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地理歴史科教育法コミュの江戸時代の税制度への質問です

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教科書解釈では
1.室町時代に銭納が一般化した
  ↓
2.太閤検地で現物納に戻された
  ↓
3.現物納は江戸時代にも引き継がれた
  ↓
4.江戸時代は相対的に米の価格低下の傾向にあり為政者たちは収入源に悩まさ
れた

ということになると思います
ここで質問したいのは
Q1.なぜ銭納から現物納へ退行したのか
Q2.なぜ江戸時代の為政者は2世紀半にわたって現物納に固執したのか
です

Q1については古典である中公『日本の歴史』に「勘合貿易が耐えて以降、安土桃山時代には鐚が横行し、銭の評価が落ちていたから」という答えが一応用意されており、授業でもそう教えていますが、これは定説なのでしょうか?ならなぜ教科書(山川ですが)に記載されていないのでしょうか?またなぜ寛永通宝の発行以降、国産銅貨の信頼が確立した後もこの方針は続けられたのでしょうか?

Q2についていわゆる「三大改革」はその原則をざっくばらんに言うと「家康時代の農本社会に歴史の針を戻す」非現実的・理想主義的・懐古主義なものです(田沼の重商主義的改革がかろうじて現実に眼を向けたものでしょう)
 一方中国では唐の後半に両税法・明の後半に一条鞭法といった都市貨幣経済の発達に合わせた金銭農への移行を行なっています。これが成功か否かは議論の余地は大きいと思います(つまりは貨幣経済のしわ寄せを社会の最末端の貧農に押し付ける政策ですし)が唐明とも二個の政策により半世紀は延命できたことは確かでしょう、米公方と呼ばれた吉宗は毎日米相場を聞いている間に中国の例を耳にする・もしくは同様の発想に行き着くことは無かったのでしょうか?江戸時代というものはそこまで「先例主義・事なかれ主義」にがんじがらめにされていたものなのでしょうか?
 当方専門は世界史ですので、日本近世経済・税制史に詳しい方のお答えお待ちしております。

コメント(2)

こんにちは。日本史を担当しています。
以前からこの質問に答えたいと思いつつ、なかなか的をついた答えが思いつかなかったのですが、現段階での私の考えを述べさせて頂きます。


Q1.なぜ銭納から現物納へ退行したのか
 そもそも銭納を行っていた地域は、全国でもごく一部と思われます(畿内、関東など)。
 恐らく、全国的に納税を銭納にすると、銭の量が足りなくなったのではないかと思います。

 あと、順序としては太閤検地により全国統一的な租税納入方法が決められ、そのおよそ40年後の、1636年に寛永通宝がつくられます。
 それまでは永楽通宝などの輸入銭やびた銭を使っていましたが、そもそもびた銭は永楽銭が不足したため使用されたほどなので、全国の農村からこれらの銭を納めさせるのは、難しかったのではないかと思います。

 なお、幕領の米は浅草の米蔵に運ぶため、運んでいる途中に濡れたりすると腐ったため、損失が大きかったようです。



Q2.なぜ江戸時代の為政者は2世紀半にわたって現物納に固執したのか
 変える必要がなかったからだと思います。

 幕府が開国して15年で潰れなければ、租税の改革もあったかもしれません。
19世紀頃以降の農家には「豪農」と呼ばれる、副業で酒造業などをして銭貨を得る豊かな農民がおり、土地の貸し借りの際を銭で行う例があるほど、農村部にはある程度の貨幣が浸透していました。

 うろ覚えですが、貨幣改鋳の出目(例:改悪により金貨1枚を溶かして金の含有量を減らして2枚に増やすと、1枚分は得をする)による幕府の収入はかなり大きかったと思います。


浅はかな私の知識ではこれが限界です。
ご参考になれば、幸いに思います。

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