ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

中国史コミュの『淮南子』人間訓 1−2

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
道者,置之前而不輊(注1)。錯之後而不軒。內之尋常而不塞。布之天下而不窕。是故使人高賢稱譽己者,心之力也。使人卑下誹謗己者,心之罪也。夫言出於口者,不可止於人。行發於邇者,不可禁於遠。事者,難成而易敗也。名者,難立而易廢也。千里之堤,以螻蟻之穴漏。百尋之屋,以突隙之煙焚。堯戒曰、戰戰慄慄,日慎一日。人莫蹪於山,而蹪於蛭。是故人皆輕小害,易微事,以多悔、患至而後憂之。是猶病者已惓而索良醫也。雖有扁鵲、俞跗之巧,猶不能生也。

道は,之を前に置きて輊(ひくい)からず,之を後に錯(おく)きて軒(たかい)からず,之を尋常に内れて塞がらず,之を天下に布きて窕(のびやか)ならず。是故に、人をして己を高賢として稱譽せしむる者は,心の力なり。人をして己を卑下として誹謗せしむる者は,心の罪なり。夫れ言の口より出づる者は,人に止む可からず。行の邇(ちかい)きに發する者は,遠きに禁ずる可からず。事は,成り難くして敗れ易きなり。名は、立ち難くして廢(すたる)れ易きなり。千里の堤も螻蟻(ロウ・ギ)の穴を以て漏れ、百尋の屋も、突隙の煙を以て焚く。堯戒に曰く、「戰戰慄慄,日に一日を慎め。」人は山に蹪(タイ、つまづく)く莫くして、蛭(シツ、ひる、蟻塚)に蹪く。是故に人は皆小害を軽んじ,微事を易(あなどる)り,以て悔多く、患至りて後に之を憂う。是れ猶ほ病者已に惓(ケン、はげしい)くして、良醫を索むるがごとくし。扁鵲(ヘン・ジャク)・俞跗(ユ・フ)の巧有りと雖も,猶ほ生かす能わざるなり。

注1:“輊”は原文では“埶”の下に“車”が付いた文字ですが、此の文字はありませんので、“輊”に置き換えました。どちらも、音は“チ”、意味は、前が重くて低い車のことで荷車です。訓読みで、“ひくい”にしました。

<語釈>
錯 ― “措と”通じ、“おく”の意
軒 ― 両旁に覆いのある車で、後ろが重い。この事から“軒輊”と言う言葉がある。荷車の前と後ろが上がったり下ったりする事を謂う。
尋常 ― “尋”は長さの単位、尋は両手を左右に広げた長さで、訓読みで“ひろ”と読み、釣りのときに良く使われます。当時の尺で七尺又は八尺です。漢詩では“千尋の谷”等とよく使われます。“常”も長さの単位で、“尋”の二倍です。
窕 ―  チョウ、のびやか、ひろやか、ふかくひろい 
螻蟻 ― 螻は“けら”又は“おけら”のこと。“けら”と“あり”
突隙 ― 煙突の隙間
堯戒 ― 書物の名前か、世の諺か、不明
戦戦 ― おそれつつしむ
慄慄 ― 慄然
扁鵲 ― 戦国時代の名医、鄚(バク)の人、秦の太医令
俞跗 ― 黄帝の時の名医。

<通釈>
道と言うのは、それを荷車の前に置いても、それに因って更に低くなることはない。それを後に置いても前が上がる事はない(其れを後ろに置いても、嵩高にならない、とする説も有るが、私は荷車の上下をとりたい)。これは尋常の広さの空間に入れても、充ちて塞ぐ事はないし、天下に広く拡散しても、緩やかに伸び過ぎる事はない。それ故に、人々に己を高尚賢明な人物であるとして、称賛させる者は,立派な心のはたらきによるものであり、反対に、人々に己を卑下した人物であるとして、誹謗させる者は,心のあやまちによるものである。一度口から出た言葉は,人に広がるのを止めることは出来ない。身近に発した行為でも、その影響力が,遠くに波及して行くことを禁ずる事は出来ない。事は成り難くして失敗し易いものであり、名声を立ち難くして廢(すたる)れ易いものである。千里の堤も螻や蟻の穴から漏れ崩れていくし、百尋の大きな屋敷も、煙突の煙の飛び火で燃えてしまう事がある。堯戒に、「戰戰慄然として,一日一日を慎め。」とある。人は大きな山にはつまずかないが、蟻塚のような小さいものにはにつまづくことがある。それ故に人は皆小害を軽んじ,微事を易(あなどる)ることにより,大害や大事を引き起こして、以て悔む事が多く、患いが起きてから後に之を心配して憂う。是れは、まるで病人が已に病重くして、良醫を索めるようなものでって、それでは、扁鵲・俞跗のような名医であっても、救うことは出来ないであろう。

<解説>
前回の章で、物事の根本にあるのが道であると説き、今回はその道を説明しているが、ここで述べている“道とは”は、“何”ではなく、“どのようなものか”について説いている。それは重量も質量も無く、有るのか、無いのか、はっきりしない、曖昧模糊なものとして説明している。其れについて、老子は次のように述べている。

視之不見、名曰夷。聴之不聞、名曰希。搏之不得、名曰微。此三者不可致詰、故混而為一。 ―『老子』道徳経14―

文章自体は簡単なので、書き下しはしません。老子は“道”について色々述べていますが、共通して言えることは、其の本体は曖昧模糊なものとして捉えていることである。
そして、そのような玄妙な“道”を理解せずに、身近なことや、小さいものに心を奪われていると、遠くのこと、大事なことを見失ってしまう。逆に遠くのこと、大きな事に気を使っていると、足元を見失ってしまうものであり、そのようなものに心を捉われて、患えていると、心が病んでしまうのである。だから人はどれだけ“無為”に近づけるか、と言うことが大事なのである。

コメント(1)

要約するとわりと当たり前のことを言ってますが、その当たり前が難しいんですよね。
やはり深い。

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

中国史 更新情報

中国史のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング