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その時歴史が動いたらコミュの【選択001】もしもプチャーチンが急いでいたら

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1853年7月18日、ロシアのエフィム・プチャーチンは長崎港に4隻の軍艦を伴って入港しました。1853年7月8日にマシュー・ペリーが浦賀に来航した10日後のことでした。歴史では日本の開国がアメリカ主導で行われたことになっています。しかしもし1853年7月1日にプチャーチンが江戸湾に現れていたら……。架空の歴史を検討してみます。

【参考】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%81%E3%83%B3
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%AA%E3%83%BC

コメント(34)

ロシア主導の日本開国も、考えられるってことでしょうか。
ワクワク (((・∀・)))
かなぁとw。ここらへんはココナツ先生の登場待ちですね(・∀・)。まず疑問点w。

1.当時の米露の関係
友好的?そうではない?また開国をむちゃくちゃ迫るアメリカに対して、ロシアが幕府側にたったとしたら?そんな関係がどうなるかw。そして勝海舟はいったいどうするのだろうか?

2.平均滞在日数
ペリーとの遭遇はあったかどうか?遭遇していたらどうするのか?もしかしたら江戸湾で開戦とか?

3.日本の重要度
ロシアは日本がとても重要だったのか?開国を迫るアメリカの本質的な目的とは?

うーん、これだけでコミュができそうですなぁw
ちなみにこのときの将軍は12代徳川家慶。1853年7月27日に逝去するので直前の出来事なのですね。ちなみに病死だったらしいので、多分この頃は床に伏せっていたかもしれません。Wikipediaによれば「家慶は趣味に生きた将軍で、政治をみなかった。その為、諸大名の間では評判が悪く、暗愚とみられていた」らしいです。いやぁ、本当に知識ないな〜俺w。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E6%85%B6
ということで幕閣の代表は老中首座、備後福山藩7代藩主阿部正弘さん(当時34)。この前後の出来事としては……。

1848年 アメリカ合衆国の東インド艦隊が浦賀来航。通商を求められたが、阿部さんは鎖国を理由に拒絶。1853年のこのときの来航ではペリーはアメリカ大統領フィルモアの親書を携えて浦賀へ来航したらしいですね。これだけ見るとアメリカのほうがかなり用意周到なのだろうか?

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E9%83%A8%E6%AD%A3%E5%BC%98
まず 〇〇衛門、〇〇局などの名前が 〇〇アノフやら〇〇スカヤになります
後世の国民的漫画のタイトルも「ドラえフスキー」になりましょう
登場人物:ジャイアノフ、スネオフ、シズスカヤ、ノビタスキー
あってる?
>>ねおんちゃん
まさにそうなったかも知れませんなぁw。まぁそうなるかどうかを考えるトピですのでw。

ところで基本的なところで
1.なんで開国しなくちゃならなかったのか
2.開国しなかったらどうだったのか

ってなところも考える必要がありますね〜。
1.当時の米露の関係
米:国内が内戦(南北戦争)でひどいのであまりほかの国に関わっていられないな〜。
ロ:北海道にちょっかい出しすぎたけど失敗ばかりだし、日本人を大量に拉致しちゃったから次は本土をねらうかな。

2.平均滞在日数
阿部:ペリーの恫喝こええ。とりあえず言うこときいとくか。とてもじゃないけど戦争は無理だな。

3.日本の重要度
ロ:凍らないものなら何でも欲しい。特に港。どこでもいい。
米:ヨーロッパに遅れを取った!あ、まだ環太平洋空いてるじゃん。


1.なんで開国しなくちゃならなかったのか

黒船見てびびった。まじびびった。あんなでっけえ船、見たことねえ。-中略- 開国するしかないな。

2.開国しなかったらどうだったのか

えっと、今の今までずっと開国していなかったらという意味かな?
>>ココナツさん
問題を整理してみましょうヽ(´ー`)ノとりあえず米露の年表整理してみました〜。

1.1853年の米露事情
(1)米
1842/12/19,天保13/11/18 合衆国がハワイの独立を承認する。
1844/07/03,天保15/05/18 清朝とアメリカが修好通商条約を結ぶ。
1846/05/08,弘化03/04/13 米墨戦争勃発
1848/02/02,弘化04/12/28 米墨戦争終結
1850/09/09,嘉永03/08/04 アメリカ、奴隷州と自由州に関する妥協法案が議会を通過する。
1853/07/14,嘉永06/06/09 アメリカで最初の万国博覧会が開催される。
1854/02/15,嘉永07/01/18 上海にアメリカ租界が開設される。
1854/06/05,嘉永07/05/10 上海に英仏米が管理する税関が設置される。
1858/06/18,安政05/05/08 清がアメリカと天津条約を締結する。
1860/11/06,万延01/09/24 アメリカ、共和党のリンカーンが第16代大統領に当選する。
1861/02/04,万延01/12/25 アメリカ、1月に連盟を脱退した南部諸州がアメリカ連合を結成する。
1861/04/12,文久01/03/03 アメリカ、南軍がサムスター要塞を攻撃し、南北戦争が始る。
1863/07/01,文久03/05/16 アメリカ、南北戦争、ゲティスバーグの戦い(〜7.3)。
1865/04/09,元治02/03/14 アメリカ、南北戦争で、南軍の総指令官リー将軍が北軍に降伏する。

(2)露
1851/07/25,嘉永04/06/27 清とロシアの間に17条のイリ通商条約が結ばれる。
1853/10/16,嘉永06/09/14 クリミア戦争勃発
1854/02/06,嘉永07/01/09 ロシアがイギリス、フランスと国交を断絶する。
1854/03/28,嘉永07/02/30 イギリスとフランスが黒海に艦隊を派遣し、ロシアに宣戦布告する。
1855/03/02,安政02/01/14 ニコライ1世没。58歳。
1855/03/02,安政02/01/14 ロシアで、アレクアンドル2世の治政が始まる。
1855/09/10,安政02/07/29 クリミア半島要塞セヴァストーポリが、イギリス・フランス連合軍の攻撃で陥落する。
1856/02/01,安政02/12/25 ロシアが、オーストリアの最後通牒に屈して、暫定的な講和条約を飲む。
1856/03/30,安政03/02/24 クリミア戦争終結
1858/05/28,安政05/04/16 ロシアと清朝の間でアイグン条約が結ばれる。黒竜江が国境となる。
1858/06/13,安政05/05/03 清がロシアと天津条約を締結する。
1859/05/23,安政06/04/21 清朝が、ロシア船のウスリー川の航行阻止を命令する。
1859/05/24,安政06/04/22 ロシア船が清朝の命令を無視してウスリー川を航行する。
1860/11/04,万延01/09/22 清朝とロシアが北京条約を締結する。
1867/03/30,慶応03/02/25 ワシントンで、アメリカがロシアからアラスカを720万ドルで購入する条約が調印。
1867/10/18,慶応03/09/21 ロシア領のアラスカがアメリカに売却される。
井伊直弼が住んでたとこってちょうど今の警視庁のところで、ホントお城の桜田門から近いよね。あんなに近い距離で暗殺されちゃったのね。桜田通りはちょっとずれている気がするけどいいのかな?
江戸後期のキャッシュアンドキャリー大黒屋光太夫は、荷物を運ぶ船が難破してロシアまでながされたが、モスクワ付近までいって帰ってきた。その間に拉致された日本人が現地で日本語教師になっているのを見たようだ。

またほぼ同時期江戸後期のマッパー伊能忠敬が北海道の地図をかく時に、彼はロシア人がひっきりなしに沿海を往来している目撃証言を得たらしい。その時代の北海道は天然資源の宝庫だったため、幕府や松前藩だけでなくロシアもまた北海道をてにいれたがっていたらしい。(幕府と松前藩のだましあいも相当なものだったようだ)
凍らない港が欲しいというロシアの欲求は今も昔も変わらないみたいだね。南下政策はほとんど本能行動だとシバリョーが言ってた。
大黒屋光太夫はその後、何度も日本人の話を聞いたらしい。
おそらく、漂流した日本人の多くは帰ることが出来なかったものと思われる。拉致というのとは違うかもしれない。

アメリカはペリー後はそんな事情で日本にちょっかいを出すことが出来なかったため、列強2国イギリスとフランスが進出してきた。幕府側に付いたのがフランスで薩摩側についたのがイギリス。

日本人の好奇心のエネルギーはすごいもので、
黒船にびっくりたまげた後、それをどうしても作りたくてしょうがなくなった。藩をあげて作っちゃったのが、島津斉彬が率いる薩摩藩、個人に作らせたのが伊達宗城が率いる宇和島藩。すんでの差で薩摩藩が勝ったが、ペリーの後3年後には量産体制まで整えていたというからすごい。

そんなレースには無関心で独自路線を貫いた佐賀藩の鍋島カンソーは当時最先端のアームストロング砲を量産してみせてこの時代のヨーロッパの水準を超えたという。それまでの大砲は精度も悪く、まん丸の鉄の塊をぼんぼん打つだけだったので数先発つかっても敵を落とせないというものだったが、カンソー様が作った大砲は上野デビュー時にはかの有名な彰義隊をたった12発で全滅させたほどだ。

後日、岩倉具視が日本代表でパリ万博に行ったときに、ついでにウィーン陸軍を視察した。
そのときウィーン陸軍の(日本ではかなり古くなった)大砲をみて、
「なんでこんな古いの使ってんの?」というとウィーン陸軍将校は
「この水準が世界一なんすけど」というので佐賀の大砲を実演して見せ、その将校を驚かせたという。

なんかとりとめなくダラダラ書いてすまん。
しかも記憶だけで書いているので細部ちょっと違うかもよ。
そんなわけでしばらくロシア人は出てこない。ロシア革命・日露戦争のあたりまでひっぱらないと情報が少なくて。私が知らないだけか!
ココナツさん!カキコサンクス!今日は実家に来ていて時間が漸く取れたのでカキコしていきます。折角なのでいろいろまとめてみました〜ヽ(´ー`)ノ

【キーパーソンの活躍した年代の整理】
●大黒屋光太夫
1783年 遭難。アリューシャン列島のアムチトカ島に漂着。
1790年 キリル・ラクスマンと出会う。彼の助力でエカテリーナ2世との謁見を目論む。
1791年 首都ペテルブルグで皇帝エカテリーナ2世に謁見。
1792年 根室港に帰国。

●アダム・ラクスマン(キリル・ラクスマンの息子)
1792年 大黒屋光太夫と共に根室に来航。
1793年 松前藩にて幕府側と折衝。通商を求める。→拒否される。

●伊能忠敬
1800年〜1816年まで10回に及ぶ全国測量。ちなみに北海道の踏査は1800年が第一回目。

●間宮林蔵
1800年 南千島派遣。同島で伊能忠敬より測量技術を伝授される。
1803年 西蝦夷地測量
1806年 択捉島にてニコライ・レザノフの襲撃を受ける。
1808年 樺太探索
1809年 樺太が島であることを確認。

●ニコライ・レザノフ
1804年 長崎来航。遠山の金さんの父より装備も食料も不十分のまま通商の拒絶を通告される。
1805年 帰途に多数の死者を出して帰国。武力をもっての開国以外に手段はないと上奏し、のち撤回。
1806年 部下のフヴォストフが単独で樺太の松前藩の番所襲撃(フヴォストフ事件)
1807年 部下のフヴォストフが単独で択捉港を襲撃(文化露寇)
1807年 ペテルブルクに帰還する途中に疫病により死去。

●ヴァーシリー・ゴローニン
1811年 ディアナ号で千島測量。国後島で幕吏に捕縛される。
1812年 ディアナ号副艦長リコルド、ゴローニンの返還を求め、国後島で交渉、拒否され、観世丸の高田屋嘉兵衛らを拉致。
1813年 高田屋嘉兵衛とゴローニンの交換が成立。
【18世紀〜19世紀の日露関係史&幕府側対応】
1705年 ロシア、東方進出により日本の存在を知り、日本人学習所設置。
1739年 安房にロシア船来航。接触に失敗
1764年 ロシア、日本航海学校設置
1768年 ロシア、日本語学校設置
1771年 ロシア船、安房に漂着
1778年 ロシア、松前藩に通商を要求→松前藩拒否
1792年 ラクスマン根室来航、通商条約調印を迫る→幕府側拒否
1799年 蝦夷地が幕府直轄地に
1804年 レザノフ長崎来航→幕府拒否。
1806年 フヴォストフ事件
1807年 文化露寇
1811年 ゴローニン捕縛
1821年 蝦夷地、松前藩に返還
1825年 異国船打払令発布
1837年 モリソン号事件
1839年 モリソン号事件対応を批判した洋学者等逮捕(蛮社の獄)
1845年 異国船打払令廃止
1853年 プチャーチン来航
1858年 日露通商友好条約
1875年 樺太千島交換条約
【ロシアの日本の接近理由】
ロシアの南下政策が本能的なものだというのは、私も読んだ記憶があります。ただこの時代不凍港ってそんなに重要だったのでしょうか?別の解説によれば
東進政策で沿海州、カムチャツカ半島等を領有したロシアは、この地域の「毛皮」を大きな産業としていたらしいですね。ですから狩猟民族であるアイヌ人との交流も大きかったと思うのです。またロシア中枢とえらい距離離れている極東では、その地域での産業の独立が必要だったのだと思うのです。この結果極東ロシアが周辺諸国との独自の交易が必要だったのだと思われます。これのほうが合理的な解釈ができると思うのですが、どうでそ?まぁサンクト・ペテルブルク政府にとってはヨーロッパ政策のほうが重要だっただろうし、関心は薄かったのかもしれませんね〜。

【江戸幕府の対応】
すごく不思議なのが江戸幕府の領土に対する先進的な意識です。鎖国政策をしているくせにかなり国際法(領土に関する事項)に詳しい過ぎるような気がします。樺太、千島列島等の探査というのがかなり不自然w。1858年に露清の間でアイグン条約(アムール川左岸のロシアへの割譲)等と比較して、かなりしっかりしすぎているような気がしますが誰の入れ知恵ですかね?それと確か江戸時代の誰かがロシア脅威論を訴えていたと思いますが、誰でしたっけ?あおと樺太・千島は江戸幕府にとって何が重要だったんでしょ?この辺が次の論点かもしれませんね〜。

【まとめた感想】
いやぁ〜改めて歴史って面白いなぁ、と思いましたw。本当にインターネットに感謝ですw。日露関係史というのはかなり地味なテーマですが、連綿と連なっているのですね〜。
そうそう拉致の問題ですが、これはなんでですかね?大黒屋がちゃんと帰ってこれたのに彼等は何で帰って来れなかったんですか?(´・ω・‘)。吉村昭の本にも確かに何人かと会った、という記述があったような……。
>>それと確か江戸時代の誰かがロシア脅威論を訴えていたと思いますが、誰でしたっけ?

自己レスw。わかりました。林子平ですねw。1788年に「海国兵談」を出版していましたね。メインでロシアが危険、といっていたと思いますが、やっぱりこの辺はココナツさんの言うような拉致問題なのでしょうかね?

江川太郎左衛門のホームページに江戸幕府の海防論の簡単なまとめ発見(・∀・)ゞ。こんにちは、ぼくタロザエモン〜♪そういえば彼も海防論の第一人者でしたね〜。

http://www.egawatei.com/kaibou.html#top
1.なんで開国しなくちゃならなかったのか

やっぱ金ではないかな
開国を大きく進めたのは政治家さんらでなく
商人達な気がするし 貿易による損得考えたんじゃないかな
市場の大きさとか

2.開国しなかったらどうだったのか

とっとと植民地化して国民全部
英会話ベラベラになってたに一票
ビバ!港前留学
>>ねおんちゃん
開国が経済的な開放政策っていうのは目からうろこですね〜。確かに歴史というのは概ね功利的な動きで動きますからね。なるほど。勉強になります。これ等の動きを歴史的に証明できればいいわけですね。

ただ開国しなくても日本って植民地化できたんですかね?例えば蒸気船4隻程度じゃあさすがに何もできないような気がするんですよ。またアメリカが本腰入れて日本占領を企てるか、というとそうでもない気がするし、ココナツさんがいうように日本の技術力は当時からたいしたものだったわけですよね。

しかし清の事例もあるしなぁ……。清のケースと日本のケースはなにがちがったんですかね?
Schwarzer_Ritterさん>
ちょうど1800年ごろだと思うが、そのころ血気盛んだった高田屋嘉兵衛はエトロフ島で「ここは日本の領土ナリ」という立て札を立てに行ったらしい。ロシア人と喧嘩も辞さない感じですね。

その後すぐに伊能さんが北海道の東沿岸を測量に行ったんだけど、そのころ蝦夷会所の小役人だった間宮林蔵に会って、とてもイヤな若者、暗くて陰気くさくて、という感想をもったらしい。

大黒屋はわざわざエカテリーナ?世に日本に帰っても良いという許可を取りに行ったくらいだからね。

ねおんちゃん>
開国の手助けをしたのが商人というのは確かにそうかも。
軍資金の用立てをしてくれたのは、たいてい商人だったんじゃないかな?だって草莽の志士はお金持ってないからね。彼らに共感を得た豪商がお金を貸したんでしょうね。白石正一郎とかね。

植民地化って日本が欧米列強に植民地化されて、っていうこと?う〜む、幕末の志士はみんながみんな清でのアヘン戦争を仕掛けたイギリス人にむかついて開国さわぎをしてたわけだから。
高田屋嘉兵衛というのはゴローニン捕縛の時に報復で捕まえられた人でしたね。wikipediaによれば彼は現在で言う「マルハ」的な水産業者のようですね。漁場の確保、と言う点でいえば確かにねおんちゃん説で説明できそうですね〜。これが幕府の原動力になったのでしょうかね?

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E7%94%B0%E5%B1%8B%E5%98%89%E5%85%B5%E8%A1%9B

清の植民地化というのは何故起こったのかというのが幕末の謎を解く鍵になりそうですね〜。ただこれがこれがすごく問題だ、開国せねばならん、となるのがよくわかりませんな。薩英戦争・下関砲撃事件とかあったとしても攘夷どまりになるような気もするのですがね。
高田屋嘉兵衛に関してはシバリョーの菜の花の沖にくわしくかいてありますが、幕府とはあまり関係ない人だったような。

薩英戦争・下関砲撃事件での教訓として両国(薩摩・長州)とも「外国人と喧嘩したらこのままでは負ける」→「うまくつきあって技術の遅れを取り戻す」という考えにいたったようです。この戦争以降、薩摩も長州も攘夷ということは言わなくなって行ったのではないかな。攘夷のエネルギーは「倒幕」に移行したものと思われる。
植民地化というか 思うにですね
当時のアメリカ人ってまだ黒人やインディアン等
有色人種に対して差別的な時代だったと思います
まして英語もラテン語もほとんど喋れず
生魚を食べ刃物を振り回してた黄色い肌の日本人は
蛮人と思われていたんじゃないかなーと思うんです
開国しようと通史らが動いたからよかったものの
開国心なく語学に明るい人が居なかったら
交渉にもおぼつかず ええい!侵略して屈服させてしまえ
みたいになったんじゃないかなーーーと
あくまで推測ですが 日本人の歩みはルーツ的なそれではなかったかと
【アヘン戦争前】
まず清が満州族の政府であったことが重要ですね。どれだけの人数で政権を支えていたかわかりませんが、少ない人数で広大な中国本土を殆ど支配していたわけですからかなり強権政治だったのではないでしょうか。

植民地化には中国の特産品「茶」がきっかけとなっていたようですね。インドもそうですが、こういった特産品の確保がイギリスの覇権政策の基本のようです。インドと比較して中国はそれでも中央政府があったわけで最初は商取引から開始されました。

wikipediaによれば中国とイギリスの当時の貿易は完全にイギリスの輸入超過で、イギリスは本来「銀」を代金決済に使用するのですが、産業革命の資本蓄積のため銀の輸出を躊躇ったイギリスは、茶の代償としてインドで栽培したアヘンを輸出することになったようです。この結果、清の輸出超過に逆転、銀本位制の貨幣経済だった清では深刻な銀不足に陥り、物価が高騰したのですね。

このアヘン禍を重視した清朝政府は林則徐を特命大臣に任命しアヘンの取り締まり(アヘンの焼却処分、アヘン吸引の死刑適用など)に乗り出していきます。アヘンを取り扱わないアメリカ商人はイギリス商人が取り締まれている中、巨利を得ます。

【アヘン戦争】
1839年イギリス艦隊は清国船団を壊滅、宣戦布告に至ります。麻薬を輸出するための戦争と言う、前代未聞、世界史の汚点というべきものですな。

イギリス艦隊は広州・上海等の主要貿易港ではなく、いきなり北京政府の喉元、天津に姿を現します。これに驚いた(※注目1!)北京政府は林則徐を解任、懐柔政策に移行します。この結果香港割譲などの要求をイギリスは突きつけるわけです。これを清国政府は拒否するのですが、結局イギリス艦隊は各地の清国軍を各個撃破(※注目2!)、1942年南京条約が結ばれます。

【南京条約】
清国政府は多額の賠償金・香港割譲・広東、厦門、福州、寧波、上海の開港を認めざるを得ませんでした。更に1943年の虎門寨追加条約では治外法権、関税自主権の放棄、最恵国待遇条項の承認を認めました。これに追随してアメリカ・フランスも同様の条約を清国政府に認めさせました。

【アヘン戦争のもたらしたもの】
林則徐のブレーン魏源は、この戦いの後『海国図志』を書きました。その一節「夷の長技を師とし以て夷を制す」というのが、日本に及ぼした影響はすごくあったようです。
【第2次アヘン戦争】
南京条約で利益が出ると踏んでいたイギリスでしたが、意外と儲けが出なかったようです。これは開国港以外への商取引・入国が認められていないからだ、と判断したイギリスは1856年、清国官憲のアロー号への臨検・乗組員の逮捕を理由として開戦に踏み切ります。これが第2次アヘン戦争、通称アロー戦争です。これにはフランスも共同歩調を取り、広州と天津を占領、天津条約を結びます。

【天津条約】
公使の北京駐在・キリスト教布教の承認・内地河川の商船の航行の承認・英仏に対する賠償金・阿片の輸入の公認化等が認められました。しかし酷すぎる(´・ω・`)

天津条約が締結された後、清国政府ではこの条約締結の非難が強まり、天津条約批准のために天津に来た英仏艦隊に攻撃を仕掛け、一端はこれを撃退します。上海に撤退した英仏両軍は大艦隊とともに約1万7千人の陸軍を天津に進めこれを占領。交渉中に清国軍は広東総領事パークスを拉致したため英仏軍は北京に進軍占領しました。

【北京条約】
1959年第2次アロー号戦争の結果、北京条約が結ばれました。締結内容は天津開港、し九竜半島割譲、中国人の海外への渡航許可(苦力貿易)等です。本当にひどすぎる(´・ω・`)。この北京条約の調停はロシアが行ったのですが、この結果何故か沿海州をロシアに割譲することになりました。
【アヘン戦争の問題点】
清の植民地政策について1839〜1859年の30年間の出来事をざっとまとめて見ました。また次の年表を見てみて下さい。

http://www2.plala.or.jp/shyall/nenpyo/

これによると丁度幕末に入りかけっていう感じでしょうか(北京条約の翌年1860年咸臨丸がアメリカに渡っていますね。)。ココナツさんに質問ですが、この当時の清国軍と幕府軍&諸藩軍の実力の比較ってできますかね?第2次アヘン戦争では17000人の英仏軍が上海→天津へ海上輸送されていますね。上海からであれば日本へこのくらいの軍隊は送れるとみていいですよね。この規模の軍隊って言うのはやはり強烈なものがあるでしょうね。幕府が恐れていたのは蒸気船だけじゃないわけですな〜。ただ清国軍より軍備が圧倒していれば恐れなくてもいいのか……比較が難しいですね。
>>ねおんちゃん
うん、確かに人種的偏見はあったかもしれないですが、一応政府として認めていますよね。アメリカ大統領の親書付きっていうのは、砲艦外交であったとしても有無を言わせないっていう感じでもないような気もしますね〜。
(オカメ中心の生活していて、トピから遠くなっていて、済みませんでした。)

そもそもの、通商を求めて1番乗りしたのはロシアでしたわね。
1792年にエカテリーナ女帝の使節ラックスマン、1804年には遣日全権大使レザノフ、いずれも幕府に拒絶される。
1811年海軍少佐のゴローニンは無断で上陸して逮捕される。
その後の、ナポレオン戦争が無かったら、ロシアの南下政策が進んで、ロシア主導の開国も考えられたかも!

実際には、ぺりーさんに先を越されて、プチャーチンさんは苦やしかったでしょうね。
すでに「アヘン戦争」まで話が行っていましたね。

イギリスの産業革命により生み出された新しい経済システムがアジア世界を巻き込み、インドの植民地化をはじめとする社会変動をもたらした。
アフタヌーンティーを楽しむ習慣も産業革命が無かったら、広まらなかったでしょうね。今飲んでいる一杯の紅茶にも、歴史の重みを感じます。

詳しい資料が無いので、なんともいえませんが、清朝の軍備は相当時代遅れで、イギリス軍には対抗出来なかったようです。
清朝の内政も悪く、洪秀全率いる約15000人の農民軍に、清の正規軍が対抗できず、なんてこともありましたから、日本の幕府、諸藩のほうが勝っていたように思います。
アヘン戦争から、アロー戦争、日清戦争、義和団事件、辛亥革命への流れの中で、清が滅亡していってしまったんですね。
Schwarzer_Ritterさん>
軍事力の比較はかな〜り難しいですね〜。
人数の比較と火力の比較くらいならなんとかなるかもしれないけど。
日本側といえば諸藩と幕府軍でもその軍事力には天地ほどの開きのある藩(佐賀・薩摩等)があるので、一概にはなんとも言えませんわ。
ちなみに下関の4カ国連合VS長州藩では連合軍は5千人。
薩英戦争ではイギリス軍側の人数は不明だけど黒船7隻程度の人数。黒船にビビッて居たのは最初の2年くらいであとは自分たちで作っちゃってた。
レス遅くなりましたm(__)m。

結局ロシアの開国の意思というのは東部シベリアを中心とした地方政府と地方商人の思惑が絡んでいただけなのかもしれませんね。確かに外洋に通じる不凍港を持ちたいというのがロシアの基本的な意思なのでしょうが、東洋の辺鄙な港の外洋への航海権を確立する、というのはペテルブルグ政府としてはあまり興味のなかった事項なのかもしれません。

欧米が鎖国している日本の扉をこじ開けたかったのは何故か、という基本的問題に戻るような気がします。ねおんちゃんのいうようにやはりアヘン戦争等の事例を見れば商的機会の確保、というのが最も納得のいく説ではないでしょうか。当時の欧米に日本や中国を植民地化できたか、というと若干の疑問点が残ります。例えば戦争をして勝利することは可能であったと思いますが、宗主国としてアフリカのような植民地経営ができたか、というとそこまでの武力を派遣するのはかなり難しかったのではないでしょうか。

そして幕閣も欧米の武力は現在の時点で日本を占領制圧するほどではないということはつかんでいたのではないかと思います。しかしながらこのまま放置することはできない。武力の差は歴然としてあり、日本側でコントロールしながら開国政策に変換したほうが主導権を維持できると踏んだのではないでしょうか。

例えば黒船が江戸湾で砲撃を開始するとします。この時点で日本は恐らく征服占領されることはないでしょう。しかしながら幕府を中心とした政権の維持は極めて難しくなったのではないでしょうか。戊辰戦争がかなり早まったかもしれないということは想像に難くありません。

ロシアでもアメリカでもまず占領までは考えていなかった。商的機会を確保し、利権を日本で確立したかった、というのが真相なのではないでしょうか。
Schwarzer_Ritterさんの総括的なご意見が出た後で恐縮ですが、このトピを日々眺めているうちに、プチャーチンさんに入れ込んでしまい、面白いものを見つけたので、ご紹介させてくださいませ。

(「幕末維新新聞」より、以下抜粋。)

【1853年8月〜12月<「シー・ユー・アゲイン」去りて「スパシーバ」来る、ロシア艦隊長崎に(寄せては返すウエスタン・インンパクト)>より「プチャーチン提督一問一答」】
 先に来日したペリー提督は「自分と同位の高官以外とは面談せず」の姿勢を貫き、マスコミとの会見も拒絶したが、海軍中将であるプチャーチン提督はいたって気さくな人柄で、出航前の一時、ウォトカを酌み交わしながらじっくり話を聴くことが出来た。
━アメリカに先を越されたことはご存知だと思いますが。
ダー。残念に思っておる。アメリカは母なる国、イギリスに手向かって戦争で無理やり独立を果たした、とても野蛮な国。ペリーなどは、その野蛮な国の野蛮な海軍の成り上がり者であるから、私たちロシア人が敬愛する日本の将軍を恫喝したことは、とても腹立たしい。
━ロシアは違いますか?
全然違う。ロシアは日本と同じく、皇帝を戴き、貴族が軍事と政治を司る国。平民が国家の長を選ぶような、軟弱な思想は徹底的に弾圧しておる。農奴は末代まで農奴、という凛々しい国である。
━ははぁ。私は農民の出ですが。
おっとっと。ウォトカをもっとやりなさい。トウスト!トウスト!さあさあ、この鮭も食いなさい。
━正直なところ、われわれからは、西欧国家はわが国を虎視眈々と狙う餓狼として、皆同じに見えるのですが。
ニェット!そりゃ、ちゃうねん。ほら、このピロシキを見なさい。日本の饅頭そっくりだろう?日本の上等の酒は清酒、ロシアのウォトカも、この通り透明だ。この共通性こそ文化の共通性なのだぞ。アメリカ人なぞは、(略)のごとき酒をくらい、先住民族の獲物をかっさらて腹を満たしておるのだ。ささ、トウスト、トウスト。第一、ロシアと違って、アメリカはあまりに遠かろうて。
━それが、ぺりーは新鋭の蒸気船で快走すれば、日米間は二十日を切る日数で航海でき、したがって両国は最も親しむべき隣国である、と。
ニェット!ニェット!ロシアの方がもっともっと近いの。おーし、今度来るときは五日で来るけんね。絶対にペリーより早く来るけんね。なーに、ウォトカさえ飲まねば確実だけんね。そりゃ、トウスト!
━いやいや、もはやこれまで。提督以外は全員乗船してオロオロ思案しておりますよ。では、提督、スパシーバ。そして、お気をつけて。ダズビダーニア。

【1855年1月〜9月<プチャーチン伊豆戸田村で船建造(日本の船大工を激賞し帰国の途へ)>より「再び提督と一問一答」】
━何かと大変でしたね、提督。
ダー。(略)
━(略)でも乗艦を沈めたのは痛かったでしょうね。
ダー、その通り。なにせわが国は、トルコと英仏相手に戦いの真っ最中。そんな折、皇帝陛下の貴重な軍艦を失ったのは痛恨の極みだ。
━でも、何とか航海に耐える船の完成を見ましたね。
日本のでぃくさんたちには感謝しておる。勤勉だし、技術も細やかで素晴らしい!
━やがて日本人も大鑑や巨砲を造れるようになるでしょうか。
むろん、むろん。基本になる技術さえ移植できれば、相当のスピードで修得してしまうのではないか。なにせ日本人は器用だ。それにウォトカを飲まないし。
━念願の条約が締結できました。
わし個人としては、末永く「和親」で行きたいと考えるが・・・・・。
━障害がありますか?
ダー。わが皇帝ニコライ一世は猛烈な覇権主義者。日本の、この数々の良港の存在を知られたら、涎を流されるだろう。不凍港の獲得こそ、ロシアの宿願であるからな。ま、お国と争わぬためにも、バルカンやクリミアでせいぜい必勝を期そう。
━何とぞ、よしなに。
では、待てばカイロに日照りあり、とか。ウォトカが切れて喉が焼け付く前に、出航するとしよう。
━どうぞ、お達者で。
プチャーチンその後・・・。

(再び「幕末維新新聞」より)

【カムチャッカ=1855年6月<プチャーチンの部下御難「イギリス艦隊に拿捕される」】
プチャーチン提督の部下たちが乗船するドイツ商船グレタ号が帰国途中のカムチャッカにおいてイギリスの艦船に拿捕され、全員が捕虜となった。
戸田で急造した船は乗員全員が乗り込むには小型だったため、乗り切れなかった乗員はアメリカやドイツの
商船を雇って故国を目指していた。グレタ号は6月1日に下田を出航していた。

なんとも、お気の毒です〜。_| ̄|○
プチャーチンさらにその後・・・。

(再び「幕末維新新聞」より)

【長崎=1857年9月<幕府 条約条項を整備>「オランダ・ロシアと追加条項結ぶ】
 先にアメリカ総領事タウンゼント・ハリスと、長崎開港、下田・箱館両港におけるアメリカ人居住権、領事旅行権などを認める追加条約を結んだ幕府が、オランダ・ロシアとも追加条約を締結した。
日蘭追加条約では、新たに長崎・箱館両港での通商を許可、船数および貿易総額に対する制限が条件付で撤廃されている。8月29日に調印された。
 日蘭条約調印直前の長崎に飛び込んできたのが、かのロシア人、プチャーチンだった。日蘭交渉のため、長崎に滞在していた勘定奉行水野忠徳と目付岩瀬忠震が交渉に応じ、日蘭条約に準拠した内容で、日露追加条約として9月7日に調印された。

プチャーチン提督のコメント:
「日本の皆さん、ロシアを忘れても、ピロシキとこのプチャーチンを忘れてはいけません。忘れそうになったら、またやってきます!」

というわけで、これ以降、プチャーチンさんの消息に関する記述等が歴史の年表や書物に見当たらないのは寂しいことです。
ご存知の方がいらっしゃいましたら、よろしくお願いいたします。
【尋ね人「プチャーチンさん」】

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