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J・P サルトルコミュのサルトルは終わったのか、サルトルとは何だったのか

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今日、『リスボンに誘われて』という映画のDVD を観た。かつてのポルトガルのレジスタンスたちを訪ねながら、彼ら彼女らのレジスタンスとしての青春の日の葛藤や情熱や苦悩を掘り起こすというもので、とても面白かった。
と同時に、もはや過去のものとなった彼ら彼女らのレジスタンスの日々をまるで今のことのように思い出させながら、映画は僕にサルトルを思わせた。
サルトルは死んだのか。
サルトルは終わったのか。

僕は、いや僕の中ではサルトルは死んでいないとあらためて思った。
皆さんにとってはどうですか。
そして皆さんにとってサルトルとは何だったのでしょう。

コメント(19)

NHKのテレビ番組「100分de名著」の中で、サルトルの葬儀のシーンで、参列者のひとりが「我々はレーモン・アロンと共に正しくあるよりはサルトルと共に間違うほうがいい」という発言をしたことが紹介されました。(このことは、「100分de名著」のテキストには載っていませんが。)おそらくサルトルには人をしてそのように語らせる魅力があるように思います。

現代社会を席巻しているのは、市場原理の考え方だと思います。この市場原理、合理主義、利潤第一主義の考え方はなぜ「正しく見えてしまうのか」。その答えを私なりに解釈すると、市場原理を基盤にしたイデオロギーに対抗し得る思想が十分に樹立されていないという点にあると思います。

ではどうすれば市場原理イデオロギーに対抗しうる思想を樹立できるか。そういう問題意識を持っている人にとっては、サルトルは依然として魅力的な存在として残っていると思います。
>>[1]

>「我々はレーモン・アロンと共に正しくあるよりはサルトルと共に間違うほうがいい」


ああ、その言葉、何となくわかります。道徳的な正しさもきっと尊いものなんでしょうけれど、高き理想を見つめて「えい、やっ」って行動してしまう熱情がサルトルというシンボルには表れているように僕は思います。
そしてその理想と熱情に共感する同士が、熱く結びつけるような連帯感をさそう人間味が、そこにはあるように思います。

世の中が何か間違っていると思える時には、いつだってそうしたサルトルの呼び起こした理想と熱情と連帯感が、僕たちを世の中の改革のために駆り立てるような気が、僕にはするんです。
読んだばかりの小林康夫・大澤真幸「知の技法入門」(河出書房新社)に、現代思想の隠された中心にサルトルがいる、みたいなことが書かれていますね。デリダやドゥルーズの思想は、サルトルに対するアンチテーゼとして読むと分かるところがあると。
 まずは、「シチュアシオン」読みましょう。
 「文学とは何か」
 「想像力の問題」
 「真理と実存」
 「植民地の問題」
 「汚れた手」
 「自我の超越・情動論粗描」
 「マルクス主義の問題」
 「唯物論と革命」
 その他、読んでから判断しましょう。
 ちなみに、東浩紀さんの「郵便的」には、ちゃんと
 「ポストサルトル世代の問題は.....」
 と書いてありますよ。
聖ジュネの副題の現行訳には問題がある。「演技者と殉教者」と訳されている。
林達夫はこれを「演技者にして殉教者」が正しいとしたが、今やフランス語も日本語にしみこんでいるので次のようにフランス語のニュアンスをこめて訳せば興味がわくだろう。

コメディアンにして殉教者

オードリー・ヘップバーン少女がフランス・レジスタンスの連絡係をやっていたころ、サルトルは「沈黙の共和国」を書いてレジスタンスを支援している。レジスタンスに正規の武器は要らない。独裁者ににこやかに接近し、後ろからアイスピックを突き刺すことも、私たちのコメディであろう。
「聖ジュネ」に関しては、ブランショも言及していますね。
「クラインの壺」も、
「パラノイアに対するスキゾ革命」も、
「リゾーム」も、
サルトルを読むとより理解できます。
要するに、「戦略的」・「戦術的」テクストをいかに書くか、という問題です。
サルトル・ファンからABE、ASO、あるいはTAKAMURA、SUGAをきちんと抹殺する人が出てきて、世の中の善良な市民の顰蹙をサルトルが再び受けることも冥土のはなむけになるだろう。法・言語が法・言語の機能を果たしていない現在、それは当然の結末だろう。
>>[3]

僕はデリダやドゥルーズもちゃんと読み込んでおりませんが、鋭い反対意見を読むことは逆にサルトル哲学の姿をよりありありと浮き彫りにすることになりますね。
>>[4]

おっしゃる通りですね。サルトルについて何事かを考えるなら、まずサルトル自身が語っている所を丁寧に読むことが最も正しいアプローチなのでしょう。いまだそれを果たしえず、語り出すなら、ただ各人の勝手な思いなしや投影をつむいでいるに過ぎない。
まなりんさん自身は、このトピックの問題についてはどう思われますか。
今、僕は17世紀の研究をしてますが、デカルト・スピノザ・ライプニッツ...。過去に生きた人のテクストは今だに残っていますし、研究の対象になっています。そこでは、スコラ派・逍遥学派・プラトン学派など、様々な言説が残っています。
 サルトルに関しても、彼は事実の問題としては現世のひとではありませんが、テクストは永久に残ります。
 よって、サルトルを読むもの、思うもののなかには、サルトルは生きていると思います。
 実践面の話をしましょう。
 宮台真司的には、知らない人に「声かけ」をするとか、政治家の人たちにもしてもらいたいと思います。
 上から命令するだけではただの権力欲にすぎませんから。
 自らを投企(アンガージュ)して「世界」を開示していく。
 78910さんには、そうした「声かけ実践」をお奨めします。
 きっと、おもしろい「世界」が待っているとおもいますよ。
>>[13]

そうですね。その思想がテキストとして残っている人たちは簡単には死にませんね。誰かが「もうあの人は死んだよ、過去の人だよ」と言っても、常に新しい魅力を照射されて蘇ってくる。

宮台真司さんについては、僕はまったく読んだことがないので、宮台真司的にはという形容も真意がつかめないのですが、気軽に人々に声をかけ、心を通わせる機会を持つことは、確かに不断に新しい世界を創造あるいは開示してくれるかもしれませんね。
いいことを聞きました。
どうもありがとうございます。
>>[15]

いたずらに権威におもねることなく、勇気をもって理性と良心の命ずるところを追求しようとする爽やかさが、サルトルにはありますよね。
サルトルは、フランスデモとともにある。日本で『嘔吐』したのだが、列を作ってデモだって言うんだ。しかも、仲間と話していると、無駄話をしないで列をみださないで!って怒鳴られた。もちろん、そいつはその場で射殺したが、そんなやつらが管理者面して威張る必要はない。こんな日本でも、べ平連はフランスデモの運動だった。
サルトルを失った世界は、サルトルを思い出さざるを得ない。30年前にモンマルトルを歩いてカフェに座った。まだタバコをふかしていた。2月の寒空に、新聞売りに買わされたル・モンドには中曽根の馬鹿なインタビューが載っていた。そう、日本だけがバブルとかをやっていた。

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