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キルケゴールコミュの死に至る病をみんなで読むトピ

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キルケゴールの「死に至る病」を一緒に読みませんか?
わからないところがあったらここに貼り付けて質問して
みんなで考えていくという方向でよろ

コメント(288)

>>[248]

しかも「死に至る病」のトピ。
ほまれさんはこの本持っていますか?
>>[250]

古本でよければ安いと聞いています。
>>[237]

若き日に夢中になった本というのは、大切な自己形成の導き手ですよね。
>>[251]

「死に至る病」とは原罪に関連した「罪」
それも聖霊に対する罪のことです。
>>[255]

原罪そのものの話なら「不安の概念」がお勧めです。
>>[258]

キルケゴールの「不安の概念」は立法以前の問題を取り扱っています。
無知とか無垢とか・・
そもそもアダムとイブの時代に立法なんてあった?
あるのは父なる神とお互いのパートナーとの関係だけ。

人が信仰に至る道程にある不安。
その理解なくして神学も哲学も深い理解は困難。
現代の神学者も哲学者もキルケゴールの影響を受けなかった人は居ないのでは?
>>[260]

だってアダムとイブは禁断の木の実を食べる前は「罪」すら知らなかった。
いや「罪」はこの世に存在しなかった。
>>[263]

キルケゴール本人が本に書いている内容です。
>>[265]

だからこそ一度は基礎学問としてキルケゴールを学ぶ必要があると考えます。
>>[267]

一般論ですが哲学や神学は数学の公式のように理解してはならない。
その著者が生きていた時代や立地条件を考慮しその息吹を理解することが大切です。

例えばハイデルベルク信仰問答を読んだとします。
当時はカトリックとルーテル派が互いに相いれなかった時代。
ではエキュメニカルな運動が始まった現代・・それをどのように理解すればよいのか?
その点を考慮しないと学問的良心を見失った時代遅れの頑固者になってしまう。

実例:アメリカ南部のファンダメンタリスト。
しのぶさんの一般論に付言させて頂きます。

数学の公式ですら、歴史的条件によって持っている意味が違います。

例えば三平方の定理で考えてみましょう。
時代を三つにわけて、三平方の定理が全く知られていなかった時代(Aの時代)、ピタゴラスが三平方の定理を発見した瞬間(Bの時代)、現代(Cの時代)とわかりやすく三つ考えましょう。

仮に数学が発達せずに三平方の定理が知られていないAの時代に、三角形がこういう性質を持っているなど知っていても、おそらくなんの役にも立たないでしょう。数学の発達なくして有用性もなく、計算にも役立たたないのです。
逆に数学が発達しつつあったBの時代だからこそ、ピタゴラスが三平方の定理を発見したことは意義があったのです。その定理のおかげで、わざわざ複雑な計算を考えるときにずいぶんショートカットできるようになったりしたし、現代でも数学を学ぶ上で必須だし、幾何学の発展に大きく寄与した事実は捨てられないのです。
そして、現代Cの時代においては、中学生が学ぶべき定理として、こんな発見は常識以外のなにものでもない。でも、有用性が捨て去られたわけでもないのです。

このA/B/Cの時代というのは、実はキルケゴールがよく使う考えです。実際はもう少しキルケゴールは複雑に素描しますし、信仰に関することなのでわかりにくいことも多いですが、そういう実際生きている時代的制約を考えずに読むのは、人文学の書ならば無理があります。

キルケゴールとは直接関係しませんが、フランスのミシェル・フーコーはこの性質、つまり超越論的アプリオリですら、歴史的な制約を受けることを指摘して、歴史的アプリオリと名付けました。

1人の哲学者の読み込みも大事ですが、わからなかったらわかってる人に聞いて、自分が違うと思ったところをぶつけてみる、それが一番学問においては大事です。ただし、聞くうえで、キルケゴールを読んだこともないのに、キルケゴールを読んだように装うのはやめましょう。
>>[269]

さすがですね。
私には・・ここまでわかりやすく説明することは困難です。
私自身・・このトピにyamaさんがいらっしゃいますのでわからないことは聞いています。
ただしほまれさんの場合には・・そのような知り合いは・・たぶんいない。
浅学非才の身ではありますが少しでもお役に立ちたい。
いえいえ、私もしのぶさんの発言があってこそ、今の発想が頭をよぎったのです。
だから、いろいろ種をまく自分の発想こそ、一番大事なのです。
その点で、しのぶさんの発言は私の役にもみんなの役にも立っています。
わかりやすい発言を心がけようとすることは、何事においても大事です。
でもこの歴史的アプリオリの関連でイエス・キリストを論じるキルケゴールという視点は、かなり面白いと思います。ヘーゲル的な客観的真理、つまりイエス救世主論を歴史的アプリオリから超越論的アプリオリへと昇華させようとして、そのままにとどまっておくのがキルケゴールが一番怒ったところだと思うと、理解が深まります。
キルケゴールは、ヘーゲルに対して、イエスの生の苦しみとか楽しさとかそういったものを切り捨てて鼻持ちならん!というわけです。
>>[271]

ありがとうございます。
元々私の発言は、このトピに新しくいらっしゃったほまれさんがキリスト教の真理をヘーゲル的な客観的真理と勘違いなさらないよう牽制した発言。
アメリカ南部ファンダメンタリストの誤りを意識したのは皮肉かもしれません。

そういえばキルケゴールの学位論文は「イロニーの概念」でした。
>>[272]
はじめまして、よろしくお願いいたします。
キルケゴールは本当に考えることばかりして大変な目に遭ったとは思いますが、だからこそ現代人を得るところが大きいのだと思います。よろしくおねがいいたします。
キルケゴールが難解なのは言葉の使い方にも原因があります。
例えば「死に至る病」の本論の冒頭では「人間は精神である」から始まる。
この場合「精神」の意味を「心」だと考えるから理解できない。
「精神」とは心と体から成り立つ「人間」そのものを意味する。
さらに人間や精神をそのようなものと理解するため内省すると、それは自己そのもの。
その自己を客観的に見ているのも自己。
自分自身を客観視している場合、自己自身との関係が問題になる。

これをまとめてみれば・・

人間は精神である、精神とはなんであるか、精神とは自己である、自己とはなんであるか、
自己とは自己自身に関わる関係である。

これが「死に至る病」の本論の冒頭の言葉。
「死に至る病」が絶望であるか罪であるかを論じる前提として・・人間がわからないと話にならない。
老婆心ながら・・私が以前参加したトピです ご参考まで

http://mixi.jp/view_bbs.pl?comment_count=131&comm_id=13770&_from=subscribed_bbs_feed&id=4210940
「人生の喜びやわずらいに欺かれて、自分を精神として、自己として、永遠なるものに定めることなく空しく日々を過ごす人々・・・
こうした悲惨が実在することに、私は泣いても泣ききれない思いがする。」

(セーレン・キェルケゴール『死に至る病』)
「人間は精神である。しかし精神とは何か。
精神とは自己だ。では自己とは何か。
自己とは一つの関係だ。その関係自身に関係するところの関係である。
あるいは、その関係においてこそその関係がそれ自身に関係するそういう関係である。
自己は関係そのものではない。そうではなく、関係がそれ自身に関係するということが自己なのだ。

人間とは無限性と有限性の、
時間的なものと永遠なものの、
自由と必然の、
総合だ。そう、一つの総合だ。
総合とは二つのものの関係である。
しかし、こう考えただけではまだ人間は自己ではない。
二つのものの関係において、その関係自身は消極的統一としての第三項に過ぎない。
二つのものはこの関係に関係する。その関係においてこの関係に関係する。
こうして精神活動という規準に立つなら、心と身体の関係は一つの単なる関係だが、この関係がそれ自身に関係するなら、この関係は積極的な第三項であり、これこそが自己だ。」
(『死にいたる病』より)

こういう記述は解釈が本当に難しいですね。易しく言い替えるなら、こういうことではないだろうか。きっと翻訳の宿命で原文より堅苦しく、わかりづらい言い回しになってしまっているのだ・・・

私たち人間の心の中にはさまざまな矛盾したものが一緒に抱えられている。
それらの二項対立をそのまま抱え持っているのが私たち人間の心だ。
だが、人間の心についてこのように描写しただけでは、まだ〈自己〉というものを語ったことにはならない。
では、〈自己〉とは何か。こうした自身の中のさまざまな矛盾、二項対立を見据えて、これらに積極的に関係してゆくこの関係のありようこそが〈自己〉というものなのだ。
自分の中の矛盾を知ること。そして矛盾に悩んだり考えたりして、これに関係すること。
それこそが〈自己〉だ。

自分の中の矛盾に気づかずにいること。気づかずにいるという関係の仕方をしていること。
それもその人の〈自己〉だ。
(つづき)

「それ自身に関係するような関係としての自己は、果たして自分で自分を措定したのか、それとも、ある他者によって措定されたのか、そのいずれかだ。
それ自身に関係するような関係としての自己が他者によって措定されたのだとしたら、その関係はもちろん第三項であると同時にやはりまた一つの関係であって、その関係全体を措定した他者に関係する。
このような派生的な、措定されてある関係こそ人間の自己というものだ。
それは自身に関係する関係であるとともに、自身に関係することにおいて他者に関係するような関係でもある。」
>>[282]

>「 それは自身に関係する関係であるとともに、自身に関係することにおいて他者に関係するような関係でもある。」


自己というものは自ら措定されたのではない。ある他者によって初めて自己が措定されたのだとしたら、自己は自らに関係する時、自己を措定したこの他者に関係せざるをえないような関係である。
まったく関係こそが自己なのだ。
さまざまな矛盾するもの同士が関係し、この関係がさらに自らに関係してゆき、自己を措定した他者にも関係する関係。
まったく関係があるばかり。それが自己の実相だ。
>>[283]

私も・・これを理解できるまで時間がかかりました。
  第1編 AのAより
絶望している当人のことをいったん脇に置いて、あくまでも抽象された観念において絶望を考察するならば、絶望は非常に良いことである。
絶望という病に罹患しうるというその可能性こそが人間の動物より優れている所である。
人間のこの優れた点は直立歩行などとはまた違う意味で、人間を優れたものにしている。なぜなら、これこそ〈人間とは精神である〉という無限なる気高さ、崇高さを表すものでもあるからだ。
絶望という病にかかりうること、それこそ人間を動物より優れたものにしている。
この病に着目していることはキリスト者の自然人よりも優れている所でもある。
そして、この病から治癒していることこそキリスト者の味わう至福なのである。
  第1編 AのAより
けれども、絶望している当人にしたら、絶望は最大の不幸であり、悲惨であり、破滅でさえある。
普通、可能態と現実態との関係はこのようなものではない。可能態が優れた喜ばしいものであるのならば、現実態はいっそう喜ばしいはずだ。すなわち、現実態は可能態に対して上昇の関係にあるのが普通だ。
しかるに絶望においては、現実態は可能態に対して下降の関係にある。
(つづき)
絶望における可能態が無限の気高さを持つのに対して、現実態は下降として無限に底深い。
絶望においては絶望の無いことが上昇となる。
しかしこう言っただけではまだ曖昧な規定にとどまる。ここで言う〈絶望の無いこと〉というのは、びっこが無いとか盲目でないとかいうのとは違う。
もし〈絶望の無いこと〉というのがただ絶望していないことを意味するのだとしたら、それこそ絶望の圏内にとどまったままだ。
〈絶望の無いこと〉というのはあくまでも絶望の可能性が根絶されていることを意味しなければならない。
真実に〈絶望の無いこと〉というのは、当人が絶望する可能性をいかなる時でも根絶していることでなければならないのだ。
>>[286]の箇所を読み直してみます。

以上のように、絶望することができるというのは人間の限りない長所である。しかし現に絶望している状態というのは、最大の不幸であり悲惨であるばかりか、破滅そのものとも言える。
普通、何々できる可能性があることが長所だとしたら、現にそれが実現されている状態はいっそう良いことだろう。すなわち現実態は可能態に対して上昇の関係に立つはずだ。
しかし絶望についてはそうではない。現に絶望している状態は絶望することができる状態より下降の関係にある。

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