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宗教論・宗教学コミュの宗教とテロ

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問いは三つ。

1.宗教とテロの関係ってどうなってるのよ?
宗教的情熱はテロリストも生むけど、ガンディーやトルストイなどの聖人も生む。
宗教をもつ大多数の人びとはどちらにもならない。
果して宗教自体がテロの原因たりうるのか?

2.特定の宗教がテロに結びつきやすいのか、
それとも宗教的なもの一般がテロに結びつきやすいのか?
それは教義の問題に還元できるのか、それとももっと歴史的なものなのか?
昭和維新運動の指導者(北一輝、大川周明、石原莞爾等)は
また信仰を持つ「愛の人」でもあったじゃないか。
彼らを崇拝した青年将校たちも、民衆を救おうとした天皇教の信者じゃなかったか。
今日のテロリストだけが無感情に人を殺していくタガの外れた機械みたいなもんなのか。
それともやっぱり自らが信じる大義のために
自分の命(と他人の命)を犠牲にすることを厭わない「愛の人」なのか。
で、昭和維新運動の「超国家主義」はISの「原理主義」とちょっと似てないか?
ISは必ずしも新しい現象ではないし、
特定の教義を必要としないんじゃないか。

3.宗教心が弱まればテロも減るとして、それで宗教は有害無用だといえるのか。
テロが減ったとしても、英雄や聖人が減ったら困るんじゃないか。
「敬天愛人」の西郷どんも一つ間違えばテロリストになったが、歴史が彼を英雄にした。
名利に汲々としない西郷どんが慕われたのは、信仰から生じるカリスマのせいじゃないか。
ガンディーは原理主義者と呼べそうだが、やはり歴史が彼を聖人にした。
金も権力も拒否した彼の政治的指導力は、信仰じゃなければどこから来るのよ?
宗教を無くせば、社会はもっと平和になるかもしれない。
そうだとしても、
伝統的支配や官僚支配の鉄の檻を打破するようなカリスマ的なリーダシップを
われわれはどこに求めるよ?

コメント(49)

>>[9]太い倭人さん
横から失礼します。
ワタクシの考えるときのスタート地点なのですが、「人間」である以上、「世界」のなかにいます。そこには「宗教」と呼ばれる文化もあります。「自分の信仰する宗教だけが正しくて偉い。それ以外はそれ以下だ。」といったら、きっと、「おかしな人」と言われると思います。そこでいくつかある宗教を「平等に」「公平に」取り扱うと仮定します。しかしその時その態度は「それぞれの宗教を、自分より下に見下す、傲慢な態度」となってしまいます。自分自身だって世界の中のそれぞれの宗教と同様な存在のひとつなんだという自覚が欠落しているのだと思います。それでは、どのようなスタートであるべきか、と考えたときに、「私にとっては」がなければならないと思います。
それは言わば「自己中心的」「独善的」と言わざるをえないと考えます。これこそが人間に許された視座なのだと思います。
さらに、ただそのままであっては物事がよくわからないので、掘り下げる作業の中で、「妥当」として解釈できることがあるのではないか?それを目指すしかないのではないか?と考えます。
限られたスペースで、言葉だけで、伝わっているのか不安ですが、ワタクシとしては、このように考えます。
以上を踏まえた上で、「テロ」と結び付きそうな宗教、ということになると、教義上の「世界観」「人間観」が方向性を決めていそうな予感がします。
「現実世界」が、「理想とかけ離れていて、現状では理想にはとても近づけない。」というような場合。また、「人間(もしかしたら頭に「自分以外の」と付け加えるかもしれない)」とは、「救われるにはあまりにも罪深く、現状の延長では絶対に救われない」というような場合。このような教義をもっている宗教で、しかも、熱心な信仰者が、「今すぐに救済がなされなければならない!」と強く思い込んだ場合に、「この世界は一度崩壊した方が良くて、人間も一度大量に死んだ方が、救われやすいのだ。」というような結論になるのではないか、と考えます。
逆に、「世界は、もちろん理想的とは言えないが、まあ、それでもわりとマシなこともあるし、少しづつでも理想的な状態になる可能性があるはずだ。」とか「人間とは、ダメなところももちろんあるけど、そう捨てたものでもないようだ。」とか、そういう教義をもった宗教であれば、すぐにテロと結び付くことは少ないのではないか、と考えます。
>>[10]

おはようございます。

世界の悲劇・不幸を引き起こしてる原因は、人間一人ひとりの我儘(ワガママ)にあることも検証済ですよ!!

宗教の限界は、自分自身の信仰している宗教・宗派が正教・正道で、他は全て邪教・邪道と診ていたり、扱っていることです。

世界には様々な宗教がありますが、昔々からクリスチャン(カトリック&プロテスタント)同士で戦争していたり、仏教徒(日蓮宗&日蓮正宗、その他宗)同士で葛藤していますよね!!

昔々から「真理は同一(同質)である」ことに気づければ、お互いに戦争・葛藤事件は起こりません。

自分の方が凄いんだ、偉いんだと傲慢に想う聖職者のプロが何と多いことかも、若人時代に、100人余りの聖職者と面会・面談して、判明しましたよ。

高校1年生の世界史の授業で、「隣人を愛せよ!!」と言っておきながら、なぜ、クリスチャン同士が戦争してしまうのか、100人の聖職者にインタビュー(ヒアリング)した結果、明快な回答・応答されたプロはいませんでした。

プロの皆様、異口同音的に、「これがわかれば苦労することないのに!!」と仰っていましたね。

「わからない」とか「わかりません」と素直に応答した人はいませんでしたね。

プライドが高過ぎる人程、「わかりません」と応答できないのですよ!!

聖職者のプロがこの程度のスタンスですから、いつまで経っても世界の平和は訪れませんよね!!

色々と検証した結果、私は、これが、宗教の限界点であることに気づきましたよ!!


感謝


モリオバッハさんにお願いがあります。
本当に細かいことなのですが、文末に「!!」をつけると、なにか怒られているのかな?という気分になり、文章の内容が頭に入ってきません。この、けそになにかお返事をいただけるときは「!!」はホドホドにしてください。
>>[10]

非常に考え深いコメントをありがとうございます。よい刺激を受けました。いろいろ考えさせられたのですが、宗教を学問の対象として扱う時に、どのような態度をとるべきなのかという点にしぼってコメントしようと思います。

前に、自分らが宗教に興味を持つのはヒューマニスト的な観点からだと言いました。夫婦喧嘩でもなんでも人間のやることに興味がある。宗教が人間のあいだに広く認められる現象であるから、宗教にも興味を持つ。じゃあ、なぜ人間のやることに興味を持つかというと、自分も人間であるからである。自分自身はいかなる神も仏も信じていないけれども、それを信じる人々の気持ちは理解不能ではないと思うし、潜在的には自分もそれを信じる可能性は否定できない。つまり、宗教を信ずる人々をアリやハチのような他者としては見たいがためではなく、自分自身を含めた人間の反省として宗教について知りたい、まだ知らない自分自身を知るために知りたいと思う。

そうである一方で、何かを知るためには、それを突き放して対象化しなければならない。デュルケムという社会学者の言葉を借りると、社会現象はまずはモノとして見なされるべきである。あらゆる社会現象は物質的なものに還元されるという唯物史観的な意味ではなく、社会現象は個人にとっては与件、つまり外から与えられたものであり、その意味は直観することはできないという意味で。自分の宗教観(肯定的なものであれ、否定的なものであれ)を直接宗教現象の説明に使うことは、自分の思い込みで物体の動きをあれこれ批評するのと同じような愚行である。まずは、できるだけ客観的に宗教現象というものを観察し、その観察に基づいて一般論を組み立てていくべきである。

この二重性が人間科学の宿命だと思います。つまり、自身を知りたいという情熱が要るんですが、そのためには自己をも突き放して(=他者として)見る冷淡さみたいなものをうまく合わせ持たないとならない。自己を完全に突き放してみることはむつかしいので、他者を通じて自己を知る、他者のなかに実現していない自己をみる便宜も生じてくる。確かに他者に対する優越感が先に立ってしまう弊害もあるのですが、だから他者については一切語るなというと、自省の重要な契機を失ってしまう。

つまり、人間を対象とする人間科学というのは、人間の精神が自らを見つめ直すという再帰的な活動である。自らやることを一旦突き放しながらも、自分から出発し、またそこに還っていく過程である。自分の主観から出発するしかないという意味では、みな「独善的」であり「自己中心的」と言えるかもしれませんが、一人だけの思いこみと多くの人が納得できる意見の間には違いがあって、この違いが重要である。そうでなければ、何のために学問なんてするのかわからなくなりそうです。

こんな風に、自分は考えています。

ついでに、誤解を恐れずにさらにいうと、今日では「テロリスト」というのも到底理解できそうもない他者中の他者で、一部の世俗主義者はやはり他者としての信仰をもつ人々と結びつけることによって一種の検疫制度を布いて、人類に越えがたい境界線を引いてしまう傾向がある。しかし、自分はこの「テロリスト」という人々もまったくの他者とは思えない。テロを許す気は毛頭ありませんが、なぜ多くの人がそのような行為に及ぶかという理由については、理解可能であるし、理解することによってしか根本的な対策も立てられない。それで、こんなトピを立ててみたわけです。
>>[14]太い倭人さん
大変感心しながら拝読しました。
ワタクシはデュルケムなどの社会科学の方は、とんと不勉強で、「読まなきゃなあ」と感じながらも、ちゃんと読んだことが無く、「そのうち、そのうち」と思いながら、今日まで来てしまいました。
「社会現象を、一旦、モノとしてとらえてみる」という考え方は、驚きと共に、感心しました。
ぜひ、一緒に議論を進めてまいりたいと思っています。
宗教は本質的に独善的だからテロにつながるという命題は間違いじゃないとしても、ちょっと言葉足らずで、宗教とテロとの関係を十分に説明しえていない。

私の理解したかぎり、けそさんとサリーさんの説明はさらに限定をつけて、宗教心の強度とも言えそうなものを説明変数に用いようとするものようです。サリーさんの言葉を借りれば「理想を追い求め過ぎる宗教」と「ほとほどに[理想を]求める宗教」の区別がなされています。つまり、宗教心が強まれば強まるほどテロも辞さないようになるという命題であると思います。

一歩前進のように自分には思えますが、例によって、さらに議論を深めるためにあえて詳しく検討してみます。

第一に、宗教心の強度をどう測るのかという問題について、けそさんとサリーさんには微妙な違いがあります。けそさんは「理想と現実の間の距離」を問題にしているようで、理想が高ければ高いほど現実否定の欲求が高まり、テロを肯定しやすくなるとお考えのようです。

サリーさんは理想の内容ではなく、「理想を追い求める強さ」を測定基準としています。つまり、理想の内容はともかく、それをどれほど強く現実にしたがるかということだと思います。

この二つの基準の組合せとしては4つあり、可能性としては、あまり現実的ではない理想を追求する宗教でも、それを強く求めないというパターンがありえます。逆に、理想を強く求める宗教でも、その理想が現実的であるためテロに訴える必要がないというパターンもありえます。いちばん危険そうなのは、非現実的な理想を強く実現しようとする組合せ、いちばん無難なのはその逆であるとは言えそうですが、上記の中間パターンについては、どちらの基準が優先されるかによって順位が入れ替わります。この辺をどのように考えるか。

ちょっと先走りますが、第二に、宗教心の強度自体が本当にテロとの結びつきを左右するのかどうかという、より本質的な問いがあります。例えば、アルカイーダやISのイデオローグとガンディーやトルストイ、MLKなどといった政治的聖人の違いは、前者の宗教心が後者よりも強いという差だ言えるのか、ちょっと疑問だと思います。そもそも、現実的な理想をもち、それさえもあまり強く実現を求めない宗教は安全無害かもしれませんが、だれがそんなものを必要とするのか。

たとえば、モリオバッハさんが宗教は本来は科学と矛盾しないもので、それを理解しない宗教だけがテロに走るといったという発言をどこかでなされていたように記憶しています。アメリカのキリスト教原理主義は、まさにこうした理神論的(?)な教義の反発として出てきた経緯があるので、あながち的外れな意見でもない。ただ、科学によって否定されない限りのことしか言えない宗教が、果して宗教として本来果たすべき役割を果たせるのかという問いが浮んできます。

テロの責任を過激な宗教に限定して穏健な宗教の存在は許すというのは、反論できない正論なんですが、よく考えると、われわれは既に自分の基準でこの「過激」とか「穏健」の内容を決定してしまっている。自分の田に水を引くようですが、このトピの紹介文にある第三の問いはこの問題に関するものです。より具体的にいうと、ガンディーなどは「過激」な宗教家であるかもしれないけど、それが故に聖人たることができたということができるんじゃないかということです。宗教が「穏健化」することは一方では歓迎されることであるが、他方ではあまり面白くない結果ももたらすんではないかということです。そして、その面白くない結果の一つが反動としての原理主義というものの台頭ではないかとも、自分などは考えています。
>>[12]

>自分の方が凄いんだ、偉いんだと傲慢に想う聖職者のプロが何と多いこと

私は、目下、イスラムについて、複数の本を拾い読みしています。

それらによると、イスラムのスンニ派では、聖職者はいないそうです。
キリスト教の教会に相当するものもない。
モスクは礼拝をする場所であり、イスラム教徒はどこかのモスクに所属してはいない。

ですから、上の記述はイスラムのスンニ派には当てはまらないと思われます。
>>[18]

おはようございます。


貴重なコメントを頂戴し有難うございました。


私もイスラム教については、代々木上原にある東京ジャミー(綺麗なモスク)に、礼拝について、現場観察・検証に行ったくらいです。


今回のコメントの内容は知徳しておりませんでしたので、有難い情報です。



感謝
>>[19]

イスラムのスンニ派では、聖職者はいない、組織がない、ということは、
いくつかの入門書に書かれていますが、ネットにもあります。
他のコミュでの書き込みで紹介しました。

https://mixi.jp/view_bbs_comment.pl?comment_number=47&community_id=6249752&bbs_id=79976381

シーア派は、状況が違うようです。
>>[16]

おはようございます。


宗教と歴史の関係は、半世紀余り前から興味を抱き続けております。


色々な学問がある中で、歴史学程、可笑し過ぎる学問はないと高校1年生(1963年)時に気が付きました。


高校時代に学習した世界史と日本史で、日本史の一番最後の授業で、担当の先生が、明治時代以前の史実は大半が嘘の記述であることを仰ったのでした。


そこで、私は咄嗟に手を挙げて、先生に向かって、先生違いますよ!!


明治時代ではなく、昭和20年(1945年)以前の史実が皆嘘であるあるならば納得できますがね!!


と応答したところ、先生は躊躇して、にやにやしながら、お前の言う通りだな!!


と返してくれたのです。


このことが切っ掛けになって、学生時代に学習した世界史と日本史を同時間軸として独学で見直しました。


様々な宗教の聖典や経典に描かれている神話の内容・中身は、この世で起きた事件と表現されていることに多いに疑問に想ったのです。


仏陀の言葉(スッタニパータ)や聖書、コーラン等々に記述されている神話の内容・中身はこの世で起こった事件と言えるか否かを考察したのです。


お釈迦様が今から2600年前頃に、イエス様が今から2000年前に、ムハマッド(マホメット)様が今から1400年前に、誕生し、夫々の人生をおくって、他界された事実を認定するために、エビデンス(科学的根拠、証明)を持って、証拠物件甲第一号証として、表示できるか否かを考えたのです。


高校生時代に、

仏教は、立正大学付属高校で、必須科目として、「日蓮上人の生涯」を1年間、「法華経」を2年間、学習し、校長(日蓮宗の高僧)が担当の先生であったため、宗教の授業後、校長室を訪れ、禅問答のようなスタイルで、仏教について、より深く学ぶことが出来ました。

キリスト教は、同時代に、近所の東駒形教会(賀川豊彦牧師が創立)のKKS(高校生のための聖書研究会)に3年間通い続け、旧約聖書、新約聖書、賀川豊彦全集を学習しました。

法華経は「正門」と「迹問」からなり、「正門」は仏様同士の語り合いで、我々凡人には理解出来なので、授業では行いませんでした。

「迹問」は、仏様から我々凡人に向けて、理解し易いように、たとえ話として、物語風に描かれた記述を学んだのです。

聖書(旧約・新約)も我々凡人に向けて、理解し易いように、たとえ話として、物語風に描かれていることに気づいたのです。

「一事が万事」であるがごとく、世界の様々な聖典や経典に記述された内容・中身は、たとえ話になっていることに気づきました。

放蕩息子のたとえ話は、新約聖書に描かれていますが、法華経に迹問にも、同様なたとえ話が載っていましたね。



その後、宗教論・宗教学を探究していくうちに、最後に、仏教やキリスト教の奥儀である神秘主義に辿り着いたのです。

全ての神話は、たとえ話なのです。

神秘主義をマスターされれば、神話の内容・中身は、この世で起こった事件でないことが判明出来ました。

神話の「奇跡的な表現」は、実際、この世で発生した事件とすれば、自然法則(特許法第2条に規定)に合致しませんが、神秘主義で解釈すると、奇跡でもなんでもないことが判明できるのです。


歴史学は、その時代その時代の戦争での勝者の視点で記述されおり、敗者の視点で記述されたものは極少です。


現代においても、公文書に虚偽表示されていることがニュースの報道で暴露されていますよね。

都合がいいように記録されているわけです。

歴史論・歴史学において、史実でないことが理解・納得できれば、幸いです。


私は理系人なので、下記のように考察しています。

宗教は我々一人ひとりの精神(魂・心・気持ち)界の範囲(領域)のあるべき姿を現しており、物質(この世)界の範囲(領域)の姿でないのです。

物質(この世)界の範囲(領域)に拡大してしまうと、上記に記述したように、サリン事件やジハード(聖戦)事件になってしまうのです。



この半世紀余り賑わっている新興宗教は、金儲けのためのビジネスモデル化した団体(グループ)の活動になっていることも、種々の施設を現場検証して、判明出来ました。

真理オーム教や印鑑をはじめ、何か買って貰う宗教には現場検証していません。

最初から可笑し過ぎていることが判明できていたからなのです。


理系人は、何事にも疑問を感じ抱き、高校1年生時の世界史に「隣人を愛せよ」と言っていて、なぜ、クリスチャン同士が戦争(葛藤)しているのか、また、日蓮宗・派同士で、なぜ、葛藤しているのかに疑問を抱き、100人余りの聖職者にインタビューしても誰も応答出来ず、20年掛かりで、解答を見つけだしたのです。



感謝
>>[17][21]
太い倭人さん、サリーさん
読むほどに「なるほど」と感心しました。
ワタクシ自身、あまりそこまで自覚していませんでしたが、太い倭人さんの言うように「理想の高い・低い」「思いの強い・弱い」と分けたときに、「理想が高く」「思いが強く」の場合に、何か起きそうだ。という事にはなるほど、と納得しました。
また、サリーさんの言うように「ゆるい理想」「ゆるい思い」でも、それなりに作用しているという実例は大変興味深く拝見しました。
「理想の高さ」「思いの強さ」でも、「テロ」かどうかの評価は決定的ではなさそう。「高い理想」「強い思い」で、「偉業」にも「テロ」にもなりそうです。ここでひとつ「歴史」という時間的な軸を加えてみてはいかがでしょうか?
「理想の高い・低い」「思いの強い・弱い」 に加えて、結果を出す(救済)ための「時間の長い・短い」という軸を加えて、3次元として考えて見ることはいかがでしょうか?
「強い思い」で、「長い時間」をかける状態がどのようなものか、少し創造力が必要ですが、思ってみました。
>>[22]モリオバッハさん
「歴史学」も「神話学」も「宗教学」も、それぞれ成立している人文科学の学問分野です。
それぞれに「古典」「どうしても読まなければならない本」があります。
その前提で、議論が成り立ちます。
モリオバッハさんほどの人であれば「前提条件が違う」ということの意味はご理解できるかと思います。
「宗教学」としての議論を成立させるためにも、是非とも一度、『宗教学』(岸本英夫著、大明堂発行)を、御一読なさってまた、このトピにおいでください。楽しみに待っております。
実はワタクシ自身、「神話学」については、ほとんど「聞きかじり」の領域です。
ただその「聞きかじり」の話ですが、「神話とは、こどもにわかりやすく聞かすための、喩え話だというのは、70年ほど昔の時代遅れの考え方」と聞きました。
神話を聞いても、実は「わかりやすく」なんかないでしょ?
なにか、次元の違う言葉の使い方をしているのではないでしょうか?
さらに、ワタクシ自身「歴史学」も門外漢です。「歴史学」にもいろんな学派があって、フランスの「アナール学派」は、「まず、その時、そこにいたはずの人口を調べる」「人間を基軸にした歴史学」なんていうのもあるんだよ。というお話しを聞きかじった程度です。(人間がいれば、当然、食事は?水は?廃棄物は?だいたいこのくらいの人数であれば当然、この規模で必要になってくるよね。というように作業を進めていくのだそうです。)
そういうわけで、「歴史学」「神話学」については、門外漢なので、基本的に教わるしかありません。
「宗教学」は、いくらか読んだ本があるので、それについてだけは少しだけ議論についていけるかな?と思っています。
それでも、わからないことが多いので、めんどくさがらずにおつきあいくださいませ。
>>[22]モリオバッハさん
もうすでにお気づきのこととは思いますが、「真理オーム教」とは、「オウム真理教」の誤りですよね。
一度アップロードしたものは「修正」ができず、「削除」するしかありませんが、もし、指摘されたことで訂正したいことがあれば、「訂正します。」という内容でコメントを追加することが、消極的に歓迎される態度かと思います。
ところで、「宗教とテロ」を議論するトピですよね。「神話」や「歴史」といった単語の直後に、「特許法」が出てくるのは誰が見ても場違いな展開だと感じます。別に「特許」や「法律」のために神話が語り継がれてきたわけではありません。
「特許」「知的財産」で議論を希望するのであれば、そういうコミュへおいでになるか、無ければ御自身で立ち上げてみてはいかがでしょうか?思う存分「特許」のお話しができると思います。このコミュでは勘弁してください。
連投ごめんなさい。
「時間」という軸を加える。というのは、すでに[16]のサリーさんのご意見で書き込みがありました。
意図的にパクったというわけではありませんので、怒らないでください。
<(_ _*)>
突然、急成長してしまった教団だったりすると、かなり無謀な主張をしそうな予感がしますね。
とは言うものの、あのオウム真理教だって、「うちの教団こそが真のお釈迦様の教えを実行している。」と言っていたわけで、おおざっぱなくくりにしてしまえば「仏教」だったかもしれませんね。(ことここにいたって、「オウムは仏教」と認める一般人は、あんまりいないと思いますが…)
歴史が長くても、こういう間欠泉的に発生してしまう短気な人たちもいるから、これも一概に言えないのかしらね。と思いました。

イスラム過激派のテロと、オーム真理教のテロには、
共通点は殆ど無いんじゃないでしょうか?

イスラム過激派は、イスラムの聖典であるクルアーンとハディースを根拠にして行動している。

他方、オーム真理教は、仏教の聖典を根拠にしていたんでしょうか?
>>[31]野口さん
「共通点」ねえ。しいて言えば、「宗教を標榜してるとこ」ぐらいでしょうかね…。それはもう「卓球とサッカーの共通点は球形のボールを使用してるとこ」ぐらいの無理矢理のこじつけな感じですよね。
ひとつ提案ですが、結論を急がずに、自分でありそうなだなと思った話、もしくはまったくありそうもない話でも、他の可能性も考えてながら、ゆっくり検討していった方がよいんではないでしょうか。

われわれの限られた知識で結論を下せるようなことはそうたくさんないはずです。知恵者の数は多ければ多いほどいいので、ここで少数の者だけが賛同できるところで話を決めてしまうと、他の意見をもつ人が話に入りにくくなってしまうと思います。

たとえば、聖典を読んで比べるだけで宗教が理解できるなら、宗教学なぞ要りそうもありません。以前ある学会で、イスラムと民主主義は絶対に共存できないという仮説を実証したと主張する学者に出会ったんですが、どうやって証明したんだと聞いたら、コーランやイスラム法学者が書いた物をたくさん読んだらわかったという話でした。そんな勉強をしないと出せない結論をもつイスラム教徒がどれほどいるのか寡聞にして知りませんが、ずいぶんご苦労なことだなと思わされた次第です。

イスラムとオウムについても、私は共通点は皆無ではないと思います。ちょっと前にあるジャーナリストがISの構成員にインタビューした貴重な本がアメリカで話題になったことがありました。私は書評しか読んでないのですが、多くの者は「終末論」的予言を信じている。もうすぐ世界の終りが来ると思っている。だから、早く行動を起そう、テロさえも辞さないということになる、というような話だったと思います。つまり、オウムのハルマゲドンと似ている。

だからといってイスラムとオウムが似た者同士であるということではないので、ちょっと注意が必要です。この終末論は別にイスラムの教義から必然的に引き出せるものではない。たまたまイスラムの聖典に準拠できるような記述があるだけであって、終末論的思想は他の宗教にもあるし、満州国の立役者である石原莞爾にもある。つまり、特定の宗教ではなく、終末論という形式がいろいろな宗教や思想に共通にある。そんなものが一体どんなところから出て来て、なぜ今多くの人がそんなものを信じるのか。イスラムどうとかオウムどうとかいうラベルだけで議論するわけにはいかないと思います。
>>[34]

私は、断定的に書いてしまって、その点は良くなかった、と思っています。

私は、それぞれのメンバーが、自分の意見を自由に書けば良いと思っています。

あなたのコメントは、私にコメントを書くのを抑制するようにとの趣旨ですか?

他のコミュでは、抑制でなく、書いた内容をケチョンケチョンに批判されることが多いのですが。
ちょっと説明不足だったようなので、補足させてください。

発言を控えて他の人がやって来るのを待とうという提案ではありません。そもそもミクシィ自体に人が少ないので、待っていてもやって来るのかどうかわからない。いやでも少数の井戸のカエルで話をしないとならない。

だけども、少数であっても、話しているあまり内容を狭めずに、他の人が来た時にも入りやすくしておくことはできると思います。たとえば、一つ意見があったして、自分にとってもありえそうな話である。そこで、賛成です、私もそう思います、で済ましてしまうと、そこで議論が止まってしまう。そうではなく、確かにそれはありそうだけど、考えうる反論も自分たちで考えてみる。例えれば、ディベートで自分の意見にかかわらず、賛成、反対の立場にたってゲームのように議論を闘わせてみる。やった結果、やはり元の結論の方が正しそうだなということもあるでしょうが、意外な側面が見えて来て視野が広がるということもある。また、それをやっていれば、色々な経験や意見を持った人も入りやすい。

最初から間口を狭くしないで、まずは風呂敷を拡げてみましょうという提案でした。
>>[37]

>ここで少数の者だけが賛同できるところで話を決めてしまうと、他の意見をもつ人が話に入りにくくなってしまうと思います。

「話を決めてしまう」という意識は、私は無かったんですが、

この文は、「書くことを自制するように」の趣旨だろうと、私には思われます。
>>[38]

そのように聞こえたならば、私の言い方がまずかったです。申しわけない。

口をきく人の数が少ないんで、発言を控えろというより、もっとたくさん発言してくれと言うべきだったかもしれないですね。自分の意見はこうだけれども、こういう反論も考えられて、で、自分はさらにそれにこういう反論があって、という具合になれば、様々な角度からの視点が明らかになると思います。

気に入らない意見に対しても、ダメなところばかり指摘してしまうと、やはり議論が狭くなるし、書き込む方も萎縮してして、人が寄り憑かなくなる。有益な議論につながるような部分も取り出してあげるとよいのかなと思います。

一つのもの、決まりきったようなことでも、縦から見たり、横から見たりしているうちに、意外なことに気付く可能性も高まります。一人でもできるのですが、他人にも入ってもらうと、さらに視点が増えてよろしい。外から来る人も、口を挟む機会を見つけやすいと思います。
>>[039]

了解しました。

私としては、書き過ぎないように、心がけます。
>>[34]太い倭人さん
「終末論」は、大きな分岐点かもしれませんね。
「この世界がもうおしまいだ。最後の日は明日かもしれない。」というような世界観であれば、短気を起こしたくなるのも無理もないかなと思います。
人間には他の生物には無い知性があるものだから「この先どうなるんだろう…」という「不安」がつきまといます。この不安から作り上げられた世界観が終末論なのではないかと思います。
現代日本伝統仏教ではあまり強調されませんが平安時代から鎌倉時代あたりには「末法」といって、仏教でも終末論をとなえたこともありました。
ワタクシは、たくさんの宗教思想を知っているわけではないので予想なのですが、おそらく、どの宗教思想でも、現実世界をあるがまま肯定しきれない
世界観がある程度あって、ここを強調すれば「世界が明日にも終わる。早く終わらないかなあ。」というような終末論に発展して、場合によったら、テロリズムにつながってしまうのかな?と思いました。
>>[43]

コメントありがとうございます。
私が首を突っ込むと話の腰を折ってしまいがちなので、
トピ主としては無責任を承知で
みなさんの間でさらに議論を続けていただこうと思っていたのですが、
すっかりミクシィも人が少なくなって、
せっかくよいコメントを書いても
なんも反応がないですね。
寂しいかぎりです。

なるほど、技術革新のおかげで原典が読めるようになったために、
原理主義が広がったというのはありそうな話です。
正に宗教改革に比較できそうな現象ですな。
いいお話を聞かせてもらいました。
よろしかったら、
どこでそういう話を聞いたのか教えてくれませんか。
興味があります。

ひとつ気になったのは原理主義=過激派という理解なんですが、
原典が広まると自動的に過激派が増えるというのは、
もう少し議論の余地がありそうです。
たとえば、ガンジーも彼を暗殺したゴドセも
どちらも原理主義者と呼べそうですが、
ガンジーの方は過激派と呼べるかどうか怪しいです。
ガンジーみたいな人が例外なのかもしれませんが、
私の知っている人たちにも原典に親しんでいる人がいますが、
過激派になった人はまだいないようですし、
なりそうな感じもないです。

自分としては、
どんな宗教の原典テクストも多義的なもので、
多様な解釈が可能ですから、
テクストだけに基いてテロとの関係を導き出す手法は
ちょっと安直だなと思っています。
そうではなく、
なぜ今原典を読む人が増えるのか
どんなことをテクストから見いだそうとしているのか、
という次元で考えるべきではないかなと思っています。
>>[44]

お邪魔します。興味深いトピックを見つけたので、コメントさせてもらいます。

経典などの原点回帰を求める人がいます。
原始仏教などブッダの教えに立ち返ろうとする人達もいます。

聖書やコーランなどでは原理主義として過激派扱いになることもあります。

テロなど過激な行動が起こるのは、何のために聖者が真理を説いたのかを
忘れてしまったり、勘違いをするからでしょう。

しかし単純なことでは無いので、原因は複雑に絡まっていると思います。
>>[5]
ボチボチ読み返し、「それもそうだな。」と思いながら、なにか思いつくことはないかと考えていました。
いくつもの宗教を信仰したわけではないのでわかりませんが、きっとどの宗教的伝統でも「ウチんとこの信者」と「それ以外の人」とは、強弱の程度はあっても、区別をしているはずです。区別をハッキリしてるのはなんとなく想像できると思います。区別をしないほうは、日本の神社神道は新しい信者を獲得するための布教伝道はしないし、さらに本居宣長の路線だと「日本に生まれたってだけで、もうそれはこんなに幸せなことはない。」という感じらしいです。実際に意識的に「氏子」として信仰生活をしているかどうかはあまり問題にしていなさそうです。(氏子総代とかになれば、もちろん役目として果たす役割はあるはずですが。)それでも、日本人と外国人は区別していそうです。
この「信者とそれ以外の人との区別」が、結果「独善的」「自己中心的」ひいては「排他的」とつながっていくのかも、と思いました。おおっさんの言う「宗教は本質的に独善的」というのは、こういうことなのかな?違ってたらごめんなさい。
この「区別」を、あえて際立たせていけば、不寛容というか、違いを許容できなくなるようになるのではないか、と思います。このへんが出発点だと考えてみました。
その先の方向性は以前も書き込んだ「世界観」「人間観」の「終末的思想」(この世界も人間も、罪が重すぎて、一度大規模に破滅した方が救われるのだ、というような思想。)のほうに傾けば、「万人に向けたテロリズム」を志向するのではないか、と思います。
もうちょっと本を読んで、イロイロ考えてみたいと思います。
単純に、自己保存、自己欲望、自己防衛の本能の方が、それに反する慈悲・愛の実行しようとする意志より、はるかに強いため、せっかくの愛と慈悲の実践を説く様々な教えも、自己欲望、自己防衛、自己保存の本能によって歪曲され、曲解され、拡大解釈されて、元々の慈悲・愛の実践から外れてしまうのだ、と感じます。

キリスト様のお弟子さんのパウロさんでしたかね?間違っていたら申し訳無いですが、こんな立派なお弟子さんであっても、自分のお師匠さんであるキリストを罰するローマの官権から、お前はイエスを知っているか?と聞かれて、知りません、と答えてしまうのです。

いざとなれば、自分にとって大切なお師匠さんでも、無関係を装ってしまう、人間とは、そこまで自分を守ろうとする本能が強い存在なのだと言う事を意味していると受け止めている。
私は、聖書のこの記述がとても有り難く、聖書の素晴らしさを感じるものです。

縁さえ触れれば、人間はどのようなふるまいさえもしてしまうものだ、とは浄土真宗の開祖である親鸞の言葉ですが、私は、このパウロさんがイエス様を裏切った言動の記述とあまりにも相通じるものを感じます。
そして、その愚かなパウロさん、親鸞を救うのが、イエス=キリストの十字架の犠牲であり、阿弥陀如来の南無阿弥陀仏の回向成就であったねかもしれないと受け止めています。

私達は、イエスや釈迦などの先覚者の教えであったとしても、時によっては自分の自分達の様々なエゴによって歪曲、曲解し、それで自他を傷付けずにはおかない、愚かな、浅ましい存在なのだと自覚し、そのような私達だからこそ、先覚者の方々は、そのような愚かで浅ましい私達を救うために、様々な教えを残して下さっているのだ、と私は、認識し忘れぬようにしようと思っています。

そのように気を付けてもなお、もしも私が自分の事で切羽詰まったら、神も仏も利用し、裏切るような行いをしてしまうかもしれません。そのような事に出会わないように、諸天善神、諸仏諸菩薩の方々のご加護を念じます。
>>[47]
こんにちは。

たぶんパウロさんではなくペテロさんでないかと思います。
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その完璧でない自分が、より善い人間になる事を諦めるよりも、
より善い事をしたいと思える事がどの宗教にも大切な事だとも思います。

僕自身、実際、自分の死と対面したり、イエスさまを信じると言ってニワトリが鳴く前に3度知らないと言うと言う事は容易に考えられる。

確かに自分が安全な場所に居れば、自分が裏切るなんて信心深い人には想像つかないと思います。

でもその自分の死や拷問を目の当たりするのであれば、やはりその恐怖に3度知らないと言う人の気持ちは解ります。

そこで裏切らないと言いきる心は、よほどの無謀者か、薄っぺらい信仰心の虚言であるようにも感じます。でもそれでもイエス様を信じ切る事が出来たり、十字架にイエス様を張り付ける事を止められるのであれば、新たな奇跡は在る様にも感じます。

自分の弱さを知ることで、そんなペテロも許せる自分になる事もそしてあの世でペテロさまも成長してる事を信じる事も、また信仰であるとも思えます。

その完璧でない自分が、より善い人間になる事を諦めるよりも、
より善い事をしたいと思える事がどの宗教にも大切な事だとも思います。
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僕等は間違った事も、罪も重ねます。それは避けられない業に思います。

まだまだヒヨッコですが、今より成長して善い事を出来る事が何より大事で、
間違った行いで、地獄に堕ちる事を恐れるより、
天の蔵に富を積む(善行を増やす)事に喜びを感じる事も、
またこの世で出来る天国的な考えだと思います。

誰々が悪いと言ってそれを直してくれればいいですが、
それが出来ないで苦言を言うだけで
自分の正しさに満足して憎しみを持つのも、結構地獄的な考えにも思えます。

人を不幸にする行いを止めてあげられるのであれば、
その行いには凄く価値があり、僕なんかよりずっと天国的な方と思います。

だから僕はそんな人を追って、人に善くする事をクリエイトしたい。

きっと1人で幸せになるより、宗教の垣根は越えて、
10人100人多くの人を幸せに出来るのであれば、
天国的なこの世になるのではないか?そう感じるのです。

罪人にも挽回は出来ると信じたいです。

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