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真の歴史研究コミュの神風特攻隊 「命の使い方」〜日本人として知っておきたいこと〜

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コミュ内全体

今日は「昭和の日」昭和天皇誕生日でした。

今日の日本を守るために戦った、この方々がどのような思いで飛んで行ったのか、
ぜひ見てみてください。

4月11日のグローバルワールドカフェのテーマは特攻隊でした。

その際に流された映像です。

神風特攻隊 「命の使い方」〜日本人として知っておきたいこと〜
https://www.youtube.com/watch?v=5w5TC4ppsIE

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1944年


関大尉率いる敷島隊5機は、昭和19年10月25日フィリッピンのマバラカット飛行場を飛び立ち、レイテ近海にて敵艦隊を急襲、空母1隻撃沈、3隻に損害を与えるという戦果を上げた。


国力で10倍以上の差があると言われた米国に戦争を挑んでから、既に3年目。
数と数がぶつかり合う近代の消耗戦は、日本の限りある人的・物的資源を消耗し、連合国との戦力差は開いていくばかりだった。
こうした状況の中、採用された特攻は、生きては戻れない「十死零生」の作戦のため「統率の外道」とされながら、日本陸海軍の主要な戦術となっていく。


全軍の模範となる「特攻第1号」として、海軍兵学校出身の関行男大尉は、選抜された。戦死後は、2階級特進し、「軍神」となった。



関 行男
海軍中佐


大正10年 8月29日 愛媛県西条市出身
昭和16年11月15日 海軍兵学校卒業(70期)
昭和16年11月15日 戦艦「扶桑」乗り組み
昭和16年12月 8日 ハワイ真珠湾攻撃
昭和17年 4月  日 軍艦「千歳」乗り組み
昭和18年 1月  日 第39期飛行科学生
昭和18年 8月  日 艦上爆撃機の実用機教程(宇佐空)
昭和19年 1月  日 霞ヶ浦海軍航空隊付き(操縦教官)
昭和19年 5月  日 結婚(婦人は関大尉散華ののち再婚)

昭和19年 9月  日 台湾を経てルソン島マバラカット基地
昭和19年10月19日 神風特別攻撃隊敷島隊の指揮官発令
昭和19年10月21日 出撃、敵機動部隊を発見できず帰投
昭和19年10月22日 出撃、敵機動部隊を発見できず帰投
昭和19年10月23日 出撃、敵機動部隊を発見できず帰投
昭和19年10月24日 出撃、敵機動部隊を発見できず帰投


昭和19年10月25日 出撃、米空母セント・ローに体当り、散華(享年23歳)


昭和29年10月25日 伊予三島市に墓碑建立


昭和49年 5月 7日 現地人の有志によりマバラカットに慰霊碑建立


昭和53年 3月21日 西条市楢本神社に慰霊碑建立



毎年、関中佐が敵空母に突入した10月25日午前10時に海上自衛隊徳島航空基地又は小松島航空基地の航空機5機編隊が、慰霊のための編隊飛行を楢本神社上空で行なっている。


関行男慰霊之碑

碑文

人類六千年の歴史の中で、神風特別攻撃隊ほど人の心をうつものはない。「壮烈鬼神を哭かしむ」とはまさにこのことである。この種の攻撃を行った物は、わが日本民族を除いては見当たらないし日本民族の歴史においても、組織的な特攻攻撃は国の命運旦夕に迫った大東亜戦争末期以外にはない。

憂国の至情に燃える若い数千人の青年が自らの意志に基づいて絶対に生きて還ることのない攻撃に赴いた事実は、真にわが武士道の精髄であり、忠烈万世に燦たるものがある。





特攻は志願ではなかった。


昭和26年12月に、関大尉の元上官によって書かれた一冊の本が出版された。
「神風特別攻撃隊」という本である。
著者は第一航空艦隊航空参謀・猪口力平中佐、第二○一航空隊飛行長・中島 正中佐の共著となっている。
この本は発売されるやベストセラーとなり、関大尉に特攻の命令が下される場面はとことん美化されて書かれてあったために、多くの人に特攻に関する間違った認識を植え付けたのであった。


この本では、関大尉は自分から望んで特攻隊の指揮官を引き受けたことになっている。
関大尉は、夜中に寝ているところを起こされ、上官の元に呼ばれた。
第二○一航空隊の副長の玉井浅一中佐という人が、新任の第一航空艦隊長官から比島(フィリピン諸島)防衛の「捷号(しょうごう)作戦」を成功させるため、零式戦闘機に250キロ爆弾を抱かせて体当たり攻撃をするよう命じられた、と関大尉に言った。
玉井中佐はさらに、その指揮官を関大尉が引き受けてくれないか、と涙ぐみながら関大尉にたずねたそうな。
関大尉は、唇をかたく結び、目をつむったまま俯いて沈黙したきり、しばらく返事をしなかった。
だがやがて顔を上げると、「是非、私にやらせて下さい」と、少しの澱みもない明瞭な口調で言った。
玉井中佐もただ一言「そうか!」とだけ言って、関大尉の顔を見つめた。
急に重苦しい雰囲気が消えて、雲が散って月が輝き出たような爽々しい感じだった。‥‥と、「神風特別攻撃隊」はこの場面を感動的に結んでいる。
 
森氏も初めてこの本を読んだときは、この場面を事実だと思ったそうである。
だが、7年後にこれを覆す記録「神風特攻隊誕生秘話」が出た。筆者はサンケイ新聞出版局長をつとめる小野田 政という新聞記者。
小野田記者は、特攻隊誕生当時、同盟通信社社会部から海軍報道班員として、関大尉のいるマバラカット基地に派遣されていた。


小野田記者は特攻隊指揮官を引き受けた関大尉を飛行場の後ろを流れるバンバン川の河原に連れ出して、心境をたずねた。
関大尉は特攻隊指揮官を引き受けたときの状況を次のように語った。
玉井中佐は「頼む、最初はやはり海兵出身者が指揮をとるべきだと思う。貴様が一ばん最初に行ってくれると大助かりだ。
全軍の志気の問題だ」と言った。
関大尉は「是非、私にやらせて下さい」とは言わず、「承知しました」と無造作に言っただけだったという。
「まさか、自分が指名されるとは思ってもみなかった」とも、関大尉は小野田記者にもらしている。
 
さらに、関大尉は小野田記者に、次のような言葉を吐き出していた。


「報道班員、日本もおしまいだよ。ぼくのような優秀なパイロットを殺すなんて。ぼくなら体当たりせずとも敵母艦の飛行甲板に五〇番(500キロ爆弾)を命中させる自信がある」
 
「ぼくは天皇陛下のためとか、日本帝国のためとかで行くんじゃない。最愛のケー・エー(注:愛妻の意)のために行くんだ。命令とあれば止むをえない。日本が敗けたらケー・エーがアメ公に強姦されるかもしれない。ぼくは彼女を護るために死ぬんだ。最愛の者のために死ぬ。どうだすばらしいだろう!」


関大尉はここでハッキリと「命令」と言っている。
さらに彼は、飛行服の内懐から新妻の写真を取り出してキスをしたり、彼女との恋愛時代のノロケ話などを小野田記者に話して聞かせた。
 
「ぼくは二十五年の短い生涯だったが、とにかく幸福だった。しかし、列機の若い搭乗員たちはエスプレイ(注:海軍用語で芸者遊びの意)もしなければ、ポスる(性の交り)ことも知らないで死んでいく。
インテ(恋人)もいるだろうに‥‥」
 
これが最初の特攻隊隊長・関 行男大尉の真実の素顔だった。
彼に特攻を命じた者たちが、勝手に彼が自分から志願したかのような美談(いわゆる特攻神話)を捏造して広めたのだ。
関大尉の沈黙部分など、そのあとの「是非、私にやらせて下さい」のセリフを効果的に活かすために創られた伏線だと考えた方が良い。


http://m.mixi.jp/view_diary.pl?owner_id=64118945&id=1955249140&



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