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白村江の戦いコミュの「白村江の戦い」に至るまでの日本側の決断の是非を考える

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663年「白村江の戦い」
そこに至るまでの道のりにおいて、当時既に強大な大帝国を築いていた「唐」や「新羅」の連合軍を敵に回すリスクを冒してまで、百済復興支援・援軍の半島出兵を行った中大兄皇子(天智天皇)ら日本側の一連の決断の是非を、どうお考えでしょうか?

半島では日本軍は大敗北を喫し、敗戦で失われた日本側被害は甚大であった事でしょう。

しかしいろんな要因にも恵まれ、結果として唐の直接的な日本侵攻など日本列島を舞台にした国難、国家存亡の危機には遭わずには済みました。

唐の半島への介入、百済滅亡、高句麗滅亡など踏まえ、大局に立って国防・国益を真に考えた時、如何に決断すべきだったでしょうか

出兵か、中立的立場を貫き完全不介入か、あるいはそれ以外の第三の道か?(裏で支援はするが介入はしない、むしろ唐と手を結ぶ等々)

出兵するにしても戦略・戦術や計画などがまずかったのか?

無謀な戦いを挑んで、国家を危機に陥れた愚作か?
いや、むしろ国を救った賢明策だったのか?

反戦平和思想・人命尊重思想など、現代的なモラルの観点の呪縛に捕らわれずに、自由に考えてみて意見をお聞かせ下さい
宜しくお願いいたします

コメント(4)

まず僕の意見を書きます。

僕は参戦の決断に関して、昔は単純に「無謀な戦に挑んだ愚策であった」と断じておりました。

しかし最近になって、参戦の決断自体は「全くの愚策でもないのではないか」と思う様になってきました。

真の脅威・恐怖だったからこそ、見なかった事にせず脅威を真正面から受け止めた、早めに(手遅れになる前に)対処した結果かもしれないと

しかし情報収集や戦略・戦術には大いに問題があったと。

唐の拡大の脅威を最も知る国家である「高句麗」との三国同盟・連絡・連携をもっと密にして、高句麗に対唐戦に参戦を促す必要はあったかと存じます。

高句麗と百済の同盟「麗済同盟」は実際に有った訳ですので(百済滅亡の660年時点で一旦御破算か?)

あと「力押しの海戦」の疑問はある訳ですが、そこは情報量等諸々の問題である程度仕方なかったとは思いますが、結果論ですが陸戦ならこれほどの無惨な大敗北は無かったかと…。
唐は陸路から高句麗も同時に攻めているんですね。

あれでは高句麗からの援軍は望めませんね。
失礼しました
天智天皇の盟友、中臣 鎌足。
彼が百済の皇太子で、彼に頼まれた!?。
は考えすぎですかね!?。
この戦いの時、鎌足。
日本の歴史では行方不明。
で、皇太子が、百済で活躍したのが、同じ時期。
偶然にしては、出来過ぎです。
飽くまで素人の個人的な意見としてですが。
戦略的には、百済を援助することは間違いではなかったと考えます。
あの段階で半島に介入してなければ、半島の保全による利権や安全性の確保に問題が生じたでしょうし。

とはいえ、(書記を信じるなら)倭軍の行動は戦術的に論外でしょうねー。
突っ込めば自然に勝てるだろー、ってのはさすがにちょっと。
天武朝が天智朝を貶す方向で記述した可能性もあるかもですが。
陸戦は……福信との決裂さえなければ城は守れたと考えるべきか否か。はてさて。

>パペポを支えた男さん
鎌足=豊ショウ説ですな。
太織冠の位をどちらも受けてるし、説得力強いですよね。
実際のとこどうかわかりませんが、乙巳の変前の段階から豊ショウが天智帝と関係を持ってたとなると。
ロマンがあって個人的に好きです。

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