ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

memo メモ めもコミュのメモ 300109

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
精神の生態学 step to an ecology of mind
著:グレゴリー・ベイトソン 訳:佐藤良明

●「自己」なるもののサイバネティックス-アルコール依存症の理論

彼の<醒め>のありかたが、飲酒へ彼を追いやるのだとしたら、その<醒め>には、なにかしらのエラー(「病」と呼んでも良い)が含まれているはずだ。そのエラーを、<酔い>が、少なくとも主観的な意味で「修正」しているはずである。つまり間違っているのは彼の<醒め>の方であり、<酔い>の方は、ある意味で“正しい”と言う事になる。-「酒には一かけらの真理あり」と、古い諺にあるように。
p.423

世間の狂った前提への反抗として飲酒に走るのではなく、世間によってつねに強化され続けている自分自身の狂った前提からの脱出を求めて飲酒に走る-この違いが重要だと思う。
p.423

<酔い>が<醒め>に対する(少なくとも主観レベルでの)矯正の機能を担っている
p.423

☆☆☆☆
AA共同創立者の一人で、みずからアル中患者だった、ビル・W氏の手になる有名な「12のステップ」は、その第一ステップで、「酒との戦い」という神話に鋭くメスを入れている。アルコールとは戦えない-そんな力は自分たちにない-ことを認めるのが、更正への第一ステップとして明記されているのだ。
p.425
というのも、そういう者はまだ「底を極めていない」のであって、底を極めないうちは、自分への絶望が事態改善の力にはまったくならない。
p.425

1.われわれは自分たちが、アルコールに対して無力の存在であること、自分たちの生活がもはや手に負えないものであることを認めた。
2.われわれとり大きな<力>が、われわれを正気に引き戻してくれることを信じるに至った。
p.425

「患者は敗北の経験から、変化の必要を悟るというだけでなく、敗北する事それ自体がすでに変化の第一ステップだ」とする考え方だ。ボトルに負け、負けを知ることが、最初のスピリチャルな体験となる。一つの大いなる力の顕現によって、「意志の力」という神話が崩れさる・・・。
p.426

要するにわたしは、アルコール依存者の「覚醒」状態が、デカルト的二元論の極端に破滅的な一変異体であると考えるわけである。<精神>対<物質>というあの分裂は、このケースでは“自己”すなわち「意識された意志」対「<私であるところのすべて>からそれを取り去った残り」という対立の構図を取る。その二元構造を、いきなり第一のステップで打ち砕いてしまうところに、ビル・Wの天才が見てとれる。
p.426

哲学的に見れば、この第一ステップは、「降伏」ではなく、認識論の変化-「世界の中のパーソナリティ」についての知のあり方の変化-というべきものだ。この変化が、「誤った」認識論からより「正しい」認識論への変化となっている点に、注目したい。
p.426

人間行動の観察から出発する自然学者は、これとは少々違った疑問の立て方をする。もし彼が文化相対主義者であれば、“真の”オントロジーが存在するという哲学者の考えに異を唱えなくても、自分の観察している民族の存在論が“真”であるかどうかを問う事は避けるだろう。その民族のエピステモロジーが文化によって決定された、彼ら自身に特有のものですらあるのだということ、そしてその文化の総体が、彼ら自身のオントロジーとエピステモロジーを通してこそ意味を持つのだと言う事を了解した上で、彼は対象に向かうはずである。
p.427

一個の生命体としての人間は、一つの「存在=認識論的」な前提の網目の中に捕われている。それは、最終的に正しかろうと誤っていようと、半ば自動的に正当化され強まっていく性格を持つものである。
p.427

精神は現象界に内在するのか、それとも超越的な存在であるのか
p.428

蒸気機関には“governer”と呼ばれる調速器が付いているが、システムのその部分が他の部分を一方的にgovern[統御]するわけではない。「ガバナー」とは、むしろ感覚器官か変換器になぞらえるべきものだ。その実際のはたらきは、機関の現在の作動速度と理想の作動速度との差異(の変換形)を情報として受信し、その差異を変換して燃料供給装置やブレーキ機構へ伝えることなのである。つまり、ガバナーの動き自体が、システムの他の部分の働きによってーそしてまた、ガバナー自身の以前の動きによってもー統御されているのだ。
p.429

メッセージの本体は、次々に変換されながらサーキットをめぐる差異だり、これは必ずサーキットの全周をめぐる。
p.429

☆☆☆☆
ガバナーの動きは、直前の状況がもたらす直接の原因ばかりではなく、メッセージが一周するのに要する時間分だけ現在から遡った時点での、それ自身の動きにも、部分的に拘束されるわけだ。このことは、サーキットのその他すべての部分の動きについても同じである。どんな単純なサイバネティク・サーキットでも、その動きの決定に、一種の記憶が働いている-といってもいいだろう。
p.429
■記憶の役割

システムがどの状態に収まるか(自己修正的な動きをとるか、波打つような動きを示すか、それともランナウェイに走るか)は、サーキットを巡る差異の全変換過程の総体と、先に述べたシステム全体の時間特性によって決定される。
p.429-430
■時間を解放すること それが現在の求められている建築なのではないか?時間変化する建築なんて言うのは、その結果や副産物に過ぎないもののように思われる。

精神的特性を持つシステムで、部分が全体を一方的にコントロールすることはありえない。これは、システムの精神的諸特性は、特定の部分ではなく、システム全体に内在するというのと同じである。
p.430

☆☆☆☆
「精神的特性を示す」と正しく言えるのは、この大きなシステム全体である。調和的にはたらく一つの大きなアンサンブル-試行錯誤の原理で動き、創造性を持つその全体-こそ、精神は宿るのだ。
p.430
■大きなシステム全体、とはなにか?宇宙?

「脳プラス身体」のシステム全体に、精神が内在すると見る事が適切な場合もある。さらには、もっと大きな「人間プラス環境」のシステムに、精神が内在すると見なくてはならない場合もある。
p.431

しかし、人間や動物の行動の説明にかりだされるこのサーキットの外周は、“セルフ”という語でふつう呼ばれているものの外周(この外周は、さまざまに異なるようだが)と、ふつうは一致しない。
p.431

☆☆☆☆
きこり
正確には次のように表記しなくてはならない。[木にある差異郡]―[網膜に生じる差異郡]―[脳内の差異郡]―[筋肉の差異郡]―[斧の動きの差異郡]―[木に生じる差異郡]・・・。サーキットを巡り伝わっていくのは、差異の変換体の群れである。その差異のひとつひとつが「観念」―情報のユニットーであるわけだ。
p.431
ところが西洋人は一般に、木が倒されるシークエンスを、このようなものとは見ず、「自分が木を切った」と考える。そればかりか、“自己”という独立した行為者があって、それが独立した“対象”に、独立した“目的”を持った行為をなすのだと信じさえする。
p.431
「ビリヤード球Aが、ビリヤード球Bにぶつかって、Bをポケットに落とした」という言い方には、問題はない。人が斧で木を切り倒す出来事も、その出来事のシステムのすべてに、純粋なハード・サイエンスの記述を当てていこうと言うのなら、それはそれで構わない。(それが可能かどうか別として。)しかし、われわれはふつう、この出来事の記述の人称名詞を登場させる。それとともに精神が持ち込まれる。
p.431
一方では木は、ただのモノとなる。いや、人までがしばしばモノのように捉えられる。斧は木に働きかけ、自分は斧に働きかけるという、ふたつの関係の言葉上の一致が、精神の物象化というナンセンスを生むのだろう。混乱のもとはおそらく、”I hit the ball.”[私がボールを打つ]と”The ball hit around ball.”[ボールがボールにあたる]とが、同じ表現形式を持つ事にあるのだろうp.432

☆☆☆☆
軸索に生理的な出来事が起こるから情報が伝わるのではなく、起こらなくてもまったく同等に情報は伝わる。その活動のメッセージが信頼に値するものになるためには、静止のメッセージにも同じだけの信頼が与えれていなくてはならない。
p.432
実は“活動のメッセージ”とか“静止のメッセージ”とかを語る事からして、正しくない。情報が差異の変換であるなら、一方のメッセージを「◯活動―×静止」、もう一方を「◯静止-×活動」と呼ばなくてはウソである。
p.432

自己修正的に動きながら情報をプロセスしていく-“思考”し“決定”し,“行動”していく-ユニット全体をしっかり見据える事が肝心である。このシステムの境界は、生物の身体的境界とも、また一般に“自己”とか“意識”とか呼びならわされているものとの境界とも、全く一致しないのだ。「思考するシステム」と、いわゆる“自己”とのあいだには、何重もの違いがあるのだということ。このことに気付くのと気付かないのとでは大違いである。
p.433
1.自己は一般的に超越的だと見なされているが、「思考するシステム」はそうではない。
2.観念は、差異が変換されつつ伝播していく因果的伝達経路のネットワークに内在する。それらの観念は、すべてのケースで少なくとも二連(バイナリー)の構造をもつ。それは“衝撃”ではなく、“情報”である。
3.このネットワークは、「意識の囲い」の外側に伸び、無意識の精神作用のすべてを-自律的な作用も抑圧による作用もm、ニューロンの作用もホルモンの作用も-包括する。
4.さらにこのネットワークは、生物の皮膚の外側に伸び、情報の外部経路のすべてを含む。情報の“対象”に内在する効果的な差異も包含する。外界の事物や人間や、とりわけわれわれ自身の行為に内在する差異の変換形が伝わっていく光と音の経路も、ネットワークの一部をなす。
p.433

☆☆☆☆
思考のネットワークの大きな部分が身体の外側にあるとすれば、身体の作用から精神が生まれるという考えも正しくない。いわゆる「精神=身体」問題は、問の設定自体に誤りがある。その議論は、パラドックスに陥るしかない。
p.433

「ハートにはリーゾンが感取できない独自のリーゾンがある」
p.435

強調点は「オレは出来たぞ」ではなく「オレはできるぞ」にある。「オレにはできない」という命題を受け入れる事が出来ず、取りつかれたようにチャレンジを繰り返す姿がここにある。
p.435

☆☆☆☆
「一度アル中だったものは一生アル中である」
p.436
■この言葉は非常に重要だと思う。病といかに付き合っていくのか?自然といかに付き合っていくのか?考える上で無視できなキーワードのように思える。

「同じ行動」を促進するようなかたちでふたつが連携しているとき、それらの行動に関して両者の関係は「対称的」であるという。
p.437

AとBの行動が同じではないが相互にフィットするものであり、しかもAの行動の強まりがBの行動の強まりを呼ぶような形で両者が連係してるとき、それらの行動に関して両者の関係は「相補的」であるという。
p.437
軍事競争、臨時同士の見栄っ張り、スポーツ競技、ボクシング・マッチ等々は、一般に見られる対称的な関係の数々である。支配-服従、サディズム-マゾヒズム、養育-依存、見る-見せる等々は、一般に見られる相補的な関係のかずかずである。
p.437

これらの病的発展性を秘めた一方方向的変化が現れる原因は、対称型のシステムにも相補型のシステムにも、冷却(修正)機能を欠いた、正のフィードバック機構が組み込まれている点にある。
p.438

特に興味深いのが、この最後の例だ。オオカミ同士の戦いが、もしも対称的な型の-つまりオオカミAの攻撃行動に刺激されて、より以上の攻撃行動へむかう-ものだとすれば、Bが“負の攻撃”ともいうべきものを示した時には、瞬間的に相補的な(Bの弱さが攻撃行動への刺激となるような)心理状態に移行しない限り、戦いを続けることができなくなってしまうだろう。こう考えれば、ある特定の「降伏」のシグナルが、どのようにして、ある特定の攻撃を「抑止」する効果を持つのかという論議は必要なくなる。
p.439

言葉を持つ人間は、他者に打撃を与える行為に、すべて「攻撃」というラベルを貼る事が出来る。しかし前言語的な生を生きる哺乳動物にとって、相手の強さに対抗する“攻撃”と弱さをつく“攻撃”とは、異質のものであるほかないようだ。
p.439

まず指摘出来るのは、西洋文化内のノーマルな飲酒習慣が、対称型に向かう強い傾きを持っている
p.440

もとより彼は上司の権威的な態度(相補的関係の押しつけ)を軒悪していたわけだが、それに加えても妻も、夫の人格的崩壊を前にして、彼に対する相補的な態度を強めていく。
p.441

「ある環境のもとで生物に不快感が生じた場合、正のフィードバック回路が活性化されて、不快の発生に先立つ行動が増長される」というものである。このサーキットは、不快を生むシークエンスを、いわば表面に引き出して来る。そして、不快を与えている行動を特定する。そしてときには、そのシークエンスに質的変化が生じる閾値にまで、不快を増幅する。
p.443

不快を、ある一定の閾値に達するまで、ランナウェイ的に増幅させていく正のフィードバック・サーキットを想定することは、伝統的な学習理論からは大きく外れることになるだろうけれども、しかし、不快なものを自ら求めて繰り返し経験し、それを確証しようとするのは、人間の性向としてかなり一般的なものではないだろうか。フロイトが「死の願望」と読んだものは、あるいは、それであったのかもしれない。
p.443

☆☆☆
<酔い>に入ると、“自己制御”は弱まり、それ以上に、自分を他人と引き比べなくて入られなかった、対称性へのとらわれの心が、自分から抜けていく。酒の暖かさを感じるにつれて、心理的な暖かさを他人に感じる場合も多いだろう。酔って愚痴ろうと、怒りわめこうと、このとき彼は、ふたたびリアルな人間関係を取り戻しているのである。
p.444

☆☆☆
「どん底」をなめさせる経験は、いろいろなものがあるだろう。アルコール性譫妄症の発作、酩酊時の記憶の衷失、夫婦関係の破綻、失職、回復の見込みなしという診断。どれも事態の転換に向けての引き金となりうるものだ。AAの言うところによれば、どんなかたちで「底」がくるかは、人によってまちまちである。そこまで行き着かないうちに死に到るケースも多いとされる。(メンバーが、わたしに直接話したところによると)
 しかし、一度絶望の淵を覗いたくらいでは、何も変わらないのが普通である。「どん底」でのパニックは、事態好転のきっかけを与えるにすぎないものであって、それを引き起こすものでない。パニックに行き着いたものに、友人、親戚、そして医者までもがよってたかって、薬を飲ませ、あるいは「大丈夫だ」となだめて、アルコールを手放させたとしたらどうか。そのことの効果は、患者を、プライドの回復とアルコールへの依存に引き戻して、あとでもっと深くもっと悲惨な絶望に落ちるためのお膳立てをしてあげることでしかないだろう。「絶望のどん底」に落ちた時というのは、いわば変化の可能性が「満ちた」ときであり、患者に働きかけるのであれば、その点において他はない。「底」と「底」にはさまれた、プライドの支配する時期にシステムをいじってみても、そこに変革を起こす事は望み薄である。
p.445
■どん底とは、一体どういう場所なんだろう?行き来が出来ないという点で言えばお椀型の中に投げられたボールが最終的に辿り着く底、というイメージも出来るが、底から這い上がる?のは無理で、底にいることを認めることがスタートとなる、とは・・・、お椀型の大地/環境をまず、変えることが一つの方法となる。

「底を極めた」アルコール依存者のパニックは、自分がコントロールしていたと思っていた乗り物が、暴走を始めた事を知った人間のパニックである。「ブレーキ」だと思っていたものを踏むと、車は更にスピードを増す。そのとき人は、「自分プラス車」という、どう見ても自分より大きなシステムの存在を、パニックとともに知るのである。
p.446

☆☆
アルコール依存者は、その<醒め>の不快感を増幅し、“自己制御”のエピステモロジーが破綻する閾値にまで高める。そこに到達した時に、彼は自己制御を失って<酔い>の状態に入っていく。これは、彼より大きな“システム”のはたらきによるものであり、その意味で、このシステムに降伏するのは当然の事である。
p.446


この<酔い>への移行は、さらに一回り大きなシステムの存在に彼が気がつくまで、繰り返される。その発見に至った時点で、「どん底」のパニックが彼を襲う。
p.446

森を散歩するわたしの目にその「美しさ」が捉えられるということは、個々の木も、森全体の生態系も、ともに[部分と全体との相補性に立った]システムだということにわたしが感応した事と等しい。「わたし」と「あなた」とが語り合うとき、ふたつのシステム間で美的感応が起こるというのは、それ以上に驚くべき現象である。
p.448

全体に対する部分の戦いでは、勝利の度に、破滅が招き入れられる。生存の単位は-倫理的にも進化の事実からしても-個々の生物やその「種」ではなく、より大きなシステム、すなわちそのなかで生物が生を得ている<力>なのだ。環境を滅ぼすものは、わが身を滅ぼすほかない。
p.448

各人とこの<力>の健全な関係が、相補的なものであること。アルコール依存者の“プライド”が、架空の他者と対称的な競合関係を結ぶのと、これは鮮やかなコントラストをなす。分裂生成パターンの中にあって戦っているものが、分裂生成を打ち負かす事は出来ない。
p.449

要するに、各個人と<力>とは、前者が後者の「一部をなす」、そこに「与える」、という言い方が最も適切であるような関係をなしている。
p.449

世のスポットを浴びる事が、自分たちの利己生を排除して生きなくてはならない人間の魂に取って非常に危険だと言う事を、彼はいち早く察知したのだった。その上、政治的、宗教的論争や、社会改革運動に巻き込まれることは、組織全体にとって命取りになりかねない。アル中患者の犯した過ちが、「今日の世界をその縫い目から引き裂きつつあるさまざまな力」と他なるものでないとしながらも、会の目的は唯一つ、「アルコール中毒の苦しみにあって、それを必要としている人たちに、AAのメッセージを届けること」にあり、世界の救済はAAの感知するところでないと、彼はうたったのである。その文章は「名を隠す事こそ、われわれの知る自己犠牲のうち最大の物」であると結んでいる。また、「十二の伝統」の最後の項には、「会の原理のためには、自己を滅ぼすべきだとつねに思い出させてくれる匿名性こそは、われわれの伝統の霊的な礎石である」とある。
p.450

ダブルバインドの体験が、苦悩と絶望とによって、心の深いレベルにある認識論的な前提を打ち砕くものであるとするなら、その傷を癒し新しいエピステモロジーを育んでいくためには、なんらかの意味でダブルバインドの逆をなす経験が必要だという論が立つ。ダブルバインドは、ある状況に貼り付くしかないと言う、一つの選択不能性の極みである。
p.451

☆☆☆☆
AAはしかし、一つの点で、自然界の精神システムである家族やセコイアの森林と大きく異なっている。それは、明確な目的を持っていると言う点だ。それは明確に目的を持っていると言う点だ。〜、目的が、最高度に達せされる状況を目指すわけで、この点はAAも、ゼネラルモーターズや西洋的諸国家と変わらない、粗暴な目的追求組織だといってよい。これに対して生物的システムは多目的であることを特徴とする。〜、それは最大化ではなく、つねに変数を最適値に保つ事をめざすのだ。
p.451
■多目的と隙間、最大とフィット

☆☆☆
ただ、その「単一の目的」がシステムの外へ向けられているところと、より大きな世界との非競合的な関係を目指すところは、他の営利団体と大きく異なる、AAのユニークな点だ。AAが最大化しようとする変数は、相補的なものであり、それは支配ではなく、「奉仕」の性格をもっているのである。
p.452
■「奉仕」、贈与の精神、性善説的な世界観 ある種のユートピア 見かけの贈与と間、隙間を持つ多目的の世界、生物の世界


●コメント

☆☆
わたしは行為や発話があるコンテクストの「なか」で起こるという語り方をしている。〜、
そうではなく、さまざまな観念が互いに依存し合って「観念の生態系」のサブシステムをつくる-その大小さまざまなサブシステムがすなわち「コンテクスト」なのである。そのことにわたし自身、長い間気付かずに来た。
p.456

☆☆☆☆
生存を保持しながら進化の歩みを続けていくのは、馬と草を包含する全体(エコロジー)なのだ。もちろん、この進化プロセス全体の中で、関係の両端に位置する「草」も「馬」も、ひとつの時点から次の時点へ、適応的に変化しいく。しかし、もしその適応プロセスだけですべてが語り尽くされるのだとしたら、システム全体が病理に陥りることがあると言う事実が説明出来ない。病理が生じるのは、個々の種における適応の“論理”と生態系の生存と進化の“論理”とが別物であるからなのだ。
p.457

☆☆☆☆
生物体レベルでの適応と生態レベルでの進化とは「時の肌理」が異なると言ってもいいだろう。
p.457
「生存」とは、ある生きたシステムを記述するなんらかの言(ステートメント)が、その間じゅう「真」であり続けることを意味する。逆に、そのような生きたシステムについてなされる記述の真意に変化が起こるとき、われわれは「進化」が起こったと言う。どのシステムのどの記述項目が「真」のまま留まり、どれが変化を蒙るのか-それを見定める事が肝心である。
p.457
システムの恒存が、それを構成するサブ・システムの変化によって得られるところに、パラドックスと病理の発生する根があるのだ。
 動物と草との関係性が恒存性が、その関係で結ばれた両者の、たがいに絡み合った変化によって獲得されるとすると、両者のうちの一方が、他方のチェックを受けずに適応的変化を遂げるところでは、つねに関係の存続が危機にさらされることになる。この大きな視野に立って思考していくとき、「ダブルバインド」とか「精神分裂症」とか「第二次学習」とか呼ばれて来たものを、新しい概念の枠組の中に、捉え直さなくてはならなくなる。
p.457
分裂病も、第二次学習も、ダブルバインドも、もはや個人の心の問題であることをやめている思考領域-それらが、個々の生物の皮膚で区切られるのではない、大きな“精神”のシステムの中を流れる観念のエコロジーの一部として捉えられる、そういう思考領域-が必要だということである。
p.457

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

memo メモ めも 更新情報

memo メモ めものメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング