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紀勢本線コミュの臨済宗法燈派鷲峰山興国寺

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 和歌山県日高郡由良町門前801
 紀伊由良駅の北西700m。
 https://www.google.com/maps/@33.9735006,135.1223448,16z

  興国寺は、願性(ガンショウ;?〜1276)が創建した寺院です。願性は俗名を葛山景倫(カヅラヤマカゲトモ)と云う鎌倉幕府御家人で、第三代将軍・右大臣源実朝(1192〜1219)の側近でした。景倫は実朝の命により南宋帝国へ渡る途中、紀伊国由良荘まで至った時、実朝暗殺の報を聞き、高野山へ登って金剛三昧院(コンゴウサンマイイン)の臨済僧退耕行勇(タイコウギョウユウ;1163〜1241)に従って出家、実朝の菩提(ボダイ)を弔う余生を送ろうとしましたが、実朝の生母北条政子は願性の忠誠心に報いて由良荘の地頭職に任じました。なお、当時の金剛三昧院は金剛峯寺とは別個の真言・臨済・律の三宗兼学寺院であり、源氏将軍家菩提寺となっていました。
 安貞元(1227)年、願性は由良荘に実朝の菩提寺として真言宗西方寺を創建、仁治2(1241)年には退耕行勇の後を襲って金剛三昧院別当となりました。建長6(1254)年、願生と親交のあった臨済僧の心地覚心(1207〜98)が実朝の遺骨を南宋の雁蕩山(カントウサン)に納めて帰国すると、願生は正嘉2(1258)年に覚心を西方寺の住職に迎えましたが、その際、金剛三昧院の臨済部門が西方寺へ移管されて臨済宗に転向しています。
 覚心は、普化尺八(フゲシャクハチ)を奏する居士四名を南宋から連れ帰り、興国寺に住まわせたので、当寺は普化尺八奏者である虚無僧(コムソウ)を束ねる臨済宗法灯派本山となりました。その弟子の一人である虚竹(コチク)禅師が尺八の元祖とされています。
 また、覚心は熊野・伊勢地方への臨済布教を積極的に行いましたが、南宋で習得した金山寺味噌の製法が弟子から人々に伝わり、やがて醤油が誕生する契機となったとされています。
 覚心は、亀山・後宇多・後伏見・後醍醐の歴代天皇の尊信も厚かったため、永仁6(1298)年に死去すると亀山法皇から法燈禅師(ホットウゼンジ)の諡号(シゴウ)を贈られ、後に後醍醐天皇は法燈円明国師(ホットウエンメイコクシ)の勅諡(チョクシ)を追贈し、興国元(1340)年には南朝後村上天皇が西方寺へ興国寺の寺号を授けています。
 室町時代には多数の塔頭(タッチュウ)を抱える大寺として栄えましたが、天正13(1585)年の内大臣羽柴秀吉による紀州攻めで伽藍の大部分を焼失してしまいました。
 その後、慶長6(1601)年に至って紀州藩主浅野幸長(アサノヨシナガ)によって再興されましたが、短期間で伽藍が竣工したため、周囲の村人からは「天狗が建てた」と云われる様になり、以後、「天狗の寺」とも呼ばれる事となりました。明治維新後は臨済宗妙心寺派に属し、昭和31(1956)年に妙心寺派から独立して臨済宗法燈派大本山になりましが、昭和61年(1986)に妙心寺派へ帰参しています。
 寺宝として木造法燈国師坐像〔重要文化財〕・絹本著色法燈国師像〔重要文化財〕・紙本墨書誓度院規式〔重要文化財〕等が所蔵されていますが、何れも非公開です。
 また、8月に行われる火祭りの灯籠焼は和歌山県指定無形民俗文化財となっています。

コメント(13)

 2020年12月24日木曜日に訪れました。

左・中;山門跡
右;大門
左;由緒
中;表参道
右;伊呂波紅葉
 由良守応(ユラモリマサ;1827〜94)墓・顕彰碑
左・中;龍王社 祭神;八大龍王
右;表参道
左・中;稲荷社 祭神;宇迦之御魂神
右;日本水仙

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