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いにしえより生きたる大名屋敷コミュの宦官

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宦官(かんがん)とは、去勢が施された官吏である。「宦」は「宀」と「臣」とに従う会意文字で、その原義は「神に仕える奴隷」であったが、時代が下るに連れて王の宮廟に仕える者の意味となり、禁中では去勢された者を用いた為、彼らを「宦官」と呼ぶようになった。

去勢技術は家畜に施すものとして生まれた為、宦官は牧畜文化を持つ国にのみ存在するという説があるが、現実には牧畜文化を持たない国においても宦官は存在した。





東アジアの宦官
古代中国に始まり、朝鮮やベトナム等、おもに中国の勢力圏の東アジアに広まった。


日本
日本では、刑罰や宗教的動機で、男性を去勢した例はあるものの、行政機構としての宦官制度は広まらなかったといわれる。 しかし、江戸時代の古川柳に「奥家老らせつしたのを鼻にかけ」というものがある。また「案山子かな女中預かるらせつ人」という古川柳も残っている。 「らせつ」とは漢字で「羅切」と書き、「陰茎切断」の俗語であることから、女官たちを取り仕切る宦官に近い存在はあったようである。

琉球 琉球の宦官

琉球の国王が明の皇帝に閹人を贈った記録がある。琉球においても「宦官」をつくり出していた。


中国
刑罰として去勢(宮刑・腐刑)されたり、異民族の捕虜や献上奴隷が去勢された後、皇帝や後宮に仕えるようになったのが宦官の始まりである。しかし、後に皇帝やその寵妃等に重用され、権勢を誇る者も出て来るようになると、自主的に去勢して宦官を志願する事例も出てくるようになった。このように自ら宦官となる行為を自宮、あるいは浄身と呼ぶ。

中国諸王朝に於いては官僚は特権階級であったが、貴族(没落貴族も含む)ではない庶民階級の者が文武問わず正規の官僚として高位へ登る道は、隋以降に導入された極端に競争の激しい科挙を除くと事実上無いに等しく、自宮者は後を絶たなかったという。自宮宦官の例として、土木の変を引き起こした王振、皇帝を凌ぐほどの権勢を誇った魏忠賢等が知られている。

普通は数千人単位で後宮に配置されるのだが、明代には爆発的に増え約10万人に膨れ上がった。 「皇明実録」によると、1612年(明の天啓元年)に政府が、宦官の補欠3000人を募集したところ、応募者が2万人に達したため、急遽募集人数を4500人に増やしたという記録が残されている。

また宦官の影響で国政が乱れた例も多く、その弊害が最も顕著であったのは後漢・唐(中期から後期)・明と言われる。また、趙高は秦を滅亡させるきっかけを作った。宦官によって国政が乱れることは指摘されてきたが歴代中国王朝はこれを廃止することはできなかった。ただし宦官は常に皇帝と密着した存在であり、皇帝と離れては存在できなかった。後漢では豪族の力が甚だ強く、それに対抗するために皇帝が手足として使った存在が宦官であった。唐に於いても藩鎮勢力に対抗するためと考えられる。明代に於いては皇帝権が極めて強く、それに比して無能・怠惰な皇帝が存在した場合に宦官が表に出るようになったと考えられる。

切り取られた性器は大切に保管され、本人の死亡後一緒に棺に納められた。その為性器を失くした場合、他の宦官の物を盗むに至った事例もあったようである。また、自宮の際には手術代の代わりに性器を質に入れるものもいた。死後、性器と一緒に埋葬されなければ驢馬に生まれ変わるといわれた。

去勢されても去勢された年齢などによっては性欲が残るため、宦官と女官との不義がたびたび起こっており、多量の張型が押収されるという事がたびたびあった。宦官の性行為では多量の汗をかき、相手や物に噛み付くなどして性欲を発散させるという記録が残っている。

中国では、1911年の辛亥革命により清王朝は滅亡したが、最後の皇帝である宣統帝溥儀は1912年の退位後も清室優待条件により紫禁城に居住し続け、太監(宦官)も同条件により新規採用者の募集を停止したのみであった。その後、1924年の馮玉祥のクーデターで宣統帝とともに宦官も紫禁城から追放され、その歴史の幕を閉じることとなった。このとき追放されたのは、宦官2000人と女官200人と伝えられ、紫禁城内の生活において宦官がなくてはならない存在だったことが分かる。


著名な中国の宦官
豎刁 - 春秋時代の人。斉の桓公の家臣で、自ら後宮の管理を願い出て去勢した。自宮宦官の始めと伝えられる。桓公死後に斉の政治を乱した。
趙高 - 秦。李斯と共に始皇帝の死を秘して、二世皇帝胡亥を擁立した。宦官の概念を悪化させた元凶とされる。
司馬遷 - 前漢。史記の作者。
蔡倫 - 後漢。紙の発明者。
十常侍 - 後漢。霊帝に仕えて中常侍の官にあった宦官集団の事。ただし、正史によれば、実際には12名いたという。
黄皓 - 蜀。劉禅に仕え、蜀の実権を握り自分勝手に人事を変え、蜀の滅亡の元凶となる。
高力士 - 唐。玄宗に仕え、皇帝に代わって雑事を取り仕切った。
李豬児 - 唐。契丹の出身者で安禄山に仕えた。安禄山自身の手で去勢されたエピソードで有名。
童貫 - 北宋末。皇帝徽宗の寵愛を受け、軍の指揮官として方臘の乱を鎮圧した。
鄭和 - 明。南海大航海を行った。
劉瑾 - 明。正徳帝期の初めに政治を専断した。自ら帝位につこうと謀反を企てたために凌遅刑で処刑された。
魏忠賢 - 明。天啓帝に代わって政務を壟断し、各地に自らの像を収めた祠を作らせるほどの権勢を誇った。
董海川 - 清。皇族の武術教師。八卦掌の創始者。
李蓮英 - 清。西太后に重用された。

朝鮮
朝鮮(高麗)も中国に倣って、自国の官僚機構に宦官制度を導入していた。(ただ中国のように陰茎も節制しなかったし睾丸だけを節制した)それと同時に、自国民を宦官にして歴代の中国王朝に貢進していたことでも知られる。 例えば元の順帝時代に、後宮に権勢を振るった朴不花は、高麗から貢進された宦官であったし、1403年(明の永樂元年)には、「明の皇帝の聖旨を奉じ、容姿閑雅、性質利発な火者(宦官の別称)35名を選拔して貢進した」という記録が、朝鮮側の記録に残されている。 日本統治に開始に伴い宦官は禁止された。 韓国のソウル市鍾路区の孝子洞は、退職した宦官が住んだと言って火者洞と呼ばれたことが変わったこと。


ベトナム
ベトナム

偉大な武将や政治家に宦官が多くいた。

西アジア・地中海地域の宦官

古代オリエント
宦官は古代エジプトやアッシリア、アケメネス朝ペルシャ帝国といったオリエント諸国でも用いられた。やはり中国同様刑罰として去勢されるようになったものが発端である。役割としては中国同様後宮に仕える者が多かった。


古代ギリシア・ローマ〜東ローマ
宦官は、オリエントの影響を受けた古代ギリシアやローマ帝国、及びそれを継いだ東ローマ帝国でも用いられた。オリエントやギリシア・ローマでも宦官は宮廷内部の雑用係中心であったが、ローマ帝国後期以降に皇帝権力が強まると高級官僚の世襲を防ぐ為に宦官を高級官僚に用いる事が多くなった。

この為キリスト教化して後宮が発達しなかった東ローマ帝国では官僚として重く用いられ、軍隊の司令官やキリスト教東方正教会統率者のコンスタンティノポリス総主教にまで宦官が多数任命された。例えばユスティニアヌス1世の時代に対東ゴート戦争を指揮したナルセス、フォティオスと総主教位を争ったイグナティオス、ニケフォロス2世フォカスの治世からバシレイオス2世の治世初期に権勢を振るったバシレイオス・ノソスなどは宦官であった。ちなみにイグナティオスとバシレイオス・ノソスはそれぞれミカエル1世ランガベー、ロマノス1世レカペノスの息子であり、失脚した皇帝の子孫から、皇帝を狙って反乱を起こす者が出ないように去勢された者が居たことを示している。

中国の様に宦官が裏で皇帝の寵愛を背景に実権を握った例は多いが、国家の正規の官職に宦官が多数任命された国家は東ローマ帝国だけであろう。このように東ローマ帝国は宦官を重用した為、中国同様、自主的に去勢して宦官を志願したり、親が子供の出世の為に子供を去勢してしまう事例が出て来た。またキリスト教の普及に伴って、自ら欲望を絶つ目的で去勢する者も現れた。流行は凄まじく、民間での去勢を禁止する勅令が幾度も出されるほどであった。

11世紀末-12世紀に入って、軍事貴族出身のコムネノス王朝が成立すると、11世紀まで文官官僚として軍事貴族と対立していた宦官の勢力は弱まっていった。その後、12世紀末以降帝国が衰退していくに連れ、宦官の供給源となる属州が失われ、帝国の財政力も低下していった為、要員を雇う事が出来ず宦官は激減していった。


イスラム諸国の宦官
一夫多妻制であったイスラム諸国ではオリエントの伝統を受け継いで宦官が用いられた。特にオスマン帝国では宦官は後宮(ハレム)を取り仕切り、陰の実力者として振舞うようになった。
イスラーム世界においても他の諸国と同様に、君主ら主人の男色相手をつとめる宦官や去勢奴隷が多かった。


● 清代における去勢手術の方法 ●



三田村泰助氏の著書:『宦官 側近政治の構造』から、清代に行われた手術方法を紹介。

      
< 手術前 >

     
? まず白いヒモ(又は紐帯)で被手術者の下腹部と股の上部あたりを堅く縛って止血を行う。
? 熱い胡椒湯で念入りに消毒を行う。被手術者に手術執行の確認をとる。

 

これで準備完了!    

もちろん麻酔はなし。あとは切るだけ。どひーーッ!

  

< 手術開始〜終了まで >

     
? 執刀者は鎌状に少し湾曲した小型の刃物で、陽根と陰嚢を一気に切り落とす。
? 白蝋の針、または栓を尿道に挿入し、術後の尿道を確保。
? 傷口を冷水に浸した紙で覆い、注意深く包む。
? 2人の助手が被手術者抱えて2〜3時間部屋を歩き回らせた後で、やっと身体 を横たえさせる。

? その後、3日間水を呑まずに寝たまま過ごす。
     
術後3日後に先に刺しておいた栓を抜くのだが、その時シャーッと勢い良く尿が出れば成功、出なければ失敗で、失敗したら最後、被手術者を待っている運命は死あるのみ。まさに命がけの手術だが、失敗は少なかったという。ほんまかいな。

    

いずれにせよ、清代といえば17世紀以降である。医学的に発展を遂げる以前の手術はもっと危険だったに違いない。ちなみに、オスマン帝国では、手術を終えた少年たちは傷口を消毒する代わりに、首まで砂漠の中に埋められ、熱砂で傷口が癒えるのを待ったという。あうぅ・・・。
      



           

宦官になるのは、主に罪人、自ら望んで志願した者、親に無理やり宦官にさせられた子供、さらわれて売られた子供などだった。



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