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空海 774〜835 真言宗 コミュの宗教界に素朴なお願い

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私は70才で神仏を家に祀るごく普通の日本人です。
最近思うことが二つあります。
先ず第一に、日本の持つ神教と仏教、これを世界中に布教する努力をして欲しいと思う。最近の戦争は民族とか宗教の争いが多い。一神教がその大きな原因だと思う。国をまたは民を治める為に宗教を利用するところから始まる物と考える。私は自然崇拝が最高だと思っている。

第二に、仏教界に期待したいのは、般若心経を平易な言葉で誰が読んでも理解できるようにして欲しいと云う事。

私はエルダー層にパソコンを教えたり、エンディング・ノート(ハートカプセル)を作ったりし会話を広げてゆこうとNPO法人を作って活動している。高齢者にとって一番気になる事は、”安心”心の平和だ。
当然宗教の話も出てくる。しかし、お経は難しすぎる。だから理解しよう等と考える人は殆ど居ない。
空海のような超天才が考えた事は理解できないといえばそれまでだが。
だからお前らには難しいから
南無大師遍照金剛
南無阿弥陀仏
南無妙法蓮華経
等だけ覚えて繰り返せば良いと云う事なのだろうか?
これも何だか分らない念仏だ。
そこで、般若心経の解説書は沢山あるが何故もっとやさしく平易に説明されないのだろうか? その点キリスト教は凄いと思う。話し言葉で説明する。だから若者は惹かれる。
私は是非とも誰にも理解できる般若心経を世に出して欲しいと願っている。
もし皆さんのご意見をお聞かせいただければ有難いです。
(ちなみに私の家は代々真言宗豊山派、お寺は武蔵国分寺です)

コメント(37)

レイコさん
大変貴重なお話、有難うございました。YMCAの話は意外でした。

海外への仏教の布教活動をしておられる方で、天台宗米国ハワイ開教総長荒了寛大僧正とお付合いをさせて頂いております。1年に1回この街にきて仏画と書籍の個展開いて、講話の後懇親会をやって楽しくお話をしていただ居ています。
アメリカでも同様な事をなさっておられるそうです。

このような地道な活動が大切なのだろうと思います。

それにしてももっと身近な所での布教活動も欲しいものですね。
初めまして。

仰っておられること、とても良く分かる反面、それで日々もがいている坊主です。

ちなみに国分寺さんの同級生でございます。

私のプロフィール、また、日記に「ここをこうひねれ!」と助言いただけると幸いです。
聖者ぼんちリンポチェさん
ご説明有難うございます。
仰る事はある程度理解している積りです。
しかし、無学文盲の私のような者にも分るように説明し教えてくれるのが宗教者ではないでしょうか?

若しそうではないとしても、分かるようにして欲しいと思います。
家が代々仏教だから何の疑問も無く仏教でゆく。これで良いのでしょうか?
はねちゃんさん
はじめまして。
あら、国分寺さんと同級生?
多分、その方のお父さんが私の詩吟の師匠(宗家)です。
よろしく
聖者ぼんちリンポチェ さん

前のご説明で最後の2行、「原始仏典を噛み砕いて・・・」は、私が申上げた般若心経に対して、でしょうか?
であるとすれば、私の知識レベルはそこまでは無いです。
極端な事を云えば、もっと仏教が分るような理解しやすいような物であれば良いです。
それも現代の実社会に則ったものにして欲しいと思います。
東十条 司 さん

だからもっと分りやすく教えていただく必要があると思います。
般若心経に限らず、仏教をわかりやすく、しかも質を低下させずに教えることというのは本当に大切であり、必要なことであると思います

経典は意味も大事ですが頭で理解する以前に声に出して読んで自ら音声化する事によって
自然と体の方に変化が有るように元から出来ている、ぶっちゃけて言うとスポーツ・エクササイズの様な物だと感じてます。
体に染みてからロジックの解説を知るのは構いませんが前後が逆に成ると
「呪文」として効き目が減ってしまうんです。
はじめまして、中国からの留学生です。日本の仏教を勉強しています。
中国にいった時、面白い物語を読んだこどがあります。あるお坊さんが字を読めない生徒がいました。この生徒は師匠の所に尋ねって来ました。先生私は字を読めないです。お経さえ読めないですが、仏道を求める方法がありません。するとそのお坊さんは指で月を指しました。その月は真理である、この指は文字である。指がなくても月を見えるだろうといいました。
私も般若心経を読んだことがあります。難しいですが、素晴らしいです。是非命のある解説書を書いてください。
皆さん

色々ご教示頂き有難うございます。
正直、仏教ってこんな難しい物だとは思っていませんでした。これでよく千数百年これたものだと感心します。

今日、たまたま詩吟の稽古日で武蔵国分寺の住職さん(師匠)のところに行きましたのでこの一連の話をしましたら、全く皆さんと同じ事を云っておられた。

般若心経については瀬戸内寂聴さんのが良いかもしれないと云われ早速買いました。それと原始仏典もその内見たいと思っています。

まだ、分った!すっきりした!!と云う気分にはなりませんが、みなさんの教えに感謝します。これからもご指導ください。有難うございました。
> ファロンさん
三浦満さんの本もいいですよ。
 根源を求めるのが宜しいかと思いますが

神とは、川上の様なものとか
 見えるものと見えないものが一体に為ってこの世に見えるようですね。
不思議な仏教としかいいようが無いですが、私は詩吟を10数年やっていて漢字一文字一文字に意味がある、それを考えているうちに、般若心経の漢字の羅列にも意味があるはずだ。それを知りたいと思うようになっていた。
例えば次のような漢詩がある。

後夜聞仏法僧鳥
      弘法大師 作
閑林独座草堂暁
三寶之声聞一鳥
一鳥有声人有心
声心雲水倶了了

これは一文字一文字の意味がわかる。漢詩の意味も大体分る、作者弘法大師が意図したことどうかは不明だが。

一方、般若心経では、色即是空 空即是色 等どの本も一生懸命説明している。それで急にそれは音で感ずる物だと言われても理解できない。
ますます悩みが多くなってしまった。
誰か助けてくれぇ〜と云いたくなる。
私は何も考えずにただ「南無大師遍照金剛」を繰り返していればよいのかな。


>はねちゃんさん
 有難うございます。
 三浦さんの本も見てみます。
何故、教典が「漢文」で書かれているはずなのに、漢文を読めても意味が取れないか。

理由はサンスクリット語で書かれた仏教経典がインドから中国に伝わり翻訳され日本に伝わりました。

例えば「色」はサンスクリット語の「ルーパ」を一字で表したものです。
ルーパは形のあるもの。物質のことです。
色は漢字の象形では、かがんだ女性とその上に乗った男性を表しています。
ようは性交で、それが転じて顔やすがた、色とりどりの意味があります。
おそらく翻訳する際に「ルーパ」に「色」の漢字を当てたのは肉体や欲望を含ませたかったからではないでしょうか。
しかし、現在、日本語で「色」と目にしてまずイメージするのは色彩の意味の「色」ではないでしょうか。

そして「空」はサンスクリット語の「スーニャ」の訳語ですが、「スーニャ」は物質が不滅ではないこと、固定的実体を持たないことを意味します。
この極めて抽象的な概念に翻訳の際に「空」の字が当てられました。
空の漢字は漢字の象形では突き抜けて穴があき、中に何もないことを示しています。
現在の日本で「空」と見てイメージするのはやはり中身が「カラ」であることか、「空そら」かのどちらかではないでしょうか。

この二字はサンスクリット語から漢字へと意味を踏まえながら約されていますが、例えば「般若」はサンスクリット語の「プラジュニャー」を音写した文字です。

般若は仏の智慧、悟りのことですが、経典によっては「プラジュニャー」は「般若」と漢字で音写されたり「智慧」と翻訳されたりします。

漢文が読めても般若心経を読んでピントこないのは、そこに元々のサンスクリット語の原文を漢字の一字で意訳したり、音写したりした、様々な情報が混在しているからです。
そして、また漢文を読むという行為は本来、SVO文型(主語、動詞、目的語)からなる中国語の文をSOV文型の日本語に置き換えながら読むという翻訳作業に他なりません。
つまり経典を文章として読もうとする行為は、サンスクリット語の経典を翻訳した漢文の経典をさらに一、二点やレ点を付けながら日本語として読もうとする二重の翻訳行為でもあるからです。

日本へ仏教が伝わった経路がインド、中国、日本という経路であったためこの様な難解さを生んでしまいます。

一方で漢訳の般若心経を文章として読み下すのではなく、真意が知りたいということであれば『ダライ・ラマ 般若心経入門』春秋社あたりをオススメします。

なぜ、ダライ・ラマの著作を勧めるかというと、チベットへの仏教の伝播はインドから直接であり、チベット語自体は仏教の導入以前は表記文字を持たなかったのが仏教の伝播とともにサンスクリット語を参考に作られたからです。
第二に、ダライ・ラマ14世は般若心経の思想の背景にある「般若空観」思想を熟知した上で、解りやすく語っているからです。

また海外で「日本仏教」が広まらない理由、あるいは日本仏教の中でも「禅」だけがセラピー的に広まってしまっているのかを知りたければ、『仏教と西洋の出会い』フレデリック・ルノアール著 トランスビュー社を読むとわかります。
三毛猫坊さん

説得力あるご説明、有難うございます。
も少し良く読んでみます。

それにしても分りやすい仏教を期待してます。
ファロンさん

わかり易さって本当に大切なことだと思います
まして心と人生の救いをもたらす教えであると言う仏教なら、救われたい側は余計にわかり易さを求めるし、わかり易く教えられないのは教える側にその力、能力がないからだろうって疑っちゃいますよね

しかし、釈尊自身も悟りを開いた時、
「この悟りの内容はあまりに奥深いから普通の人には決して理解できないに違いない!理解させることなど決してできない!」
と考えて自分一人の悟りとその喜びにとどまろうとした、と言います

それを一切衆生のために思い直して、わかり易い第1回目の説法、理解力ある少数の者たちだけへの特別な第2回目の説法、さらに第3回目の説法へと順次、深い教えを説いて行ったと言われていますね
釈迦の教えを伝える最初期の経典には「スッタニパータ」があります。
この「スッタニパータ」は釈尊の言葉や弟子や様々な人々と対話し教えを説いたことが生き生き描かれています。
偉大な仏教学者中村元の平易な言葉使いによる文庫本がでているのでオススメします。
あと私が知る限り最も分かりやすい仏教の入門書に「図解雑学仏教」ナツメ社があります。
監修は現役の大正大学教授真言宗智山の僧侶である広澤先生。この本には「般若心経」に散りばめられている仏教用語が図説入りで解説されているので、こちらもオススメです。
みなさん
有難うございます。
しかし、我が煩悩は悩みが膨れ上がって居ます。

話を少し変えて、年寄りが集まって、心の安らぎのために宗教(仏教)の話をしようと思った時、どんな話題が良いのでしょうか?宗派も違うでしょうし。

毎日ご飯とお線香を上げる位の話かしら。何か寂しいですね。
これでは心の平安は得られないのではないだろうか?!

ここに新興宗教の入り込む隙が出てくるのでは?

凡人が考える事ではないかもしれませんが。
ファロンさん

>年寄りが集まって、心の安らぎのために宗教(仏教)の話をしようと思った時、どんな話題が良いのでしょうか?

仏教はまず、個人の心を素直に見つめようとするものだから、「なぜ自分には完全な心の安らぎがまだないのか?」ということをよくよく見つめることから始めるのがいいのではないでしょうか?

自分の心に波立つものの正体は一体何なのか?

自分の心に影のように常に引っ掛かっているものの正体は一体何なのか?

他者との話題にする前にまず、自分一人の心をよくよく見つめるのが仏教だと思います
初めまして。
反論するわけではありませんが、僕は仏教を布教する必要は無いと考えております。

ファロンさんの言葉を聞いて、真っ先にガンジーのこの言葉が思い浮かびました。

『私はヒンズー教徒であり イスラム教徒であり キリスト教徒であり ユダヤ教徒です。

 枝は違っても皆、一つの木なのです。』

昨今、『イスラム原理主義』と言う言葉がよくメディアから聞かれます。
この『イスラム原理主義』という言葉にどういうイメージをお持ちでしょうか?
きっと「テロリスト」や「暴力・殺戮」と言ったイメージを持たれている方が多い事と思います。
しかし、本来の「イスラム原理主義」は全くの逆です。
一部の過激派がおかしな大義名分を掲げ、暴れ回り、
それが取り沙汰されるがために、そういうイメージがついてしまったようです。
全てのイスラム教徒が本当の意味での『六信五行』の原理主義に還るなら、
争いなど起こりようがないと考えております。

多くの宗教の真理。
その真理はどことなく似通っているような気がするのです。
それがガンジーの言葉の意味ではないのかなと思います。

各々の地域に根付いた宗教をトコトン突き詰めてゆけば、真理に辿り着く。
その真理は、あらゆる宗教の根幹を成しているものである、と。
だから、良きヒンズー教徒は同時に良きイスラム教徒でもあり、良きキリスト教徒でもあり、良きユダヤ教徒でもある、と。
ガンジーはそう言っているのだと考えております。

だから僕は神仏習合の精神を持った仏教徒として、良き仏教徒となるべく追及していきます。
中東や欧米の人達は、ムハンマドやキリストの本来の教えに立ち返り、
各々が『良き信者』になるべく努力するべきであると思います。
そして共存していく事を望みます。

仏教の布教は同時に他宗教の否定に繋がる危険性を含んでいると思います。
布教活動そのものが争いを惹起するという危険性です。
何より他者を尊重するのが仏教の教えではありませんか。
キリスト教もイスラム教も尊重するに値するものです。
問題はそれらを信じる『人』です。
僕はその『人』を信じたいと思います。
そして、あらゆる宗教の可能性も信じたいのです。
多神教の国民として、キリストやムハンマドを菩薩や如来や天の一人として尊重してもおかしくはないと思います。

来るもの拒まず、去るもの追わず
僕は、この精神で良いんだと思います。
>聖者ぼんちリンポチェ さん
>78910さん

六種供養の話有難うございます。確かに毎朝ご飯と線香を上げ、ギャーテイギャーテハラギャーテイ・・・・とやっていましたが、何も疑問に思うことなく習慣で行っていました。それを見て子ども達は仏様というよりはギャーテイ様とか言っている。

78910さんの仰る心を見つめるも分りますが、私が直面している問題は、高齢者を集めたNPO活動の中で、最近家族葬の話が多いのです。それで自分の葬式の形を考えてみよう等と問題を投げかけたらだんだん宗教ってなんだろうと思うようになってきたことと独居老人の心のよりどころを考えようと言うのが正直なところです。
ガラにも無く迷ってしまった。

この近くでは霊場と言われる高尾山とか御岳山に登ってみようとか、秩父八十八札所めぐりしようとかいうのが手近な所で良いかなと思っている次第です。
中尾@西国Walkers さん

あなたのような方だけだったら世の中は平和になるでしょうね。しかし、現実はどうでしょうか?宗教が原因で紛争が沢山起きています。政治が絡んでいる事もあるでしょうが。

例えば、アイルランドと北アイルランドは、カトリックとプロテスタントの紛争です。98年に解決したとは云うものの本当の解決にはまだ時間が掛かりそうです。これは領土問題も絡んでいるからでしょうが。
4年前に観光でアイルランドへ行き実際に見てきました。

東欧はどうでしょう。
誰もが平和を望んでいる。しかし争いは耐えない。
世界中が中尾さんのようになれば良いのだろうと思います。
>>ファロンさん
お返事ありがとうございます。
やはり各地で紛争は未だに続いていますね…。
残念でなりません。
>>聖者ぼんちリンポチェさん
お返事とご指摘をありがとうございます。
勉強させていただいております。

>多神教の国民として、キリストやムハンマドを菩薩や如来や天の一人として尊重してもおかしくはないと思います。

この発言は、かなり個人的な仏教信徒視点での発言でした。
確かに一神教信徒の方からすれば、「何を言っているんだ!」と憤慨される発言ですね。
ただ、「お互いをもっと尊重し合えば良いのに」という意味で発言しました。
神道なら、仏教なら、日本人なら、それができるだろう、と。
他宗教ができないなら、日本人がそれをする。
「愛は手近な所から始まる」と仰ったのはマザーテレサです。
やがてそれが、聖者ぼんちリンポチェさんの仰る「密教の紹介」に繋がっていくのではないか、と思うのです。
いきなり外国からではなく、手近な所から紹介していく。
物凄い年月がかかる事でしょうけれど、実際にその教えを取り入れている西洋人の方々が少しずつ増えていっているという事実。
僕自身がその教えに現在進行形で魅せられているという事実も含め。
やはり仏教には、それだけの求心力、魅力があります。
だからと言って、押し付けてはいけませんよね。
自分から現れた仏性が、周囲の人の仏性を引き出す事になるんじゃないかって思いつつ行動してはいますが、うまくいかない事の方が多いです。
それでも、やはり希望を持って生きたいなあ、世の中希望に溢れてたらなぁと思います。

ふと気になったのですが、

>「あろうがなかろうが、関係ない、知ったことではない」

これは色即是空で言うところの「空」の考え方でしょうか?
ぼんちはん、なかなかいいまとめしてますな。
ファロンさん、その他の皆様。
仏教以外の宗教なども踏まえて少し綴らせていただきます。

でも一応、現在の宗教学の定義では学者により名称が多少違ったりするものの仏教はキリスト教やイスラームと同じく開祖の存在する「創唱宗教」に定義される。
ちなみに最古の創唱宗教は「ゾロアスター教」。
これに対して特定の開祖を持たず、特定の民族グループに帰属する宗教を「民族宗教」という。
「ユダヤ教」や「ヒンズー教」も「神道」もこれにあたる。
さらに、原始的な精霊信仰などは「アミニズム」に入る。
ただし、アミニズムと民族宗教、民族宗教と創唱宗教はそれぞれ完全に分離できるものではない。

日本では古来からの神道に仏教(明治時代の宗教学導入以前は仏道が一般的名称)は、新たな外来の神として加わる形で導入された。
この時期は本来は天津神系の八幡神でさえ、八幡大菩薩なんて呼ばれた時代。
それが平安時代になると本地垂迹論が整えられインドの神や仏教の如来や菩薩が仮に日本の神として姿を表したとして信仰する神仏習合が整えられる。
ただし、江戸時代末期には国学者達によってナショナリズムの勃興と日本の神道の復興の機運がたかまり仏教批判なんかが、盛んになる。
そして明治以降、幕府の解体と新たな国家的イデオロギーの構築の為に神仏分離と、それまでの神道を歪めた国家神道が生み出され、帝国主義の時代に突入し、大戦後はその反省から政教分離が日本の教育の中では徹底される。

海外に目を向けるとアミニズムと一神教系に関しては北アフリカではイスラームとアフリカの精霊信仰が結びついた独特のシャーマニズムがあるし、イスラームの中でも自分の中に音楽などを通じた神秘体験を積むことにより神(アッラー)を見出そうとするスーフィズム教団が各国の中で生まれる。まあこのスーフィズムは大抵の国のマジョリティの正当派イスラームから弾圧されるんわけだけど。
キリスト教に関しては南米では土着の神々と聖人を同体として信仰する独自のカソリックがある。
欧米では、フランスではフランス革命の時に近代思想の形成に伴ってそれまでのキリスト教的な価値観が教育や政治の場から分離された。いわゆる近代社会に置ける政教分離ですね。
また現代哲学もニーチェの否定神学などから派生して生まれたりしているし、キリスト教の信心の篤さもフランスとバチカンを擁するイタリアでは全く温度差が異なる。
アメリカでは逆に熱狂的なキリスト教プロテスタント系保守派がマジョリティとして存在しているし、「原理主義〜Fundamentalism」という単語自体、このアメリカの熱狂的なプロテスタント系保守派を指して生まれた言葉。
まあ、結構はマジョリティなのでアメリカ大統領はこの層に気を使わなきゃならない。

『仏教と西洋の出会い』フレデリック・ルノアール著で詳しく書かれているんだけど、この近代思想の形成期にイギリスの東インド会社設立とインド統治などと相まって、インドの文化がヨーッロッパに紹介され、ヒンズー教や仏教の書物の研究が始まる。
一番最初、果たしてこの「仏教」は宗教なのか?哲学なのか?なんて議論も盛んにされた。
そんな中で結局、仏教の中にも原始仏教もあれば、大乗仏教もある。そのうちチベットなどから密教の情報も伝わって来る。
「カソリック」的な仏教もあれば、「プロテスタント」的な仏教もあるということが知られる様になるんだけど、結局、当時のヨーロッパ人にはブッダの説いた人生を苦諦として一度、見つめた上で八正道の実践により、その苦から逃れるということ、ひいては「悟り」の概念がよく解らなかった。
つい、この間まであらゆる人生の苦難は唯一神のヤハヴェの神の与えた試練で人間は生まれた時から罪人というキリスト教の価値観から解放されたばかりのヒト達には、まだそんなに人生を冷静に見つめる視点は無かったし、一度、人生を苦と捉えた上で、それをどう滅して行くかの実践(修行)を実行しようとした学者はいなかった。

実際にヨーロッパやアメリカで出家した欧米人は中国人民軍のチベット侵攻により離散したチベット僧がヨーロッパやアメリカに至りチベット仏教センターを開設した60〜70年代以降になる。
同じぐらいの時期に欧米に禅が紹介されるんだけど、この時渡った方々ってのがまた、禅宗の中でも各宗派ではみ出しものの方々で、ちゃんとした法脈や信仰としての、様は信仰集団としての仏教として伝えず、瞑想法としての禅を強調したから、信仰としての日本仏教は根付かなかった。『日本的霊性』の著者として知られる鈴木大拙ですら禅の先には悟りがあるといって、禅を広めたんだからどーしよーもない。
悟りを得られるか得られないかなど、考えてるうちは永遠に悟れるわけがない。

そんな時代背景やらをふまえつつ、〆としてブッダの最初期の説法を伝える経典の中には、ある修行者がブッダに教えを聞いたが、その修行者はその教えに帰依しようとはせず、ブッダの元を去った。
そしてブッダもまたそれを引き止めようとはしなかった。
来るものは拒まず、去る者は追わずが仏教の布教のあるべきようだと思っています。
この辺はこの教えが唯一の真実でありそれを広めるように聖典に書かれているセム一神教系と仏教のスタンスの違いです。

NPOの活動をしながらお年寄りと話したいことの究極は仏教でいう「四苦」、限りある人間という命に「生」を受け、「老」い、「病」と向かい合い、やがて訪れる「死」とどう対処するかと問題ではないでしょうか。
これに対してユダヤ教、キリスト教、イスラームなどのセム一神教では基本的に生きているうちの苦難は神のお召しぼしであり、受け入れなくてはならず、行ないが良く洗礼などを受けていてその宗教に帰依していれば、死後に天国に生まれ変わり永遠の新たな生を受け、さらには審判の日のあと復活するなんて説かれています。

しかし、仏教ではこの生きているうちの苦しみとどう向かい合うかが説かれています。
その生きているうちの苦しみを見つめる方法が「四諦」であり、それを乗り切る実践方法が「八正道」です。
四諦八正道こそがブッダが説いた教えであり、あらゆる仏教の根幹です。
この辺は以前勧めた「図解 雑学仏教」ナツメ社が詳しいです。
仏教用語、一つをテキストを決めてお年寄りとディスカッションするのもいいかもしれませんね。
飛び入り参加です。

自分は心理学と哲学、宗教の接点を見出そうとしている者です。祖父、父は坊主でした(父は若くして寺を飛びに出し文学に向かいました)

で、私は学生時代は詩作とニーチチェに傾倒しました。で、社会に出る時に、メシ食って、クソして(失礼)
寝る。これを自分なりにし終えて後、もう一度戻ろうと考えました。

で、仕事(マーケティング)も一段した現在、今、戻ったところです。戻った場所はフロイドのエスのところです。自分の詩では「太陽が裏返った日」でもあります。

マーケティングの仕事は理論を様々なお客様にいかに分かり易く説得するかが大切なポイントになります。本質を十分に理解していない(自分のマーケティングを確立していない)者ほど理論や他人の受け売りを話します。

今は旧約聖書の思想、空の思想史を繰り返し読んでいます。

それで、宗教はその時代背景と風土と文化が大きな影響を与えているように思います。

で、この度の命題ですが、「わかりやすく」が実は大変難しいことのように思います。その要因をあげましたら論文になってしまいます。キーワドはやはり「信仰」だと思います。

ユダヤ教でもイスラムでもキリストでもあるいは仏教でも、究めるには、どなたがか言われた「自分を深く見つめることから」が始まりのように思います。(その場合にのキワードは徹底した自己否定、自己犠牲)

宗教とは、この究めた者が、野球でいうならホームランが絶対に出ないような高い外野フエンスに自らがなることのように思います。

皆さんのご意見大変参考になりました。ありがとうございます。

全くの勉強不足での飛び入りお許し下さい。(皆さんのお話を伺って、コメントをしたくなりました。)

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