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邪馬台国コミュの情報提供のお願い  鉄鏡について

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コミュ内全体

来年5月くらいに日田出土の金銀錯嵌珠龍文鉄鏡フォーラムを企画しています。
鉄鏡についての情報お持ちの方はご指導お願い申し上げます。


卑弥呼の鏡
      
○ 邪馬台国の女王卑弥呼

魏志倭人伝(ぎしわじんでん)は、中国の歴史書『三国志』中の「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条の略称。当時、日本列島にいた民族・住民の倭人(日本人)の習俗や地理などについて書かれている。著者は西晋の陳寿で、3世紀末(280年(呉の滅亡)-297年(陳寿の没年)の間)に書かれ、陳寿の死後、中国では正史として重んじられた。
 その倭人条で、登場する卑弥呼。卑弥呼の時代以前に倭国大乱があり、倭国が乱れて戦いが各地で起きていることを記述している。その証拠に、瀬戸内海では高地集落が発生し安全な場所での遺跡の発掘が確認され、日本海側でも、戦いの跡が発掘され鏃の刺さった死体が見つかっている。
その時代に倭人条では倭国には連合王国の首長として卑弥呼が共立されたとある。しかし、卑弥呼の死後、男王を立てるが、また争いが起こり、1000人死んで、卑弥呼の宗女台与をたてると戦いが治まったとある。しかし台与は宗女と記述され卑弥呼との血縁関係があるかは分からない。

※ 邪馬台国論争は江戸時代の本居宣長(九州説)と新井白石(畿内説)から始まり、戦後は、九州説の東大そして畿内説の京都大という学閥の戦いもあった。現在は考古学者の過半数以上が畿内説。それに対して素人の7割(NHKスペシャル放送)が九州説を支持している。
畿内説は纒向遺跡を中心とした場所だが、九州説は甘木や宇佐や八女など数多いが、日田説もある。 以下著書の紹介

 澤田洋太郎  天皇家と卑弥呼の系図
 高木彬光   古代天皇の秘密
 古村豊    卑弥呼の道は太陽の道
 木藪正道   日田の宝鏡
 福本英城   記紀が伝える邪馬台国
 後藤英彦   日田こそ卑弥呼の奥津城
 於保忠峯   邪馬壱国と邪馬台国
 関裕二    沈黙する女王の鏡 他





○ 『記紀』神話の卑弥呼  (『古事記』・『日本書紀』)

 神話の中で、卑弥呼と台与は登場しない。卑弥呼に近いのは、伊勢神宮の内宮の御祭神である天照大神で、他に神功皇后などが卑弥呼ではないかという仮説もある。
 その他にも、奈良の箸墓古墳の倭迹迹日百襲姫命や豊受大神(外宮)などの説もある

※ 『魏志』倭人伝での卑弥呼は一人しか存在しないが、『記紀』神話や風土記に登場する日巫女(ひみこ)は沢山存在していたと思われる。

 
○ 卑弥呼の鏡(考古学的)
                          三角縁神獣鏡
 考古学的に卑弥呼の鏡として有名なのは、三角縁神獣鏡である。しかしこの鏡の出土数も多く、また、古墳の中での埋設も重要視されていない形跡もあり、また中国でも発掘されていない事からも卑弥呼の鏡としては問題視する事が多い。
 しかし、銅鏡の内行花文鏡や画文帯神獣鏡が卑弥呼の鏡だとされる説もある。

※ 現在、三角縁神獣鏡は500枚と言われる出土数が確認されている。卑弥呼が魏から送られた鏡は100枚だからその数を超える可能性もあると言われる。研究者の中では、魏から送られた三角縁神獣鏡を複製したという仮説もある。ただし、中国から出土の経緯がないことからも、これからの研究成果を待ちたい。


○ 『記紀』神話の鏡  岩戸開きに使われた八咫の鏡とは?

 卑弥呼=天照大神という仮説は同一視される場合が多い。天照大神の鏡と言えば、神話の「八咫の鏡」である。天照大神が岩戸に隠れて国が暗くなり、また岩戸から出てくる時に使われる鏡が「八咫の鏡」である。
 その鏡に一石を投げる仮説が江戸時代にある。今では全く無視されている(知らない場合もあるだろうが)ようだ。平田篤胤と飯田武郷が八咫の鏡は鉄鏡だと言う。
 『日本書紀』には、銅から造られたのが八咫の鏡とあるが、『古事記』は別の見解をしめしている。それは、真金(鉄)から八咫の鏡が造られたと記述しているのである。

※八咫の鏡は大きな鏡(2尺 46兪宛紂砲世箸気譟考古学者原田大六によれば、福岡県糸島市にある「平原遺跡出土の大型内行花文鏡(46僂瞭盥垈嵎姑葉鏡)と、同じ形状で同じ大きさのものではなかったか」と考察して、それを著書に記している。ちなみに金銀錯嵌珠龍文鉄鏡は21

○ 平田篤胤が「八咫の鏡」は鉄鏡。江戸時代に鉄鏡ないのにね!
 
 平田篤胤大人 「淡海国の国友村なる国友能當が造れる鉄(まがね)の鏡に添ふるふみ」に曰く

 「神世に鏡を作れる起原(おこり)は、天照大御神の、天石屋に幽居(さしこも)り座せる時に、八百万の神たち謀りて、天の香山の金(かね)を取りて、石凝姥命に造らしめつとは、誰も知れるものから、その神鏡(みかゞみ)つくれる事をし、神代紀の一書には、『石凝姥を以て冶工と爲し、天香山の金を採りて云々』と見え、古語拾遺には、『石凝姥神をして天香山の銅を採りて、以て鑄せしむ云々』と記し、古事記には、『天の安の河上の天の堅石を取り、天の金山の鉄を取りて、鍛人・天津麻羅を求めて、伊斯許理度売命に科(おほ)せて、鏡を作らしむ云々』とあり。金と云い、銅と云ひ、鉄と云ひて、その説の區々なる中に、何れ正説ならむと云ふに、古事記に鉄とあるぞ、正説なる

 延暦の内宮儀式帳(皇大神宮儀式帳一卷・内宮条)に、正殿心柱造奉条に、「鉄人形四十口・鉄鏡四十面・鉄鉾四十柄」とありて、余の所々に、「鉄人形四十口・鉄鏡四十面・鉄鉾四十柄」とあるは、一所にしか記して、余をも准へ知らしめたるものなり。同じ延暦の文ながら、外宮儀式帳には、「金人形二十口・金鏡二十面・金鉾二十柄」と、数所に記せり。これはうち任せて加禰といふは、鉄のことなる故に、語のまゝに金人形など書きたるにて、これまた黄金もて造るには非ずかし。そは延喜の大神宮式にも、これを「鉄人形・鏡・鉾、各四枚」と、数所にあるにて知るべし。後の世まで、かく神宝に奉らるゝは、鉄鏡なりしは、神世の旧き例を伝へ来れる御式なるべし。
                           以上
  
※ 江戸時代に、鉄鏡の存在さえも確認されていないのに、八咫の鏡は鉄鏡という説があることに驚きを隠せない。そして伊勢神宮の祭儀に、鉄鏡が使われていたという重大な記述も書かれている。



○中国での鉄鏡の価値とは?

 中国の文献に、『曹操集評注』(安徹底県「曹操集」評注小組)の「上雑物疏」に御物有尺二寸金錯鉄鎖一枚、皇后雑物用純銀錯七寸鉄鎖四枚、皇太子雑純銀錯七寸鉄鎖四枚、貴人至公主九寸鉄鏡の記述がみられる。

※ 要約すると、金で造られた鏡は「皇帝」 銀で造られた鏡は、「お后」と「皇太子」という意味であり、金で装飾された鏡は曹操の皇帝しか持ち得なかった代物となる事になる。ちなみに、鉄鏡が造られ始めた経緯は、銅が不足し、その変わりとして鉄を使ったという。

別府大学の賀川光夫教授は日田の金銀錯嵌珠龍文鉄鏡に凄く注目していた。

○ 曹操の墓?から一面の鉄鏡が出土

2010年11月3日に開催された第29回奈良県立橿原考古学研究所公開講演会において「曹操高陵の発見と中国墳丘墓・王墓形成」のテーマで中国 社会科学院考古研究所所長 王 巍 氏の講演が行われた。
 配付された資料に、「鉄鏡1面で、絹織物で包まれていたが、腐食していた。半球形の鈕があり、縁辺部には2個の支点が対称になる位置にある。直径は21cmある。鏡台もあったとされるから、この鏡は当時、鏡台にあったとされる。

※ 正式に曹操の墓だとは特定されてはいないようだが、地位の高い墓から大切に鉄鏡が一面出土した意味はそれだけの権力者の象徴としてのものだと想像されよう。

○鉄鏡はどう倭国へ来たのか

九州国立博物館の赤司氏は、『魏志』倭人伝の中での記述に注目し、1回目の卑弥呼に渡された鏡は銅鏡100枚とあるが、2回目に卑弥呼に渡された鏡については何もふれていない事から鉄鏡もありうるという。
また、郷土史家の故、福本英樹氏は『記紀』神話の中で天の日矛が倭国へ来たときに持ち込んだ中に「日鏡」の記述に注目し、「日鏡」は鉄鏡だと仮設している。


○ 金銀錯嵌珠龍文鉄鏡の運命 悲運の鏡

昭和八年久大本線建設中に土中から鉄からつくられた鏡が出現した。
その錆びた鏡を拾い上げたのが渡辺音吉氏である。その鏡が国重要文化財になるとは誰も思っていなかっただろう。
鏡は渡辺氏が何かの参考になればと三芳小学校で展示されるが校舎建て替えの時、行方不明となる。

 ところがなんとこの鏡は奈良で発見されたのであった。奈良の古美術商玉林善太郎から「伝日田出土」の鉄鏡を京都大学の教授が買い取っている。その後、この鏡を研ぎ出してみると、腰を抜かすほどの装飾がでてきだのだ。なんとこの教授は飛び上がって喜んでいるという話さえある。その後、教授の調査で日田から出土した経緯が確かめられているが、その後、この鉄鏡は東京国立博物館へ渡り、今は九州国立博物館で展示保管されている。

※ もし、この鏡が奈良から出土していたら、絶対に卑弥呼の鏡となり、国宝で、多くの国民がこの鏡を知り見ることとなっていたし学校の教科書にも紹介されていただろう。しかし、日田で出土した中で出土の経緯もあやふやで、考古学の世界で忘れられていった悲運の鏡だ。
 

○ 金銀錯嵌珠龍文鉄鏡の年代特定

 九州国立博物館の発表では2世紀〜3世紀の鏡だと発表。また、古代史の著書で邪馬台国九州説の安本美典氏は、鏡の文様(わらびて紋)から中国の時代の2世紀から3世紀に使われた文様だとして、2世紀〜3世紀の中国鏡と言えると日田での講演会と著書で紹介している。
 日田出土の金銀錯嵌珠龍文鉄鏡は卑弥呼の時代に造られたと言えるだろう。



○金銀錯嵌珠龍文鉄鏡はどうやって倭国へ来たのか

九州国立博物館の赤司氏は、『魏志』倭人伝の中での記述に注目し、1回目の卑弥呼に渡された鏡は銅鏡100枚とあるが、2回目に卑弥呼に渡された鏡については何もふれていない事から鉄鏡もありうるという。
また、郷土史家の故、福本英樹氏は『記紀』神話の中で天の日矛が倭国へ来たときに持ち込んだ中に「日鏡」の記述に注目し、「日鏡」は鉄鏡だと仮設している。

○ 金銀錯嵌珠龍文鉄鏡は倭国製・・・か?

 『天の安の河上の天の堅石を取り、天の金山の鉄を取りて、鍛人・天津麻羅を求めて、伊斯許理度売命に科(おほ)せて、鏡を作らしむ云々』とある。

※ 金銀錯嵌珠龍文鉄鏡は、日本国内で製作されたという仮説も存在するのだが、その理由は、『日本書紀』に「初度に鋳造された御鏡(前霊)を日前(ひのくま)國懸両神宮の御神体として、後に鋳造された御鏡は、伊勢の神宮の御神体として奉祀された」と記されている事からも想像される。
 これは私見でしかないが、中国、朝鮮半島、倭国へ渡ってきた金銀錯嵌珠龍文鉄鏡をモデルに複製しようとした可能性は充分にある。天の日矛が渡来したときに、日鏡と共に、「宝石」を持ち込んだ事が記述されているのだ。
 鉄技術を持った天津麻羅が倭国に渡って来たという可能性も否定出来ないだろう。
 安本美典氏も、日田での古代史フォーラムの送迎時(二人だけ)に私にこっそり話をしてくれたのだが、この鏡は倭国製の可能性がある、そして古代には低温で鉄で鏡を造る技術もあったと話をしてくれた。

○ 『豊後国風土記』と久津媛(ひさつひめ)

昔者,纏向日代宮御宇大足彦天皇,球磨贈於を征伐て凱旋りましし時, 筑後の国の生葉の行宮を発ちて,此の郡に幸でまししに,神有り, 名を久津媛といふ.人と化為りて,参迎へ,国の消息を弁へ申しき.斯に因りて久津媛郡といひき.今日田郡と謂ふは訛れるなり。

※景行天皇が日田に凱旋したときに久津媛が出迎えて、その久津媛が訛り日田になったという文章です。
瀧音能之(駒澤大学教授、島根県古代 文化センター客員研究員)は、『出雲世界と古代の山陰』で「ひさ」とは古代の鏡を「ひさ」と読んでいたと紹介している。
また、景行天皇が鏡坂で日田はまるで鏡のようだという記述も日田と鏡をつなげるものではないか。
久津媛は鏡の媛であり、日田という地名そのものが「鏡」を意味する地名であるのだ。そして、口の中にーと+という陰陽が閉じ込められていると感じられる。文字には意味があっての事なのです。

金銀錯嵌珠龍文鉄鏡は卑弥呼の鏡なのか

九州国立博物館の4周年特別展で、金銀錯嵌珠龍文鉄鏡は卑弥呼の鏡?かと大々的にPRしていましたが、権威ある九博がここでやるのかとびっくりです

https://www.youtube.com/watch?v=_mFcPEUJsro

コメント(2)

特に情報があるというわけではないのですが、思いついたことを書かせていただきました。

鈕のそばをよく見ると、蝙蝠鈕座があるのが分かります。しかも長宜子孫銘があることから、下記ページの、長宜子孫銘 蝙蝠鈕座鏡のうち、タイプ靴箸茲似たデザインのようです。

http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku288.htm

ここで紹介されている長宜子孫銘 蝙蝠鈕座 内向花文鏡のデザインから内向花文を取り除き、銅でなく鉄で作って象嵌を施したら、ちょうどこんな鏡になるのではないでしょうか。

従って、デザインから考えると、これは後漢末期から魏の時代にかけて作られた鏡ではないかと考えられます。だとすると、この時代であるにもかかわらず凸面鏡でなく平面鏡であることから考えても、中国鏡である可能性が高く、その豪華さや製法の難しさ、デザインを含め、官製である可能性もあると思います。

ちょうどこの当時に中国で作られた鉄鏡の調査報告が日本金属学会誌に出ていますが、(中国古代鉄鏡の材料学的調査と製造法に関する考察:日本金属学会誌第71巻第1 号(2007)140-142)これによると、この当時の中国の鉄鏡は、なんと鋳造ではなく鍛造で作られており、鍛接を繰り返していること、また、不純物としてリン・硫黄・ケイ素が検出されていると書かれています。

このうちリンと硫黄は製鉄時に使用された石炭によるものでしょう。ケイ素は鍛接時に使用したホウ砂由来ではないかと考えられます。

これと同様の調査を金銀錯嵌珠龍文鉄鏡にも行い、製法や不純物を調べれば、これが中国鏡か国産鏡かが判別できると思います。もしこの調査報告と同じ結果が出るとすれば、デザインだけでなく石炭による製鉄という面から考えても、国内製という線はほぼ消えると思います。国内産ならば木炭を使用するので、硫黄やリンはほとんど出ないはずです。

仮にこれが中国製だとすると、まさに卑弥呼が魏からもらった銅鏡100枚とほぼ同時期・同デザインの鉄鏡であり、卑弥呼や壹與が所有していたものであると考えることもあながち的外れではないという事になります。ダンワラ古墳の時代は古墳時代末期であることから、卑弥呼の鏡が代々の女王に伝世され、最後の女王である比佐津媛が死んで後継の女王がいなくなったとき、初めて埋納されたと考えることもできるかと思います。
コメントありがとうございます。
長期の入院・リハビリがありまして、ご返事遅れて申し訳ございません。

中国鏡とほとんどの方が言います。資料もなく、知識もなく、参考にさせていただいて、確認してみようと思います。

ご指導誠にありがとうございます。

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