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蓮如上人コミュの御一代記聞書

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御一代記聞書とは蓮如上人の言行録です。
このトピックでは、御一代記聞書の蓮如上人のお言葉を
紹介します。

紹介する場合は、原文と説明を両方のせていただくと
ありがたいです。

コメント(19)

「聖人の御流は、たのむ一念の所肝要なり。
 故に『たのむ』ということをば、
 代々遊ばしおかれ候えども、
 くわしく何とたのめという事を知らざりき。
 然れば前々住上人の御代に、『御文』を御作り候て、
『雑行を捨てて、後生助けたまえと一心に弥陀をたのめ』と、 明らかに知らせられ候。
 然れば御再興の上人にてましますものなり。」

 (御一代記聞書188)


■親鸞聖人のみ教えは、「たのむ一念」が要の中の要である。
 だから代々「たのむ」ということが重要だと伝えられてきたが、何をどう「たのむ」のかハッキリしなかった。

 ところが、本願寺八代目の蓮如上人が『御文章』を作られて

 「たのむとは、雑行(自分のやる善、自力の心)を捨てて、後生の一大事の解決について、阿弥陀仏一仏をあて力にすることだ」

 と誰にでもわかるようにハッキリと教えられた。
 だから、浄土真宗の門徒が全国にに急増し、
 真宗の中興上人と申し上げるのだ。


■蓮如上人が最高最上の親鸞学徒である所以である。
そうですね。初めて聞く方でも分かるように、まず仏法とはどんなものか、何を教えられているのか、ということについて
これとは別にトピックを立てるのが良いと思います。
■御一代記聞書188の
「然れば御再興の上人にてましますものなり」は

「だから、浄土真宗の中興上人(真宗を再興なされた)と
 申し上げるのだ」

という意味です。

 
■「前々住上人」とあったら、全て蓮如上人を指します。

 親鸞聖人のことは 「開山聖人」や「聖人」と
 蓮如上人は呼んでおられます。
『蓮如上人の悲しみ』

■前々住上人御口の中を御わずらい候に、
おりふし「ああ」と御目をふさがれ、仰せられ候。
定めて御口中御わずらいと皆々存じ候ところに、
ややありて仰せられ候。
「人の信なきことを思召せば、身を切り裂くように悲しきよ」と仰せられ候由に候。
   
(御一代記聞書 112)

■蓮如上人が口内炎をわずらっておられた時に、
時折目をふさがれ、「ああ」とおっしゃった。
周りの者は皆、余程口の中が痛むのだろうと思っていたところ、
しばらくして蓮如上人がおっしゃった。

「いまだに信心獲得していない人のことを思うと、
 この蓮如、身を切り裂かれるほどに悲しいのだ。」と。


■「みなみな信心決定あれかし」の御心のとおりに
 布教につき進まれた蓮如上人の悲しまれることと
 私たちの悲しむことには、大きな隔たりがあると
 思わずにはおれない。
■信をとらんずる聞法

「聴聞を心に入れて申さん」と思う人はあり、
「信をとらんずる」と思う人なし」

 (御一代記聞書123)


「聴聞を心に入れて申さん」
即ち仏法は尊いと思って聞法している人は多い。

しかし聞いても聞いても難中の難の鉄壁の前に、いつしか今日こそ信心決定しようと燃える心はなくなる。
聞いてさえおれば、そのうち何とかなれると、
ドン座ってしまう。これはすでに目的を忘れた聞法だ。

「信をとらんずると思う人なし」
「今日こそ獲信するぞ」の覚悟で臨んでいる人が見当たらない。

信心決定せよとすすめる人がいなければ
「信心決定しなければ」と思う人がないのも当然であろう。

「信をとらんずる聞法」を心がけたい。
■仏法は聴聞に極まる


至りてかたきは石なり、至りてやわらかなるは水なり、

水よく石を穿つ

「心源もし徹しなば、菩提の覚道何事か成ぜざらん」

といえる古き言葉あり。

いかに不審なりとも、聴聞を心にいれて申さば、

お慈悲にて候あいだ、信をうべきなり。

只仏法は聴聞に極まることなり
      

「御一代記聞書」


■雨だれが長い年月をかけて石に穴をあけることがある。

 物事を成し遂げるのに、大事なことは

 一点に集中することと、継続することであろう。

 違うことを聴くのではない。

 同じことを繰り返し、聴くのだ。

 必ず弥陀の呼び声が聞こえる時がある。

 仏法においては、「聴聞に極まる」のである。

 信心獲得するためには
 
 ど真剣な聞法こそが、もっとも肝要である。
92一
わればかりと思い、独覚心なること、あさましきことなり。信あらば、仏の御慈悲をうけとり申す上は、わればかりと思うことは、あるまじく候う。触光柔軟の願候う時は、心もやわらぐべきことなり。されば、縁覚は、独覚のさとりなるが故に、仏にならざるなり。
現代語訳は、暫くお待ちください。
■現代語訳■
わたしだけが如来の真実を悟っているのだと思いあがることは、独覚心(他人に伝わらない自己完結)で、浅はかなことです。真実信を獲得しているならば、阿弥陀仏の慈悲を受け取っているのですから、自己完結に陥らない筈です。触光柔軟の願があるときは、頑な心も和らぎます。したがって、縁覚(善知識にもあわず、専門書やネットで理論武装した思いあがり)は、自己完結だから、仏にはなれません。

以上の様に趣意のみを取り、訳してみました。
ー触光柔軟の願についてー
設我得仏□十方無量□不可思議□諸仏世界□衆生之類、蒙我光明、触其身者、身心柔軟、超過人天。若不爾者、不取正覚。
たとい我、仏を得んに、十方無量不可思議の諸仏世界の類、我が光明を蒙りてその身に触れん者、身心柔軟にして、人天に超過せん。もし爾らずんば、正覚を取らじ。

阿弥陀仏の光明は智慧です。その智慧を賜った者は、自我執心の頑なさが和らぎます。 智慧の内容は、四諦八正道でしょうか
皆様、御指導ご鞭撻のほど、何卒、宜しくお願いいたします考えてる顔
先の書き込みの補足です。光明を智慧と領解するのは、『唯信ショウ文意』にある以下に引用した箇所を基にしたからです。
しかれば、大小の聖人、善悪の凡夫、みなともに自力の智慧をもっては、大涅槃にいたることなければ、無碍光仏の御かたちは、智慧のひかりにてましますゆえに、この仏の智願海にすすめいれたまうなり。一切諸仏の智慧をあつめたまえる御かたちなり。光明は智慧なりとしるべしとなり。
また、
選択不思議の本願、無上智慧の尊号をききて、一念もうたがうこころなきを、真実信心というなり。金剛心ともなつ゛く。この信楽をうるとき、かならず摂取してすてたまわざれば、すなわち正定聚のくらいにさだまるなり。このゆえに信心やぶれず、かたぶかず、みだれぬこと、金剛のごとくなるゆえに、金剛の信心ともうすなり。

上記の引用から、触光柔軟が、独覚や縁覚に堕さない、正定聚のくらいにさだまる、智慧の内容は何かということが、問いになっております。
縁覚は、仏のさとりによらないで自ら道を覚り、寂静な孤独を好むために、説法教化をしないとされる聖者です。
梵語ではプラティエーカ・ブッダです。独覚とも訳します。一種のひきこもりです。
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  心得たと思うは、心得ぬなり、
  心得ぬと思うは、心得たるなり。
  弥陀の御たすけあるべきことのとうとさよと思うが心得たるなり。
  少しも、心得たると思うことはあるまじきことなり。

    (蓮如上人・御一代記聞書)

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※「たのむ」とは、今日の言葉づかいとは全く意味が異なり、こちらから
 「頼む」「お願いする」「依頼する」というような意味ではなく、
 「たのむ」は「憑む」と書き、「あて力になる」「信じる」という意味。




「心得たと思うは、心得ぬなり、
 心得ぬと思うは、心得たるなり。」

と聞きますと、

”弥陀のお慈悲は、ハッキリわからないままでも、救われている”

と思われがちですが、要注意だと思います。



●心得たと思うは、心得ぬなり

   ”自分で弥陀をたのんだ(信じた)”
   と思っている人は、
   まだ弥陀のお慈悲を知らない。(阿弥陀仏に救われていない)


●心得ぬと思うは、心得たるなり。

   ”私は金輪際、阿弥陀仏を信じることはできない”
   ”私には、弥陀をたのむ(信じる)心など金輪際なかった”
   とはっきり知らされた人こそ、
   弥陀のお慈悲を知らされている。(阿弥陀仏に救われている)


●弥陀の御たすけあるべきことのとうとさよと思うが心得たるなり。

   ”阿弥陀仏は、弥陀を信じる心の全くない私の為に、
    救う本願を建立され、
    弥陀を「信じる心」=「南無」の心をこしらえ、
    それを私に与えて、「阿弥陀仏」を私に信じさせて下された
    ひとえなる「南無阿弥陀仏」のひとりばたらきの救いの尊さよ”
   とはっきり知らされたのが、
   阿弥陀仏のお慈悲を知らされたということ。


●少しも、心得たると思うことはあるまじきことなり。

   私が自分で弥陀を信じたなどと、思おうと思っても思えない。

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<つづく>

蓮如上人は、

?「私は弥陀のお慈悲を心得ることは、金輪際できない」
 と「心得ぬ私」がハッキリ知らされておられます。

同時に、

?「弥陀を信じる心まで与えて、弥陀を信じさせてくだされた」
 と「南無阿弥陀仏のひとりばたらき」をハッキリ知らされておられます。


?と?が、同時にハッキリ知らされているこの「二種深信」が、
「他力の信心」であり、蓮如上人の御信心であります。




「たのむとて たのむこころを 知らずとも

      助けらるるを 知るがたのむぞ」

という歌も、同じことで、

「たのむ」とはどういうことか、
「はっきりわからなくても」
そのまま包み込んで助けてくださったと知る
ということが、「たのむ」ということだと、思われがちですが、要注意です。

「たのむこころを知らずとも」とは、
「たのむということがよくわからなくても」ではなく、
弥陀をたのむんだぞとどれだけ言われても、
「どのようにたのむのか、絶対わらかない私だった、そのままを」
ということで、「よくわからない」のではなく、
「金輪際わからないとハッキリ」しています。
そんな私を、「そのまま助けて下されたことがハッキリ」しているので、
「助けらるるを知る」がたのむぞ、
とおっしゃっています。


このように、阿弥陀如来に救われている人の心は、

”弥陀をたのむ”ということが、
 自分でわかったのでもなく、知らされていないのでもありません。

”弥陀をたのむ心の全くない自分”と、

”こんな私だからこそ、弥陀のお陰さまで
 たのむ心まで与えてくださって、
 弥陀を一心一向にたのませてくだされた南無阿弥陀仏の尊さ”

とが、いつもハッキリと、常に一体となって、
脈々と相続して満ち満ちている心であります。


阿弥陀仏に救われた後も、「弥陀をたのむ」ということが
ハッキリしないものでありましたならば、
「弥陀をたのむ」とはどういうことか、ハッキリしないものを、
ハッキリを教えることもできませんが、
蓮如上人は、「弥陀をたのむ」ということを、
ハッキリ知らされておられましたので、
「弥陀をたのむ」ということを詳しく教えてゆかれました。
だからこそ、本当の浄土真宗が広められたのだと、言われています。


「聖人の御流は、たのむ一念の所、肝要なり。
 故に、たのむと云うことをば、代々、あそばしおかれそうらえども、
 委しく、何とたのめと云うことを、しらざりき。
 然れば、前々住上人の御代に、『御文』を御作り候いて、
 「雑行をすてて、後生たすけたまえと、一心に弥陀をたのめ」
 と、あきらかにしらせられ候う。
 然れば、御再興の上人にてましますものなり。」(蓮如上人・御一代記聞書)

合掌

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