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詩歌全般・日本古代史・たべものコミュの 風そよぐ ならの小川の 夕ぐれは みそぎぞ夏の しるしなりける

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百人一首ー98−

風そよぐ ならの小川の 夕ぐれは みそぎぞ夏の しるしなりける   従二位家隆

<寛喜元年 女御入内の屏風に 新勅撰集・夏>


「掛詞」と「本歌取り」に注目。

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風がそよそよと楢の葉に吹きそよぐ

この ならの小川の夕ぐれは

すっかり秋の気配ではあるが

この小川で行われている禊の行事だけが

いまだ夏であることのしるしであるのだなあ
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初夏とはまだ言えない、ややもすると肌寒い季節の変わり目。秋の気温のようだ、と すでに秋を感じとっている陰暦の夏の終わりの夕暮れの情感をうたう。


夏越しの祓えは、夏の果ての日、六月三十日(みなづきみそか)の行事である。
だから、「みそぎぞ夏の しるしなりける」と、ことわらねばならないほどに、あたりは秋色を感じさせる。
「風そよぐ ならの小川の 夕ぐれは」は、楢の葉をそよがせる夕暮れに清浄な神事をとけこむように配して、清澄な美を感じさせよう。

上賀茂神社の夏越の祓は毎年六月三十日に行われ、人々は茅の輪をくぐり人形(ひとがた)に名前歳を書き納めお祓いをしてもらう。ならの小川に懸かる橋殿が神事を待つ。松明に導かれて茅の輪をくぐる。平安の昔、神職がみそぎを修していた情景を詠んでいる。


二十四の季節のある国、日本。

 春は、
立春・雨水(睦月)啓蟄・春分(如月)清明・穀雨(弥生)

 夏は、
立夏・小満(卯月)芒種・夏至(皐月)小暑・大暑(水無月)

 秋は、
立秋・処暑(文月)白露・秋分(葉月)甘露・霜降(長月)

 冬は、
立冬・小雪(神無月)大雪・冬至(霜月)小寒・大寒(師走)


この作は本歌取りで


(古今六帖・一・夏越の祓)

みそぎする ならの小川の川風に いのりぞわたる 下に絶えじと 
 八代女王


(後拾遺集・夏)

夏山の ならの葉そよぐ 夕ぐれは ことしも秋の ここちこそすれ
 源頼綱 


の二首をふまえているが、秀でた作歌力をみせて、気品のある一首としている。

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風そよぐ ならの小川の 夕ぐれは; 

「そよぐ」はそよそよと音をたてる意、動詞連体形。
「風」と「そよぐ」は主述関係。
「ならの小川」は、京都府北区の上賀茂神社の中を流れる御手洗川。
「なら」は樹木の「楢」と川の名の「なら」とを掛ける掛詞。
「は」は他と区別してとりたてていう係助詞。


みそぎぞ夏の しるしなりける; 

秋の訪れる気配の中で、ただ夏越しの禊だけが夏の証拠であるよの心。
「みそぎ」はこの場合夏の終わりの日(陰暦六月三十日)夏越しの祓い(六月祓みなづきはらえ)。
第五句の主語。係助詞「ぞ」の結びは、詠嘆の助動詞「けり」の連体形「ける」。
「しるし」は証拠。
「なり」は断定の助動詞「なり」の連用形、

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【参考歌】

源経信「経信集」

のどかなる 風のけしきに 青柳の なびくぞ春の しるしなりける


藤原教長「教長集」

風そよぐ ならの葉かげの こけむしろ 夏を忘るる まとゐをぞする


【主な派生歌】

年月を すつるしるしは みそぎ川 夏こそなけれ 水のしら波  
 (松永貞徳)

風わたる ならの小河の 夕すずみ みそぎもあへず なつぞながるる
 (小沢蘆庵)

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藤原家隆 ふじわらのいえたか(-かりゅう) 保元三〜嘉禎三(1158-1237)
号:壬生二品(みぶのにほん)・壬生二位
良門流正二位権中納言清隆(白河院の近臣)の孫。正二位権中納言光隆の息子。兼輔の末裔であり、紫式部の祖父雅正の八代孫にあたる。
母は太皇太后宮亮藤原実兼女(公卿補任)。
但し尊卑分脈は母を参議藤原信通女とする。
兄に雅隆がいる。
子の隆祐・土御門院小宰相も著名歌人。寂蓮の聟となり、共に俊成の門弟になったという(井蛙抄)。

安元元年(1175)、叙爵。同二年、侍従。
治承四年(1180)、阿波介。
寿永二年(1183)、従五位上。
文治元年(1185)十二月、越中守(兼侍従)。
建久四年(1193)正月、侍従を辞し、正五位下。同九年正月、上総介に遷る。
正治三年(1201)正月、従四位下。
元久二年(1205)正月、従四位上。
同三年正月、宮内卿。
建永二年(1207)正月、正四位下。
建保四年(1216)正月、従三位。
承久二年(1220)三月、宮内卿を止め、正三位。
嘉禎元年(1235)九月、従二位。
同二年十二月二十三日、病により出家。法号は仏性。出家後は摂津四天王寺に入る。
翌年四月九日、四天王寺別院で薨去。八十歳。

文治二年(1186)、西行勧進の「二見浦百首」、
同三年「殷富門院大輔百首」「閑居百首」を詠む。
同四年の千載集には四首の歌が入集した。
建久二年(1191)頃の『玄玉和歌集』には二十一首が撰入されている。
建久四年(1193)の「六百番歌合」、
同六年の「経房卿家歌合」、同八年の「堀河題百首」、
同九年頃の「守覚法親王家五十首」などに出詠した後、後鳥羽院歌壇にも迎えられ、
正治二年(1200)の「後鳥羽院初度百首」「仙洞十人歌合」、
建仁元年(1201)の「老若五十首歌合」、「新宮撰歌合」などに出詠した。
同年七月、新古今集撰修のための和歌所が設置されると寄人となり、
同年十一月には撰者に任ぜられる。
同二年、「三体和歌」「水無瀬恋十五首歌合」「千五百番歌合」などに出詠。
元久元年(1204)の「春日者歌合」「北野宮歌合」、
同二年の「元久詩歌合」、
建永二年(1207)の「卿相侍臣歌合」、「最勝四天王院障子和歌」を詠む。
建暦二年(1212)、順徳院主催の「内裏詩歌合」、同年の「五人百首」、
建保二年(1214)の「秋十五首乱歌合」、同三年の「内大臣道家家百首」「内裏名所百首」、
承久元年(1219)の「内裏百番歌合」、
同二年の「道助法親王家五十首歌合」に出詠。承
久三年(1221)の承久の変後も後鳥羽院との間で音信を絶やさず、
嘉禄二年(1226)には「家隆後鳥羽院撰歌合」の判者をつとめた。
寛喜元年(1229)の「女御入内屏風和歌」「為家卿家百首」を詠む。
貞永元年(1232)、「光明峯寺摂政家歌合」「洞院摂政家百首」「九条前関白内大臣家百首」を詠む。
嘉禎二年(1236)、隠岐の後鳥羽院主催「遠島御歌合」に詠進した。

藤原俊成を師とし、藤原定家と並び称された。後鳥羽院は「秀哥ども詠み集めたる多さ、誰にもすぐまさりたり」と賞讃し(御口伝)、九条良経は「末代の人丸」と称揚したと伝わる(古今著聞集)。千載集初出。新勅撰集では最多入集歌人。自撰の『家隆卿百番自歌合』、他撰の家集『壬二集』(『玉吟集』とも)がある。新三十六歌仙。百人一首にも歌を採られている。『京極中納言相語』などに歌論が断片的に窺える。また『古今著聞集』などに多くの逸話が伝わる。
(千人万首)

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