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哲学ノートコミュのベンヤミン「暴力批判論」

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要約


暴力が善や悪であるという基準は、ひとえに法律(正義)の問題に過ぎない。暴力を根源的に、直接的に批判するならば、その基準の外に出なければならない。なぜなら

「たとえ、正しい目的のための手段にもせよ、一般に暴力が原理として倫理的であるかどうか、という問題は依然として残る」からである。

法律は、つねにこの原理的な批判から断絶していた。(ゆえに、暴力批判をするなら法律の問題、正義とは何かを考え直さなければならない)


法律(正義の問題)には、二つの種類がある。(自然法と実定法)




『自然法』
「自然法は正しい目的のために暴力的手段を用いることを、自明のこととみなす」(スピノザの系譜である)

自然法の国家理論(ホッブズのそれ)は、諸個人が自己の暴力のすべてを国家のために放棄する。こういう法哲学のドグマは、暴力を正当化するドグマのことである



『実定法』
実定法の正義とはなにか。
「正しい目的は適法の手段によって達成されうるし、適法の手段は正しい目的へ向けて適用されうる、というドグマである。」

自然法は目的の正しさ、実定法は適法性によって目的の正しさを「保証」しようとする。

けれども、「実定法が暴力の適法性をはかるのに用いる尺度は、その尺度の意味(適法的な意味)でしか分析され得ないのであって、したがってその尺度が適用される圏こそが、その価値を批判されなければならない。このような批判をおこなうには、実定法哲学のそとに立場を見つける必要があるが、その立場は同時に、自然法のそとでもなければならぬ」

適法な暴力と不法な暴力を区別する道など無い。そのような自然法的な誤解は退けなければならぬ。むしろ実定法は、あらゆる暴力から、その暴力の適法性の証明を要求する。実定法において、善悪を区別する理由は、目的の普遍的、歴史的な承認があるかないかに基礎づけられる。
(4の補足
>実定法において、善悪を区別する理由は、目的の普遍的、歴史的な承認があるかないかに基礎づけられる。
「勝てば官軍」のように、暴力の目的の普遍性は「承認」によってなされる。平和とは講和によって、敗者と勝者を区分する承認の儀式を通じてもたらされる。)


ここに法秩序というものが生まれる。ヨーロッパの法秩序においては、暴力によって、個人が目的追求(自然目的)することを絶対に許容しない。法は個人の手にある暴力を、法秩序をくつがえしかねない危険とみなしている。法の目的と法の執行は、個人と対立して暴力を独占しようとする目的を含む。


けれども、法秩序は、労働者階級にある種の暴力であるストライキ権を認めている。これはどういうことか?組織された労働者は、国家を除く唯一の暴力の行使権を有する唯一の権利主体である。(ストライキは行為の中止だが、それは純粋に暴力、恐喝のモーメントになりうる)


ストライキは、労働者のなんらかの目的による暴力を用いる権利である。
「革命的ゼネスト」労働者はこれをストライキ権の行使だという。国家はこれをストライキ権の乱用であるという。このようなストライキは違法であるとして、弾圧する。これは、ストライキ権を認め、これを国家が弾圧するという、まさに法秩序の矛盾である。


国家が法秩序の矛盾を露呈させてまで、敵意を剥き出しに、革命的ストライキをおそれているのは、暴力そのものが持つある機能なのである。暴力には明確な目的がある。それは、法関係を確定したり修正したりすることができる、ということだ。


戦争権の行使も、法秩序の矛盾にほかならない。戦争の暴力は、国家の目的として目標に向かう。そして、戦いに勝利するときに、その勝利とは、すべての法関係とは別個に必要とする承認(講和)を意味している。戦争によって、国家間の新たな関係性が生まれるとき、新たな「法」が生まれる。『自然目的のためのあらゆる暴力の根源的・原型的な暴力としての戦争の暴力に即して、結論を出して良いとすれば、この種の暴力のすべてには法を措定する性格が付随している』→「法措定暴力」

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国家が暴力を恐れるとき、どこまでもそれは「法措定暴力」である。革命的ゼネストが認められた権利であるにもかかわらず、国家から弾圧されるのは、それが法措定暴力であるからだ。

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