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Ψ禅禅Ψ梵梵ΨコミュのKey topic

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過去生

 人は長い間、巡礼を続けてきた。ここにいる誰もが、新米ではない。私たちは皆、古くからの巡礼者だ。そしてあなたは、人間の意識の進化すべてを目にしてきた。あなたはその一部だった。
 私達は常にここにいた——形を変えながら、異なる肉体を持ち、異なることをしながら、それでもいつもここにいた。そして私達は永遠にここにいるだろう。存在から消え去る術はない。存在には、破壊できるものやつけ加えられるものは何ひとつない。存在は、いつも正確に同じままだ。
 この洞察が、あなたを時間の彼方へと連れ去る。そして時間を超えるということは、惨めさを超えるということだ。時間が存在しないと知ることは、至福の世界に入ることだ。あなたは太古の存在だ。時間のない、永遠なるものだ。だから、小さなことを思い煩う必要はない。つまらないことを気にかける必要はない。それらはやって来ては、過ぎて行く。あなたは留まる。やって来たり過ぎ去ったりせずに、留まるものを覚えておきなさい。それが究極なるものだ。そしてそれは、他の誰の内側にもあるように、あなたの内側にもある

コメント(51)

子どもたち

 子どもたちはみな、とても美しく、とても優美に見える。あなたは醜い子どもなど見たことがあるだろうか? それなのに、この美しい子どもたちみんなにいったいなにが起こるのだろう? 彼らはどこに消えてしまうのだろう? 生も終わりに近づいて、美しい人びとと出会うのはとてもまれだ。そうだとしたら、この美しい子どもたちみんなはいったいどうなってしまうのだろう? どうして彼らは醜い大人になってしまうのか? 途中でどんな事故が、どんな災難が彼らに降りかかるのだろう?
 彼らは自分の知性を失いはじめた日に、優雅さも失いはじめる。彼らは自分の持っている自然なリズム、自然な気品を失いはじめ、人工的なふるまいを習得しはじめる。彼らはもう自然に起こるがままに笑ったり、起こるがままに泣いたり、起こるがままに踊ったりはしない。あなたがたは彼らを檻に閉じ込め、拘束服を着せてしまったのだ。
エコロジー

 人は無知なせいで、エコロジーのことを理解しない。それで、かまわずにバランスを壊していく。すでにオゾン層にまで穴をあけてしまった。上空200マイルのところで地球を取り巻いているこの厚いオゾン層こそが、地球全体を有害な太陽光線から守っているのだ。光線が全部生命にとって有益だというわけではない。致命的な光線もある。このオゾン層が有害な光線を反射し、生命の役に立つものだけをとり入れる。ところが月にロケットを送ることで私たちはオゾン層に穴をあけてしまった。なんて無知なことを! そして今、科学者たちは後悔している一私たちはいったいなにをしたんだろう、ロケットが行っては帰ってくる……ロシアのロケット、アメリカのロケット……そうしてオゾン層に何百もの穴をあけてしまった。その穴から有害な光線が地球へとやってくる。オゾン層が破壊されてから皮膚ガンの発生率が4倍上がった。

愛のなかに我を失う

 私は朝の散歩から家に帰る途中だった。川の岸辺で、私は小さな泉と出くわした。自分の進む道から枯葉を押し流し、細い流れは川に向かってほとばしっていた。私は、その大急ぎと、川とのその至福に満ちた融合を見たのだ。それから、その川もまた急いでいるのを私は見た。
 そうして、私には、あらゆるものが急いでいるのだということがわかった——海と出会うために、無限なるもののなかへと失われていくために、完全さ、成就を達成するために、枯れた、死んでしまった葉を自分の道からわきに払いのけながら。
 水のしずくは、海と融合することに憧れている。この憧れは、生の根源的なものだ。私たちのあらゆる奮闘は、この切望から生じ、それを成就することで、ほんとうの喜びがもたらされる。限りがあるということは、悲しみがあるということだ。不完全だということは、悲しみがあるということだ。限りあるために、不完全であるために、生は死で終わる。それらがなければ、生は不滅だ。それらがあるために、生は粉々に砕け散っている。それらがなければ、生は分かれていない全体になる。
 だが、人間は、エゴという小さなしずくとして止まってしまい、そこで、生の尽きることのない流れから切り離されてしまう。このようにして、人間は自分の自由意志で太陽の光を断念し、世俗のランプのかすかな光のなかに成就を見いだそうと、無駄な努力をする。だが、満足は見いだせない。というのも、一滴のしずくが、しずくにすぎないままとどまることに、どうして満足できるかね? 海になる以外に答えはない。しずくにとっては、海がゴールだ——海になるしかない。しずくが消えることは、絶対に必要なこと。エゴを壊すことは、絶対に必要なことだ。エゴがブラフマンになるとき、そのとき初めて、成就がありうる。
 人を真理に確立させるのは、海であるという、この成就だけだ。そして、この成就だけで、解放がもたらされる。というのも、成就していない人が、どうやって解放されうるかね?
 イエス・キリストは言っている。「自分の命を救おうとする者はそれを失い、それを失う者は、それを達成する」
 私も同じことを言おう。これだけで愛だ。自己を失うことが愛だ。愛のなかで死を受け容れることが、神の生を達成する道だ。
 だからこそ、私はこう言う。「しずくたちよ、海に向けて急ぐがいい! あなたがたの終着点は海だけだ。愛のなかで、喜んで死を受け容れるがいい。それだけが生だからだ。海に行き着く前に止まるのは、死に絶えるということだ。だが、海に行き着くことは、死を超越することだ」

マインド

 「マインドはつねにほかの誰かに責任を転嫁したい。マインドはつねに奴隷になりたい。マインドは奴隷だ。それは自由を恐れ、責任を恐れる——あれほど多くの教会とあれほど多くの組織がこの世に存在するのはそのためだ。その罠にかかる用意のある人たちがそれほどたくさんいるからだ。実際は教会に責任があるのではない、それは人びとの必要だ。彼らが特定のタイプの監獄を必要としているために、誰かがそれを提供することになる」
ヒロシマは必要なかった

 広島と長崎に原爆を落とすというのは、歴史全体のなかで人間の行なったもっとも醜いことだ。それに比べたらほかのすべては色あせてしまう。そしてわけても不思議なことは、それがまったく必要なかったということだ。ドイツはすでに降伏していたし、日本の軍隊はほどんどおしまいだった。たぶん原爆を落とさなくても、戦争は1週間くらいしか長引かなかったろう。それくらいだったら大した災いでもなかったろう——人びとはもう7年も戦ってきたんだから、7日ほど延びたって……。ところがそれが広島と長崎に原爆を落とした理由だった。というのも戦争が終わってしまったら、自分の持っている核兵器が使えなくなるからだ……。その目的は、アメリカが世界一強いということを天下に示すということだった。ただそのためだけに、生命にみちみちたふたつの大きな都市が破壊されたのだ。
宇宙のすべてが……メッセージ

 思いやりは誰に向けられるものでもない。それは関係ではない。それはあなたの存在そのものなのだ。あなたは樹を、鳥たちを、動物たちを、人間を。すべての人を思いやることを楽しむ——無条件に、見返りを求めることなく。
身体の知恵

 ……身体の知恵を世界のどの宗教も正しく評価していない。あなた方の一番の賢者も、あなたの身体ほど賢くはない。身体の働きはまさに完璧だ――身体の理解はあなたのコントロールがまったく及ばないようになっている。あなたのコントロールは破壊的になりうるからだ。
 だから、あなたの生と実存の最初の部分は、あなたの身体だ。身体は現実(リアリティ)、真正、誠実だ。その身体は崩しようがない――すべての宗教が身体を崩そうとしてはいるが……。彼らは自然に背き、身体の要求に反する断食を教え、より長いあいだ断食できる人が偉大な聖者になる。その人を私は、群衆の愚かさに支配されているどうしようもない馬鹿者と呼ぶ。
 宗教は身体のメカニズムを理解せずに、あなた方に禁欲を教えてきた。あなたは食物を食べる、水を飲む、酸素を吸う。まさにあなたの中で血液がつくられているように、あなたの性的なエネルギーもまたつくられている――それはあなたを超えている。禁欲者は世界のどこにもいたことがない。私は、自分たちの僧は禁欲者だという振りをしている宗教すべてに対して挑戦する。彼らに科学者の検査を受けさせるがいい。科学者には、彼らも人びとと同じように腺を持ち、同じエネルギーを持っていることが分かるだろう……
 ……だから私は、まず自分の身体への深い敬意、愛、そして感謝をあなた方に教える。それがブッダたちの心理学、覚者たちの心理学の基礎になる。

主観芸術と客観芸術

 主観芸術は一種の嘔吐だ。自分のなかにくだらないことがいっぱい詰まってしまい、それを取り除きたい――。そして、それを取り除く唯一の方法は、それをキャンバスに、楽器に吐き出すことだ。客観芸術はひじょうに深い沈黙から生まれている……。それは表現、この沈黙は誰のなかにもありうることをあなたに伝えるものといっていい。客観芸術にはメッセージがある。主観芸術には狂気がある。
聴くこと

 私を聴いているあいだ、あなたはふたつの方法で聴くことができる。科学的な方法は集中することだ――私が言っていることに集中する。それは、ほかのあらゆることに対して自分のマインドを閉ざしてしまうということだ――過ぎていく飛行機、列車が雑音をたてる、通りの往来、こずえで歌っている鳥たち……すべてのものに対して自分のマインドを閉ざす。私のために小さな鍵穴だけを開けておく。私だけを聴く。科学者はそうやって聴く。鍵穴を通して存在を見る。
 神秘家は部屋から出てきて大空のもとに立ち、あらゆるものに完全に開いている。それがもうひとつの聴き方、瞑想する人の聴き方だ。それだと、あなたは私を聴きつづけ、その背景として鳥たちのさえずりがつづいていく。そして、私の言っていることを鳥たちのさえずりが乱すことはありえない……いや、まったくない。それは、その美を強調する。それに色彩を与える、音楽を与える。しかも鳥たちだけでなく、過ぎていく飛行機や突然の雑音も、対照的にさらなる沈黙をうみ出す。
 飛行機が過ぎ去ると、あなたは突然、もっと深いレベルで私を聴いている。そして、飛行機が過ぎていこうとしていて、雑音があるあいだは、あなたは両方を聴いている。あなたは乱されない。内側で、「このばかな飛行機が私の邪魔をしている」とは言わない。飛行機にはあなたの邪魔をすることなどできない。だが、もしあなたが内側で、「このばかな飛行機が私の邪魔をしている」と言ったら、あなたがそう言っていること自体が邪魔になる。そう言っているときは、あなたは私を見失う。飛行機にはあなたの邪魔などできない。だが、それへのあなたの反応は、かならず邪魔になる。
 瞑想的に聴くということは、あるものはすべて受け容れられている、歓迎されているということだ。そのすべての多様性において、宇宙は受け入れられている。あなたは起こっているすべてに対して、あらゆる面からただ開いている。すると、あなたは驚くだろう! それは、それほどにも大いなる沈黙、それほどにも無上の沈黙、それほどにも深遠な沈黙をもたらしてくれる。
永遠の/永久の

 普通、辞書にはpermanent(永久の)がeternal(永遠の)と同じ意味であるかのように書かれている。だが、それは違う。eternalはつねに束の間だ。バラの花をもう一度見てごらん。朝、それは咲いている。が、夕方にはもうない。それは束の間のものだった。しかしそれはまた花ひらく……明日の朝には違う花がそこにあるだろう。それはいつもやって来つづける。永遠は、瞬間より覗き見る。永遠は、瞬間を通して見つめている。あるバラの花が散り、別のバラの花が咲く。あるものが去り、別のものがやって来る。実際には、去ってゆくものは、別のものがやって来る場所を作っているにすぎない。美とは永遠だ。
神聖なる歓び

 私にとって、あらゆる歓びは神聖だ。歓びそのものが神聖なのだ。もし歓びに満ちていることができたら、その人は祈りの中にいる。そうしたら、ほかのどんな祈りをする必要もない。あなたは、絶えることなく、自分を神に捧げている。ほかに我われの捧げられるものなどありはしない。
 惨めだと、我われは神から切り離されている。閉じて、分離して、孤立している。歓びの中では、我われは溢れ出している。再接続され、再結合されている。だから、喜びは神聖だ。そして、歓びに満ちていないことは、非宗教的であることにほかならない。
 つまり、この一事が可能になれば、何もかもついて来るだろう。ただ恍惚として、歓びに満ちていなさい。


 外側の美しさは、内側からだけでなく様々な要因から生まれる。外側の美しさは、父親と母親から生まれる。彼らの体が、あなたの体を作る。だが、内側の美は、あなたが何生にも渡ってたずさえてきた、あなた自身の意識の成長から生まれる。あなたという個性のなかで一体となる、父親と母親からの肉体的遺産と、あなた自身の過去生からの精神的遺産が。それは意識。それは至福。それは喜びだ。
 だが、時に、内なる美があまりにも圧倒的だということが起こる。内なる美が外側の肉体を通して輝き始めるほど圧倒的だということが起こる。外側の肉体は美しくないかもしれない。しかし、あなたの源泉から、永遠なる生のもっとも奥深い源泉からやってくる光が、普通の感覚では美しいとは言えない肉体さえも美しく輝いて見せてしまう。しかし、逆はけっして真実ではない。外側の美しさは皮一枚のことにすぎない。内なる美に影響を及ぼすことはできない。それどころか、外側の美は、内なる探求の障害となる。あなたは外側とあまりにも自己同一化してしまう。誰が内なる源泉など探そうとするかね? これは、外側が非常に美しく、内側が非常に醜い人びとによく起こることだ。彼らの外側の美しさは、自分自身を隠すための、かくれみのとなる。
無時

 人は長い巡礼の旅をしてきている。新しい顔ぶれはここにはひとりもいない。私たちはみな、ひじょうに古くからの巡礼者だ。あなたがたは人間の意識の革命全体を見てきた。あなたがたはずっと、その一部だったのだ。

 私たちはつねにここにいつづけてきた——異なった形で、異なった体で、違うことをやりながら。とにかく、私たちはここにいつづけてきたのだ。そして、私たちは永遠にここにいつづけることになる。私たちが存在から消えてしまうことなど、けっしてない。なにひとつ壊されることはありえないし、なにひとつ存在に付け加えられることもありえない。存在は常に、まったく同じだ。

 この洞察があなたを時間の彼方に連れていってくれる——そして、時間を超えることは、惨めさを超えることだ。無時を知ることは、至福の世界に入ることだ。あなたは古の人、無時の人、永遠の人だ。だから、些細なことを心配する必要はない。ありふれたことを気にすることはない。それらは来ては去っていく。あなたはとどまる。いいかね、とどまるものは、それはけっしてやって来ないが、行くこともけっしてない。それが究極のものだ。そして、それはあらゆる人の内にあるように、あなたの内にある。
日本は世界を導く

 日本は今や世界の大国だ。危機に満ちたこれからの数年間、アメリカの世界支配が造りあげてきた物質的な貪欲と暴力から人類を解き放つ唯一の希望を日本が担うだろう。代わって日本は、世界を平和と繁栄の黄金の未来へと導くことができる!
 世界は日本に注目している。日本はこの大いなる責任を引き受けて立ち上がるべきだ。光明を得た禅師たちという日本の黄金の過去こそが、新しい夜明けと世界を導く。洞察、責任、慈悲を、日本に与えるだろう。全世界の遺産相続を生まれながらの権利として主張する『新しい人間』(ニューマン)を創造する上で、日本において東洋と西洋が出会うことができる。日本に今必要なのは、創造性、自発性、反逆精神という本来の面目を取りもどす20世紀の禅革命だ。
 日本人のマインドは、不幸なことに、もっとも規律を課せられたマインドにとどまっている。そして、その規律の中で、すべての自発性と創造性が死んでいる。日本では自殺の率が世界でもっとも高いのも偶然ではない。緊張があまりにも強いので、圧力と緊張のもとで生きるよりは、自殺するほうがたやすいようだ。そして、この圧力と緊張は非常に尊ばれているので、それに反抗する者はひどい非難を受ける。だから、日本には反逆者が存在しない。反逆そのものが、日本ではまだ知られていない。
 日本に必要なのは、『新しい人間』の誕生へと向けて人類を導くことができるよう、その創造性と反逆と意識を再び開花させることだ。私がロナルド・レーガン政権下のアメリカで不当に逮捕され、毒を盛られたとき、最初の抗議は日本の禅院から出された。これは私に、日本の生きている禅のほんとうのハートはまだ命を保っていて、再び鼓動し、人類の新しい夜明けの先駆者となることができる。ということを示してくれた。
今ここ

 あなたは現在を味わったことがないので、未来について白日夢を見る。現在を味わいはじめなさい。自分がただ喜んでいる瞬間をいくつか見つけるがいい。
 樹を見て、ただ見ることになりなさい。鳥を聴いて、ただ聞いている耳になりなさい。それらをあなたのもっとも深い核まで届かせなさい。彼らの歌をあなたの存在の隅々まで行きわたらせるがいい。浜辺に坐り、ただ荒波の轟を聴いて、それとひとつになるがいい……なぜなら、荒波の轟には過去も未来もないからだ。もしあなたにそれと調子を合わせることができたら、あなたも荒波の轟となる。木を抱きしめ、そこにくつろぎなさい。その緑のかたちがあなたの存在に勢いよく流れ込んでくるのを感じなさい。砂の上に寝ころび、世間を忘れ、砂と、その涼しさと交感しなさい。その涼しさがあなたを満たすのを感じなさい。
 川に行き、泳ぎ、そして川をあなたのなかで泳がせなさい。水をはね散らし、はね散る水になりなさい。
 自分が楽しく感じることであれば、なんでもしなさい。そして、それをトータルに楽しむがいい。そのわずかな瞬間、過去と未来は消え、あなたは<今ここ>にある。こうした瞬間は最初の良い知らせを、最初の神の福音を運んでくる。
 福音は『聖書』のなかにあるのではない。福音は川のなかに、荒海の轟のなかに、星たちの沈黙のなかにある。良い知らせは至るところに記されている。宇宙のすべてがメッセージだ。それを解読しなさい。その言語を学びなさい。その言語は<今ここ>のものだ。
 あなたの言語は過去と未来のものだ。だから、もしあなたがマインドの言語を話しつづけるのであれば、あなたはけっして存在と調子が合わない、調和することはない。そして、その調和を味わわなかったら、どうやって白日夢を止めることができるだろうか?
 それこそが、あなたの生なのだから。
関係性

 ……私に関するかぎり、あなた方の個人的な関係性には興味がない。それは完全にあなた方自身の悪夢だ。あなた方は苦しむことを選んだ。—苦しみなさい。だが、私に質問をもってくるときには、覚えておきなさい。私は別の人間によりかからずに、見つめることができる人間にとっての真実だけを語ろうとしていることを。これは世間でのあたりまえのことではない。いつであれ、個人的な関係性とそれがもたらす苦しみについての問題を抱えて、誰かのところへ行けば、世俗的なやり方であなたを慰められる。
 男と女はともに苦しみ、あらゆる種類のトラブルを互いにつくりだしてきた。1万年のあいだ、彼らの関係には何の変革も、何の変化も起こらなかった。
 私は、あなたがどのように自分自身の世界をつくりあげているかを、あなたがはっきりと見るための手助けをしたい。私にとって、あなたはあなた自身の世界だ。あなたはあなたの世界の創造主だ。……強くありなさい。少しスタミナをつけて、変える努力をしなさい。
 私はあなた方に、もっと個人になって欲しい。より自由で、より敏感で、より意識的で、そしてより瞑想的であってもらいたい。そして、こうした状況というのは、瞑想のためのすばらしい機会になりうる。だがもしあなたが怒り、わけがわからなくなり、自分自身を防御しはじめたなら、そのときにはどうか質問はしないでほしい。私にはまったく関心がない。あなたの関係性はあなたのものだ。私のここでの関心は、ただ瞑想だ。そして、これは実に奇妙なことだが、あなた方はめったに瞑想についての質問をしない。瞑想があなた方の最大の関心事であるようには思えない。あなた方にとってそれは優先事項ではないようだ。—それはあなた方のマインドの第1項目ではない。おそらくそれはあなた方の洗濯物リストの最後のものかもしれない。1番最初でないことは確かだ。最初にあるのは馬鹿げた、些細なことばかりだ。あなた方は自分の時間を無駄にしている。あなた方は私の時間を無駄にしている。
勇気

 最初のうちは、臆病な人と勇気のある人とのあいだに大きな違いはない。どちらも恐怖を抱いている。違いは、臆病な人は自分の恐怖に耳を傾け、それらに従うということだ。勇気のある人は、それらを脇におき、先に進む。恐怖がそこにあり、それらを知っているが、勇気のある人はすべての恐怖をものともせずに、未知なるものへと入っていく。勇気とは、恐怖がないという意味ではなく、すべての恐怖をものともせずに、未知なるものへと入っていくことだ。

 コロンブスがやったように、未踏の海に乗り出すとき、そこには恐怖が、計り知れない恐怖がある。なにが起こるか分からないし、安全という岸辺を離れようとしているからだ。ある意味で、あなたは完全にオーケーだった。ただ、ひとつのことだけが欠けていた——冒険だ。未知なるものへと入っていくことは、あなたにスリルを味わわせてくれる。胸が高鳴る。心臓がどきどきする。再び、あなたは生きている、完全に生きている。未知なるものの挑戦を受け入れたのだから、あなたの存在のあらゆる繊維が活き活きとしている。

 未知なるものの挑戦を受け入れることが、勇気だ。そこには恐怖がある。だが、何度も何度も挑戦を受け入れつづけたら、徐々に徐々に、こうした恐怖は消える。未知なるものがもたらす喜び、未知なるものと共に起こり始める大いなるエクスタシーが、あなたを充分、強くしてくれる。ある一定の完全さを与えてくれる。あなたの知性を鋭敏にしてくれる。あなたは、生とは退屈にすぎないのではない、と感じ始める。生とは冒険だ。徐々に徐々に恐怖は消え、あなたは新しい冒険を探し求めつづける。

 勇気とは、未知なるもののために既に知っているものを、なじみのないものためになじみのあるものを、どこか分からない目的地への、不安でつらい巡礼のために心地よいものを危険にさらすことだ。それをやれるかどうかは、誰にもけっして分からない。ギャンブルだ。だが、生とはなにかを知っているのは、ギャンブラーだけだ。
神聖なる歓び

 私にとって、あらゆる歓びは神聖だ。歓びそのものが神聖なのだ。もし歓びに満ちていることができたら、その人は祈りの中にいる。そうしたら、ほかのどんな祈りをする必要もない。あなたは、絶えることなく、自分を神に捧げている。ほかに我われの捧げられるものなどありはしない。
 惨めだと、我われは神から切り離されている。閉じて、分離して、孤立している。歓びの中では、我われは溢れ出している。再接続され、再結合されている。だから、喜びは神聖だ。そして、歓びに満ちていないことは、非宗教的であることにほかならない。
 つまり、この一事が可能になれば、何もかもついて来るだろう。ただ恍惚として、歓びに満ちていなさい。

間違いを犯すこと

 間違いを犯すことを恐れてはいけない。なぜなら、間違いを犯すことを恐れたら、あなたはまったく動かなくなり、全人生を見逃すことになるからだ。なにもしないよりは、間違ったほうがいい。

沈黙

 沈黙を学びなさい。そして少なくとも、友だちや恋人や家族、そしてここにいる旅の仲間達とともに、時には沈黙の内に座りなさい。ゴシップを続けたり、話し続けるのをやめてごらん。話すことを止める——それは外側のお喋りだけでなく、内側のお喋りも、だ。言葉のとぎれた、その狭間にいなさい。ただ坐り、何もせず、互いのためにただそこにいること。そうすればすぐに、通じあうための新しい方法が見つかるだろう。そして、それこそが正しい方法だ。
 時には沈黙によって通じあうことを、始めるがいい。友人の手を取って静かに坐り、ただ月を眺め、月を感じてみなさい。そして、ふたりとも静かに月を感じている。するとごらん、交感が起こる。コミュニケーションだけではなく、コミュニオンが起こる。あなた方のハートは、同じリズムで脈打ち始める。同じスペースを感じ始め、同じ歓びを感じ始める。そして、互いの存在に重なり合う。それがコミュニオンだ。何も語らずして、あなたは語った。そしてそこには、どんな誤解も生じない。

存在は裁かない

 それは禅が人類になした最大の貢献のひとつだ—目覚めるために、聖者になる必要はない。あなたは生のどんな角度からでも、どんな次元からでも、目覚めることができる。
 それはちょうど、ある者が誰かを殺す夢を見ていて、ほかの誰かが貧しい人びとに仕える非常に甘い夢を見ているのと同じようなことだ。誰かは自分が非常に徳が高く、聖者である夢を見ているが、誰かは自分が殺人者であり、最悪のたぐいの犯罪者である夢を見ている。
 聖者の夢を見ている者が早く目覚め、罪人や犯罪者は目覚めるのに少し長い時間がかかると思うだろうか?
 彼らは同じ方法によって、どちらもまったく同時に目覚める。ふたりにバケツ一杯の氷のように冷たい水を浴びせ掛けるだけで、彼らはベッドから跳び起きる。彼らが罪の夢を見ていようと、美徳の夢を見ていようと関係ない。

あなた自身を受け入れて

 おおいなる感謝を持ってあなた自身を受け入れてごらん。それが何であれ、そうでしかありえない。だから、それと闘ったりしないように。事実が心理的な苦痛を創りだすということはけっしてない。あなたに痛みをもたらすのはあなたの解釈だ。痛みはあなたが創り出したものだ、なぜなら、それはあなたの解釈だからだ。解釈を変えるとそのまさに同じ事実が喜びとなる。全ての解釈を落としてごらん、事実はただ事実であり、それは痛みでも喜びでもない。選ばないで、より好みをしないで。ただ注意深くあり、受け入れそして油断なくあれば、あなたは秘密の鍵を手に入れる。
至福

 人びとは臆病者だ、彼らについて心配することはない。あなたはあなたの道を行きなさい、あなたの道を踊りながら行きなさい。ひとつ覚えておくことは、何であれあなたが心地よく感じるものは良く、何であれ美しいと感じるものは美しい、何であれあなたを喜ばせ、快活にし、楽しませるものは真実だ。それをあなたの唯一の基準としなさい。他人の意見に煩わされないで。これをあなたの唯一の試金石にしなさい―何であれあなたを幸せにするものがきっと真実なのだ。アナンダ、すなわち至福こそが真実の唯一の基準だ。
中年

 中年の人たちはある種の中間状態にある。彼らはどっちつかずの状態で、途中にぶら下がっている。彼らは若者のようにやることはできないし、老人のようにやることもできない。絶えざる葛藤と分割のなかにある―ある部分は若者になろうとするし、ある部分は老人になろうとする。彼らは苦脳のなかに生きている。
 ほとんどの心臓発作は42歳ごろに、それより早いか遅いかもしれないが、おおよそ42歳ごろに起こることは覚えておくべきだ。若さは去ったが、老年はまだやって来ていない。その緊張はあまりのものだ。この年齢での心臓発作は、実際には肉体的なものではない。もちろん、それは肉体的な症状となって現れるが、深いところではそれは心理的なものだ。
 中年の人はもっとも困難な生を生きる。彼は橋のようだ―こちら側にいるのでもなく、あちら側にいるのでもない。まだ踊っている人たちといっしょになることはできないし、教会や、寺院や、モスクで祈り告白している人たちといっしょになることもできない。彼は完全に自分を失っている。どうしたらいいのか、どこに行ったらいいのかわからない。
 これが起こるのはひとえに、彼が青春を全面的に生きなかったからだ。青春を全面的に生きたなら、あなたは最後の息を引き取るときまで若々しいだろう。肉体は年を取るかもしれないが、新鮮さや若々しさは変わらない……。あなたの若々しさは年を取ることとはまったく異なる現象だ。年を取ることは肉体的なものだ。若々しさとは、あなたの生に対する姿勢だ。
 生に賛成し、生に反対していないなら、あなたは最後の息を引き取るときまで若々しいだろう―内なる世界において―そして中年というものはない。
 中年は透き間だ―むしろ悪夢に似た透き間だ。なぜなら、若さは去ったが、老年はまだやって来ていないからだ。快楽を求めることはできないし、悔やむことすらできない―何を悔やむのか? あなたは一度も生きたことがなかった。悔やむという問題は起こってこない。だから人は青春と老年のあいあだでやりばのないうつろさを感じる。その透き間はとてつもないものだ―人生でいちばん痛みに満ちた経験だ。
水晶のカーペット

 ある友人が、水晶のカーペットを作った。カーペットのまわりの至るところに、水晶がはめこまれ、そのカーペットの中には電線が張りめぐらされていた。そして、電線とともに彼と同じ種類の波長も作り出す。だから、耳に栓をする必要もなく、ただカーペットの上に寝転べば、カーペットが瞑想をしてくれるというのだ! それは波長を変えるテクノロジーで、さらに波長は眠りを誘う。だが、これは瞑想ではなく、危険なごまかしだ。使い方を誤れば、その人は瞑想したと思い込み、水晶のカーペットの上に、ただ寝転んで帰ることになる。
 ところが、人びとは金を支払う。10分に100ドルも。高価ではない……もしも本物の瞑想が、10分間で100ドルで手に入れられるなら。私は、それを高いとは思わない。だがそれは瞑想ではなく、空中に絶えず流れているラジオ電波の変化にすぎない。しかし、西洋においてマインドは機械的であり、そのアプローチも機械的になっている。彼らは、すべてを機械にしてしまいたいと願っているのだ……
マリリン・モンロー

 もっとも有名な女優のひとり、マリリン・モンローは自殺をし、精神分析学者たちはその理由を詮索しつづけている。彼女はかつて存在したもっとも美しい女性のひとりであり、もっとも成功した女性のひとりでもあった。アメリカ大統領のケネディですら彼女と恋におちたし、彼女に恋する人は数限りなくいた。それ以上いったいなにを得られるというのか、思いもつかない。彼女はすべてを得ていたのだ。
 だが彼女はおおやけのものだったし、彼女にはそのことがわかっていた。自分の寝室でケネディ大統領といるときですら、彼女はミスター・プレジデントと呼びかけたものだった——まるで人とではなく、なにかの公共物と愛を交わしているかのように。
 彼女は公共物だった。しだいに彼女は、自分にはプライベートなものなどまったくないのだということに気づくようになった。あるとき誰かが彼女にたずねた——彼女はヌード・カレンダーのためにポーズをとったばかりだったのだが、誰かがこうたずねたのだ。「カレンダーのためにポーズをとっているあいだ、なにかをつけていましたか?」 彼女は答えた。「ええ、つけていましたわ。ラジオをね」
 人目にさらされ、裸で、プライベートな自己などまったくない。私が思うに、彼女が自殺をしたのは、それだけが彼女に残された、唯一プライベートになしうることだったからだ。すべてがおおやけのものだった。それだけが自分で、自分ひとりだけでできる、残された唯一のこと、絶対的に個人的で内密なことだったのだ。有名な人物というのは自殺へと向かいやすい。自殺することによってのみ、自分が誰であるかをかいま見ることができるからだ。
 美しいものはすべて内なるものであり、内なるものというのは私的なものということだ。愛を交わしている女性を見たことがあるかね? 彼女たちはいつでも目を閉じている。彼女たちはあることを知っているのだ。暗闇のなかでは、ほかのものはすべて消える。あなたには見ることができないからだ。あなたとその音だけがそこにある。だからこそ、よいレストランではどこでも、あかりは避けられている、シャープな照明は避けられている。ろうそくのようなやわらかいあかりだ。レストランのあかりがろうそくだと、いつも味覚は深まる。あなたはよく食べるし、よく味わうようになる。かぐわしい香りに包まれる。とても明るい照明だと、味覚はもはやそこにはない。目がすべてをおおやけにしてしまうのだ。

 入ってゆきなさい。そうすれば、外に出ることはもっと豊かなものになる、不毛なものではなくなる。そして、消耗したと感じるときにはいつでも、エネルギーの源は内側にあるのだということをつねに憶えておきなさい。目を閉じ、内へと入ってゆきなさい。
外での関係をつくりなさい。内なる関係もつくりなさい。外側の関係というのは、もちろんあらざるをえないものだ——あなたは世間のなかで行動する、ビジネスの関係もあるだろう——だが、それらがすべてになるべきではない。それらにはそれらなりの役割があるが、絶対的に内密でプライベートななにか、自分だけのものと呼べるようななにかがなければならないのだ。
 それこそが、マリリン・モンローに欠けていたものだった。彼女は公的な女性だった——成功していたにもかかわらず、じつは完全な失敗だったのだ。成功と名声の頂点に立っているときに、彼女は自殺をした。
 生きがいとなるようなものすべてを、彼女は得ていた。それ以上の名声、それ以上の成功、それ以上のカリスマ、それ以上の美、それ以上の健康など、考えられないほどだった。すべてがそこにあった。つけ加えられるものなどなにもなかったのに、それでもなにかが欠けていた。その内部、内側は空っぽだった。
幼年期

 あなたが子どもになると、あらゆることがひじょうに強烈になる。それはかつては強烈だった。自分が浜辺を駆け回ったり、貝殻を集めたりしているところを、あるいは庭でちょうちょうを追いかけているところを思い出してみなさい。ものごとがまったく全面的にちがっていたことを、生がどれほど色彩に満ちていたかを、あらゆることがどれほど奇跡的だったか、驚きだったかを思い出してみなさい。そしてあなたはどれほどエネルギーに満ち、輝き、沸き立ち、喜びにあふれていたことか。生はまったくことなった次元にあった。あなたは小さなこと、意味のないことにも喜んだものだった。あなたは遊び心に満ち、すべてのことが不思議でならず、神秘的だった。それと同じことがまた起こりうるし、再び起こらねばならない。

地球への情熱

 新しい人間は現世的だ。が、私は「現世的」で、物質主義だということを意味しているわけではない。新しい人間はリアリストだ。この地球を愛する。私たちはこの地球を愛してこなかったし、私たちのいわゆる宗教がこの地球を憎むように教えてきたために、私たちはそれを破壊してしまった。それは美しい惑星だ。もっとも美しいもののひとつだ。なぜなら、もっとも生命に満ちたもののひとつだからだ。 この惑星は愛されなければならない。この惑星は喜ばれなければならない。それは贈りものだ。この身体にはあまりにも多くの神秘が含まれているから、ブッダですらこの身体がなければありえない。この身体はもっとも大きな可能性——ブッダフッド、ニルヴァーナの寺院になる。この身体は愛されなければならない。この地球は愛されなければならない。

地球への情熱

 新しい人間は現世的だ。が、私は「現世的」で、物質主義だということを意味しているわけではない。新しい人間はリアリストだ。この地球を愛する。私たちはこの地球を愛してこなかったし、私たちのいわゆる宗教がこの地球を憎むように教えてきたために、私たちはそれを破壊してしまった。それは美しい惑星だ。もっとも美しいもののひとつだ。なぜなら、もっとも生命に満ちたもののひとつだからだ。 この惑星は愛されなければならない。この惑星は喜ばれなければならない。それは贈りものだ。この身体にはあまりにも多くの神秘が含まれているから、ブッダですらこの身体がなければありえない。この身体はもっとも大きな可能性——ブッダフッド、ニルヴァーナの寺院になる。この身体は愛されなければならない。この地球は愛されなければならない。
瞑想「そのコツ」

 ほんとうの瞑想はコツにあるのであって、技巧にあるのではない——それはおのずと起こる静寂さのなかに落ち入ることだ。もし、あなたが毎日24時間見守るならば、自分が自動的に静寂のなかに落ち入ってゆくいくつかの瞬間を見い出すだろう。それが正確に私が意味することだ。それはひとりでにやってくる。ただわれわれが見守っていなかっただけだ。だから、気づくべき最初のことは、それらの瞬間がやってきたとき……それらがやってきたら、していることすべてを中断しなさい。静かに坐り、その瞬間といっしょに流れなさい。それは自然にやってきた、あなたは強制しなかった、だからそこには抑圧が含まれていない。それがあなたを所有するのを、あなたは単に許しているだけだ。そしてそれがやってくるとき——それは自然なものだ。いくつかの窓がいつもひとりでに開くのだが、われわれはたいへん忙しいため、窓があいていて、そよ風が入ってきていること、太陽の光が射し込んでいることがまったくわからない。われわれはそんなにも仕事に追われているのだ。

 ある特定の時間内にこれらの解放が起こるように強いることはできない。しかし、人びとはある特定の時間に瞑想しようとする。ときにはごく稀にそれが偶然に起こるが、さもなければそれは起こらない。あなたは儀式のように瞑想をやりつづける

 だから見守りなさい……朝早く、長く深い眠りから醒めてあなたが新鮮なとき、世界がちょうど目を醒ましたばかりで鳥達が歌いはじめ、太陽が昇ってくるとき、自分を取り巻いている一瞬、内側で成長していく空間を感じたなら、ただちにその中に落ちなさい。木の下や川のほとり、あるいはあなたの部屋のなかで、静かに坐り、ただ在りなさい……なにもすることはない。その空間をただ大切にし、それを伸ばそうとしないこと。それが消えてなくなったら、立ち上がり、そのことについては忘れてしまいなさい。あなたはほかの多くのこともしなければならない。そして、待ち望んではいけない-それはひとりでにまたやってくるだろう、それはいつも招待しないのにやってくる。それはひじょうにはにかみ屋だ。もし呼んだりしたら、それはけっしてやって来ない。追いかけたら、それは消えてしまう。それはひじょうに繊細ではずかしがり屋だ。瞑想と呼ばれるスペースはたいへん女性的だ。しかしそれはやってくる。辛抱強く待つことができれば、それはやってくる。それも日に何回となく。

 ときには全世界が静寂に沈んだ夜に、突然それが現れる。そうしたら、そのなかに飛び込みなさい。そしてときには、まわりじゅうが騒音だらけの市場においてすら、それは起こる。それがそこにあり、あなたは我を忘れる。そのとき、それは神聖な沈黙だ。それはあなたが造ったものではなく、神からの贈りものだ——プラサード、神の恩寵だ。

 いったんそのコツを覚えたら、それはもっともっとやってくるようになる。そうしたら、あなたはそれとのある種の調和のなかに落ちるようになる。沈黙、静穏、静寂と呼ばれるスペースとあなたの間で恋が始まる。そしてその絆はどんどん深くなっていく。最終的に、究極的には、それはつねにそこにある。いつであれふと目を閉じれば、それを見ることができる、それはそこにある。それはほとんど触れることができるほどだ——それは実体があるものになる。しかしそれはコツであって、技巧ではない。それを学ぶことはできない……それは体得されるべきものだ。
思いやり

 思いやりは誰に向けられるものでもない。それは関係ではない。それはあなたの存在そのものなのだ。あなたは樹を、鳥たちを、動物たちを、人間をすべての人を思いやることを楽しむ——無条件に、見返りを求めることなく
愛は風味

 愛は新しい意識の味になる。恐怖は古い意識の味だったから、それは戦争を生み出した。3千年のあいだに人間は5千の戦争を行なってきた——まるで私たちはほかにはなにもしていないかのように——絶えずどこかで戦っていた。まさに狂気の沙汰だ。人類の過去は正気ではない。 新しい人間は、この正気を失った過去とのつながりを断つ。戦争ではなく、愛を信じる。死ではなく、生を信じる。破壊的ではなく、創造的だ。新しい人間の科学、芸術——すべてが創造性に奉仕することになる。新しい人間は爆弾は作らない。政治的にはならない。というのも、政治は憎しみから生まれるからだ。政治は恐怖、憎しみ、破壊的資質に根ざしている。 新しい人間は政治的にはならない。新しい人間は国家主義的にはならず、新しい人間は世界的(グローバル)になる。どんな政治的野心も持たない。政治的野心を持つことは愚かだからだ。新しい人間はひじょうに知性豊かになる。その知性の最初の兆しが地平線上に昇ろうとしている。目のある人たち——彼らはそれを見ることができる。子どもたちが反逆しているのだ。 新しい人間は偏見からではなく、自発的な責任から生きる。古い人間は奴隷だった。新しい人間は自由だ。新しい人間は自分の存在の核そのものに自由を持つことになる。
親しさのプロセス

 愛が成長するには時間が必要だ。愛が成長するには親しさが必要だ。それは3、4週間はそこにあるが、3、4週間のうちに消えてしまうような季節の花ではない。それは親しさの長い、長いプロセスだ。除々に、除々に、ふたりの人が互いのなかへと溶け合っていく。そうなってこそ、育むものになる。
絶え間ない挑戦

 男性と女性が出会うと、そこに対立のプロセスが始まる。愛がとても美しく、愛がこれほどにも大いなる成長をもたらす状況であるのは、そのためだ。他者とかかわりをもつことは、絶えず挑戦的な状況にあるということだ。
瞑想による剣の道

 日本では、瞑想的になるために奇妙なものを開発した……。日本は人類に対して偉大な業績を残した。瞑想はインドで確立したが、ひじょうに限られた現象にとどまった。蓮華座に坐って自分の思考を目撃して沈黙する。瞑想はその目的を果たしたが、日本は別の次元、奇妙な次元を試みた。瞑想による剣の道だ。命がけの対決に臨むふたりの剣士は、緊張、恐怖、怒り、復讐心から解かれて、遊び心をもって自らの内側のセンターにとどまらなければならない。
 観衆にとっては生と死でも、ふたりの瞑想者にとっては遊びだ。そして、不思議なことが何度も目撃された。双方が瞑想的に同じ深みにあるときは、誰も勝たず誰も殺されることはない。一方が相手を斬ろうとして剣を上げる前に、それを行なう前に、その想念が相手に伝わるだけで、相手は自分の剣で自分を守ることができる。
 どちらが勝者であるかを宣言することは不可能だ。通常は、剣道と瞑想、合気道と瞑想、柔術と瞑想、レスリングと瞑想をいっしょに考えることは難しい。だが、日本ではあらゆる次元が試みられた。そして、彼らはなにをやっていても関係ないということを見いだした。大切なことは、「中心にいる」ということだ。あなたが中心にいるなら、なにをやっても緊張が生まれることはない。くつろいでいる状態は変わらない。
 だから、プッシュすることを気にする必要はない。ただ、私たちはこの広大な宇宙に比べてあまりにも小さく、私たちが行なうこと、または行なわないことは存在になんの影響も与えないということを理解するがいい。それについて深刻になる必要はない。私がここにいなかったときも存在はありつづけ、私がここにいなくなっても存在はありつづける。私は自分を深刻に受け止めるべきではない。
 自分を深刻にとらえないことが、瞑想者の根本的な理解だ。そうすれば、くつろぎはおのずと訪れる。そして、くつろぎと共にあなたにとって自然なことは残り、あなたにとって自然でないことはおのずと落ちてゆく。
リラクゼーション

 リラックスしようとする時は、外側から始めなさい。外側は私たちがいるところだ。私たちがいるところから以外始めようはない。あなたの存在の外側をくつろがせなさい。あなたの身体を、あなたのふるまいを、あなたの行為をくつろがせなさい。ゆったりと歩き、ゆっくり食事し、くつろいで話し、聞く。すべてのプロセスをゆっくりとする。急がない。あわてない。あたかも永劫の時があなたに与えられたかのように、実際、永劫の時があなたに与えられているのだから。私達は常にここにいて、常にここにい続ける。外見は変わり続けるが、本質は不変だ。衣装は変わり続けるが、魂は不変だ。
 リラックスするための第一段階は、身体をくつろがせることだ。すると、あなたはびっくりするだろう。あなたが身体のどの部分にでも働きかけと、それはあなたに耳を傾け、あなたに従う。あなたの身体なのだから! 目を閉じて、身体の中に入って、つま先から頭まで緊張のある部分がないか探してみる。そして、その部分にあたかも友人に語りかけるように語りかけてみる。あなたとあなたの身体の間で対話をしてみよう。身体にくつろぐように言おう。何も恐れることはない。怖がらないで、私はあなたの面倒を見るためにいるのだから。リラックスしてもいいのだと言おう。だんだんと、あなたはそのコツをつかんでいくだろう。
結婚ではなく、愛

 新しい意識は、結婚のような制度とはなんのかかわりもない。新しい人間は、制度としての結婚には自然な不信を抱くだろう。新しい人間にとって男女の関係は、互いに高め合い、成長し合い、流れる関係であって初めて深い価値を持つようになる。儀式としての結婚や、およそ永遠ではないことを証明するような、永遠の誓いなど少しも気にかけない。瞬間を愛し、それを完全に生き切る。
 結婚に未来はない。愛には未来がある。
 過去には、愛は現実ではなく、結婚が現実だった。未来では愛が現実になり、結婚はますます現実味を失う。過去には、人びとは結婚し、そのために少しずつ好きになり、愛するようになっていった。
 未来では、人びとは互いに好きになり、愛し合い、そうなって初めていっしょに暮らすようになる。過去では、まずいっしょに暮らすことが先だった。当然、いっしょに暮らすと、好きという気持ちが生じ、依存が生まれる。それは必要現象だったのだ。夫は妻を必要とし、妻は夫を必要とし、そして子どもたちがいっしょに暮らす親を必要とした。それは、多かれ少なかれ、経済現象だった。とにかく、愛から出たものではなかった。
 未来は、純粋に愛に基づき、愛がある間だけ存続するという、違った種類の関係を経験することになる。そして、それが永遠につづくことを強く求めることはなくなる。生において、永遠のものはなにひとつないからだ。永遠なのは造花だけだ。
 本物のバラは朝に生まれ、夕方にはなくなっている。が、それが彼らの美しさだ。生まれるときも美しく、その花びらがしおれていくときも美しい。その生は美しく、その誕生は美しく、その死は美しい。なぜなら、生気があるからだ。造花はけっして生まれず、けっして生きず、けっして死なない。
 結婚は過去における造花だった。新しい意識には結婚に敬意を払うことなどできない。新しい種類の親しさ——友情を創造しなければならなくなる。愛、そしてあらゆるものごと、その永遠ではない現象と共に生きることを学ばなければならなくなる。
流動的な構造

 古い世界にはこれまで個人(インディヴィジュアリティ)欠けていた。個人として存在することを嫌ってきた。好きなのは、羊、群衆がだった——人びとは決まりきった同じやり方と同じ構造に従いながら、みんなと同じように行動していたのだ。新しい人間はあらゆる種類の可能性を許す。新しい人間は流動的な構造を愛する。新しい人間は人間的で、人間に敬意を表する。その敬意はほとんど宗教的なものなる。 新しい人間は、共同体(コミュニティ)の、緊密さの、親しさの、分かち合われる目的の新しい形を見い出さなければならない。なぜなら、古い社会はすぐには消えようとしないからだ。ぐずぐずと居残り、新しい社会に対してあらゆる種類の戦いをしかけてくるだろう——いつものように。それはひじように多くの既得権益を持っている。やすやすと去っていくわけにはいかないのだ。もはや存在できなくなって初めて去っていく。それが去っていく前に、新しい人間は、新しい種類のコミューンを、新しい種類の家族を、緊密で、親しく、分かち合われる。
音楽

 音楽はひじょうに微妙な瞑想だ。音楽の7つの音はからだの7つのチャクラとつながり、チャクラそれぞれに独自の音がある。そのチャクラに注意を集中したら、あなたのからだの内側でわき起こるその音が聞こえてくるようになる。2番目のチャクラにはふたつの音があり、3番目のチャクラにはみっつ―重要なのはひとつで、ほかのふたつはその一部にすぎないが、それらがハーモニーを生みだす。それはさらに大きなハーモニーになっていき、それぞれのチャクラと共にさらに高く昇っていく。7番目のチャクラではオーケストラだ。それぞれのチャクラに独自の形、独自の音楽、独自の味、独自の香りがある。自分自身の内側に深く入っていけばいくほど、全世界を見いだすことになる。もしそれがあなたの内側になかったら、外側からそれを見ることもできないからだ。符合するなにかが必要だ。

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