで構わない。(それが可能かどうか別として。)しかし、われわれはふつう、この出来事の記述の人称名詞を登場させる。それとともに精神が持ち込まれる。 p.431 一方では木は、ただのモノとなる。いや、人までがしばしばモノのように捉えられる。斧は木に働きかけ、自分は斧に働きかけるという、ふたつの関係の言葉上の一致が、精神の物象化というナンセンスを生むのだろう。混乱のもとはおそらく、”I hit the ball.”[私がボールを打つ]と”The ball hit around ball.”[ボールがボールにあたる]とが、同じ表現形式を持つ事にあるのだろうp.432