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・・・コミュの◎徳田秋聲について(小づちサンからのリクエスト)

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コミュ内全体

(左)徳田秋聲が住まわれていた小石川の善光寺坂、いまだ風情がありますね。
(中)家族写真
(右)愛用の万年筆

明治の文豪で室生犀星の「蜜のあはれ」のところに書き込んでくれた小づちサンから徳田秋聲 のお薦め本は、という声に応えまして取り上げますが、考えてみたら同じ二人とも石川県の出身ですし、石川県には『室生犀星・徳田秋聲・泉鏡花』と3人の文豪がでておりますね。
金沢の三文豪のひとり、徳田秋聲(1871〜1943)は、尾崎紅葉の門下を経て、田山花袋、島崎藤村らとともに明治期の自然主義文学運動の中心的存在として活動し、昭和18年に没するまで、明治・大正・昭和と三代にわたり常に文壇の第一線で活躍した、文字通り「大家」の名にふさわしい作家です。
 その作品は、川端康成をして「小説の名人」と言わしめた技巧の高さとともに、つねに弱者への視点を忘れぬ、庶民の生活に密着した作風を特徴とします。「新世帯」「黴」「爛」「あらくれ」「仮装人物」「縮図」などの諸作が名篇として知られています。私生活では、その分け隔てのない人柄が多くの文壇人に愛されたほか、映画やダンスを好むなど現代的な面も持ちあわせていました。




☆徳田秋聲 とくだ しゅうせい
(1871〜1943)生年: 1871-12-23 没年: 1943-11-18

石川県金沢市生まれ。尾崎紅葉に師事し、泉鏡花、小栗風葉、柳川春葉らとともに「葉門の四天王」と呼ばれる。

作品リスト

◎仮装人物  (LDのお薦め作品です。)
古い型の女房しか知らず世間の恋愛事件をも冷やかに見すごしてきた中年作家・庸三を,恋の焔,情熱のるつぼへたたきこんだ美女・葉子とはどういう女か? その女に若い相手ができたとき,なお葉子から抜け切らない庸三は何を探し求めてやまなかったか? これらの人物をかりて,人間の愛欲を忌憚なく描いた秋声の代表的な作品.解説=川端康成
(あとで序と末の30をのせます)

○足迹 
○あらくれ 
○新世帯 
○黴 
○躯 
○霧ヶ峰から鷲ヶ峰へ  
○縮図 
○絶望 
○爛 
○和解 
○佗しい放浪の旅 
○西の旅 
○或売笑婦の話  
○田舎の春 
○チビの魂 
○のらもの  
○花が咲く  
○風呂桶 
○町の踊り場 


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仮装人物
徳田秋声

 庸三(ようぞう)はその後、ふとしたことから踊り場なぞへ入ることになって、クリスマスの仮装舞踏会へも幾度か出たが、ある時のダンス・パアティの幹事から否応(いやおう)なしにサンタクロオスの仮面を被(かぶ)せられて当惑しながら、煙草(たばこ)を吸おうとして面(めん)から顎(あご)を少し出して、ふとマッチを摺(す)ると、その火が髯(ひげ)の綿毛に移って、めらめらと燃えあがったことがあった。その時も彼は、これからここに敲(たた)き出そうとする、心の皺(しわ)のなかの埃塗(ほこりまぶ)れの甘い夢や苦い汁(しる)の古滓(ふるかす)について、人知れずそのころの真面目(まじめ)くさい道化姿を想(おも)い出させられて、苦笑せずにはいられなかったくらい、扮飾(ふんしょく)され歪曲(わいきょく)された――あるいはそれが自身の真実の姿だかも知れない、どっちがどっちだかわからない自身を照れくさく思うのであった。自身が実際首を突っ込んで見て来た自分と、その事件について語ろうとするのは、何もそれが楽しい思い出になるからでもなければ、現在の彼の生活環境に差し響きをもっているわけでもないようだから、そっと抽出(ひきだ)しの隅(すみ)っこの方に押しこめておくことが望ましいのであるが、正直なところそれも何か惜しいような気もするのである。ずっと前に一度、ふと舞踏場で、庸三は彼女と逢(あ)って、一回だけトロットを踊ってみた時、「怡(たの)しくない?」と彼女は言うのであったが、何の感じもおこらなかった庸三は、そういって彼を劬(いた)わっている彼女を羨(うらや)ましく思った。彼は癒(い)えきってしまった古創(ふるきず)の痕(あと)に触わられるような、心持ち痛痒(いたがゆ)いような感じで、すっかり巷(ちまた)の女になりきってしまって、悪くぶくぶくしている彼女の体を引っ張っているのが物憂(ものう)かった。

 今庸三は文字どおり胸のときめくようなある一夜を思い出した。
 その時庸三は、海風の通って来る、ある郊外のコッテイジじみたホテルへ仕事をもって行こうとして、ちょうど彼女がいつも宿を取っていた近くの旅館から、最近母を亡くして寂しがっている庸三の不幸な子供達の団欒(だんらん)を賑(にぎ)わせるために、時々遊びに来ていた彼女――梢(こずえ)葉子を誘った。
 庸三は松川のマダムとして初めて彼女を見た瞬間から、その幽婉(ゆうえん)な姿に何か圧倒的なものを仄(ほの)かに感じていたのではあったが、彼女がそんなに接近して来ようとは夢にも思っていなかった。松川はその時お召ぞっきのぞろりとした扮装(ふんそう)をして、古(いにし)えの絵にあるような美しい風貌(ふうぼう)の持主であったし、連れて来た女の子も、お伽噺(とぎばなし)のなかに出て来る王女のように、純白な洋服を着飾らせて、何か気高い様子をしていた。手狭な悒鬱(うっとう)しい彼の六畳の書斎にはとてもそぐわない雰囲気(ふんいき)であった。彼らは遠くからわざわざ長い小説の原稿をもって彼を訪ねて来たのであった。それは二年前の陽春の三月ごろで、庸三の庭は、ちょうどこぶし[#「こぶし」に傍点]の花の盛りで、陰鬱(いんうつ)な書斎の縁先きが匂いやかな白い花の叢(くさむら)から照りかえす陽光に、春らしい明るさを齎(もたら)せていた。
 庸三は部屋の真中にある黒い卓の片隅(かたすみ)で、ぺらぺらと原稿紙をめくって行った。原稿は乱暴な字で書きなぐられてあったが、何か荒い情熱が行間に迸(ほとばし)っているのを感じた。
「大変な情熱ですね。」
 彼は感じたままを呟(つぶや)いて、後で読んでみることを約束した。
「大したブルジョウアだな。」
 彼はそのころまだ生きていて、来客にお愛相(あいそ)のよかった妻に話した。作品もどうせブルジョウア・マダムの道楽だくらいに思って、それには持前の無精も手伝い、格にはまらない文章も文字も粗雑なので、ただ飛び飛びにあっちこっち目を通しただけで、通読はしなかったが、家庭に対する叛逆(はんぎゃく)気分だけは明らかに受け取ることができた。彼は多くの他の場合と同じく、この幸福そうな若い夫婦たちのために、躊躇(ちゅうちょ)なく作品を否定してしまった。物質と愛に恵まれた夫婦の生活が、その時すでに破産の危機に瀕(ひん)していようなどとは夢にも思いつかなかった。
 翌日松川が返辞をききに来た時、夫人が文学道に踏み出すことは、事によると家庭を破壊することになりはしないかという警告を与えて帰したのだったが、その時大学構内の池の畔(ほとり)で子供と一緒に、原稿の運命を気遣(きづか)っていた妻の傍(そば)へ寄って行った葉子の良人(おっと)は、彼女の自尊心を傷つけるのを虞(おそ)れて、用心ぶかく今の成行きを話したものらしかった。
「葉子、お前決して失望してはいけないよ。ただあの原稿が少し奔放すぎるだけなんだよ。文章も今一と錬(ね)り錬らなくちゃあ。」
 葉子は無論失望はしなかった。そしてその翌日独りで再び庸三の書斎に現われた。
「あれは大急ぎで書きあげましたの。字も書生が二三人で分担して清書したのでございますのよ。いずれ書き直すつもりでおりますのよ。――あれが出ませんと土地の人たちに面目(めんぼく)がございませんの。もう立つ前に花々しく新聞に書きたててくれたくらいなものですから。」
 夫人は片手を畳について、少し顔を熱(ほて)らせていた。
 庸三夫婦は気もつかずにいたが、彼女はその時妊娠八カ月だった。そして一度小樽市(おたるし)へ引き返して、身軽になってから出直して来るように言っていたが、庸三も仕方なく原稿はそれまで預かることにしたのであった。
 その原稿が彼女たちの運命にとって、いかに重大な役目を持ったものであるかが、その秋破産した良人や子供たちとともに上京して、田端(たばた)に世帯(しょたい)をもつことになった葉子の話で、だんだん明瞭(めいりょう)になったわけだったが、そっちこっちの人の手を巡(めぐ)って、とにかくそれがある程度の訂正を経て、世のなかへ送り出されることになったのは、それからよほど後のことであった。ある時は庸三と、庸三がつれて行って紹介した流行作家のC氏と二人で、映画会社のスタジオを訪問したり、ある時はまた震災後の山の手で、芸術家のクラブのようになっていた、そのころの尖端的(せんたんてき)な唯一のカフエへ紹介されて、集まって来る文学者や画家のあいだに、客分格の女給見習いとして、夜ごと姿を現わしたりしていたものだったが、彼女はとっくに裸になってしまって、いつも妹の派手なお召の一張羅(いっちょうら)で押し通していた。ぐたぐたした派手なそのお召姿が、時々彼の書斎に現われた。彼女夫婦の没落の過程、最近死んだ父の愛娘(まなむすめ)であった彼女の花々しかった結婚式、かつての恋なかであり、その時の媒介者であった彼女の従兄(いとこ)の代議士と母と新郎の松川と一緒に、初めて落ち着いた松川の家庭が、思いのほか見すぼらしいもので、押入を開けると、そこには隣家の灯影(ほかげ)が差していたこと、行くとすぐ、そっくり東京のデパアトで誂(あつら)えた支度(したく)が、葉子も納得のうえで質屋へ搬(はこ)ばれてしまったこと、やっと一つ整理がついたと思うと、後からまた別口の負債が出て来たりして、二日がかりで町を騒がせたその結婚が、初めから不幸だったことなどが、来るたびに彼女の口から話された。美貌(びぼう)で才気もある葉子が、どうして小樽くんだりまで行って、そんな家庭に納まらなければならなかったか。もちろん彼女が郷里で評判のよかった帝大出の秀才松川の、町へ来た時の演説と風貌に魅惑を感じたということもあったであろうが、父が望んでいたような縁につけなかったのは、多分女学生時代の彼女のロオマンスが祟(たた)りを成していたものであろうことは、ずっと後になってから、迂闊(うかつ)の庸三にもやっと頷(うなず)けた。
「私たちを送って来た従兄は、一週間も小樽に遊んでいましたの。自棄(やけ)になって毎日芸者を呼んで酒浸しになっていましたの。」
 彼女は涙をこぼした。
「このごろの私には、いっそ芸者にでもなった方がいいと思われてなりませんの。」
 戦争景気の潮がやや退(ひ)き加減の、震災の痛手に悩んでいた復興途上の東京ではあったが、まだそのころはそんなに不安の空気が漂ってはいなかった。
 多勢(おおぜい)の子供に取りまかれながら、じみな家庭生活に閉じ籠(こ)もっていた庸三は、自分の畑ではどうにもならないことも解(わか)っていたし、こうした派手々々しい、若い女性のたびたびの訪問に、二人きりの話の持ちきれないことや、襖(ふすま)一重の茶の間にいる妻の加世子(かよこ)にもきまりの悪いような気がするので、少し金まわりの好い文壇の花形を訪問してみてはどうかと、葉子に勧めたこともあった。葉子もそれを悦(よろこ)んだ。そしてだんだん渡りをつけて行ったが、それかと言って、何のこだわりもなく社交界を泳ぎまわるというほどでもなかった。
「……それにこれと思うような人は、みんな奥さん持ちですわ。」
 そこで彼女は異性を択(えら)ぶのに、便利な立場にある花柳界の女たちを羨(うらや)ましく思ったわけだったが、彼によって紹介された山の手のカフエへ現われるようになってから、彼女の気分もいくらか晴々して来た。
 持越しの長篇が、松川の同窓であった、ある大新聞の経済記者などの手によって、文章を修正され、一二の出版書肆(しょし)へまわされた果てに、庸三のところへ出入りしている、若い劇作家であり、出版屋であった一色(いっしき)によって本になったのも、ちょうどそのころであった。ある晩偶然に一色と葉子が彼の書斎で、初めて顔を合わした。一色はにわかに妻を失って途方にくれている庸三のところへ、葬儀の費用として、大枚の札束を懐(ふとこ)ろにして来て、「どうぞこれをおつかいなすって」と事もなげな調子で、そっと襖(ふすま)の蔭(かげ)で手渡しするようなふうの男だったので、たちどころに数十万円の資産を亡くしてしまったくらいなので、庸三がどうかと思いながら葉子の原稿の話をすると、言い出した彼が危ぶんでいるにもかかわらず、二つ返辞で即座に引き受けたものだった。
「拝見したうえ何とかしましょう。さっそく原稿をよこして下さい。」
 ちょうど卓を囲んで、庸三夫婦と一色と葉子とが、顔を突きあわせている時であったが、間もなく一色と葉子が一緒に暇(いとま)を告げた。
「あの二人はどうかなりそうだね。」
「かも知れませんね。」
 後で庸三はそんな気がして、加世子と話したのであったが、そのころ葉子はすでに良人(おっと)や子供と別れ田端の家を引き払って、牛込(うしごめ)で素人家(しろうとや)の二階に間借りすることになっていた。美容術を教わりに来ていた彼女の妹も、彼女たちの兄が学生時代に世話になっていたというその家に同棲(どうせい)していた。葉子は一色の来ない時々、相変らずそこからカフエに通っているものらしかったが、それが一色の気に入らず、どうかすると妹が彼女を迎いに行ったりしたものだが、浮気な彼女の目には、いつもそこに集まって陽気に燥(はしゃ)いでいる芸術家仲間の雰囲気(ふんいき)も、棄(す)てがたいものであった。
 庸三は耳にするばかりで、彼女のいるあいだ一度もそのカフエを訪ねたことがなかった。それに連中の間を泳ぎまわっている葉子の噂(うわさ)もあまり香(かん)ばしいものではなかった。

 加世子の訃音(ふいん)を受け取った葉子が、半年の余も閉じ籠(こ)もっていた海岸の家を出て、東京へ出て来たのは、加世子の葬式がすんで間もないほどのことであった。
 加世子はその一月の二日に脳溢血(のういっけつ)で斃(たお)れたのだったが、その前の年の秋に、一度、健康そうに肥(ふと)った葉子が久しぶりにひょっこり姿を現わした。彼女は一色とそうした恋愛関係をつづけている間に、彼を振り切って、とかく多くの若い女性の憧(あこが)れの的であった、画家の山路草葉(やまじそうよう)のもとに走った。そして一緒に美しい海のほとりにある葉子の故郷の家を訪れてから、東京の郊外にある草葉の新らしい住宅で、たちまち結婚生活に入ったのだった。この結婚は、好感にしろ悪感にしろ、とにかく今まで彼女の容姿に魅惑を感じていた人たちにも、微笑(ほほえ)ましく頷(うなず)けることだったに違いなかった。
 葉子は江戸ッ児(こ)肌(はだ)の一色をも好いていたのだったが、芸術と名声に特殊の魅力を感じていた文学少女型の彼女のことなので、到頭出版されることになった処女作の装釘(そうてい)を頼んだのが機縁で、その作品に共鳴した山路の手紙を受け取ると、たちどころに吸いつけられてしまった。これこそ自分がかねがね捜していた相手だという気がした。そしてそうなると、我慢性のない娘が好きな人形を見つけたように、それを手にしないと承知できなかった。自分のような女性だったら、十分彼を怡(たの)しませるに違いないという、自身の美貌(びぼう)への幻影が常に彼女の浮気心を煽(あお)りたてた。
 ある夜も葉子は、山路と一緒に大川畔(ばた)のある意気造りの家の二階の静かな小間で、夜更(よふ)けの櫓(ろ)の音を聴(き)きながら、芸術や恋愛の話に耽(ふけ)っていた。故郷の彼女の家の後ろにも、海へ注ぐ川の流れがあって、水が何となく懐かしかった。葉子は幼少のころ、澄んだその流れの底に、あまり遠く押し流されないように紐(ひも)で体を岸の杭(くい)に結わえつけた祖母の死体を見た時の話をしたりした。年を取っても身だしなみを忘れなかった祖母が、生きるのに物憂(ものう)くなっていつも死に憧れていた気持をも、彼女一流の神秘めいた詞(ことば)で話していた。庸三の子供が葉子を形容したように彼女は鳥海山(ちょうかいさん)の谿間(たにま)に生えた一もとの白百合(しらゆり)が、どうかしたはずみに、材木か何かのなかに紛れこんで、都会へ持って来られたように、自然の生息(いぶき)そのままの姿態でそれがひとしお都会では幽婉(ゆうえん)に見えるのだったが、それだけまた葉子は都会離れしているのだった。
 山路と二人でそうしている時に、表の方でにわかに自動車の爆音がひびいたと思うと、ややあって誰か上がって来る気勢(けはい)がして妹の声が廊下から彼女を呼んだ。――葉子はそっと部屋を出た。妹は真蒼(まっさお)になっていた。一色が来て、凄(すさ)まじい剣幕で、葉子のことを怒っているというのだった。
葉子は困惑した。
「そうお。じゃあ私が行って話をつける。」
「うっかり行けないわ。姉さんが殺されるかも知れないことよ。」
 そんな破滅になっても、葉子は一色と別れきりになろうと思っていなかった。たとい山路の家庭へ入るにしても、一色のようなパトロン格の愛人を、見失ってはいけないのであった。
 葉子が妹と一緒に宿へ帰って来るのを見ると、部屋の入口で一色がいきなり飛びついて来た。――しばらく二人は離れなかった。やがて二人は差向いになった。一色は色がかわっていた。女から女へと移って行く山路の過去と現在を非難して、涙を流して熱心に彼女を阻止しようとした。葉子も黙ってはいなかった。優しい言葉で宥(なだ)め慰めると同時に、妻のある一色への不満を訴えた。しゃべりだすと油紙に火がついたように、べらべらと止め度もなく田舎訛(いなかなまり)の能弁が薄い唇(くちびる)を衝(つ)いて迸(ほとば)しるのだった。終(しま)いに彼女は哀願した。
「ねえ、わかってくれるでしょう。私貴方(あなた)を愛しているのよ。私いつでも貴方のものなのよ。でも田舎の人の口というものは、それは煩(うるさ)いものなのよ。私のことはいいにつけ悪いにつけすぐ問題になるのよ。母や兄をよくするためにも、山路さんと結婚しておく必要があるのよ。ほんとに私を愛してくれているのなら、そのくらいのこと許してよ。」
 一色は顔負けしてしまった。
 ちょうどそのころ、久しぶりで庸三の書斎へ彼女が現れた。彼女は小ざっぱりした銘仙(めいせん)の袷(あわせ)を着て、髪も無造作な引詰めの洋髪であった。
「先生、私、山路と結婚しようと思いますのよ。いけません?」
 葉子はいつにない引き締まった表情で、彼の顔色を窺(うかが)った。
「山路君とね。」
 庸三は少し難色を浮かべた。淡い嫉妬(しっと)に似た感情の現われだったことは否めなかった。
「あまり感心しない相手だけれど……。」
「そうでしょうか。でも、もう結婚してしまいましたの。」
「じゃあいいじゃないか。」
「山路が先生にお逢(あ)いしたいと言っておりますのよ。」
「一緒に来たんですか。」
「万藤の喫茶店におりますの。もしよかったら先生もお茶を召し食(あが)りに、お出(い)でになって下さいません?」
 庸三は日和下駄(ひよりげた)を突っかけて門を出たが、祝福の意味で二人を劇場近くにある鳥料理へ案内した。しかし二人の結婚が決裂するのに三月とはかからなかった。庸三はその夏築地(つきじ)小劇場で二人に出逢った。額に前髪のかぶさった彼女の顔も窶(やつ)れていたし、無造作な浴衣(ゆかた)の着流しでもあったので、すぐには気がつかなかった。しかし廊下で彼に微笑(ほほえ)みかけるようにしている彼女の顔が、何か際(きわ)どく目に立たない嬌羞(きょうしゅう)を帯びていて、どこかで見たことのある人のように思えてならなかった。――やがて三人でお茶を呑(の)むことになったのだったが、葉子のこのごろが、生活と愛に痛めつけられているものだということは、想像できなくはなかった。
 ある日庸三が、鎌倉(かまくら)の友人を訪問して来ると、その留守に珍らしく葉子がやって来たことを知った。
「何ですか大変困っているようでしたよ。山路さんとのなかが巧く行かないような口振りでしたよ。ぜひ逢ってお話ししたいと言って……。後でもう一度来るといっていましたから、来たらよく聴(き)いておあげなさいよ。」
 加世子は言っていたが、しかしそれきりだった。
 庸三はその後一二度田舎から感傷的な彼女の手紙も受け取ったが、忘れるともなしにいつか忘れた時分にひょっこり彼女がやって来た。
 葉子は潮風に色もやや赭(あか)くなって、大々(だいだい)しく肥(ふと)っていた。彼女は最近二人の男から結婚の申込みを受けていることを告げて、その人たちの生活や人柄について、詳しく説明した後、そうした相手のどっちか一人を択(えら)んで田舎に落ち着いたものか、もう一度上京して創作生活に入ったものかと彼に判断を求めた。
「あんたのような人は、田舎に落ち着いているに限ると思うな。ふらふら出て来てみたところでどうせいいことはないに決まっているんだから。田舎で結婚なさい。」
 瞬間葉子は肩を聳(そび)やかせて言い切った。
「いや、私は誰とも結婚なんかしようとは思いません。私はいつも独りでいたいと思っています。」
 そういう葉子の言葉には、何か鬱勃(うつぼつ)とした田舎ものの気概と情熱が籠(こ)もっていた。そして話しているうちに何か新たに真実の彼女を発見したようにも思ったが、ちょっと口には出せない慾求も汲(く)めないことはなかった。
 彼は後刻近くの彼女の宿を訪ねることを約束して別れたのであったが、晩餐(ばんさん)の支度(したく)をして待っていた葉子は、彼の来ないのに失望して、間もなく田舎へ帰って行った。
 一色と彼女のあいだに、その後も手紙の往復のあったことは無論で、月々一色から小遣(こづかい)の仕送りのあったことも考えられないことではなかった。
 加世子の死んだ知らせに接してにわかに上京した葉子は、前にいた宿に落ち着いてから、電話で一色を呼び寄せた。そして二人打ち連れて庸三の家を訪れた。その時から彼女の姿が、しきりに彼の寂しい書斎に現われるようになったのだったが、庸三も親しくしている青年たちと一緒に、散歩の帰りがけにある暮方初めて彼女の部屋を訪れてみた。十畳ばかりのその部屋には、彼の侘(わび)しい部屋とは似ても似つかぬ、何か憂鬱(ゆううつ)な媚(なま)めかしさの雰囲気(ふんいき)がそこはかとなく漾(ただよ)っていた。
二 から 二十九 まで略

     三十

 三丁目のアパートは、震災後その辺に出来た最初のアパートであった。この都会は今なお復興の途上にあったが、しかし新装の町並みはあらかた外貌(がいぼう)を整えて来た。巌丈(がんじょう)一方の鉄筋コンクリイトのアパアトも、一階に売薬店があり、地坪は狭いが、四階の上には見晴らしのいい露台もあって、二階と三階に四つか五つずつある畳敷きの部屋も、床の間や袋戸棚(ふくろとだな)も中へくり取ってあり、美しい装飾が施されてあった。ある教育家の子息(むすこ)が薬局の主人と乗りで、十万金を投じて建てたものだったが、葉子の契約した四階の部屋は畳数も六帖(じょう)ばかりで、瓦斯(ガス)はあったが、水道はなかった。厳重に金網を張った大きい窓の扉(とびら)を開けると、広小路のデパアトの、額(ひたい)にリボンをかけたような青と赤で筋取ったネオンが寂しく中空に眺められ、目の下には、早くもその裏町に巣喰(すく)ったカフエの灯影(ほかげ)やレコオドの音が流れていたが、表通りの雑音が届かないし、上がり口のちがった背中合せの部屋に、たまに人声がするだけで、どの部屋にも客がないので、さながら城楼に籠(こ)もったように閑寂(ひっそり)していた。
「私書きかけているものがあるのよ。出来あがったら見ていただくつもりで、一生懸命馬力をかけているの。」
 葉子は大分前にも、ちょっとそれを仄(ほの)めかしていたが、アパアトヘ立て籠もろうとしたのも、それを完成したいためであった。それは国民新聞の懸賞小説に応募するためで、彼女はその一作によって新しいスタアトを切り、文壇への更生を謀(はか)ろうとして心血を灑(そそ)いでいたもので、その衷情を訴えられてみると、庸三も一概に見切りをつける気にはなれず、打ち※(の)めされながらもまた起きあがろうと悶※(もが)いている彼女に、何か目鼻をつけてやりたくもなるのだった。彼は三月分の敷金も出してやり、保証人にもなって、毎日のようにその部屋をも見舞うのであった。
 庸三はその部屋で、飯のかわりによくコーヒを飲み、パンをやいて食べたが、夜は外へ出て、葉子がいつの間にかお馴染(なじみ)になっているおでんやだの、安直なレストランなどで食事を取ったりした。若いもの同志二人、共同で床店(とこみせ)を出しているおでんやの一人は、昼間はある私立大学の文科へ通っている、町の文学青年だったが、能登(のと)の産まれで、葉子とはすでに裏町の女王とナイトのような関係になっていた。そのころになると、大森のある詩人とそのマダムに愛されていた少年詩人も、脚気(かっけ)を患(わずら)って病的な心臓を悪くし、寝るにも起きるにも着たきりの黒い洋服とともに憊(くたぶ)れはてて、再縁している古里(ふるさと)の母のもとへかえって行ってしまった。北山も江古田で一軒世帯を作って、画(え)に精進していたし、瑠美子は最近往来の道が開けて来た、郊外の従姉(いとこ)の家へ、ずっと預けっ放しになっていた。それというのも、あれほど瑠美子を手懐(てなず)けていた清川も、同棲(どうせい)生活が初まるとたちまち態度が豹変(ひょうへん)して来たからで、それも彼ら二人の恋愛生活に幻滅を促した一つの原因であった。
 葉子はデパアトから買って来た、コーヒ沸しのレトルトをもっていて、しきりにコーヒを沸かした。それは清川を監督している例の先輩が、独逸(ドイツ)から沢山買って来て、床下に投(ほう)っておいたというのは昔のことで、今はデパアトにも出ているのであった。葉子の本箱のなかには、別にハムやコオンビイフ、林檎(りんご)、オレンジなどの食料品があり、もうだんだん寒くなって来たので、朝おきると顔も洗わずに、瓦斯ストオブをたきながら、軽い食事を取るのだったが、創作に悩んで来ると、庸三が邪魔になることもあった。それにアパアトを管理している薬局の主人は、どうかすると部屋を見に来る人に、四階に葉子のいることを、宣伝の役に立てようとしたりするので、庸三も裏口から出入りするようにしていたが、こちこち硬(かた)い階段を上りおりするのも相当骨が折れ、やっと部屋まで辿(たど)り着いたと思うと、鍵(かぎ)がかかっていたりした。彼女の行くのは、大抵シネマ・パレスか南明座あたりで、筆が渋ると映画に救いを求めに行くのだったが、部屋をあけるのは、そのためばかりとも決められないようなものであった。
 庸三も、彼女が思っているほど葉子の文学にそう大して関心をもっているわけでもなかった。彼女の美貌(びぼう)ほどに彼女の文学に興味はもてなかったが、しかし風にも堪えない野の花のようなその情趣や感傷の純粋さは認めないわけに行かなかった。筋やテイマを話しながら、彼女は草稿を見せた。庸三はコーヒを呑(の)みながら、一枚々々読んで行った。どうかすると驚嘆するような老劇作家と師弟関係の若い愛人の女優との同棲(どうせい)生活の新鮮な描写があるかと思うと、うらぶれて放浪の旅から帰って来て、先輩であるその老劇作家のもとに身を寄せている青年と、昔、恋愛模様のあったその女優との熱烈奔放な恋愛場景があったりして、ちょうどそれが雨のふるかつての一夜の出来事を彷彿(ほうふつ)させるような面白い芝居に出来ていた。モデルがはっきり誰であるとも示すこともできないように、彼女一流の想念の花で粉飾(ふんしょく)されてあった。
「どう?」
 葉子は庸三の顔を覗(のぞ)きこむようにして訊(き)いた。
「そうだね。」
「駄目?」
「でもあるまい。」
 間もなく浄書がはじまり、一人の助手が部屋に現われた。助手は新進のブロレタリヤ作家の夫人で、その名は庸三も耳にしていたが、紹介されてみて、その純良な婦人であることが解(わか)り、そういう仕事もいくらかの生活の補いになるのだと聞いて、その心掛けに敬意を払わないわけに行かなかった。ある時は女二人が一つ蒲団(ふとん)のなかで、睦(むつ)まじそうに話しながら寝ている傍(そば)で、庸三は頭のつかえる押入のベッドのうえに横たわっていた。

 やがて応募作品が十篇二十篇と彼の書斎に持ちこまれて来た。
 初め葉子は彼女の計画を庸三には一切秘密にしておくつもりであった。それというのも、あいにく二人の選者のうちの一人が庸三自身であったからで――しかしまた庸三が取捨の一半の権利をもっており、事によれば庸三が採点の遣(や)り繰り一つで、彼女の作品の運命を決定することも不可能ではなかったので、あらかじめ彼の批判を得ておきたくもあった。
「選者として先生をお苦しめするのは、私も良心に咎(とが)めることですから、先生には秘密にしておきたかったのですの。でも先生は毎日のように来るでしょう。私全く困っちゃったの。もちろん栗原(くりはら)さんも大変いいものだから、きっと当選するだろうと言って下さるし、私も脂(あぶら)が乗ったものなの。つい秘密が保てなくなってしまったんですけれど、匿名なら先生の立場だって、別に悪くはないわけじゃない? それも先生に贔屓分(ひいきぶん)に点をいただこうとは思わないの。選者として公平な態度をお失いにならない限度で、もしかして二つ同点の作品があったというような場合に、私のをお採りになっていただけないこともないじゃないかと、そう思ったの。いけない。」
 もちろん庸三も客観的な立場を守りたいに違いなかったが、作品が取れば取れるものであることも解(わか)っていた。
 庸三は応募作品を一つ一つ熱心に読みはじめたが、題材と舞台に関する限り、今までの文壇人には手のとどかないものもあったりして、彼も興味を唆(そそ)られた。惨(みじ)めな礦夫(こうふ)の生活をかいたもの、北海道の終身刑囚の脱獄、金龍館(きんりゅうかん)で、一時あれほど盛(さか)っていた歌劇団の没落と俳優たちや周囲の不良群の運命、等々――そのなかでも、離散した歌劇団の歌手たちに絡(から)んだ、頽廃的(たいはいてき)な浅草の雰囲気(ふんいき)を濃い絵具で塗り立てた作品の、呼吸の荒々しさと脈搏(みゃくはく)の強さには、庸三もすっかり参ってしまった。
「なかなかいいのがある。」
 庸三は二三の作品を懐(ふとこ)ろにして、葉子の部屋に現われた。
「そう――どれ私にも読ませて。」
 葉子はそう言って、乱暴に書きなぐったその作品を読みはじめた。
「作品はいいんだが、新聞の読みものとしては、柄が少し悪いし、楽屋落ちも多いから、一般の読者には不向きかも知れない。それに後半がだれてる。」
「そう――。」
 しかし庸三が採点に苦心した結果、依怙贔屓(えこひいき)でない程度で、「地上の虹(にじ)」と題した彼女の作品が、どうにか二等くらいに当選すべき運命にまで漕(こ)ぎつけた時になって、栗原夫人の名をつかったことが暴露した結果、それも到頭闇(やみ)へ葬られてしまった。
 ある時も、庸三はアパアトを訪ねてみた。町はもうすっかり真冬の気分で、街路樹の銀杏(いちょう)に黄金色(こがねいろ)の葉の影もなかった。葉子の計画も惨敗におわり、立て直そうとした小説道への精進も挫(くじ)けたとなると、彼女の運命も庸三の手には支えきれなかった。
「もういませんか。」
 薬局に就(つ)いてきいてみると、その日も葉子は不在であった。部屋の空気が険悪になって、互いに苛々(いらいら)しい気持に駆り立てられ、激しい言葉を投げ合って別れてから、一週間になっていた。庸三は最近時々一緒に飯を食べたり、お茶を呑(の)んだりしていた、藤子(ふじこ)をその時もつれていた。
「もう居ませんよ。」
 主人は答えたが、いつになくにこにこして、
「いや、どうも梢さんはいけませんよ。あの人は先生のような方がしっかり監督なさらないと、何をするか解りませんな。」
「何かやってますか。」
「それは解りませんけれど、どうもあの人は普通ではありませんね。」
「敷金は持って行きましたか。」
「いや、後で取りに来るとおっしゃって。」
「じゃあ、僕がもらっておきましょう。」
 大した金でもなかったが、この期(ご)になって彼はそれが惜しくなった。預り証もちょうど紙入れのなかにあった。敷金は二カ月分残っていた。
 藤子は軽い雨のなかを、黒蛇(くろじゃ)の目をさして、四角(よつかど)に待っていた。彼女は久しく庸三のところへ出入りしている美貌(びぼう)の未亡人で、いつも葉子に関する庸三の話のよき聴(き)き手の一人であった。
 やがて二人で小夜子の家(うち)で晩飯を食べるつもりで、自動車を一台呼びとめた。
 結局は清川との恋愛によって、彼の幻想も微塵(みじん)に砕かれたと言ってよかった。

 大分たってから、渋谷に書店を開き、その奥を若い人たちのサロンにして、どうにか生活の道に取りついた時、葉子もそれを庸三に見てもらいたく、北山をわざわざ使いに立てて会見を求めて来た。
 その時庸三は待ち合わせていた葉子につれられて、その店を見に行ったが、二三度訪ねるうちに、ちょうど店番や書籍の配達などに働いていた青年は、三丁目のおでんやの文学青年で、その男の口から、葉子の近頃の消息も時々庸三の耳に伝わり、彼女の憧憬(しょうけい)の的となっていたコレット女史を逆で行ったような巷(ちまた)の生活が発展しそうに見えた。
 そのころ庸三はふとした機会から、踊り場へ足踏みすることになり、そこで何かこだわりの多い羽織袴(はかま)の気取りもかなぐり棄(す)てて、自由な背広姿になり、恋愛の疲れを癒(いや)すこともできた。そしてその時分から埃塗(ほこりまぶ)れの彼女の幻影も次第に薄れてしまった。
これがお薦めですがとても全文は載せ切れません。

徳田秋声全集  第1巻 〜第38巻 徳田秋声/著
        出版社: 八木書店

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