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白拍子的生活コミュの<白拍子の起源> 三つの文献

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◆『徒然草』225段
 多久資が申しけるは、通憲入道、舞に手の中に、興味ある手どもを選びて、磯禅師といういひける女に教へて舞はせり。白き水干に鞘巻をささせ、烏帽子を引き入れたりければ、男舞とぞいひける。禅師が娘、静といひける、この芸を継ぎけり。これ、白拍子の根元なり。仏神の本縁を歌ふ。其後、源光行、多く本を作れり。後鳥羽院の御作もあり、亀菊に教えさせ給ひけるとぞ。
[訳]多久資(おおのひさすけ)がおっしゃるところによると、藤原通憲(ふじわらのみちのり 1106〜1159)(1)が舞の手の中に、おもしろそうなものだけを選んで、磯禅師(いそのぜんじ)という女に教えて舞わせたのが始まりとか(2)。白い水干(すいかん=公卿の私服、元服前の少年の晴れ着)に、鞘巻(さやまき=人を斬る長い太刀(たち)に添えて挿した鍔(つば)のない短刀。)をささせ、烏帽子(えぼし=貴族が私邸内でかぶった帽子。黒色の紗絹(さけん=薄い絹)で作る)をかぶった姿から、「男舞」と言われる。磯禅師の娘を、静(しずか)という。静は、この芸を引き継いだ。これをもって、白拍子の起源とする。仏や神のちなんだ歌を歌う(3)。その後、源光行(みなもとのみつゆき、1163〜1244)(4)が井多く白拍子の歌を作った。後鳥羽院(1180〜1239)(5)の作もある。それを亀菊(かめぎく)(6)という白拍子に教えてさせたと言われている。
[注釈]
(1)藤原通憲…出家して信西(しんぜい)と名乗った。後白河院と結んで一時権勢を極めたが、平治の乱(1159)で追いつめられ、結局自殺してしまう。
(2)藤原通憲は、当時の音楽界の中で、博学あり、奏者としても達人であったと言われている。彼が、朝廷から内教坊(女性の雅楽部門)が廃絶されて、女性の宮廷音楽家が消えてゆくころ、その技術を持った女性音楽家であり、舞踊家である彼女たちを、保護していた、という状況が、「女性の音楽・舞踊家に朝廷の楽部の舞っている舞楽を教えた」という言い方になったのではないか?
(3)朝廷の儀礼音楽のなごりではないか?神、仏に五穀豊穣、天下、万民安穏の祈願するのは、当時は政務であったため。
(4)源光行…鎌倉初期の学者。歌人で多くの和歌を詠んでいる。源氏物語の研究者としても有名で、源氏物語の河内本を校勘(訂正、検討)する。承久の変に連座(処罰を受ける)。白拍子の歌の歌詞の作詞者として知られている。
(5)後鳥羽院…新古今和歌集の編纂を命じた。白拍子の歌も作る。
(6)亀菊…後鳥羽院が寵愛した京都の白拍子。後鳥羽院が亀菊に所領を与えようとして、幕府の地頭(荘園管理の荘官)を停止、すなわち排除しようとしたことが、幕府との対立を起こし、承久の変の一因につながったと言われている。

◆ 「平家物語」巻一『祇王』
白拍子のはじまりける事は、むかし鳥羽院の御宇に、島の千歳・若の前とて、これら二人が舞ひだしたりけるなり。
[訳]白拍子の始まりは、そのむかし、鳥羽院(1107〜1123)の思いもあって、島の千歳、若の前という二人に、舞をさせことが始まりである。

◆『塵添土蓋嚢鈔(じんてんあいのうしょう)』(1)巻二
 白拍子ハ鳥羽院ノ御時ヨリ出来ス。
 [訳]白拍子は、鳥羽院の作から始まったものである。

 [注釈]
 (1)室町時代に成立した辞典

コメント(4)

興味深い資料ありがとうございます。それぞれ微妙に違いますが、平安の世に、宮中に深い関係を持って始まったというのは間違いないんですね。 って そんなこともろくに知らなかったのですが・・・(汗)。 しかし なぜ「女性による男舞」だったのでしょう・・・そこにとても興味があります。 女系から男系への転換とも関係あるのかなぁ・・・
結さま
 おそらく、「舞楽」を藤原信西は、教えたのだと思います。彼は、白拍子のパトロンだったんですかね?これは、推測にしかすぎません。彼が今(当時の今)の女性のいなくなった、宮中の男性の舞の手を教えて、女らしさを消すことによって、品格を上げようという美学があったのかもしれません。
というのは、8世紀をとおして、尼僧の声明を非難する記事(『続日本紀』元正天皇養老4(720)年12月)(延暦2(783)年太政官符 僧尼悔過用音事)が残されていて、女性特有の高い声を「みだらな声」と定義づけし始めたようなところがあります。
ですから、おそらくですね、白拍子は、その反対、つまり、低い声をしっかり出していたのではないか?と私は、想像してみるのです。
パトロンというか 当時は芸能とそれを支える社会構造やモノや心のやりとりも今とはまったく違ったでしょうし、朝廷と(その後の日本の文化の礎ともなった)芸能の民との関係はとても深かったようですね。ですから 教えた のかもしれないし、もしかしたらもともと「ひとつ」であり その中から白拍子が「派生」したとも考えられると思います。

これも同じく(笑)勝手な想像なんですが、かつての日本列島の民のほとんどは女系社会であったのが、いつの時代からか男系に切り替わっていったんですが、その際におそらく上記の資料にあるような露骨な女性差別が始まったんじゃないかと思います。天皇の歴史が「男系」になったのもきっとその頃かなぁと。 やはり その背景と白拍子が生まれたのとは無縁ではないんでしょうね。

もちろん 現代のコスプレにさえも通じる 男装 女装などによるある種の恍惚感というか 非日常的な体験(観客も含む)がベースにあるのも間違いないとは思いますけれど。


とても面白いですね そして、深めていけたらいいですね。
結さま
 すごい書き込んで下さったの知らなくてすみませんでした。
 そうですね、いつの間にか、日本は、平安時代ごろから、中国(唐)に見習って男社会になったのですが、それ以前でも新羅から百済に朝鮮半島からの帰化人が変わっていった時点で、男社会になったという説があります。つまり、女帝時代は新羅、万世一系型は百済と。そこらへん、また探ってゆきたいですね。
 それと、「武士」の社会は、「戦場に行く」という仕事上の都合で、男色が武士のたしなみとなっていったのですが、稚児を戦場に連れていく前の形が「男装の似合う男のような女」だったようで、白拍子は武士にとって「女なのに男みたいでカッコいい」と人気があったそうです。
 白拍子もそうですが、平家物語には、「巴御前」のような女武士も登場します。たしか、平安時代の相撲の力士に「大石」という女性力士もいて、そりゃ強かったそうです。
鎌倉になるとそんな元気のいい女性もいなくなって、か弱い女性像が少しずつ確立していったのでしょうね。
 ですから、「クルス(十字架)」をつけて、念仏踊りをする「出雲の阿国」は、その存在事体が、カウンター(反抗的)カルチャー、そして弾圧という過程を経たのでしょう。日本のキリシタン文化は、今の留まるところを知らない、ポップ、ロックなどのアメリカ文化に似て、戦前の押し付けられた日本文化を消し去りたい日本人(の子孫)に圧倒的な人気があるというところでしょうか?あ〜、いっぱい書いてしまった。

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