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フリードリヒ・ヘーゲルコミュのヘーゲル哲学について考えてみました

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コミュ内全体

ヘーゲルの哲学の現代的更新こそ今日的課題である、と自分は考える者なので、ヘーゲルの積極的意義を掘り起こすべく、自分なりに考察して見出した結果を、以下に、つらつら書いてみた。

方向性を同じくする方々と一緒に考えを進めて研鑽し合えればと思って、トピを立てて言い出しっぺになって、議論を交わしたく思う。

まずとりあえずは、ヘーゲルの数学の哲学について、論じることから、出発しよう。

世界は数で割り切れるとする数学帝国主義を信じるピタゴラス教団の弟子が、ピタゴラスの定理を使って、教義に反する現実の存在を証明してしまい、教団幹部たちに船から突き落とされて溺死した、という事件が、古代ギリシャで起きた。

ピタゴラスの定理とは、直角三角形に関する三平方の定理のことで、平方とは二乗のことで、直角三角形について直角を挟む二辺の長さの二乗の和と残りの一辺の長さの二乗は等しい、という定理だから、一辺の長さが1の正方形のタイルの対角線の長さは√2である。

x=√2の両辺を二乗してから1を引いて(x+1)(x-1)=1と因数分解して両辺をx+1で割ってから1を足してx=1+1/(1+x)として左辺全体を右辺の部分に代入する操作を無限回繰り返せることを示して、x=√2が整数を整数で割った分数として書き表そうとすれば無限連分数になることを、すなわち、有限個の数学記号の列で無限の情報量を言い表すことはできない、という原理上、世界は数で割り切れない、という現実を、ピタゴラスの弟子は証明してしまったのだ。

数学は白か黒かで割り切るデジタルな二値論理であるのに対して現実は白でも黒でもないアナログなグレーゾーンだから、グレーという三つ目を思考に導入しなければ不完全ですよ、とヘーゲルは言った。

白も黒も、否定しないためには、自己肯定すれば他者否定することになる不倶戴天の水と油のジレンマを乗り越えて、自他共に肯定して、生命誕生させて、潜在能力を顕在化させて、部分の総和以上の全体という可能性を現実のものするためには、白も黒も内包しているグレーという生命原理を、理念として掲げ上げて、それを実現しなければなりませんよ、とヘーゲルは言ったのだ。

好きで結婚した夫婦が狭いアパートの一室に二人で押し込められて、喧嘩しては仲直りする、ということを、繰り返すうちに、きっと、言いたい放題言い放つ子供の段階を卒業して言い返さずに泣き寝入りする大人になって、内心は泣きながら大激怒していても表向きは穏やかに振る舞って見せる修行が人生だと覚悟を決めて、修行を実践するうちに、言い争いになる度に伴侶を嫌いになっていた自分がいつの間にやら嫌いになれない寛容な自分に成長している、という確かな実感を得るときは、やって来るのだろう。

表面上の愛想でない内心からの温かさが外に滲み出ている温厚な人間が完成されているだろう。

他者によって否定されて否定し返して、否定の否定で二重否定で、内面化された他者による自己否定が自己肯定に転じて、さらに先に進んで、仲良くしようとして自己肯定と他者肯定の両立を追求しているうちに、きっと不倶戴天の二人はいつか一つの生命になる。

夫婦という家族をはじめとする、共同体は、もちろん生き物だ。

ちょうど、多細胞生物が単細胞生物というサブレベルの生き物たちが寄り集まって作った社会であるのと同じように、個々人たちからなる社会も一個の大いなる生物である。

最初からすべての物に心は存在していて、心は無生物においては潜在能力として潜在していて、生物という段階に至って初めて、潜在能力が顕在化したのだ。

戦争の不毛さや悲惨さを身に染みて分かった人類社会は、対話路線で平和のうちに解決する道を、模索するようになる。

否定し合う段階を通り越していつか皆で一緒に幸せになろうって理想を掲げたヘーゲルは、確かに、理想主義的すぎて、近代国家の現実が見えていなかったのかもしれない。

だからこそ、ヘーゲルは、現代思想の文脈においては、こっぴどく批判されているのだろう。

だけど、理想と現実が食い違うことにたとえ気付いたとしても、理想を現実に近付けようとして思考して高い理想を低くしてしまい無力感との戦いを放棄してしまうよりも、現実を理想に近付けようとして高次の段階を人生の目的として行動することのほうが大事なのではなかろうか。

ヘーゲルは地に足が付いていないと言って揚げ足を取る批評家であるに留まることから脱して、ヘーゲルの現代的意義を発掘すること。

心が学習能力を備えている以上は同じことの繰り返しでもその意味や深さは違うから歴史は螺旋的に進歩する。

そっちのほうへの建設的意見を言い合える方がもしもいらっしゃったなら、お付き合い下さりたく、どうかお願い申し上げて、以上、今までの勉強の成果を縷々述べて、ここに筆をおく。

コメント(22)

 個として絶対精神に思いをいたすのは構いませんが、歴史とか国家を観る場合に世界精神ってのが理想が高いというよりオカルトではないでしょうか。
>>[1]
コメントありがとうございますm(_ _)m
あかふくさんがオカルト的に思考したくないお気持ちは何となくだけど分かるつもりです。
白と黒という二つに引き裂かれた自己を統一してグレーにおいて自己一致させれば宇宙のエネルギーを自由自在に操れるようになる、というふうに、自由と共同の矛盾なき両立を、実現できる、とする、ヘーゲルの考えを、キルケゴールは、強く非難してましたね。
あれもこれも否定しないことができるのは、あれもこれも捨てないことができるのは、心の領域においてだけであって、物の領域においては、あれかこれかしかない、というふうに、二者択一の取捨選択を迫られてるんだ、と。
その言い分も分かるつもりなので、オカルト的に考えたくないお気持ちは、否定できません。
労働し生活することは即物的にしか考えられなくなることで、人間が非人間的になることだ、と僕も思いますし、人間性を回復しようとして心にまで考えを及ぼせば、ヘーゲルみたいに錯乱の気味を示している人間になってしまうしかない、という内的必然性を負ってる人も多いと思いますし、ヘーゲルの議論に付き合ってるとこっちまで頭がおかしくなる、ということで、遠ざけてしまわざるを得ない人は、ヘーゲルを、忌避するのでしょうね。
廃人になる前に歯止めになるものが大抵の人に予備の装置として備わっててそれを発動させてく、そのような本能が発狂を予防してる人々を、慎重に、可能な最大限、尊重しなければならない、と僕も思ってます。
止揚というのは必ずしも否定しないのですが、ナポレオンに幻惑され世界精神が歩いているのを見ただとか、ヒトラーは.とかってなるともうそっちでやってくれ、俺は降りる、ってなりますね。
>>[3]
お返事ありがとうございますm(_ _)m
僕もヘーゲルを参考にはしても鵜呑みにはしないです。
ヘーゲルも人間だから間違いは犯します。
特に、ここはヘーゲルコミュですし、哲学書なんてケチ付けようと思えばいくらでも付けられる中で、揚げ足を取って間違いをあげつらうよりも、そこから何か自分に有益を学びを得て気付きの機会にするほうを僕は大切にしたいです。
ヘーゲルは難解で、ヘーゲルの文章を読んだだけでは分からないので、学びや気付きのために、分かるような説明に変換してアウトプットできるまで自分で納得できるまで考えなければ、宝の持ち腐れになる、と思います。
このコミュがみんなで一緒にヘーゲルの言葉の意味を考えようということで集まってるのだとすれば、ヘーゲルを読んで汲み取った含意を噛み砕いて分からせる表現にもたらすことや、語り落されてるヘーゲル哲学の積極的意義を拾い上げて明瞭な語り方で語ることが、コミュの主旨に沿うことなのではないかな、ということで、試みに、このトピを立てさせて頂きました。
大雑把に言って、

絶対精神に至るというのは.... 梯子を登って善のイデアに至る新プラトン主義に似てるものも感じていて多少惹かれるとことはあります。そこで、プラトン主義においてイデアは経験(感覚)ではなく理性によって認識されるから理性を磨くというだけではなく、ヘーゲルの場合は弁証法という具体的で実践を伴う登り方を示しているようなイメージを持っています。

具体的というと、右でも左でもない何かとか、資本主義でも共産主義でもない何かとか、形而上の彼方に行く前に求められるものはいろいろあると思いますけど。


>>[5]
仰ること、分かる気がします。
一者から流出した者たちが一者に回収される(フィヒテの言葉で言えば、自我から繰り出された非我が自我に繰り入れられる)ということの繰り返しが、同じことの繰り返しのようでいて、その意味や深さは違う、みたいなキリスト教的な文脈内で、ヘーゲルも新プラトン主義も捉えることができると思います。
輪廻という言葉によって特徴付けられる仏教的な暗い厭世観というのは、物質が記憶の担い手になっていて物質的痕跡を残すことなく心に印象を残すことは不可能だ、という思考から出発するからこそ、出て来るのに対して、キリスト教が明るいイメージがあるのは心に記憶は蓄積されていくという考え方があるからこそ、過去から未来に向かっていく進歩が考えられるのだ、と思います。
あたかも輪廻しているようで、輪っかをなす円運動に見えるものをアングルずらして見れば螺旋的に巻き上がっていく上昇運動である、と考えることからは、絶対精神という人生の目的に到達することはありえなくても、そこへどこまでも近付いていくことはできる、より良くなっているという前進が打ち続いていくことに修行の意味を見出せる、そういう前向きな考え方が出て来る、と思います。
 人間は個としても種としても試行錯誤しますから、上昇するといっても必ずしも時間的に後のものが上というわけではない。むしろ昔は良かった、今は悪い、自然に帰れ、とか言いがちです。ですが、今読んでる啓蒙主義の本によれば、大局的に見えば進んでいるというこが言えるそうです、いろいろなバイアスを取り除いてまっさらな目で見ると。

 一方、個の人生をみると長い目で見れば善くなっていくどころか劣化してく一方の人もいそうですね、特に内面的、精神的に。
>>[7]
もちろん、老人になってボケが進行して知情意全般に亘って精神機能が低下する場合もあるわけですけど、それに対応する物質的側面として脳細胞が一部死滅するということがあるわけです。
つまり物質が記憶の担い手である。
記憶は、脳細胞をはじめとする細胞の遺伝子に、書き込まれてる。
でも、遺伝子を通じてサムシンググレートという心的なものに、記憶される、ということも、あると思うんです。
あかふくさんが高く評価されてるベルクソンも言うように、楽しい時間は短く感じられて苦しい時間は長く感じられることから、客観的時間以外に主観的時間がある、というふうに、二種類の時間があることが言えます。
そして、物で出来た空間を動かしてる時間が心だから、心に顕在的な表層心理と潜在的な深層心理という二つがある。
顕在意識に蓄えられた記憶には対応する物質的痕跡があるとして、物質的痕跡を残さずに心に印象を残すことも可能で、経験は、顕在意識からは忘却されてっても、水の泡に帰するわけでなく、潜在意識に蓄積されてって、経験値は上がりこそすれ下がることはない、というふうに、僕は考えてます。
空間は行ったり来たりできるのに対して、時間は後戻りしない一方通行である、ということは、過去の記憶は時間方向のものだから蓄積されてく一方である、ということを、示唆してる、と僕は思います。
このように、時間は空間と違う、ということから、言い換えれば、物差しで計られた空間になぞらえられた時間は、より根源的な時間から派生して来たものである、ということから、死んで脳細胞が全滅しても経験値がチャラになるのでなく、来世に受け継がれる、と考えていいのではないか、と愚考します。
そのような考え方は、今生での課題をやることに積極的意義を付与するものです。
どうせ死ぬのだからと投げやりにならないために、大切な考え方だと思います。
読んだことないので、ベルクソンと違うことも言ったかもしれません。
訂正して下されれば幸いですm(_ _)m
>>[8]

 ヘーゲルからちょっと離れますけど、ベルクソンのことはこの世では書いてないので、わたしが前世で高く評価したのかも(笑)

 ベルクソンは自由意志に関心があって1冊読んだだけなので、後年宗教的なことも書いてるらしいですがそれは読んでないのです。物理的な時間は無理やり均質なモノサシをあてて世界をモデル化しちゃってるのでその中で自由意志が記述できるわけもなく、自由意志はそのような人為的な時空の枠をはめる以前にある(あってもいい)というようなお話でしたね。枠をはめた後の物理とかの科学で存在を証明できないからと言って(哲学的な厳密な意味でも)存在しないという前にちょっと待てよ。と。その主張は支持してます。

 人間は世界そのものの中から自分に理解できるものだけをあらかじめ取り出して理解しておきながら、後になってそれが全てということにしてしまう。

>>[9]
なるほど、要約の仕方が分かりやすくて示唆的だと思います。
外側から表面的にしか眺められない限りでは物象という様相しか呈さない対象は内側から共感的に追体験されれば神の心なのですね。
ヘーゲル風に言えば、生命原理としての内在神が外在化したものとして、生命は物という表面を突き破ってこの世に立ち現れて来てる、ということに、なると思います。
物象は、観測主体にとっての対象で、すなわち、主観にとっての客観で、ヘーゲル用語で言えば、正に対する反で、この二項対立を統一することこそ、この世に地上の天国という理念を実現することだ、とすれば、死んで天国に行くということは、再び一つになることを求めて努力する正反という二元に分裂する以前の合という一元に帰るということで、一切の対立のない天国から、地上へ、対立者を仲直りさせる仲裁者としての使命を帯びて派遣されてきて、一が二になり、二が一になり、同じことの繰り返しが同じことの繰り返しのままで、その意味や深さは違うから、すべてのことに意味がある、と僕は思います。
このような、考えは、量子力学にも含意されてる、人は死んだら神という遍在者になる、という考えに、通じてると言えようかと思います。
ベルクソンは、相対論に対しては反駁の論文を提出しましたけど、量子力学の意味をどのようなものとして汲み取ってたのでしょうかね。
自由意志は、波動関数を、どの空間的位置に収縮させるかを、選び取る自由だ、というように、関連付けて、僕は考えてますけど。
>>[11]

量子力学の不確定性が自由意思の記述になってはいないと思います。だだ、そこに自由意思があってもいい隙間がある。一方で自由意思はなくてランダムであっても矛盾はない、とも言えます。

量子力学も直観には反するがベルクソンの言う数学的に記述される均質な時空の中での話ですから、自由意思があるとすれば量子力学の外にしかないと彼は言うのではないでしょうか。
>>[12]
お返事ありがとうございます。
ベルクソン風に言えば、物で出来ている空間を動かしている時間が心であるということになると思いますけど、物理法則には書かれていない現時点が心理現象としては存在する、ということは、現時点が現時点以外の全ての点と間が隔てられていて時間という間隔によって仕切られていて一つ一つ小出しにされていっている限りでの心は、創造的進化を可能ならしめる純粋持続ではない、ということだ、と理解していいのではないかと僕は思います。
時間という間も、空間という間も、飛び越えて、時間方向にも空間方向にも波のように広がっている、という意味で、時空間という間を隔てる仕切りを、枠を、認識の形式を、波動関数は超えているので、物を支配する法則である相対論を超える心を支配する法則が量子力学で、相対論によれば物は光速を超えていないのに対して量子力学は心は光速を超えている、ということを、数学で世界を記述しようとしても記述し切れないものが必ず残って、それが自由意志だ、と僕は理解している者なのですが、如何思われますか。
カントの二元論を一元論化しようとした、ヘーゲルに、習って、言えば、認識の形式に、すなわち、現象の形式に、物自体という内容は収まり切らなくて、形式が破綻した破れ目から漏れ出て来たものである自由意志は、白か黒かの数学の二値論理で割り切れないグレーゾーンという三つ目が成り出でていくものとして、無から存在へと生成して来るものとして、捉えることができると僕は考えるのですけど、如何でしょうか。
観測対象となることによって、対象化すなわち心の物象化を、時空上の一点に存在する点粒子になるという粒子性こそ物質性であるとすれば、観測されないでいる限りでの波動性は心である、しかも物質と等根源的な心でなく物質よりいっそう根源的な心である、というふうに、僕は考えるのですが、ベルクソンの文章は、とっつきにくく、まだ読んでないので、ベルクソンなら量子力学をどのように理解していたかについてあかふくさんがお考えになられていることを、もし解説して頂けたなら、嬉しいです。
質問して答えを要求するようなことをしてしまい、申し訳ありません。
お答えになるのが面倒でしたらスルーして下さいm(_ _)m

↓みたいな話があるようですが、私は率直に言って“考えすぎ”だと思うんですよね。




量子力学的世界像について。ベルクソンにおける物質の持続の考えと量子論的世界像との類似については,物理学者のド・ブローイによる解釈が有名である。
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/135489/1/ybunk00410.pdf


小林(秀雄)が『感想』でベルグソンの差異の概念と量子力学の接近を諮り、量子を物質と精神の直接的な結節点として思考しようとした
https://noos-academeia.com/archive/paper/kobayashi_kansou.html

こんな話も......


「量子ビットから生まれる時空」 時空は情報の基本単位からできていて,それらは「量子もつれ」現象を介して結び付いているかもしれない。量子情報研究者と物理学者が共同研究を進めている。【別冊日経サイエンス229 量子宇宙 ホーキングから最新理論まで】https://t.co/G4IkNwNFmT https://t.co/o8r1FRvuPf
>>[14]
ありがとうございます。
何だかヘーゲルを置いてけぼりにしてベルクソンの話になってしまいましたね。
ベルクソンとの関連性において量子力学を考えることが考えすぎならば、ここではベルクソン哲学と量子力学のアウフヘーベンを試みることはしないでおきますかね。
ヘーゲルにおいてアウフヘーベンとは、矛盾し合う自他を矛盾し合うままで両立させるために、仲良く共存するために、必要な指導原理を、打ち出したもので、多くの対立物たちを統一することを言ってたわけですけど、多が多のままで一である、つまり、一つの全体が多くの内部分節を持ってて、それが社会だ、ということを、ヘーゲルは言ってたにすぎないわけです。
そのような異なるものが異なるままで統一されてるという矛盾を内包する統一性を、同一性と、言い換えて一つの絶対精神の全き実現が可能であるかのように説いたものだから、そこで現代思想において揚げ足を取られることになりました。
でも生命原理というのは、たとえば、水中にスポイトで油滴を滴下すると界面張力で液滴をなすわけですけど、界面活性剤の水溶液中の油滴はあたかも単細胞生物アメーバのように界面張力の高いところから低いところへアメーバ運動する、という実験結果があって、このような、相容れない水と油という不倶戴天の二つが棲み分けることができない環境下において、矛盾を原動力とする弁証法こそ、二が二のままで一になろうとする、自己の能力の限界を超える努力を、可能にするわけで、それが潜在能力の顕在化で、最初からすべての物に心という潜在能力が存在してて、それは無生物の段階においては潜在してて、生物に至って初めて顕在化した、ということを、ヘーゲルは考えてたわけです。
主観の観測の対象として外側から表面的に眺められた物象の外在化以前から内在してた心は内側から共感的に追体験されることは可能であると僕は思いますけどね。
物は光速を超えたらこの世という観測可能な範囲外に逸脱するという相対論と整合的な理論として量子論を解釈しようとすれば、波動関数が速度無限大で全空間に同時に遍在してても逸脱しないのは、粒子性と波動性の二重性は物と心の二重性だからで、心という意志に波動をどこに粒子化させるかを選び取る自由がある、という結論に、僕は行き着くのですけど、これも考えすぎですか。
私は汎心論や汎経験論は好きですけど、粒子と波動の2重性は物理世界でモノが二つの性質を同時に持つということで、モノではない心があるならそれは二重性等の外にしかないと思います。

いやあるというならモノと心を別けて考えることが間違いということになります。まあ、こっちが正解かもわかりませんね。

>>[17]

ショーペンハウアーやフィヒテ・シェリング・ヘーゲルら、カント以後の哲学者たちは、物と心を二つに切り分けて峻別するカントの二元論を、一元論化しようとしたわけで、物心は表裏一体であるという事実は、感じてるレベルでは知ってる真実だ、ということを、言い出して、それを気付きに高めようと、感知してる現実を認知しようと、無意識を意識化しようと、物心という二つは二つのままで一つだ、ということで、二つに一つを足した合計で正反合の三つでヘーゲルは考えてました。

弁証法というのも、自分以外の者たちとの対話を通じて、相手の立場に立って考えさせられることを通じて、自分の無意識に立ち返らされて相手の意識において顕在化してる要素を自分も潜在的な要素として持ってたということに気付かされて、自他は、心の顕在的なレベルである意識と、心の潜在的なレベルである無意識が、反転してるだけで、本質的には同一だった、という自覚に至って、初めて、正と反が補い合って、高次の段階に至る、という営みだったわけです。
>>[18]

フロイドとヘーゲルの関係は知りませんが、精神分析的言うと自分に見えている他人は(実在する他人ではなく)自分の潜在意識の投影ですし...

ところで、正反とはもともと別ではないものを人間の迷妄から別と思いこんでいたものを本来に戻すのか、あるいは、もともと2つの別のものから新たに何かを創造するのでしょうか。
>>[19]
ヘーゲルによれば、心が自己の内に違和感を異物感として感じてそれを異物として疎外して他者とするというエイリアネーションありきで、他者というエイリアンとの遭遇があるわけですけど、険しい対立と葛藤を経て和解に至って他者を自己とします。
合という一つが正反という二つになって正反という二つが合という一つになって、というふうに、喧嘩して仲直りすれば元通り以上である、という螺旋的上昇運動が弁証法的運動です。
単に元に戻っているのではないわけですね。
 人間は争いを繰り返しながらも間違いなく進んではいるそうですしね。
>>[21]
戦争の歴史に学んで平和の理念を実現しようという合意が成り立ってはいますけど、喧嘩したら遺恨を残すわけで、夫婦関係が負のスパイラルに陥って離婚することもありますから、進歩は一筋縄では行かないようです。

でも、ニーチェが等しきものの永劫回帰という結論に陥って発狂したのは、歴史を負のスパイラルにするか正のスパイラルにするかを選び取る自由意志がある、という直感のレベルで自明な既知の真実を認める強さがなかったからなのかもしれませんね。

本当は自信がないという問題が根っこにあるがゆえに、マウンティングおじさんだった、ニーチェの劣等感の裏返しとしての優越欲求は、他者たちとの比較において優位に立つことでしか自己肯定感を得られないというやむを得ない事情があったにせよ、感知してる真実を認知しない図太さと雑草のような逞しさを身に付けてる世間に迎合しようとして、ニーチェなりのぎりぎりの適応の形として反哲学を打ち立てたわけで、感じてるレベルでは知ってる無意識の深みを意識の明るみにもたらす背後世界論を断固拒否するという意味で浅いものを好むニーチェは、ナイーブでスノッブだとしか言いようがない、と僕は思います。

僕も自分自身をニーチェと同じ浅い中の一部だと思ってるわけで、ショーペンハウアーのように世間は浅はかだからと言って見下すようなことはもちろんしませんけどね。

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