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北京大学コミュの第三回日中歴史カフェ(27年目の夏に)

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みなさん


こんにちは。お世話になっています。
山口直樹@北京日本人学術交流会です。

 第72回北京日本人学術交流会では、1985年8月に起こった日本航空123便
墜落「事故」を扱った映像をもちいた第三回日中歴史カフェが行われます。
1985年8月12日、人類史上、最悪の520人の犠牲者を出す航空機事故が発生し、日本中の目は日本航空123便の墜落地点の御巣鷹山に注がれていました。
このときの日本の首相は中曽根康弘氏でしたが、墜落地点は地元、群馬県であったにもかかわらず、そこを見舞うことなくその三日後、1985年8月15日、「終戦記念日」に戦後日本においてはじめての靖国神社公式参拝を行っていました。
これにもっとも顕著な反応をしめしたのは、中国、北京の青年たちでした。

 同じ年には、北京で靖国神社公式参拝に抗議するデモが行われ、中曽根首相は次の年、靖国参拝を行えませんでした。
 ここでは、群馬県の新聞社を舞台にこの未曾有の「事故」を追った新聞記者たちを活写した映画『クライマーズハイ』を扱います。
作家、横山秀夫が地方の新聞記者だったころの経験をもとに書いたこの作品では、新聞社において御巣鷹山墜落「事故」か中曽根首相靖国神社公式参拝のどちらを一面にもってくるかなどの新聞社内の葛藤が描かれています。
 日本航空123便「事故」とはなんだったか、戦後日本40年目での首相の靖国神社公式参拝とはなんだったのか、「あの夏」から27年目の夏に北京で日中共同討論が行われます。
 関心のある方はご参加いただければ幸いです。

参加を希望される方は、7月25日(木曜)の深夜までに連絡係の坂本(pngk218523@gmail.com)まで参加希望のメールをお願いします。

以下の要領で行われます。

◎第72回北京日本人学術交流会(第三回日中歴史カフェ)

◎日時;7月28日(土曜日)午後2時から6時半ごろ(のち場所を移して懇親会)
◎場所;五道口のカフェ(詳しくは申し込んでいただいた人にお知らせします)
◎参加費;40元(資料代、運営費、ドリンク代)

◎言語;主に日本語(ときに中国語)
◎内容
横山秀夫原作 映画『クライマーズハイ』(145分)(中国語字幕つき)

「日本航空123便墜落事故を扱ったドキュメント」(約30分)(英語)
鑑賞後、日中共同討論。


要旨

 1970年代後半から1980年代の前半、日中関係は未曾有の蜜月関係をしめしていた。
この時期は、日本人の大半が中国に好感をいだいていたという現在からは考えられないような時期であった。
ところが、1982年の教科書問題などからその日中の蜜月関係は揺らぎ始める。
その80年代の揺らぎが、決定的になったといってよい出来事が、1985年8月15日の中曽根首相(当時)の靖国神社公式参拝であった。
それまでは、日本政府の要人が非公式に靖国神社の参拝をおこなっていたが、中国政府はそれほどそのことを問題にはしてはいなかった。中国政府が、靖国神社参拝の問題で日本政府に本格的な抗議をはじめるのは、この1985年の中曽根氏の靖国神社公式参拝のときからである。

 また、北京の青年たちもこの出来事にすばやく反応した。
彼らは、この靖国神社参拝に抗議し、デモを行った。(ちなみに中曽根氏はその前年、1984年3月、北京大学で講演を行っていた。)

 その同じ時期の1985年8月、多くの日本人には忘れがたい出来事が起こっていた。
1985年8月12日夕刻、日本航空123便は、レーダーから姿を消し、約30分のダッチロールを経て群馬県、御巣鷹山に墜落したのである。死者520名、人類史上、最悪の航空機事故であった。墜落地点の群馬県は中曽根氏の地元だったが、中曽根氏がここを見舞うことはなかった。

後に作家となる横山秀夫氏は、この当時、群馬県の新聞社ではたらく新聞記者であった。この新聞社での経験を基に書いた作品が『クライマーズハイ』である。
 映画『クライマーズハイ』のなかで「大久保清の連続殺人事件、連合赤軍事件以来の群馬県での大事件です。」と主人公に言わせているが、まさに未曾有の出来事であった。この未曾有の出来事に群馬の地方新聞社の新聞記者たちは、どのように立ち向かっ他のか。また彼らが廃墟の中で見たものは何だったのだろうか。

 横山氏は、この作品のなかで群馬の新聞社において御巣鷹山墜落「事故」か中曽根首相靖国神社公式参拝のどちらを一面にもってくるかという新聞社内での葛藤をも描き、当時の日本社会の雰囲気をよく伝えている。

 日本航空123便の乗客は、お盆で故郷に帰ろうとして搭乗した人たちが多かった。約30分のダッチロールのなかで乗客たちが残した最後のメッセージは、家族にあてたものばかりであった。
1985年、日本は高度経済成長を遂げ、経済大国となり、日本人の大半が、中流意識をもつようになり、バブル経済も頂点に達しようとしていた。
そのような時代での巨大なカタストローフ(破局)が日本航空123便墜落「事故」であった。

この「事故」でなくなった乗客の遺族たちは、現在は高齢化もすすみ、だんだん少なくなってきてはいるが、いまも8月12日には、群馬県の御巣鷹山に登り続けている。日本のメディアも毎年8月12日は、このことに関する報道を行う。多くの日本人にとって忘れがたい出来事になっているといってよい。

 「あの夏」から27年目の夏、北京で日本航空123便「事故」とはなんだったか、戦後日本40年目での首相の靖国神社公式参拝とはなんだったのかについて日中共同討論が行われる。


(以上)


北京日本人学術交流会代表:山口直樹(ngodzilla2185@gmail.com)http://j.people.com.cn/96507/97399/6683166.html
これまでの北京日本人学術交流会の記録http://www.nihonjinkai.org.cn/html/doukoukai/beijingribenrenxue-jiaoliuhui/201105/19-1072.html

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