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マグダラのマリアコミュの聖なる娼婦とマグダラのマリア

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いわゆるチャネリング本や神聖娼婦(聖娼)に詳しい本に書かれていたマグダラのマリアの像を、日記にまとめてみました。

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=74207863&owner_id=2445503

わたしがもとにしたチャネリング本は「プレアデス・銀河の夜明け(バーバラ・ハンドクロウ・太陽出版)」という本で、宇宙人などが出てくるので、電波系は嫌っ! という方はすっ飛ばして下さい(汗)。

他に資料にした「神話・伝承辞典(バーバラ・ウォーカー著)」や「聖娼〜〜永遠なる女性の姿〜〜(ナンシー・クォールズ・コルベット著)」は、ダヴィンチ・コードに書かれているマグダラのマリア像が好きな方には、一読していただきたいような本です。
「神話・伝承辞典」をもとにして失われた地母神信仰を彫り上げているサイト様もあります。

http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/antiGM/old_europe.html 反ギリシア神話(barbaroi! 内)

わたしは、マグダラのマリアが神聖娼婦(聖娼)だったと思っています。
聖娼は現在の娼婦とは違い、高雅で優れた教養を持ち、精神性と神秘性をもった存在でした。
地母神の代理として、信者の男性に自身の肉体でもって女神の恩愛を与えていたのでは……と思っています。
昔は今とは常識が違ったと思うので、性は卑しいものではなく、むしろ聖なるものだったと考えています。

マグダラのマリアは、スピリチュアル(シリウス・プレアデス系)・チャネリング系の本やグッズによく現われています。
オーラソーマではクィントエッセンスに「聖杯と太陽のロゴス」というボトルがあります。
いつ出るかは知りませんが、そのものズバリマグダラのマリアがチャネルされ答えている本「マグダラのマリアの書(トム・ケニオン ナチュラルスピリット発行予定)」というのもあるらしいです。

ナチュラルスピリット社の、著者トム・ケニオンの記事です。

http://www.naturalspirit.co.jp/tomkenyon-stp8.html

マグダラのマリアに関することも書かれています。

コメント(26)

>ひぐひぐさん
どうも、はじめまして(^_^)。

マグダラのマリアが娼婦……というのは、彼女の存在が福音書等で煙にまかれてしまっているのと、教皇大グレゴリウス(在位590〜604年)の解釈によるものです。

まず、マグダラのマリアと関係している三人の女性を箇条書きします。

(1)七つの悪霊をイエスに追い払ってもらったマグダラと呼ばれるマリア(ルカによる福音書)

(2)イエスの足元にナルドの香油を塗って、自分の髪で拭いた、ラザロとマルタの姉妹であるベタニアのマリア(ヨハネによる福音書)

(3)イエスの足元に跪き、涙で濡れた彼の足元を自らの髪で拭い口づけした、罪深い女(ルカによる福音書)

この三人を、大グレゴリウスさんが「同一人物です」と言い切っちゃったわけです。

その根拠は、「七つの悪霊を除いてもらったマグダラのマリア」の七つの悪霊が、「七つの大罪……邪淫・貪食・貪欲・怠惰・憤怒・羨望・高慢」にあたるというのと、「罪深い女」の「罪」は、イエスの時代の常識からすれば「娼婦(姦淫の女)になる」というのが一等罪深かったからです。

「ベタニアのマリア」と「罪深い女」はともにイエスの足を髪で拭っています。

重なる類似点から、大グレゴリウスは「同一人物」とみたのでしょう。
八世紀のケルト十字架に、挨拶を交わすベタニアのマリアとマルタの姉妹、イエスの足を拭う罪深い女の図柄が彫刻されています。

決定打はないですが、「火のないところに煙はたたない」ということわざもありますし、マグダラのマリアが娼婦であった可能性はあると思います。

で、マグダラのマリアが聖娼かどうか? は、「マリア」という名から、想像することができます。
聖娼を擁するバビロニアの愛の女神・イシュタルの別名は「マリ」で、海の女神です。
アフロディーテの別名も「マリ」で、この二女神は祀られる地方が違うための異名同神です。
イシュタル・アフロディーテは双方とも金星の女神ですが、金星を「ステラ・マリス」といいます。
「ステラ・マリス」……その名は、聖母マリアに受け継がれています。

「マリア」・「ミリアム」・「マリアンヌ」等は、太女神&海の女神を連想する名前です。

そして、「香油を塗布する(キリスト・クリストス)」という行為自体が、「太女神の代理が、太女神の夫として聖王を聖別」する行いであり、中東では太女神の夫であるタンムズやドゥムジ、アッティスやオシリスに「クリストス」の称号が冠せられています。
彼らの神話は、聖なる犠牲と復活が主題なので、イエスの受難の真意も推測できそうです。

まぁ、国を問わず、歴史を引っ掻き回した場合、煙にまいちゃえ〜〜! というのが権力者のやり口なので、マグダラのマリアに関することが漠として解らないのは当然、という感じです(^o^;)。
彼女に関しては、解けない謎ですよ。

質問!

なんとなく自分勝手な解釈に聞こえます。

イエスは娼婦に罪がないと言ったのではなく、罪なきものは娼婦に石を投げよ、と言っています(かなり有名な聖書の言葉)。

どう思いますか?

>HEROさん

逆にお尋ねしますが、何故自分勝手な解釈と思われるのでしょうか?

「聖書の有名な文章」を噛んで含んで解釈すれば、イエスは娼婦は罪だ、同列の罪を犯したことのない者だけ石を投げろ、と言ったというのですね?
それが、メシア……真の聖人の言うことなのでしょうか。「聖書」を編纂した人間が「イエスに言わせた言葉」のようにしか見えませんが……。

何故、娼婦は罪なのでしょうか?

旧約聖書で、太女神の神聖娼婦とエリヤを戦わせていますが、神聖娼婦を悪とした聖書しか記録が残っておらず、一方の記録は残っていない(本当はそういうこともありませんが……ナンシー・コルベットの「聖娼」にも神聖娼婦および太女神を賛美する詩が載ってますし)ので、一方だけを信じてよいものでしょうか?

神聖娼婦が扱った性愛術がどういうものだったのか、それが「タントラ(性交によりクンダリニー上昇させて、チャクラを開かせ神秘体験をさせるもの)」だったら、一神教を脅かすものになったはずです。
タントラ的技術を操れば、性交により神を見せることも可能なのです。
それを行ったのが神聖娼婦なら……一神教の神に弾圧されて、当然でしょう(詳しくは、トム・ケニオン著「マグダラの書」を御覧ください)

グノーシス派の福音書や錬金術の思想に、太古の女神信仰や神聖娼婦の思想を垣間見ることができます。


これは、わたし個人の意見ではなく、バーバラ・ウォーカーが「神話・伝承事典」で語っていますし、上記にあげた本などでも語られています。

「娼婦」はアニマ(女性性の原型)の一側面なのです。

詳細なお返事ありがとうございます。

なるほど、まず聖書に書いてあるからといってイエスの言葉とは限らないとのことですか。論理的にはそうなりますか…

私の考えは中立です。聖職者が結婚しないとい考え方は不自然。しかし、だからといって多数の異性と肉体関係があっていいわけではない。

娼婦が罪だと私はむしろ思っていません。私の友人で敬虔なカトリック信者で娼婦は沢山います。理由は貧困です。

しかし、だからといって娼婦を認めるわけにはいかない。むしろこれらの犠牲者を救ってあげなくてはならない。イエスもそう考えたと思います。


私の解釈では、イエスと出会った娼婦はもとの仕事をやめ、イエスについて行ったと考えます。

…カトリック圏でなぜ婚外交渉が罪かを調べたことがあります。理由は「みんなが罪だとみなしているから」です。これは驚くべき過ちで、娼婦に対する偏見・差別を助長します。

私は一人一人の娼婦を人格を持った一人の人間として直視します。「あなたは私を尊敬してくれた初めての人」だという言葉を多数の女性から言われました。

しかし、言い換えればあまりにも多くの人が背景もよく考えずにこれらの職業の人を蔑視してきたかがわかります。

長谷川さんの考え方には納得できる部分も多く、偏見を取り除く上での役割は大きいです。

本当に神の愛に基づいて生きるなら、まず娼婦が奴隷のように扱われ、生命と魂が蹂躙されている事実を直視して下さい。

高級娼婦という言葉も気になりますね。私はどんな娼婦でも尊敬しています。

しかし買春をする人間は許せない!


ちなみに、ひぐひぐさんへのレスは、「マグダラのマリア――エロスとアガぺーの聖女(岡田温司著・中公新書)」をもとに書きました。

だから、すべてわたしの思い込み、というより上記に挙げた本達からインスパイアされたものです。
娼婦が奴隷のように扱われ始めたのは、父権社会による女性蔑視からです。
娼婦でなくとも、普通の女性でも処女性をことさら重視され、結婚しては婚家に閉じ込められ、婚家のため、夫のため、子のため仕えよと圧迫を加えられました。

娼婦=巫女は、なにもシュメール(カナン)だけに限らず、どの世界でも見られることでした。
聖娼との性愛は女神の恩寵で、それで授かった子は神の子でした。
日本でも、うかれめや白拍子の原型を辿れば巫女に辿り着きます。

だから、娼婦は初めから蔑まれたものではなく、そういう存在にしてしまったのは、男権社会の仕組みではないでしょうか。
娼婦が聖なるものと扱われていたのは、女系社会の時代だったのですから。この頃は、女性が多数の男性と付き合っても咎められず、男女ともに自由に愛を謳歌できたわけです。
男性が女性を圧迫してから、娼婦含め女性達は悲しみを背負わなくてはならなくなったのです。

売(買)春反対! と叫ぶ前に、何でそんな歪みが生まれてしまったのか、そこから考える必要があります。
原初の売春と現在の売春は、異質なものです。
性が聖性を取り戻したら、また違ったものになるでしょうが……。
HEROさんのプロフィールを読んだところ、チャネリング本を読むことに抵抗はないかな? と思ったので、バーバラ・ハンドクロウの「プレアデス・銀河の夜明け(太陽出版)」とバーバラ・マーシニアックの「プレアデス+地球を開く鍵(コスモ・テン)」、そして「マグダラの書」を強くお薦めします。
本来あるべき性のかたちや、チャネリングによる現社会の歪みの原因が書かれています。

……わたしも、現在の売春はよくないと思っています。
あれは、女性性を傷つけ、人間としての尊厳を堕しめる最低な行いですから。
が、大がかりな意識改革をしないとなくならないのが、現状ではないかな、と思います。貧困はなくならないし、売春を求める男性もいます。
……悔しいことですが。
えーと、誤解を招きそうな表現してしまったので、付け足しです(現在携帯からなので、コピペ&削除修正ができないので。汗)。

「売春する女性」を否定しているわけではありません。「売春を許す(望む)社会」が嫌いなだけです。
……深く考えるとうつになります、他人事なのに(被差別部落問題の「結婚差別」の記事を読んだだけで、うつ状態になった人です。泣)。

長谷川さん、本当にありがとうございます。あなたはとても素晴らしい方です。

私もムスリムやクリスチャンが女性蔑視・処女性重視していることが現在の悲劇の原因だと思います。

貞操観念なんで傲慢な男性社会のエゴだと思います。

でも一方で心無い人が女性をお金で買ったり、ひどい仕打ちをしたり。

お金で買わなければいいと思います。マリアを娼婦といって侮辱する人もいると書いた方がこのコミュニティにいらして、その差別的な発想がどうしても許せなくて質問しました。

マリアが処女でも娼婦でもいいと私は思います。


すみません、私たちのコメントを読んで不快感を感じるクリスチャンの方が多いことは承知しています。

でもアフリカに単身で行くブラザーのように、私も本当に切羽詰まっているのです。

娼婦の悲劇の最大の原因は、差別視です。自分さえよければいい、関係ないという無関心が悲劇を生んでいます。

親父・牧師が言ったことは常に真実ではありません。マザーテレサを破門したのもローマカトリック教会です。

趣味や興味でマリアのことを論じるのではなく、真剣に霊的な意味でもう一度考えてみませんか?


根から娼婦だという女性はいないと思います。今売春やアダルトビデオで本番をやっている女性も皆どこかで、マインドコントロールされているのだと思います。
そのマインドコントロールが解けたときに、彼女たちは女性のエネルギーを傷つけられ、やがて凄い苦しみを味わう事になると思います。精神をやられて、病気になってしまうかもしれません。
その壮絶な苦しみから立ち上がった時にいろいろな目覚めがあると思います。
娼婦を汚いという人の心が汚いのだと思います。
彼女たちはある意味、犠牲や現代社会の生け贄になっているのだと思っています。
売春をさせたり求めたりする男性性の方が汚いものと感じます。
特に薬を使って、女性を無理にそういう性の道具にする男性が許せません。
気づかない内に売春やビニ本に出されていた女性も多くいると思います。
私は海外でそういう本を見たことがありますが、(80年代の本だと思います)なぜだか女性は目をつぶっているだけで、男性だけが行為に及んでいる感じがして不思議でした。
きっと薬を使って取られたのだと思います。
売春する女性よりこういう、マインドコントロールを仕掛ける男性エネルギーを何とかしたいと思います。
マグダラのマリアも娼婦というか、近親者やまわりの男達に無理に犯されていたのだと思います。
それで娼婦と言われていたと思います。
聖書の事くわしくは知らないけど、この内容を見て汝の敵をも愛せ。という言葉と右の頬をぶたれたら左の頬も出せ。という言葉を思い出した。マリアが実際どんな人物だったかなんて現代の誰も解らない。聖母マリアにしろ、マグダラのマリアにしろ、どっかの国の地教と混ざったマリア伝説にしろ、昔から多くの人々の間で受け継がれてきたマリア像は人々が求める聖女への理想であって願いだと思う、だから本当にマグダラのマリアが娼婦だったのか無いのかは重要ではなく、娼婦としてのマリア像は真実だと思う。古くから多くの人に受け継がれてきたマリア像と娼婦の関連性、なぜそういった観念が生まれたか色んな解釈があると思うしどれも正しいと思う、なぜなら私たちもこれからその観念を受け継いでゆく人々の中の一人であるからだ。娼婦というと差別的な固定観念を持つ人もいると思うが、私は大きい意味で尊敬できる職だと思う。娼婦というのはどんな男でも受け入れなくてはならない、とくに昔は、日本のおいらんなどもそうだけど、幼少のころから親に売られたりして娼婦になる道しかなかったり、生きるか死ぬかの貧困のなかで逃れられない苦境のなかで、自分の意思や希望など押し殺しただただその運命を受け入れなくてはならなかったと思う。私が想像する娼婦のマリアという女性は(あえてこうゆうあらわしかたをしたい)そんな人生の中で何度も恨みに狂い神を信じられないで黒い感情に溺れながらも結局精神は汚れることができず、最後に神を信じ 人間の汚いところも哀しいところも全て受け入れ、泥の中に真実を観いだし、憎むべき人々にも救いの手を差し延べるような大きな愛をもった女性だったと思う。娼婦でも女王でも関係ない、どんな人間の事も下から底辺から見つめられる人がマリア様の精神を持った人だと思う。                            

厳しいメッセージですね。

この問題は長谷川さんと個人メールでもやりとりさせていただきました。

まず、母親に強制されて娼婦になる児童はたくさんいます。よかったら手を差し伸べてあげて下さい。

また海外で大人の娼婦、日本人はなぜ自分の映像が公開されて平気なのか? と質問していました。

つまり、娼婦にとっては体を売ることよりそれを知られることが脅威なのです。彼女たちは家族や地域社会からの偏見に苦しんでいます。

いいにくいことですが、この偏見はキリスト教やイスラム教に特に強い。ぜひクリスチャンのコメントをいただきたいです。

マグダラのマリアは彼女たちをこの苦しみから救うために自ら娼婦となったのでなかいか、というのが私の仮説です。

最初の話に戻りますが、母親が貧困のため子どもに娼婦となるよう命令する事例が多く、私は個人的にこの問題に取り組んでいます。

わたしが話していたのは、男女や人間が互いに敬愛しあえた太古の昔のことで、現在のことではありません。
シャーマンが娼を兼ねるのは、どの国でも見られることで、シャーマンとは境界を越える者、常にハレの状態(日常生活的時空間が「ケ」で、「ハレ」はその反対=神に接する時空間のことです)にある者、人や村落で共有されるものです。
シャーマンの精神は「利他のこころ」で、それは「奉仕」「慈愛(無償の愛)」を指します。
シャーマンの「肉体的奉仕」は、受ける者のメンタル面を癒し、性の聖性に触れさせて受ける者の性を強化し、シャーマンの肉体に相手を憩わせることです。
人間が、男女が敬愛しあえた昔は、「肉体的奉仕」も安全に行えて、それを受ける者は感謝と愛慕の念を抱きました。

が、現在は爛熟と退廃の時代で、人間は自分と違う者への敬愛を忘れ、即物的、利己的、自己愛的になりました。
自分が気持ち良くなるためには、平気で人を傷つけ、堕しめます。
現在の娼婦の状況は、悲惨かつ厳しいものです。
買春する者に、他者への敬愛などなく、加虐性しかないのですから。

だから、もしかすると「神聖娼婦(=巫女)」的精神を持つ人が現在でも居るかもしれませんが、「奉仕活動」を実行に移すことは、わたしは現況では、お薦めしないし、やはり止める側に入ります。
「大きなリスク」を承知でそれをされるなら、わたしは止める権利はないし、逆にその人を尊敬しますが……。
 すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕えられたひとりの女を連れて来て、真中に置いてから、イエスに言った。「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。イエスは身を起こして、その女に言われた。「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」彼女は言った。「{主よ。}だれもいません。」そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」](ヨハネによる福音書8章3〜11節)

>5 2007年03月13日 16:44 長谷川彰子さん
>HEROさん
>逆にお尋ねしますが、何故自分勝手な解釈と思われるのでしょうか?
>「聖書の有名な文章」を噛んで含んで解釈すれば、イエスは娼婦は罪だ、同列
>の罪を犯したことのない者だけ石を投げろ、と言ったというのですね?
>それが、メシア……真の聖人の言うことなのでしょうか。「聖書」を編纂した
>人間が「イエスに言わせた言葉」のようにしか見えませんが……。

イエスははっきりと「今からは決して罪を犯してはなりません。」と言っています。そしてまた「同列の罪を犯したことのない者だけ石を投げろ」と言ったのではなくイエスが言った言葉は「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」です。「同列の」という言葉はどこにも入っていませんよ。

人は罪を犯してしまいます。それをイエスは赦して下さいます。だからと言ってそれに甘んじて継続して罪にまみれ続けていいということではありません。罪を自覚したのなら、その罪と縁を切らなければなりません。
>聖書を読んだ事がないのに 皆さん解釈しているようですね。

それもそうだけど・・・、
前世紀まで蔓延っていた謬説に、いまだに振り回されているのではないか。

バチカンのバカチンどもも誤りを認めたのではなかったか。バカチンどもの(かっての)謬説に惑わされない為にも、聖書には目を通しておいたほうがいいんでしょうね。






>しかし買春をする人間は許せない!

まじにとりあげてはいかのかもしれないが・・・、
売春をする人間も許せないと続くのが論理的かな。
マグダラのマリアが何者かより、キリストがこの一節の中で伝えたかったのは罪人を罰しようとする者の心の中にも罪はないのか、という事ではないのでしょうか?
あれが正しい、これは違うとする時にも、自らの心をかえりみる必要があるのではないかとぼくは受け取りました。

罪を憎んで人を憎まず。がキリストが伝えた愛の精神なのではと想像します。

「罪なきものは娼婦に石を投げよ」

という言葉は、私の個人的な解釈ではありますが、
おそらく

罪を犯したことのない人間などいないということを、あらわしているんだと思います。


詳しいことはわかりませんが。

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